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vol.40 秋分「ニラの花」9/23〜10/7

 
 お隣りのお宅の庭にニラの花が咲き始めた。白くて可憐な花。朝、出がけに見かけて、そのかわいらしさにホッと和まされたのも束の間、草刈りをされたのだろうか。翌朝にはきれいさっぱり姿を消し、草刈り後の草の匂いに混じって香る、かすかなニラの匂いだけがそこにいたという存在を感じさせてくれるのだった。なんだかそのこと自体が短い秋を象徴するかのような出来事だった。
 祖母が生前、まだ元気で自宅の庭の片隅で畑をやっていた頃、そこに自生していたのか植えたのかは今となってはわからないけれど、ニラが育っていた。白くて小さな花の姿に惹かれ、幼い私は摘んではみるものの、あのニラ特有の匂いに「うわっ」と叫んでしかめっ面になり、せっかく摘んだ花をポイッと簡単に手放すのだった。そんなことを何度繰り返していたことだろう。
 私が幼い頃は家業が忙しく、母がなかなか夕飯の支度に取りかかれない時は、祖母がお味噌汁や簡単な一品を作ることがあった。今だったらそれらの料理も喜んで食べていたのだろうけれど、兄も私も幼い頃は祖母が作る料理が少し苦手だった。野菜の煮物や魚の煮付け、酢の物や和え物など。お味噌汁のことは実家では「おみおつけ」とよんでいたのだが、具が一緒だとしても母と祖母とでは何かが違っていた。それでいて白い割烹着を着た祖母の姿は好きだった。味付けは苦手だなぁと思っていても、祖母が台所に立つと、「おばあちゃん何作ってるの?」と祖母にまとわりついていた。
 あるとき、祖母が夕飯の支度を始めていたので、いつものように質問をしてみると、「野菜のスープ」という答えが返ってきた。祖母の口から出た思いもよらない「スープ」という魅惑の洋風な単語。兄も私もスープといえばトウモロコシやジャガイモ、かぼちゃを使ったポタージュスープか、はたまたコンソメや野菜たっぷりのミネストローネか、自分たちが知っているスープのイメージを頭の中に総動員させて期待した。
「スープ!スープ!」
小躍りするようにはしゃいでみても何かが違う。想像している香りではなく、台所に立ちこめるのはどこかで嗅いだことのあるあの香り。
「ん?これはもしかしてニラの匂い???」
満足そうに出来上がった鍋の蓋を開ける祖母。そこには刻んだニラとお豆腐が入ったおみおつけが湯気を立てているのだった。
子どもにしたら「えーーーーっ!?」である。ニラの花の匂いを嗅いだときのようなしかめっ面をしたであろう兄妹。そんな二人に向かって祖母は「おみおつけは畑のスープだよ」と言ってアハハと笑った。思えばよく笑う人だった。その後も祖母は孫のしかめっ面などにへこたれることなく、何度となくニラで畑のスープを作ったが、子どもには味のハードルは高いままだった。そんな記憶があるからか、しばらくニラを具にしたお味噌汁を自分で作ることはなかった。ニラは随分と大人になってから、とあるレシピをきっかけに、その美味しさに開眼した。具はニラだけの畑のスープ。やはりこの香りと味わいは、大人になってからでないとなかなかわかるものでもないのだろう。
 ニラはスーパーなどでは年中見かける食材で、旬はいつ頃かといえば葉が柔らかな春なのだろうが、春に一度収穫しても年に数度、夏から秋にかけて再び収穫することができる。あの可憐な花を咲かせる蕾の頃に収穫すれば、蕾と茎を花ニラとして食べることもできるようだ。   
 お隣りの庭になくなってしまって寂しいなぁと思っていると、散歩の途中、家の近くにある空家の庭で、一面ニラ畑と思うほど、ニラの花が群生しているのを見つけた。小春日和という言葉を使うには、季節はまだ少し早いけれど、乾いた風や空の色に秋の気配を感じながらもポカポカとした陽だまりの中のニラの花畑は、春を思わせるうららかな景色だ。指先でそっと葉をつまむだけであの香りがふわっと立つ。匂いと共に、頭の中ではニラを使った料理がいくつか浮かぶ。そのうちのひとつはニラのおみおつけ。レシピの通り、だし汁にたっぷりのニラを細かく刻んでまだ青いうちにお椀によそう。食べる直前に粉山椒をパラリと振って。祖母の「畑のスープ」という言葉が頭をかすめるが、それよりは洗練された大人の味わいだ。あれからずいぶんと年月が経つ。ニラの香りは、しかめっ面からいつの間にか頬をゆるませてくれるものになっている。