『今昔物語集』の笑い あるいは最近学んだことの中で3番目くらいに難しかったこと
こんばんは。ほしなです。宇田さん(@41_36_22)主催、#深夜の真剣レポート60分一本勝負 第二回ということで、「最近学んだことの中で3番目ぐらいに難しかったこと」として、『今昔物語集』「巻二十八 尾張守◻︎五節所語第四」に関する問題をまとめます。授業のメモをたぐりながらなので不正確・典拠に乏しい部分があります。その点だけご容赦ください。
※前提知識として:
『今昔物語集』は、平安時代末期までの様々な説話・逸話を集めた仏教説話集です。本文は震旦(中国)・天竺(インドらへん)・本朝(日本)の三部構成で、仏教から政治・風俗・鬼・変な話まで、様々な話を取り扱っています。
① 当話のあらすじ
今は昔、なんとか天皇の時代、めっちゃ働き者で有能な人物がいた。彼は赴任先の荒廃した尾張国を、それはもう信じられないくらい完璧に立て直して大層褒められた。ある時彼は宮中で開催される五節の舞(なんかめでたいやつ)を運営することとなり、舞姫から装飾品・宝物・供物に至るまでをきちんと取り揃えて本番に臨んだ。
しかし彼らの一族は、過去においても誰も殿上したことがないほどに下の身分であったので、内裏の中で、貴族を怖いもの見たさにちらちら覗いては隠れることを繰り返していた。じっと女官や殿上人を見ては、すぐに屏風の後ろに隠れる彼らの姿を見た若君たちは、彼ら一族を笑いものにしてやろうと次のように話したという。
「尾張守たちの五節舞は、なるほど確かに大したもんだ。だけどそれにしたって、あんな滑稽で見苦しい様があるもんかね。ようし、ここは一つ盛大にあいつらを騙くらかしてやろう。五節の舞の祝祭の中には、無礼講も無礼講、どんちゃん騒ぎを起こしてもいい、むしろそうしないといけない時間がある。あいつらはどうもそれを知らないようだから、ここは胡散臭く忠告してやって、予想外の狂乱を持っていって、盛大に脅かすのなんかいいんじゃないか!」
「行こう!」
そういうことになった。
さて、この話を公卿から聞かされた尾張守は、んなバカな話があるわけはない、
というように家族に言って、「糸筋の様なる脛ぎを股まで褰げて、扇ぎ散して嗔居」っていた。
しかし次の日、本当に内裏の若者たちはずらずらとやってきて、それはもうめちゃくちゃに暴れ回った。服をだらしなく着崩して、靴も脱ぎ捨て、すだれをがちゃがちゃさせてわあわあ騒ぎまくった。尾張守の一族はそれはもう恐れ慄いて、部屋の隅っこに固まってぶるぶる震えていた。若者たちや、騒動を聞きつけてやってきた公卿・殿上人たちは、そんな一族の姿を見てげらげら笑っていた。
全てが終わった後で、尾張守はビクビクしながら廊下に出てきた。そして誰もいないことを確認すると、一転、こう啖呵を切った。
この一件は、宮中誰しもの耳に伝わった。人が二、三人も集まれば必ず話され、また笑われるぐらいであったという。
ここまでで30分が経過しております。うそ?
②学んだこと
この話の中に出てくる「尾張守」というのは、非常に典型的な良吏です。
良吏とは、荒廃した土地をちゃんと開墾せしめ、その上で領地経営を成功させ、領民にも慕われ……というような、めっちゃいい感じの役人です。平安時代初期、まだ六国史(日本書紀とかの国の歴史)がちゃんと編纂されていた時代には、国史の中に定められた「良吏伝」(善く働いた役人について語る章)の中で紹介されてもおかしくないほどに有能な人物だったようです。
彼自身、あらすじで引用した発言の中で「国史」に言及しています。『今昔物語集』が編纂されたのは平安時代末期、法皇たちによる院政期とだと推定されており、当説話がいつ頃成立したものなのかは定かではありませんが、それでも六国史がちゃんと編まれていた時代というのは長い平安王朝の本当に最初期です(たしか)。そのため、尾張守はかなりしっかり勉強して今の立ち位置を築き上げた、いわばたたき上げの役人であったことが見て取れます。
しかし、そんな彼が散々な目に遭い、良吏であるにもかかわらず笑いものにされてしまうこの話を、『今昔物語集』の編者は笑い話を集約した巻二十八に納めてしまいました。現代の感覚からすればちょっとおかしな事態ですが、しかし少なくとも『今昔』編者—そして編者によって代表されるであろう同時代の人々—には、本説話が笑い話として受け取られていたようなのです。これはどういうことでしょうか。
背景には、当時の国家体制が大きく関わっていたとされるそうです。
繰り返しにはなりますが、『今昔物語集』は平安時代末期、院政期に編纂されたと推定されています。平安時代はだいたい794年〜1185年ぐらいまで続いた長い時代だったわけですが、大陸から切り離された国風文化が花開いた時代でもあります。それと同時に、遣唐使船の打ち切りによる政治的ガラパゴス状態—具体的には、科挙制度の不徹底と能力主義の破綻—が表れ始めた時代でもありました。よくいえば文字通り平安な、悪くいえばだらけた政治の時代でもあったわけです。その結果、有職故実(過去の慣習・儀礼)をひたすらに遵守し、制度はむしろ形骸化させる儀礼国家が出来上がりました。
このような制度無視・慣例重視なあり方は、既存の政治形態であった律令制を内部から腐敗させていきます。平安時代末期には、「尾張国郡司百姓等解文」に顕著に見られるような、国司苛政重訴闘争というのも出てきます。百姓らを虐げ、私腹を肥やすのを第一目的とするような役人が段々と出てくるわけですね。律令制下にあっては良吏とされた存在も、言うなれば処世術を知らずに真面目にやっている変なやつ、笑いものとなるのです。
当説話に出てくる尾張守も、まさしくそんな良吏でした。言うなれば時代遅れでダサいやつでした。当説話が笑い話とされてしまった理由には、上述したような時代の変遷があった……らしいです。
③おわりに
『今昔物語集』において、天皇が直接的に言及されることはほとんどありません。しかし『今昔』の編者は、時として天皇を囲む人々を描写することで、婉曲的にその姿を示し、世相を写す鏡とします。
当説話の天皇は、果たして笑っていたのでしょうか。レポートの結びとして、本文の最終段落を引用させていただきます。読んでいただきありがとうございました。
引用元:『やたがらすなび』 「攷証今昔物語集(本文) 巻28第4話 尾張守□□五節所語 第四」https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku28-4