《一代目》姉ちゃんの嫁ぎ先のもめ事、解決しに わざわざ上京しに来たよ 《二代目》伊勢という名字やめて北条にしたよ 《三代目》いちばん骨折ったよ(税政と民政と和睦ってハグして統べったよ) 《四代目》秀吉(ヒデヨスィ)に命あげたよ。 《五代目》小田原攻めの翌年ごートゥーヘブンしたよ。
番号〜♪ イチ!(北条早雲 そーうん) ニッ!(北条氏綱 うじツナ・うっじぃー) サンッ!(北条氏康 うじやす・ヤス!) シー!(北条氏康 うじまさ・マサ!) ゴッ!(北条氏直 うじNao・ちょく!) # 前に並んでいても 後北条(ごほうじょう)氏 # …だまれよ(*´∀`)
元亀2年(1571)10月3日は前年8月頃から病だった北条氏康が小田原城で死去した日。河越夜戦では山内上杉・扇谷上杉氏を破り、今川義元・武田信玄と三国同盟を結んで上杉謙信とも戦い関東に領国を拡大した。12年前に家督を氏政に譲った後も氏康が実権を握り政策や軍事の多方面で舵取りした。
永禄7年(1564)7月23日は太田資正が息子により岩付(岩槻)城から追われた日。資正は太田道灌の曾孫で河越夜戦で主君上杉朝定が討死し扇谷上杉氏が滅亡後も北条氏と戦った。一時的に北条に降るが上杉謙信の関東侵攻で再び反北条となる。北条氏康の娘を妻とし親北条だった息子氏資に叛かれた。
天文19年(1550)4月1日は北条氏康が領内の村々に公事免除などの文書を発給した日。百姓の公事を免除するかわりに懸銭を新設した。また逃亡百姓の借銭・借米を免除したり領主による迷惑な公事の禁止なども。これまで雑多だった制度を領内広く改めた。一方的な徴収では成り立ちませんからね。
永禄4年(1561)3月18日は北条氏康が伊勢の回船問屋に家臣安藤良整と兵糧売買の相談を指示した日。反北条派を糾合して小田原城を包囲した上杉謙信との長期戦に備えてか。紀伊半島と関東は海運による結びつきが強かったとか。海の道で繋がっているとは関東という視点では気付けないものですね。
天正3年(1575)3月16日は今川氏真が上洛し相国寺にて父の仇・信長と会見した日。戦国大名今川氏滅亡後は北条氏と家康を頼った。信長に所望され20日には蹴鞠を披露。和歌にも通じた文化人で子孫は江戸幕府の朝廷や公家との交渉役に。自分が好きで得意なことの世界で生きればいいと思えます。
天正15年(1587)5月6日は相模国玉縄城主だった北条綱成が73歳で死去した日。今川家臣の父親が戦死したのち小田原の北条氏綱を頼る。氏綱に気に入られて娘を娶り一門に迎えられ北条綱成と名乗る。河越城の戦いでは半年も籠城戦を耐え抜き味方の夜襲に呼応し大勝利に導くなど武勇で知られた。