見出し画像

『君たちはどう生きるか』レビュー:虚構=アニメの創造行為にまつわる絶望の闇と、その中で瞬く光

 難解と言われる『君たちはどう生きるか』を読み解くにはどうすればいいか?まずこの物語を2つのテーマに分解することから始めてみたい。(ネタバレ全開)

すなわち①「居場所のない子どもが現実世界から虚構と想像の世界に転移し、自己を回復して現実世界へと帰還するストーリー」と、②「アニメという虚構の世界をつくることへの絶望(そしてわずかな希望)」である。

第一のベタテーマ:「喪失ゆえに想像世界に転移してしまった主人公は現実に帰還できるか?」

 主人公:真人は空襲で母親を失っている少年である。彼は現実世界では疎外されており、この世界の中では「居場所がない」。父親の愛情は確かだが雑で一方的で、真人の心の中で何が起きているかに関しては鈍感である。父親の再婚相手(実母の妹)は新しい子を宿しており、その愛情を額面通りに受け取れない真人は所在なさを覚えている。転校してきた田舎の学校ではダットサンで乗り付けるような都会から来たいけ好かない奴として煙たがられ、初日から暴力にあう。そう、序盤の現実世界は、真人を現実に引き留める魅力を何も持っていないのである。

 気丈に生活している彼ではあるが、夢の中では母親を恋い慕う幼い男子であり「母の喪失」を受け入れてはいない。序盤で展開される「アオサギ」との対決や邂逅を通じて母親と再会しようとする過程は、彼自身の隠れた願望が想像的に具現化したものである。前半の様々な「不思議な体験」は、真人の心が、次第に現実界から想像上の精神世界へとバランスを崩し、失調していく不穏な描写と考えると理解しやすい。

 中盤で完全に彼が「現実界」ではない「異世界=想像界」に迷い込んでしまったのも、彼自身が現実界とのつながりをほとんど感じず「死」に接近していたからであり、いまやイマジナリーな存在である母親との再会(母への回帰)をつよく望んでいたからである。真人が中盤で辿り着く島が、アーノルド・ベックリンの『死の島』に酷似しているのも、想像世界が本来、現実界ではない『嘘と死』と隣接した領域であることの表現である。

 本作はその溢れるイマジネーションの横溢で焦点が見失われがちなので「わかりにくい」と言われるが、基本的な話の筋はシンプルである。すなわち、

「喪失ゆえに想像世界へ転移してしまった人は現実界へ帰還できるのか=喪失を受け入れ現実の中で生きていくことを選べるのか」

が1つ目のメインテーマである。(なおバッドエンドは想像世界の中で「母体回帰」をなし、二度と現実世界に帰還できなくなるというエヴァンゲリオン的展開である)

 この「現実世界からファンタジー世界への転移⇒(虚構世界の中での癒し)⇒そして帰還」という構造は、これは宮崎駿自身も言及しているジョン・コナリーの『失われたものたちの本』や、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』で繰り返し描かれているモチーフと共通する。両者の主人公はともに母親を病気で亡くしており虚構の世界(=本の中やファンタージエン)に迷い込んでしまうのだが、真人も全く同じである。(真人は宮崎駿の分身でもあるので、彼が虚構の世界を作り上げる動機も「喪われた母的な存在を求めることだった」と考えると、これは相当な告白でもある。)

この真人の『虚構に行き、その中で癒されて、現実へ帰還する』という姿は、同時に『虚構やアニメーション を消費する』という芸術体験をする我々の似姿でもある。宮崎駿監督は真人を通じて、『アニメの芸術体験』を直球で描いているといえる。


第二のメタテーマ:「虚構世界を創作することへの鬼見解とジブリ継承問題」

 しかし、第一のテーマは本作品の片方の側面でしかない。後半の描写は歴史的なアニメ監督である宮崎駿が考える「虚構世界(≒アニメーション)の創造のあり方についての鬼見解」に比重が傾いていく。宮崎駿は真人が入り込んだ想像界に『アニメーションを創造すること」を重ねて、様々な比喩表現でアニメーション制作の在り方に容赦ない鞭を振い続けるのだ!(ガクブル)

 この“創作世界の創造“に対する宮崎駿の描写は暴力的ですらあり、アニメ関係者なら戦慄するレベルである。以下に列挙する。

  • 海上に列をなす壮麗な帆船の群れは「ただの幻影」でありまがい物であることが示唆されるが、これらは「立派に見えるが内容のない創造物(アニメ)」の比喩であろう。

  • 「我を学ぶものは死す(=他者の模倣をするだけで自分でつかみ取らなないものはクリエイターとしては死ぬ)」と書かれた墓地に押し寄せるペリカンは、偉大な先達(手塚治虫等?)の模倣に群がる凡百のクリエイター達である

  • キリコが得た獲物に群がる「食料を自分で釣れない」影のような存在は、「自力で稼げない奴ら(アニメーター)」の表現である。

  • 「高みに飛ぼうとしたが辿り着けず地獄に封じ込められ、イマジネーションの種であるワラワラを粗雑に食うことで糊口をしのぐしかないペリカン」も、素晴らしい作品を作ろうしたが挫折していき、食うためにアニメ産業の底辺で三文アニメを作成するために「創造性」を濫費している関係者の姿を模したものだろう。

  • インコは、アニメーション産業および実際のジブリの中で雇用されていた何百何千何万というモブクリエイター達の『烏合の衆』としての直喩である。庭園(=スタジオジブリ)に入り「天国みたい!」と感涙する姿を、悪意のもとに戯画化された人々には同情を禁じ得ない。(※スタジオジブリはアニメーターの劣悪な労働環境を改善しようとして作られたスタジオであり、当時としては「天国みたい!」だったのである。実質は宮崎駿と高畑勲の「クレムリン」だったわけだが…)

  • インコの生育環境を危惧しながら彼らを率いるのがインコ大王=ジブリスタッフに飯を食わせる存在であるプロデューサー鈴木敏夫その人である。

 この虚構世界の塔の頂上に君臨するのが「大叔父=宮崎駿」である。そして宮崎駿は、長い年月を果たしてきた想像世界の創造主である役割を、誰かに引き継ぎたいと思っている。彼が監督して創造した13のアニメ作品の象徴である積み木(積み石?)とともに。2つ目のテーマは「アニメーターとしての宮崎駿を誰が継承するのか=塔を司る大叔父の継承問題」であり、このテーマが本映画の隠れた(隠れていないけど)通奏低音となっている。

解決されるベタな第一テーマと、解決されないメタな第二テーマの混線

 この映画の表向きの第一テーマは比較的きれいに解決されている。
 虚構の世界で実母であるヒミ(火見?)に導かれながら、真人は夏子を新しい母として認めていく。夏子による「あなた(真人)のことが嫌い」という告白も、夏子もまた甥である真人を受け入れる新しい現実に戸惑い、イマジナリーな世界に迷い込んできた一人の煩悶する人間であったことを示すものである。真人はまずこの事実を受け止め「夏子お母さん」として受け入れ和解する。
 ヒミも「真人を生むために」「空襲で焼かれる未来」がまつ別の現実世界へ、あえて帰還することを選ぶ。「火に焼かれる運命であってもあなたを生むことは何よりも素晴らしい(どことなく宮沢賢治の『蠍の炎』を思わせる)」という母の選択を目の当たりにすることによって、真人が抱く『母の焼死という受け入れがたい喪失』も、『母が自分の生命を生み出すために行った深い愛情』として、補完・埋め合わされる。

 すなわち神隠しにあったイマジナリーな空間の中で、夏子という母を新たに得、同時に実母の喪失を「深い愛によって生み出された自分の命」を通して受け入れる経験をすることで、欠けた存在であった真人はついに補完され、「真なる人」として現実に帰還するのである。

…と、ここまでなら「イイ話だなー」で終わる。

 しかし、この作品の印象が「イイ話」に収まらず、なぜか鬼気迫るものになっているのは、第二のテーマである「ジブリのアニメ創造主としての継承」という問題系が、大叔父こと宮崎駿の納得いく形で解決されず、彼の「怨嗟と断念」が鳴り響きまくっているからである。

 まがい物のペリカンとインコだらけになってしまった地獄=虚構空間=アニメーション産業と、塔=スタジオジブリ。創造主として命脈も乏しくなっている大叔父宮崎駿は、継承者がいないことと、アニメ産業の体たらくに絶望している。
 また『風立ちぬ』の作中で吐露してみせたように、宮崎駿個人が『ピラミッド=アニメという虚構の美しいもの』を作り上げるために、ジブリで多くの犠牲(ペリカンやインコたち)を生み出してきた罪悪感も持っている。
 さらに、いじめた子ども達を陥れるために自分の頭に石で怪我を負わせた真人に見られるように、『石=偽りと嘘=フィクション=アニメーション 』が悪意と卑怯さのもとしばしば現実と向き合えない自分のために利用されていることにも自覚的である。ファンタジー虚構を作ること=アニメーション制作は人を救うだけでなく、現実世界から逃避したい者にとっては卑怯な口実と暴力ともなることを、宮崎駿は『石による真人の嘘と傷』というモチーフ通じて表現しているように見える。(もしかしたら京都アニメーションとその消費者による放火事件という暴力も、宮崎駿の頭の中にあったかもしれない)

 だからこそ石を通じた真に健やかな虚構世界の創造という役割を、血縁である真人(息子である宮崎吾郎氏)に引き継げればと思っていたものの、真人(吾郎)はこれを拒絶する。「ジブリを誰かに継いでもらいたい」と痛切に思っている宮崎駿であるが、作中で「我を学ぶものは死す(=模倣はクリエイターの死)」と宣告している通り、ジブリの継承が模倣の範囲に収まるのであれば無意味とも感じている。ついにプロデューサーである鈴木敏夫であるインコ大王は「こんな感じでいいだろ!ヨシ!」と積み石を見よう見まねで雑に積むが、それは虚構世界を徹底的に崩壊させてしまう。

 この世を去りつつあるアニメ監督宮崎駿個人の、アニメーションをクリエイトとすることへの絶望と断念と諦念と矛盾のいりまじった私小説的な思いが、表向きのテーマである「真人の再生」を超えて横溢しているのである。

 この作品が「わかりにくい」と言われるのは、虚構世界ゆえの隠喩的なイメージが次から次へと噴出することと、二重構造になっているテーマが輻輳・混線していることによって、観客の目が眩むからだろう。しかし2本のテーマに紐解き整理していくと、案外ド直球な作品だと思う。

クリエーションの圧倒的な絶望と、その中で瞬く光

 しかし、もちろん宮崎駿も、第二のテーマについて怒りと絶望の中で終わらせているわけではなく、希望もまた語られている。それは最後の「積み石」で示されている

 物語の最後に、真人は塔の世界から積み石を持ち帰る。私たちがフィクショナルな世界で体験して得た感動は、単なる虚構ではなく「実感」として、私たちを現実世界で生かしてくれる糧となる。真人が手にした積み木はそのようなものの象徴である。「向こう側(虚構世界や、ファンタージエン)」で得たものは、それをすぐに忘れて思い出せなくなってしまうとしても、たんなる虚構にとどまらず、自分を明日の現実世界の中で生かしてくれる勇気や希望となるのである。(『千と千尋の神隠し』で「髪留めの紐」として表現されていたものと同一である)。

 同時にそれはアニメーターや表現者に対して、宮崎駿からの「託す」という願いでもある。ジブリは壊れさり、宮崎駿は直接的な後継を作らない。宮崎駿の作った作品という「積み石」もいつか思い出されなくなる日が来るかもしれない。しかし、思い出されなくなったとしても、「一度あったことは忘れないもの」(『千と千尋の神隠し』)なのである。

 何億という人に観られた彼の作品は、彼の作品の記憶が輪郭を失い、思い出されなくなったとしても、未来のクリエーター達の作品や、人々の人生の中でまったく別の形で芽吹くことがあるだろう。それが新しい美や、世界の創造、人の革新につながることもあるかもしれない。
 
 宮崎駿自身が『風の谷のナウシカ(原作版)』で『腐海の胞子はたったひとつの発芽のためにくり返しくり返し降りつもり無駄な死をかさねます.私の生は10人の兄と姉の死によって支えられています』と述べたように、崩壊したジブリも、彼の13の作品もまた、集合的な記憶の闇に飲み込まれていくが、いつかその苗床から、美と新世界=光が生まれる可能性も存在するだろう。

『命は闇の中でまたたく光だ』と風の谷のナウシカで述べた宮崎駿は,『君たちはどう生きるか』の中で、彼が生きてきた『アニメーションを創造する』というクリエーションの圧倒的な絶望や残酷さの闇を描き、またその中で瞬く光の可能性を人生の最後で描き切ったように思えてならない。

そして幾多のジブリ映画の始めにトトロの絵とともに我々が見てきた青空の色。これをバックに、宮崎駿の最後の作品は終演を迎えたのである。(始まりと終わりは同じところにある)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?