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vol.38 処暑「送り火」 8/23〜9/6


 お盆が近づくと、in-kyoの二軒隣にある花屋「まるおん」さんの店先にはお供え用の花が束となってズラリと並ぶ。お寺が多い三春町。お盆以外の時期でもきれいに整えられた墓地が多く、お花がお供えされていたりする。「まるおん」さんの冷蔵ケースに通年のように扱われている1〜2輪の白い紫陽花。聞いたことはないのだけれど、故人のためにどなたかがいつも買い求めるからなのだろうかと勝手に想像している。そうだとしたらなんて素敵なことだろう。「白い紫陽花が大好きだった人」そのことが故人の記憶として残っていたとしたら。町に人が少ないように思っても、お盆の早朝にはお墓がお参りの人でいっぱいになると聞く。それだけお墓参りが身近で大切にされているということだ。

 夫の父方のお墓は会津の柳津町にある。町に暮らす人も減り、お墓の管理や清掃も難しくなっているためか、お墓参りの際のお花やお供え物は、一旦お供えしても持ち帰ることが、ここ数年の決まりごととなっているそうだ。昔はお供え用のお団子を拵えて、迎え盆のお墓でみんなで食べたのだそう。ご先祖様も一緒になってお団子を頬張るだなんて、なんとものどか。その土地ならではの風習があり、それぞれ違えどお盆はあの世とこの世をつなぐ日なのだろう。
 千葉の実家のお墓は自宅から歩いて行くことのできる距離にある。子供の頃、迎え盆の際は父が苗字と家紋が入った提灯を持ち、兄と私、従兄弟たちも集まって、大人の真似ごとのように子供用の小さな提灯を手にしてご先祖様をお迎えにお墓へ向かった。当時、健在だった祖母の手にはお線香と半紙に包んだお賽銭。迎え盆はご先祖様をお待たせしないようになるべく夕方の早めの時間に行くものだとされていた。お墓参りを済ませたら、いよいよ提灯の出番。火を灯しご先祖様を自宅へとご案内するのだ。家へ戻ると母が用意した水を張った洗面器が玄関に置いてあった。それはあの世から草履で長旅をしてきたご先祖様が足を洗うためのもの。その理由を知るまでは、「気持ちいい〜」などと言いながらそこでお墓の砂埃や汗で汚れた自分の手足を洗っていた。ご先祖様も呆れてきっと苦笑いされていたことだろう。お盆の中日の早朝には、ナスときゅうりを賽の目に刻んだものに水で研いだお米を混ぜたものを重箱に詰め、新しいお供えのお花を持ってお墓へ。重箱に詰めたお供えものは、幼い頃から当たり前に目にしていた習慣だったので、その理由も気にしていなかったけれど、調べてみると「水の子」と呼ばれるもので、餓鬼道に落ちた無縁仏へのお供え物とのこと。ご先祖様がお留守のお墓にお供えするのは全ての霊に対するおもてなし。そうしたやさしさによる理由を知ると、今頃になって合点がいった。そして送り盆。ご先祖様との別れを惜しむように行きとは逆にゆっくりと、陽がとっぷりと沈んでから仏壇に灯したろうそくを提灯に移し、お墓へと向かう。帰りは提灯のろうそくはお墓へ置き、お墓を灯す灯りとなる。風が強くなければお墓のあちこちでその小さな灯りが灯っていた。幼い頃も今も怖がりのくせに、不思議とお墓参りに怖さを感じることもなく、お線香の香りもこのお盆の風習も嫌いではなかった。むしろお墓参りをするとホッとするようなところがあった。

 今年も千葉のお墓参りに行くことはできず、三春町の盆踊りも中止になってしまった。太鼓や笛の音、繰り返す踊りの輪はあの世とこの世つなぐ場所。そのひとときが無い夏の町はなんだかシンと静かで寂しい。私も何かやり残しているものがあるような、すっきりしない気持ちを抱えたままになっていた。そんなことを思っていた矢先の送り盆の夜。「ヒュ〜ンドーン!」と花火の音。「ん?」スイとモクも背筋をピンと伸ばし耳を立て、目をまん丸にして驚いている様子。庭に出てみると、ズシンズシンと響く音とともにお城山の方角の夜空に、次々と大輪の花を咲かせている。花火大会のように歓声が上がるのでもなく町は静まり返っている。咲いては閉じ、咲いては閉じを繰り返す赤や緑、青に黄色のその花たちを、庭先に立ってただただ無心に見上げていた。送り火。そうこれは踊りの輪に代わって空に打ち上げられた送り火なのだ。町の粋なはからい。盆踊りもなく、お世話になった方や友人、祖母のお墓参りに行くことも叶わなかったけれど、記憶に思いを寄せることで土地も距離も飛び越えて、花火があの世に思いを届けてくれると願いたい。矢継ぎ早に打ち上げられるクライマックスの花火が終わると、秋の虫の声だけが庭に響くいつもの夜の静けさが戻ってきた。まさに真夏の夜の夢のよう。
 そういえば三春町のお盆の風習はどんなものなのだろう?今度、ご近所さんに聞いてみよう。