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【劇評231】岡田利規『未練の幽霊と怪物 —「座波」「敦賀」—』は、舞と音と謡がねじれ、からみあう。瓦解する巨人としての日本。十二枚。

 「構想」という身体

 複雑かつ堅牢であったはずのシステムが、崩壊していく。

 岡田利規作・演出、内橋和久音楽監督の『未練の幽霊と怪物 —「座波」「敦賀」—』は、能楽の形式を借りて、死者を呼び出す。ここでは、死者とは必ずしも、人間を意味しない。

『座波』の後シテは、国立競技場の設計者に内定していたザハ・ハディドであるが、『敦賀』では、核燃料サイクル政策の亡霊とされている。岡田の独創は、過去に生きた人物が、怨念を持って舞台上に呼び出されるばかりではない。核燃料サイクル政策のような「構想」を身体を持った存在に見立てて、怨念の根源を見いだすところにある。

音律によって過去を呼び出す

 まず、『座波』である。
 冒頭には、ワキに相当する観光客(太田信吾)による「次第」がある。七・五を中心とした音律によって書かれている。ここでは、観光客の現在を謡っている。

 薄雲の空は肌寒い でもそれはそれで春の
 薄雲の空は肌寒い でもそれはそれで春の
 二○一八年の四月の空で 東京の千駄ヶ谷

 と、始まるが、音律を踏んだ繰り返しによって、近い過去が詞章に読み込まれているにもかかわらず、なぜか遠い過去へと一気に連れ去られてしまう。

 もちろん中山英之による美術は、方形の能舞台を思わせ、下手には橋懸りが伸びている。

 こうしたしつらえによって、能のシステムが呼び出されるだけではない。「薄雲」という文語、千駄ヶ谷という地名もまた、平易な言葉でありながら、この舞台が人間の思い、その地層をめぐる物語であると語っている。

 観光客による名ノリは、お能のワキの形式を踏んでいる。
 時・所の設定にはじまるが、ここでは建設中の国立競技場を回ることによって、すでに亡くなった亡霊を呼び出している。
 「絶賛建設工事中」のような現代口語が使われており、この観光客は、地方からの来訪者を思わせるラフな衣裳を付けているにもかかわらず、あたりには異様な空気が漂い始める。
 この場は、祝祭のために作られた競技場である。けれど、そこには、何か禍々しい過去の事件が埋蔵されている。
 それは、現代日本を代表する建築家の手によるものではなく、イラク・バクダッド出身の建築家、奇想に満ちた作風から、実際には建設されなかった例もあることから「アンビルドの女王」とされたザハ・ハディドの構想が、この千駄ヶ谷の地を、禍々しい空気で覆っているのだと、私は納得する。

ザハ・ハディドの憤死

 やがて語られるのは、日本の政府・官僚だけではなく、市民さえもが、メディアの洗脳めいたキャンペーンに煽動され、予算を含めすべての不都合を、ザハ・ハディドに押しつけた事件が告発される。私たちは知っている。ザハ・ハディドの憤死は、事件と無関係とは思えない。岡田は、夢幻能のシテとして、二○二○年から二一年の今、召喚されるにもっともふさわしい人物として、ザハ・ハディドを選んだ。いや、逆説的にいえば、ザハ・ハディドは、岡田に、この夢幻能を創作せよと、夢のなかで迫ったに違いない。

 岡田が繰り返し見たであろう悪夢を現実化するのは、維新派の音楽で演劇界ではよく知られた内橋和久とふたりのミュージシャン(筒井響子 吉本裕美子)による即興である。
 ダグゾフォンによる呪術的な音色と、パーカッションの乾いた音が、空間を切り裂いていく。即興ではあるが、フリージャズのような不協和音ではない。むしろ能楽鳴物を思い浮かべていただいた方がいい。この即興による音に、地謡に相当する七尾旅人による謡いがかぶさることによって、瞬発的な起爆力と、不安定なメロディラインが交錯する。

 この音たちは、シテやワキ、アイにからみついていく。
 からみつくという表現をとったのは、音と身体が、拍子を合わせるのではなく、定間に相当する合わせ方は、周到に避けられていて、ずらし、ぶれ、きしみが仕掛けられているからだ。
 この舞台では、演者たちは、安定したリズムをキープするのではない。キメの瞬間が訪れたかと思うと、微妙に音と謡いが、身体のキメに揺さぶりを掛けているように思われた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。