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『石蕗南地区の放火』を読んで② セカイの見方をアラフォー女から考える

 前回の記事で、簡単なあらすじと登場人物の一人である「大林」について思うところを書いたのでぜひ読んでほしい。

 前の記事をざっくりまとめると、大林は「女性経験がないために幼い男性」であり、彼が周囲に与える「なんかあの人嫌だ」感が辻村深月の筆致によってひしひしと伝わってくる、と書いた。

では、この小説の「語り手」に問題はないのだろうか?

中学国語の教科書に取り上げられる話として有名なものに、ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』がある。そう、「そうかそうか、君はそういうやつなんだな」である。僕はこの作品を中学1年生で取り上げる国語教育がとても好きだ。
 この作品の「僕」は本当にクソガキである。隣に住む友人・エーミールに嫉妬しいけすかないやつと考えて、貴重な標本を盗もうとするが破損する。そして謝罪して少し嫌味を言われたら、逆ギレする。中学1年生から見ても、「いやいや、お前にも悪いところあるだろ」とツッコミを入れられるのである。この作品は自分の認識が他人の認識ではない、自分の主観=セカイの正しい認識とは限らないと気付かせるのにあまりにピッタリなのだ。

 話を戻すと、『石蕗南地区の放火』の笙子もやはり認知が歪んでいる。いわば、結婚に遅れているのに理想が高すぎる。サークルの人気あった二人の先輩に取り合いをされていたといったような「昔モテていた」エピソードに執着しているし、ステータスのあるような会計士のお見合いも見た目が気に入らず合わずに断ってしまっている。今回の大林の放火に際しても、「大林は自分のことを好きだから会いたくて放火してしまったのだ」と一回考えたら逃れられない。(ちなみに大林は放火の動機をマスコミに「自分が火をつけてそれを消火することでヒーローになりたかった」と話しているが、僕は本当にその側面が強かったと考えている。大林は前の記事で考察したように承認欲求の塊のような人間であり、火を消して誰かを助けている自分、が本当に好きな人なのだと思う)
 では、笙子はただの自意識過剰な女性でセカイの見え方が180度間違っているのか、と言われるとそうではないと思う。実際に、大林に笙子を気になっていた時期があるのは間違いないし、朋絵(笙子の職場の若い女性)が笙子を心のどこかで見下している面があるのも確かだろう。ただ、笙子が思うほどおそらく大林や朋絵は笙子のことを「気にしていない」のだ。

 ただし僕は「笙子はアラフォーなのに結婚に遅れていて、自意識過剰でどうしようもない人間だね。チャンチャン」で終わらせたくない。我々は笙子になり得ないのか?

 我々が見えている世界はそれぞれ姿が違う。Aさんの物差しで見える世界と、Bさんの物差しで見える世界はまるで違う。では、全員の世界の姿は「セカイ」と一緒なのだろうか。(ここでいう「セカイ」とは、真の世界の形のようなものだと理解してほしい。)
 そうではないだろう。例えばあなたがCさんに片思いしていて、Cさんと付き合えると確信して告白をしたら「そんなつもりじゃなかった」と言われたとする。そうだとすると、Cさんと付き合えると確信していたあなたの世界の見え方は間違っていて、真の「セカイ」では、Cさんはあなたと付き合うつもりはなかったのだ。他人の気持ちを完全に知ることは不可能なのだから、我々は完全に正しいセカイを知ることはできない。
 ただ、だからといって我々は「人の気持ちなんてどーでもいいや」と放棄することはできない。それだと我々は他人を傷つけることになる。無自覚ならまだ良かったかもしれないが、この作品を読んでここまで考えてなお「無自覚でいい」と思えるのなら幸せだろう。少なくとも我々は他人を傷つけず幸せにできる人間でありたいと思っているし、それが人間の理想であると僕は信じている。

 ならば我々はどうすればいいのか、笙子はそのヒントを与えてくれている気がする。笙子はなぜ自意識過剰なのか?それは「自他を評価している」からではないか。笙子は結婚したくないわけではない。辛い時に大林の顔を思い出そうとして、あの人もありなんじゃないかと思うくらいに。笙子は大林をおそらくいわゆる「男性」という枠の中でしっかり評価している。しかし彼女が残念なのは、その恋愛市場という価値基準の中で自分を正しく評価できていない点だろう。

自分という人間を正しく評価することは難しい。だからこそ我々は、自分を自分の軸で評価し、自己肯定感をしっかり持つべきではないのか。そうすると、他人に対し余裕を持って接することができるのではないだろうか。

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