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「推し、燃ゆ」の「推し」動詞説

**ネタバレを含みます。未読の方はご注意ください**

つい先日、遅ればせながら「推し、燃ゆ」を読んだ。
主人公である、あかりの「推し」が、ファンを殴って炎上する事件を発端として、ストーリーが展開していく作品である。ちょっと俗物っぽすぎるんじゃないかと勝手に思っていて、今まで読まずにいたが、読み始めたら一気読みだった。筆者の宇佐見さん、ごめんなさい。

題材は極めて現代的で、アイドルや表舞台に立つ人に熱狂したことがある人は、とても共感しやすい内容だと思う。また、心理描写や比喩表現に流石の芥川賞受賞作品と思わせるだけの魅力があり、ぐんぐん読み進めることができた。

個人的に好きだった箇所は以下の通り。

「推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。」

背骨って!
折れたら致命傷になってしまう。この表現を思いつくところがすごい。


さて、本題のタイトルの「推し」動詞説について書いてみたいと思う。

「推し、燃ゆ」
読了前までは、もちろん
「推し(好きなアイドルが、ファンを殴って)、燃ゆ(炎上する)」
だと思っていた。し、それで間違いはないと思う。この時の「推し」はアイドルを指す名詞である。

一方、読書メーターで、タイトルの<推し>は動詞なのではないか?という説をみかけ、思わず「おおおー!」と唸ってしまった。
つまり、
「(好きなアイドルをあかりが)推し、(熱中しすぎて自分が)燃ゆ」
ということだ。

この物語はあかりが「推し」を<推す>こと以外の生活が、あまりにもうまく行っていないことが節々に描かれている。高校は中退、バイトはクビ、家族にも見放され、「推し」を<推す>ことのみに打込む。あかりは「推し」のために生きていると言っても過言ではない。そんな中での炎上&芸能界引退。この時のあかりの心情は察するに余りある。最後だと挑んだ解散コンサートであかりはこれまでにはない程の躍動をみせる。まさに燃えている。
ライブが終わった後、ネットで晒されていた「推し」の自宅近所に出かけた際のあかりは、立つのもやっと、と言う感じだ。まさに燃え殻。

この結末を見ると、タイトルがとことんあかりが「推し」を<推し>、燃え尽きたことを表しているようにも思えてくる。読み終わった後に意味合いが変わってくるタイトル。
そんなところも含めて、非常に面白い作品だった。

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