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「アジェンダに沿った目的を押さえた会議」が必ずしも生産性を高めるわけではない

7年以上前の話。コンサルティング会社から転職してきて、ド肝を抜かれたのこと。アジェンダも記事録もない会議の多さ、ふわふわとした意思決定、そして「~さんと会話しといて」という指示からのサシでのミーティングの多さ。

「生産性オタク」を自称する私は、会議の前には、毎回アジェンダを作り、頼まれていないのに議事録を作って展開していた。

それは7年以上たった今も続いていて「自分の仕切っている会議だけアジェンダと議事録がある」というのはかなり被害妄想入ってるけど、ぞれくらい見えない何かと戦い続けてきた感がある。

極めつけは、会議中に飛び出す「あとで~さんと会話しといて」というやつで。

「会話ってなに!?」ってか、~さん、今、目の前にいるし。今、これで決定、って決めれば、以上、じゃないのか?これ以上、なにを話すの?会話してどうするんだ、目的のない会議はやるなって、さんざん前職では言われてきたんだけども、、と思いながら、後でチャット飛ばして、「さっき会話しといて、って言われましたけど、OKでいいですよね?」なんて、「会話」をすっ飛ばして、合意取って、30分節約して生産性確保!みたいな自分なりの働き方改革。

ベンチャーなのに、無駄な会話多くて、生産性低くて大丈夫なのか、と思っていたわけなんです。

だけども、最近になって、このアジェンダも議事録もない、一見生産性の低そうな組織が、逆に生産性高いんじゃないか、と思ったりもしたので、そのあたりの事をまとめておきたい。

参考書籍はこちら。

問題解決の前に「安全感を高める」ことの重要性

「~とさんと会話しといて」をその裏にある意図まで汲んで、言語化するとこんな感じになる、

論点Aは、この会議としては、この方針で仮決定という判断だけど、実行する際には、長谷川と~さんの連携がしっかり取れて、主体性が形成できていないと上手く行かない。そのためには、お互いの関心や問題意識を共有した上で同意できるポイントを模索し、双方の心理的安全性を担保できる、気軽に声を掛け合える関係構築をしておいて欲しい。そのうえで、当事者である、この2人で議論ながら考えて、方針自体がもっと良いものになるのであれば、それは尊重するので、後で共有してくれればOK、あとは2人で主体性を持って実行までやりきって欲しい。

ここまで言ってもらえれてたら、多少は納得できたかも。

最初から、そう言ってくれれば、、と思うんだけど、わざわざ言語化しなくても、無意識的にわかっている人が多かったりするせいで、みんな言語化能力が必要ないのもあり、だれも言語化してくれない(できない・する必要性を感じない)、コミュ障には厳しい組織。

相談するというのは、今述べてきた対話の二つの役割、つまり「安全感を高める」ということと、「考えを練り、高める」という働きを、両方とも活用することで、うまく行われると言えるだろう。一人で悩むよりも、安心感が得られると同時に、問題解決の糸口を見出しやすいという一挙両得のメリットをもっている。

こうしろ、と指示しても、実行しなければ、問題は解決しない

ある問題に対して、正しい解決策があって、そのまま実行すれば解決できる場合でも、実行者がすっぽかしたりすれば、問題は解決しない。(あたりまえ)

実行者の主体性を侵害せず、自ら「発見」できるように仕向ける、というのが人を動かすための大事なポイント。

問題の解決法を一番よく知っているのは本人であり、本人自らがその方法を「発見」したとき、一番強い決意と力が生まれるという経験的な確信があった。たとえ良い解決法でも、それを押しつけてしまうと、主体性が侵害されることによって、それを受け容れることに抵抗が生じたり、受け容れたとしてもやがて行き詰まってしまうのである。

原因と解決策が正しいかどうかよりも、多少間違えていても本人が主体性を持って取り組んだほうが、いい結果につながる、という考え方。

医学的な方法も精神分析も、その原理は同じである。症状の原因を 遡って探求し、それを解き明かすことが、問題解決につながるという考え方に従っている。問題を解き明かすのは、診断する医師であり、分析する分析家である。主体性は、医師や分析家にある。  
一方、ロジャーズの方法は、対話というものの特性をうまく活用し、対話の二つの働き、つまり安全感を高める作用と、新たな視点を得る作用によって、癒しと問題解決をもたらそうとする方法である。その場合の主体性は、本人に求められる。治療者はそれをただ助けるだけなのである。

なので、論点をアジェンダに組み込み、議事録でエビデンスを残し、Todoで担当者を追い込むというのは、生産性観点では一見正しい、だけど、そんな手段に頼っていると、安全性もなければ、主体性も生まれない、ある意味ドーピングに頼ってるみたいなもので、長くは続かないのかもしれない。

理屈の正しさよりも、共感的な姿勢

それでも、給料もらってんだから、つべこべ言わずにやれ!って思ってしまうんだけど、じゃあ、自分はそれできるの?と。納得しないまま、仕事してるとストレスすごいし、割り切った作業として、置きにいってしまう。そこには創造力も付加価値も生まれない。

理屈上の意義とか目的とか、そんなおっきい話じゃなくて、ちょっとした共感の上に、事情を汲んでくれて、お願いされていれば、がんばろうと思えるのが人間。

相手が顧客であれ家族であれ、 些細なことからもめてしまったり、小さな問題が大事になるという場合には、まず間違いなく、自分のとった態度に共感的な姿勢が欠けていたと考えられる。
変化を引き起こすうえで重要な三つの要素を、ロジャーズは、「正確な共感性」「非支配的な温かさ」「誠実さ」だと述べている。こうした三つの要素で表されるような受容的な雰囲気が、人の心を解きほぐすのであり、変わろうとする意欲を生じさせるためには必要なのである。

原因を突き止めて問題を解消できるケースばかりではない

「解決できない問題を、解きに行かない」というのはコンサル時代は結構意識していたことだけど、事業主体になると「解決できない問題に直面しながらも、しのぎ続けないと行けない」という場があまりに多かったりする。

通常、問題を解決するもっともオーソドックスな方法は、問題の原因を突き止め、原因を取り除くことによって問題を解消するというものである。医学的な治療は、通常このモデルに基づいている。この方法は、それが可能な場合には極めて有効な対処法となる。しかし現実には、この方法で問題解決ができるのは全体のごく一部なのである。世の中には原因がよくわからない問題がごまんとあるし、原因がたとえ明らかでも取り除きようがないこともしばしばである。
とかくありがちなことは、自分が求めるゴールが本当の意味ではわかっておらず、目の前の不快な事態をただ取り除くことが問題解決だと思っているという状況である。その場合、本人からすると、 厄介 な出来事や不当な事態が降りかかってきて、自分を苦しめていると感じていることが多い。つまり、周囲に原因があって、それが問題を引き起こしていると受け止めている。その人にとって、問題解決とは周囲の原因を取り除くことであるが、それは容易なことではなく、解決のない袋小路にはまってしまう。なぜなら、他人や外の世界を変えることは簡単にはできないからである。

所属組織が「安全基地」になっていなければパフォーマンスは発揮されない

そもそもの問題解決以前に、所属組織がメンバーにとっての「安全基地」になっていなければパフォーマンスは出ない、という考え方もあって。

良い安全基地として対話が機能するためには、どういう条件を備えていなければならないのだろうか。その答えは、安全基地とは何かということにもう一度答えることにほかならないが、非常に重要なので今一度整理しておこう。
その第一は、安全を保障し安心感を高めるものだということである。  
第二は、相手が感じていることや求めていることを感じ取る感受性をもつということである。  
第三は、相手のアクションに対して、リアクションを返すという応答性である。応答できるためには身近にいるのが一番だが、そばにいなくてもいざとなればアクセスできることが望ましい。それも即座にということではなく、いつ、どうすればアクセスできるかという枠組みが明確になっていることが重要である。
第四は、安定性である。これは第一の安全感を守るためにも必要なことである。安全基地となる存在がコロコロ言うことが変わったり、気まぐれに態度や方針が変わったのでは、安心できる居場所にならないし混乱してしまう。
第五は、応答性のところで述べたこととも関係するが、自由な主体性を保障することである。出ていきたいときにはいつでも出ていけるし、戻ってきたくなったら戻ってこられるのが理想である。安全基地の側の都合で縛られたのでは、 苦役 になりかねない。

短絡的な生産性にフォーカスしたら、安全性や主体性を作り上げるためのコミュニケーション、対話って、無駄なものにしか見えない。だけど、中長期にわたっての生産性を考えると、安全基地のような組織があって、対話を通じて、それぞれの主体性に基づいて仕事している方が良いのは自明。

対話自体を目的にしてしまうことの難しさ

一方で、対話自体を目的にして、定例1on1みたいにルール化して押し付けることが、必ずしも効果的か、というと、難しい。

困難な状況に陥れば陥るほど、対話が重要な意味をもち、その状況を克服するのに必要になってくるのであるが、残念なことに、対話がその逆の役割しか果たしていないことも多いように思える。弱っている人をますます追い詰め、対立や孤立の溝を深め、自分の殻に閉じこもるしか逃げ場がない状況に追いやってしまっているということが頻繁に起きているのが現実ではないだろうか。

そういう意味では、何かしらの調整事項が発生した時に、目的ドリブンになりすぎず、小一時間くらい「会話」をしておく、という設定は、逆に、対話をする、ということ自体が目的になりかねない1on1に比べると、ある意味、ちょうどいい、のかもしれない。

理性でがんじがらめになっているような知的なタイプの人は、概してこういうかかわり方は苦手である。苦手であってもやらなければならないときもある。

はい。苦手です。

無駄なものにこそ、価値があったりする

前提として、ビジネスモデルとか、事業のフェーズとか、周辺環境という変数があってのことなので、一概には言えないことは間違いないんだけど、

これまで信じてきたコンサルティング会社のような、目的ドリブンで秩序のある生産性の高さが、必ずしも良い結果を招くわけではなく、

曖昧模糊ではっきりしない混沌とした中で、対話を重ねていく、というやり方も、受け入れられつつある、という自分なりの変化の記録。

尖りまくっていた当時の自分が読んだら、何いってんだ、このおっさん、って思うだろうなと。

何度も読み返さないといけない、と思う本でした。

毎週note書いてます

ビジネスは「より正しい解」と「よりよい、人による実行」が掛け合わさらないと、上手くいかないんだけど、Webマーケを自分の手で触れる範囲でやるのは、後者のスキルがなくてもそれなりに戦えるので、比較的得意なんだなと思う次第。ずっと、マネジメント苦手、人間関係不得意って言ってるだけ。

※今回は、11月24日(日)~11月30日(土)分の週報になります。





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