即興眩華

文庫本

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 目覚ましが鳴った。千颯(ちはや)はもう目が覚めてはいたが、憂鬱な気分で寝返りを打っただけだった。  いつも通っている理容室が臨時休業だったのがいけないかった。たかが一センチのことと家族には理解されない。だがこの年頃の少年にとって、前髪を一センチも短く切られてしまったことは重大な事件である。  寝台の中で千颯は前髪を手ぐしで梳いた。普段は眉に被さる長さに整えておくのだが、今日は額の辺りでまっすぐに切りそろえられている。    学年が改まって二日目。二回の目覚ましの音で、千颯は

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遣らずの雨

遣らずの雨

 朝から降り続いている雨に、庭の柿の木が濡れている。畳も座布団もじっとりとして冷たい。茶の間でつまらなそうに読んでいた文庫本から政男は視線を上げた。それから卓袱台に置かれた湯飲みを取り上げて番茶を啜る。そばで繕い物をしていた多恵子もつられて湯飲みに手を伸ばした。冷めた番茶は多恵子を惨めな気分にさせた。 「煎れ直しましょうか」  膝の上の着物を軽くたたんで除けると、お盆を引き寄せた。急須に入ったままの茶殻を茶溢しにあけ、茶筒の蓋を取る。ポットを軽く揺すってみれば、二杯分の番茶を

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愛の最終処分場

愛の最終処分場

愛って何ゴミかな 指輪の跡さえ残らなかった薬指をなでながら君がいう 燃えないゴミかな 馬蹄をあしらった指輪を未練がましく弄びながら僕は答える 愛が燃えた後の残り滓は今更もう燃えることは無いだろう ゴミ袋に詰め込まれて最終処分場に捨てられる愛を想像する 海を埋め立て、やがてその上で遊ぶのだろう子供の姿を 捨てられなかった愛の結晶を たとえ捨てなくても、僕の愛は結晶を結ばないのだけれど だってあの人はもう愛をゴミ袋に詰め込んでしまったから 明日の朝になったらゴミ捨て場

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違う君と

違う君と

人間なんて皆同じさ。 君がうそぶく。  僕と君でも違うというのに。  僕がたずねる。 結局、目鼻があって口があるだけじゃないか。  君は髪が長いし僕は髪が短い。 そんなの誤差さ。  大きな違いだよ。 じゃあ僕も髪を切ろう。  それでも違うさ。 同じ服を着よう。  それでも違うさ。 君の口調を真似よう。  それでも違うさ。 ならば何が違うんだい。  違う人間なんだ。 そんな違いの何が大事なんだ。  僕は僕、君は君であることが大事なんだ。 なら君に

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雨天

雨天

雨催いの午後は短編集がよい。ページの黄ばんだ文庫本ならなお似つかわしい。 もう何度読んだか知れない話を目で追ってゆく。 傍らには温い番茶。湿気た座布団が冷たい。 ページをめくるリズムは単調。かさかさと紙の擦れる音。 喜びも驚きも悲しみも褪せた。 物語を二つ読み終えれば一滴。 もう二つ読み終えれば小糠雨。 背表紙にたどり着けば君が帰ってくる気がして。 使われなかったバスタオルを洗うさみしさだけが褪せない。