<鈴木治行・室内楽パノラマ 〜誤作動する記憶〜> プログラムノート

<鈴木治行・室内楽パノラマ ~誤作動する記憶~>(2020年12月16日(水)東京オペラシティリサイタルホール)のプログラムノートを全ページ公開します。

12:16個展チラシ(表)

*なお、ここでこのプログラムを目にし、興味を持たれた方には、23日一杯まで配信(2500円)も行っておりますので是非ご利用ください。
https://haruyukisuzuki-malfunction.peatix.com


<プログラム>

Is This C’s Song? (2006) *編曲作品
浸透ー浮遊 (1998)
Elastic (2015) *東京初演
Orbital (2005/2020) *改訂初演
************  休    憩  ***********
沈殿ー漂着 (2003)
Astorotsa (2001)
句読点 X (2015)
Seagram (2020) *世界初演

このコロナ禍の中、本日はご来場ありがとうございます。僕が最初に自分の音楽を公開の場にかけたのは1986年、23歳の時ですが、それから34年、飽きもせず現在も続けております。80年代一杯は後から見るとまだ模索の時代でしたが、90年代頭に未知の可能性を秘めた方向性を見出し、この方向に足を踏み出し進んでいるうちに30年経ったという感じです。今回のプログラムには初期作品は含まれていませんが、ここ20年ほどの鈴木治行の音楽の諸傾向を俯瞰していただくべく、室内楽パノラマと名付けました。どうぞお楽しみください。


●開演前のひとり言(それとなく人に聞こえるように) 鈴木治行

 一つの曲を作ると、その作曲の過程でいろいろ別の可能性に気づくことがあって。しかしそれが面白そうだからといって脇道に逸れて追求してしまうと別の音楽になってしまうので、グッと堪えて後々のために取っておく、ということがしばしばある。普段は悩んでいてもいいが、一つの創作に入ったら途中で迷ってはいけないのである。そしてまた後にその時発見した可能性をテーマに別の曲を作る。こうして、一つの曲を作るとその過程でいろんなアイデアが枝分かれしてきて樹形図のように広がってゆく。作れば作るほど宿題が増えていくようなものだ。その一つ一つを追い求めるのは、大変でもあるが面白いので飽きることがない。現在、僕の音楽活動にいくつもの路線があって、それぞれが同時進行しているのはこうした理由による。ここ30年の間に自然に少しずつ路線が増えてきてこうなってしまった。

 様々なスタイルを変遷する作家というのはいろいろいるが、僕の場合はあるスタイルから別のスタイルに変わっていくというのとは少し違って、一つのスタイルは残したまま、別のスタイルも同時に始まる。あるスタイルでもうすべてやり尽くしたと思ったらそれはそこで終わるかもしれないが、今のところそうはなっていない。例えば一番初めに始まった「反復もの」にしても、この30年の間で何十曲か生まれたが、根本のコンセプトは同じでも具体的な作法は一つ一つ違っていて、まだまだ掘ってない可能性が沢山あり、まだあと数十年は枯渇しそうにない。

 今回、意を決して多少無理してでも自分の個展をやっておこうと思ったのは、この辺で一度自分の活動をみなさんにも俯瞰していただこうと思った、というのがきっかけである。しかし、一見雑多に見えるであろう自分の創作をどう見せるかということを考えたところで、はたと困った。自分のある傾向をじっくり聴いていただくなら、同じ路線ばかりで固めたプログラムにするのがいいだろう。実際、過去に「語りもの」全曲公演や「句読点」全曲公演というものをやったこともある。しかし、一つの路線に特化すると、僕の活動のその他の面を紹介する余地がなくなってしまう。なるべく多くの面を見てもらうのなら、異なった路線をそれぞれプログラムに入れるのがいいのではないだろうか、ということで、今回のプログラムが決定した。

 今回のプログラムには、現在の4つの路線の作品がそれぞれ2曲ずつ、計8曲含まれている。実をいうと、僕の現在の路線は4つではなくもっとあるのだが、今回は中心的な4路線「反復もの」「句読点」「語りもの」「伸縮もの」に限定した。そして、それぞれを前半と後半に振り分けた。つまり、前半にも後半にも4つの路線がアラカルトで一つずつ入っている。前半だけ聴くと4曲バラバラな傾向に思えるかもしれないが、後半になってみると前半のバラバラが再び今度は違う曲で繰り返され、やっぱり後半もバラバラなのである・・・が、前半の記憶があるので、前半と後半の同系統の音楽の記憶が結びつき、そこに何らかの発見が降りてきたらもらえたら。。。


●Prepárense 用意はいいか 鈴木治行の室内楽作品を聴く 石塚潤一

用意はいいか。

もし、貴方がこの小文を演奏の最中にお読みなら、すぐにおやめなさい。それは、予備校の授業中に合格体験記を読みふけるような不毛な行為だ。もちろん、この小文にも、合格体験記にも、読む者に何かの気付きを齎す二三の記述が含まれていることだろう。そうあって欲しいと願っている。ただ、物事にはタイミングというものがある。今なすべきは、目の前の音楽にとにかく喰らいつくこと。それ以外にない。

鈴木治行の音楽を聴くことは、人の短期記憶を駆使させる、ある種のゲームに参加するのに似ている。ルールは簡単。だから、誰でも、予備知識がなくとも参加できるだろう。ただ、ゲームに参加しているという心構えと集中力は持っておきたい。

再度訊く。用意はいいか。

では、解説を始めよう。鈴木治行の音楽の際立った特徴はその時間構造にある。音楽が時系列に沿って音を並べていく芸術である以上、時間構造の重要性は本来自明のことのはずだ。しかしながら、近年の芸術音楽には、時間構造より音響そのものに重きを置く傾向がある。これは音楽史上稀有な「感覚の作曲家」であったドビュッシー以後顕著な傾向で、ドビュッシーを生んだ国フランスには、スペクトル楽派という科学的知見により音響を精緻に彫琢する流派も生まれた。無論、この技術そのものは素晴らしい。だが、かつて近藤譲が指摘したように、一つの音響の中には、これをどう発展させていくか、という論理は(基本的に)内包されていない。音響を時系列に沿って並べ、発展させるには、別の論理を用意しなくてはならないはずだが、そのことに無頓着な音楽を耳にする機会が些か増えた。音響が複雑になるにつれて、その論理を用意することも難しくなり、たとえ用意できても、それが容易に聴き手に共有されないジレンマに、作曲家たちは直面しているというのに。

よって、音響を本質と捉えない鈴木は、このジレンマから自由な数少ない作曲家の一人といえる。そのスタンスがどこから生じたのかといえば、それはやはり映画であったろう。映画を観るとき、たとえば、精緻に作られた音楽よりも、劇中の何気ない子供の鼻歌が印象に残り、かつ、映画の雰囲気もまた後者によって形づくられる、といったことがしばしばある。音響の彫琢より素材を際立たせるコンセプトの大切さ。ミシェル・シオン以後の映画音楽家であり、リュック・フェラーリに私淑する鈴木が、このことを見逃すはずはない。もちろん、鈴木も作曲家である以上、音響の彫琢とは無縁ではありえない。だが、音楽も映画も、否応なく流れていく時間の上に構築される芸術であることを考えれば、聴き手/観客の記憶能力を無視して成立し得るはずはない。

ただし、一般的な映画の場合、劇中で展開するストーリーがその持続を担保してくれるが、音楽、とりわけ、本日演奏されるような室内楽作品は、オペラや劇音楽のように特定の筋書きに沿うことがなく、より抽象的で記憶しにくい。この抽象化した音楽を読み解くために、過去の音楽においては形式が機能した。たとえば、ソナタ形式という用語を、単一楽章の構成法として使ったのは、1824年のアドルフ・ベルンハルト・マルクスが嚆矢という。つまり、モーツァルトにもベートーヴェンにも、「ソナタ形式の楽曲を書く」という特段の意識がないまま、当時の作曲界で共有されていた、いわば定石に従う形で、その創作活動を続けていたことに注視されたい。この定石が聴き手の中でも共有されていたならば、聴き手は、あらかじめ大まかな筋書きを知っているのと同じで、これが第一主題、これが第二主題・・・、と、適宜メモリーに刻んでいけば良く、一回聴いただけで一曲を丸ごと記憶してしまう、モーツァルトのような能力がなくとも、未知の音楽を咀嚼することができるだろう。

しかし、形式とは、そうした有用さの反面、使い古されていく中で陳腐化してしまうものでもある。また、古典派の時代から音楽の内実が変われば、当時の形式をそのまま利用することは、そもそも難しい。音楽語法が多様化/複雑化した結果、現代の音楽においては、聴く者の共通認識とまでなっている形式上の定石は存在しない。そこに現代の芸術音楽の難しさはある。作曲家がいかに楽曲の時間構造に工夫を凝らそうとも、聴き手の認識に引っかからず素通りされてしまう可能性もまた、常について回るのだ。

よってここで「記憶」が再度クローズアップされる。不完全であるがそれゆえに面白く、時には認識上のエラーも引き起こす聴き手の記憶と、いかに対峙していくか。音楽作品の時間構造の問題とは、究極、聴き手の認知や記憶との関係性の問題なのだ。

鈴木治行にとっての音楽の時間構造とは、この聴き手の記憶と対峙した結果生み出されるものだ。作曲家の意図が聴き手の認識に確と刻み込まれる仕掛けを含んだ、音楽形式の工夫と言い換えても良い。そのために鈴木が用意する素材はとにかく様々だ。いかにも現代音楽風の不協和な響き、ゆるやかな疑似反復音型、昭和のポップミュージックを思わす断片、鋭い電子音、既存の楽曲の引用、映画のサウンドトラック(いわゆるサントラ盤ではなく、文字通りのサウンドトラック:映画に付随するセリフや効果音を含めた音声のこと)のような音たち……。
聴き手に求められているのは、鈴木が次々に繰り出す素材をメモリーに刻み込みつつ、それら相互の関係についておぼろげながらにも思考すること。なにも構える必要はない。ゲームに参加するようにリラックスして楽しめばいい。鈴木は、ある時は正攻法で、ある時は思いもしない奇手により、聴き手の認識を操作していく。それこそが、鈴木の仕掛けた時間構造の狙いであり、その独自性に他ならない。どうか存分に、集中し、記憶し、思考し、味わい、そして騙されて頂きたい。

最後に訊く。用意はいいか。

それでは音楽を始めよう。

●Is This C’s Song?(2006) * 編曲作品   ヴァイオリン、チェロ、ピアノ
 この作品は2006年、京都の元・立誠小学校で開かれた「チャップリン映画音楽コンサート」において初演された。原曲がチャップリンが自らの映画『伯爵夫人』のために作曲した楽曲『This Is My Song』であることがわかれば、「C」とは誰かはもう説明不要であろう。もともとはチャップリン音楽の編曲という話だったのだが、普通の編曲の範疇をだいぶ超えて自分自身の音楽になってしまった気がする。90年代頭に始まった「句読点」シリーズでは自然な流れの脱臼が意図されているが、脱臼が最大限に効果を発揮するためには、前提として持続的な流れが作られている必要がある。まず持続が強固にあるからこそ切断が活きてくる。その意味においては、既成の楽曲はそれ自体の流れを持っているのでこの意図の実現には向いているのである。こうした理由によって、既成楽曲を素材とする切断、脱臼の試みはこれまでときどき実践してきた。なお、この曲で用いられている切断の手管は調性の半音ずらしとテンポの唐突な変化だが、半音違いの調性というのは共通音が少ないので異世界に飛ぶ感触が強い上に、より半端な場所で切断されていることが余計脱臼感を強めている。調性的な素材を扱う時、このような半端な箇所での半音ずらしは90年代以来しばしば用いている手法である。


●浸透ー浮遊(1998)  フルート、ギター、ピアノ、コントラバス、語り、環境音
 90年代後半にある委嘱を受けたのだが、条件が「言葉がテーマであること」だった。10代の頃伝統的に歌詞のイメージに寄り添う音をつけた歌はいろいろ作っていたものの、それ以後言葉の問題は自分の中では長らくペンディングになっていたのが、この委嘱によってそれに改めて向き合わなければならなくなったのである。しかし伝統的に歌詞のイメージに音楽を寄り添わせる方向はやりたくなく、初めはどうしようと思ったが、窮地に追い込まれると何かしら搾りカスは出てくるもので、こうして生まれたのがこの『浸透ー浮遊』であった。同時にこの作品が「語りもの」シリーズ始まりのきっかけとなった。これは思うに、自分の中にそれまでに少しずつ溜まってきた映画の影響が熟し、時を得て表面に浮上したものだろう。特に、1990年前後に六本木シネ・ヴィヴァンで発見したマルグリット・デュラスの映画からの影響は色濃い。映画からの影響という点についていえば、それは実は「反復もの」も同じなのだが、「反復もの」の場合は編集という点に影響の比重がかかっている(実際、「反復もの」を作曲している時、フィルムを編集しているかのような錯覚に襲われることがある)。この『浸透ー浮遊』は、結果的に映画音楽というものへの一種の批評ともいえる。通常は映画の音楽はイメージ(映像)の背後にあってそのイメージに寄り添い、つまりイメージが前面、音楽が背景という位置にあるが、その固定された関係を言葉によって転倒させ、あるいはどちらが前面とも背景ともつかない曖昧な状態を作り出すこと。環境音は物語的なものを始動させるための舞台装置であり、その中で言葉が逸話的イメージを喚起し、あるいは音楽とイメージの関係性に揺さぶりをかける。なお、今回語りは作曲者自身が担当する。


●Elastic(2015)  フルート、ヴァイオリン、アコーディオン
 2015年、大阪のホリエアルテでの「Company Bene 大阪コレクション」にて初演され、今回が東京初演となる。この路線はまたこれまでの自分がやってきたこととはだいぶ方向が違っていて、何年間かは特に名前はついてなかったのだが、最近は「伸縮もの」と呼んでいる。このアイデアを最初に試みたのは2009年のピアノ曲『Scabrous』の2曲目で、この『Elastic』は3作目くらいだったと思う。しかし実は、最初のルーツは今回一つ前に演奏された『浸透ー浮遊』に既に出ていたことに後になって気がついた。「伸縮もの」はある意味これまでのどの路線よりも限定的で、システマティックでもある。どんな音楽でも、その音楽に合ったピントの合わせ方を取得しなければ面白さはわからないが、世の多くの音楽は、それが新曲であっても既にある聴取のどれかのパターンに当て嵌めれば聴くことができる。そうしたピントの合わせ方を更新したいというのが僕のおそらく生来の傾向としてあって、自分が惹かれる音楽と惹かれない音楽の違いはどこにあるのだろうと考えた時に、結局自分が惹かれる音楽というのはみな、何らかの形でそこに挑もうとしている音楽であるようだ。「伸縮もの」に話を戻すと、これは、一つの響きをひたすら聴き続けることで、その響きが次第に分解されてゆき、最初の響きが別々の響きの混合からなっていたということに、どこで気づくか、という音楽なのである。または、逆コースでバラバラの響きが一つになってゆく変化を見つめる。そこに正解はなく、どこで気づくかは人によって違うだろうし、それでいい。そこに耳の焦点を向けさせるために、多くの要素が削ぎ落とされている。これまでの僕の他の路線とは共通点はないようでいながら、こうした人間の知覚への関心という点ではやはりつながっているのかもしれない。


●Orbital(2005/2020改訂) クラリネット、チェロ、ピアノ
 この作品は2005年に来日公演を行ったドイツのe-mexトリオによって初演され、むこうでも何度か演奏され、その後CD「比率」に収録された。ただその後、曲の中のある一部が次第に気になってきたので、今回の再演を機にそこだけ修正した。よってこれが改訂初演となる。とはいっても、変わったのは最後のページの一部だけである。この作品を聞くと、前にも出てきたパターンが繰り返し回帰してくることに気づくだろうが、この反復は、いわゆるミニマル・ミュージック的な反復とは性格をだいぶ異にするはずだ。僕は確かに初期のアメリカン・ミニマリズムには大きな影響を受けているが、人を陶酔へと誘う反復には批判的で、自分の音楽は陶酔ではなく覚醒へと向かうものでありたい。しかしそれは無味乾燥とか理知的という意味ではない。覚醒の先に初めて至る陶酔というものがあり得ることを、ゴダールやストローブは示したはずではないか。「反復もの」における僕の関心は時間構造にあり、そして時間構造を形作る重要な要素が記憶である。記憶は前に現れたものが再び現れた時に呼び起こされ、時間軸上に穿たれた2つの点と点は記憶の糸で結ばれる。いわばその糸を縦横に張り巡らせ、記憶の織物を作るのがここでの作曲ということになる。


●沈殿ー漂着(2003) フルート、ギター、語り、電子音
 この作品は「語りもの」の4作目であり、2003年のTempusu Novum第14回演奏会で初演された。ちなみに「語りもの」はその後2007年に全作品演奏会が開かれ、翌年HeadzからCDリリースされ、その後もう一作が作られた(こちらもCDになっている)が、これで打ち止めではなくこれからも続く。さて、「語りもの」は最初の『浸透ー浮遊』以後一作ごとに少しずつ方向性が変わってきたが、この『沈殿ー漂着』では、前作で未知の可能性に気がついた「自己言及性」を全面的に前に押し出した。『浸透ー浮遊』の項で書いたような、イメージを背後で支える音楽、というあり方をどうやって逆転させるかという時に、言葉が音楽そのものに言及することで音楽にスポットを当てる(=前景化)ことができる。テキストは詩的な領域と自己言及の間をさまよい、揺れ動く。また、言葉によって喚起される音のイメージと現実の音とのアンサンブルの可能性はありやなしや。例えば、言葉として発する「ド」と現実に鳴っている「ミ」は聴く者の脳内に3度の協和音を形成するだろうか?作曲時は意識してはいなかったが、これは元を辿ると、松平頼暁の『ザ・シンフォニー』的な発想に近いかもしれない。人がある楽器の名前を耳にした時にその音色を想起するのなら、楽器名を連呼することによって想像内でのアンサンブルが可能になる。。。このテーマは『沈殿ー漂着』の主眼ではないが、この曲を作ることで喚起されたモチーフとして今後も何らかの形で作品に反映するであろう。

●Astorotsa(2001) ヴァイオリン、アコーディオン、コントラバス
 この作品は、1990年に立ち上げた作曲家グループ、Tempus Novumの第12回演奏会において初演された。このコンサートのテーマは「編曲」であった。本来はアコーディオンではなくバンドネオンのトリオなのだが、このような音楽をお任せできるバンドネオン奏者に今のところ巡り合っていず、その代わりコンテンポラリーの領域で優れたアコーディオン奏者とは幸いにして巡り合えたので、今回はアコーディオン版でプログラムに加えることにした。バンドネオン版もいつの日か再演したいものである。一聴しておわかりのように、そして別に隠しておく必要もないのでここにも書くが、この作品の元になっているのはアストル・ピアソラの楽曲であり、タイトルはピアソラのファーストネームを鏡像にしたもの。既成曲が元になっているという意味では『Is This C’s Song?』とも似ているが、この作品は「句読点」ではないので方向性はだいぶ異なっている。ここでも同じパターンが回帰して記憶の織物を形作る。ピアソラは西洋音楽の収穫を伝統的なタンゴに反映させて全く新しい音楽を生み出したが、楽曲として見ると新古典的な音楽が、ピアソラ自身の手にかかると西洋音楽の軛を逃れ、躍動する生命力に満ちた音楽として立ち現れるのはいつ聴いても驚きだ。ここでは、コンピュータを通すことで演奏のリズム感の揺れをなるべく生け捕りにしながらそれをズタズタに引き裂いている。『Orbital』の項でも書いたように、記憶の中に穿たれた点と点が記憶の糸で結ばれてゆく。


●句読点 X(2015)  クラリネット
 「句読点」シリーズはこれまでのところ11曲存在している。このタイトルがつく作品はすべてソロ楽器のためのものだが、コンセプトは楽器編成を問わないのでソロではなくても可能で、そうしたソロではない「句読点」コンセプトの作品は「句読点」とは呼ばれない。今回のプログラムでいうと冒頭で演奏された『Is This C’s Song?』がそれにあたる。『Is This C’s Song?』とは違って、『句読点 X』には既成曲は使われていないので、自前で持続を作り出す必要がある。ある特徴を持ったテクスチュアが反復されるとそこに持続が生まれるが、生まれたところでそれを異物によって転倒させる。それはいわば唐突に打ち込まれた楔のようなものである。楔ははじめ異物として機能するが、繰り返されてゆくうちにその異物感は薄れ、それをも含み込んだ一つの持続として認識される。それをまた転倒させるために新たな異物が必要になってくる。こうして、粘菌がゆっくりと増殖して広がってゆくように、一つの塊の音グループとして知覚される範囲がたえず更新、拡張されながら音楽は進んでゆく。2015年、アイルランドのクラリネット奏者ポール・ロウの来日公演で初演された。


●Seagram(2020) フルート、クラリネット、ピアノ、アコーディオン、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス
 今回の個展のための新作で、これまでの「伸縮もの」としては最も大きい7人編成。この作品のコンセプトについては『Elastic』の項を読んでいただくのがよいだろう。『Elastic』との一番の違いは編成の大小ではなく、『Elastic』に実は入っていた句読点的要素、つまり異物による脱臼的要素がこの作品にはないということだ。伸縮しながら重なったりずれたりを繰り返すメイン素材の他にも若干別の要素はあるが、それは異物としては扱われていない。つまり、これはほとんど一つのことだけをやっている音楽なのである。しかも各楽器は全くヴィルトゥオージティを発揮する余地もない。ただしゆったりした波のように寄せてくる高揚はあるかもしれないが、それがあるとしたらその高揚は厳密なシステムの運行から齎されるものであるはずだ。こうした「ワンネス」(Oneness)はアメリカのミニマルアート及び実験音楽の一つの特徴でもあり、ヨーロッパ的な価値観からはかなり遠いものではあるが、これでもいいのだということを、僕はジェームズ・テニーやアルヴィン・ルシエやトム・ジョンソンから学んだのだと思っている。ちなみにタイトルは20世紀のモダニズム建築家ミース・ファン・デル・ローエの代表作の一つ、マンハッタンにあるシーグラム・ビルから採られている。このビルに限らず、ミースの建築の均質で水平、垂直に広がってゆく構造体のあり方が、この音楽の様態と類似しているように感じられないだろうか。ミースの有名な言葉を2つ紹介してこの文章を締めくくろう。「より少ないことは、より豊かなことである」。「神は細部に宿る」。


鈴木治行プロフィール:
東京出身。1990年、若手作曲家グループTEMPUS NOVUMを結成。1995年、『二重の鍵』が第16回入野賞受賞。1997年、衛星ラジオ「Music Bird」にて鈴木治行特集放送。これまでにガウデアムス国際音楽週間(オランダ)、サンタマリア・ヌオヴァ音楽祭(イタリア)、ボルドーの音楽祭"Les Inouies”他に招待、2010年にはExperimental Intermedia(ニューヨーク)に出演。1992年の新宿X-Pointでの最初の個展以来、1995年<記憶の彫刻/超克・鈴木治行の音楽宇宙>、2007年<「語りもの」シリーズ全作公演>、2013年<鈴木治行「句読点」シリーズ全曲演奏会~脱臼す、る時間>などを開催し、今回が6回目の器楽作品の個展となる。2016年「Music From Japan」(ニューヨーク)参加。2019年にはサントリーサマーフェスティバル・第29回芥川也寸志サントリー作曲賞ノミネート。他ジャンルとのコラボレーションにも関心を持ち、演劇、美術、映像などとの共同作業を行っている。『M/OTHER』にて第54回毎日映画コンクール音楽賞受賞。サイレント映画のライブ演奏も行う。作品は国内外で演奏、またNHK-FM、CSラジオスカイ、ラジオ・フランス、ベルリン・ドイツ・ラジオ、DRS2、ラジオ・カナダなどで放送されている。


●出演者プロフィール

北嶋愛季 (チェロ)
(最新版)桐朋学園大学、ドイツ国立トロッシンゲン音楽大学卒業。インターナショナル・アンサンブ ル・モデルン・アカデミー生(IEMA)としてアンサンブル・モデルン(EM)のもとで研鑽を積 む。メンデルスゾーン・ドイツ国立音楽大学コンクールの現代音楽アンサンブル部門 3 位 受賞。フランクフルト音楽・舞台芸術大学古楽器科修士号取得。主に IEMA、EM 客演としてヨーロッパの様々な現代音楽祭に出演するなど精力的に活動。www.akikitajima.com

大田 智美 (アコーディオン )
 アコーディオンを10歳から江森登氏に師事。国立音楽大学附属音楽高等学校ピアノ科卒業後、渡独。2009年フォルクヴァンク音楽大学ソリストコースを首席で卒業、ドイツ国家演奏家資格を取得。御喜美江氏に師事。またウィーン私立音楽大学でも研鑽を積む。帰国後は、ソロや室内楽、オーケストラとの共演等クラシックや現代音楽を中心としながらもジャンルを超えた演奏活動を行い、アコーディオンの魅力と可能性を発信している。

梶原一紘(フルート)
 東京藝術大学音楽学部附属高校、東京藝術大学を卒業後渡仏。フランス国立クレテイユ地方音楽院を満場一致最優秀の成績にて修了後、パリ・エコールノルマル音楽院にて研鑽を積む。マグナムトリオのメンバーとして日本国内はもとより韓国、イギリス、カナダ、ロシアをはじめさまざまな演奏会やフルートフェスティバルに招聘され好評を博す。NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「いだてん」「スーパーマリオオデッセイ」などのレコーディングに参加。Todays Concert共同創設者。ドルチェ東京ミュージックアカデミー講師。


川村恵里佳(ピアノ)
 東京音楽大学ピアノ演奏家コース卒業、同大学院修士課程鍵盤楽器研究領域修了。修了後、同大学非常勤研究員を務める。第11回現代音楽演奏コンクール ”競楽XI” にて、審査委員特別奨励賞を受賞。これまでにウィーンモデルン音楽祭(オーストリア・ウィーン)、ハニャン現代音楽祭(韓国・ソウル)に招聘されるなど、現代音楽の演奏に積極的に取り組み、新曲初演を含む数々のプロジェクトに参加する。


亀井庸州(ヴァイオリン)
 5歳よりヴァイオリン、18歳より尺八を始める。東京音楽大学在学中の2000年ごろから主に同世代の作品初演を中心に活動を開始。2004年同大学卒業後、2005年よりベルギー王立リエージュ音楽院において、ジャン=ピエール・プーヴィオン、ギャレット・リスト、大久保泉らのもとで欧州の20世紀音楽や即興演奏を学んだほか、各氏とは欧州各都市にて共演。また、2006年と07年にはナミュール国際古楽器講習会に参加し、バロックヴァイオリンの演奏を修得している。2007年より拠点を日本へ移したのちは、引き続き同世代の作品初演活動に携わる。


岩瀬龍太(クラリネット) 
 桐朋学園大学卒業。ベルギーのアントワープ王立音楽院とモンス王立音楽院にて、ワルタ ー・ブイケンス、ロナルド・ヴァン・スパンドンクの両氏に師事。これまでに、ピエトロ・アルジェ ント国際室内楽コンクール第1位。マルコ・フィオリンド国際室内楽コンクール第3位。パドヴァ 国際室内楽コンクール第3位。夏期国際音楽アカデミー(ウィーン)においてバルトーク賞を受 賞。ウィーンモデルン現代音楽祭をはじめ数々の音楽祭に招聘される。


佐藤洋嗣(コントラバス)
 高校時代はエレクトリック・ベースを演奏し、卒業後コントラバスの魅力に触れ、転向。2006年東京音楽大学卒業。現在は室内楽、オーケストラ、アルゼンチン・タンゴなどを下から支えつつ、コントラバスの新しい可能性を探りながら演奏している。アンサンブル・ノマド、シュテルン・クインテット、チコス・デ・パンパのメンバー。バンドジャーナル誌に於いてワンポイントレッスンを連載。これまでに4回のリサイタルを開催。将来が大変嘱望されている若手ベーシストの一人として注目を浴びている。


山田岳(ギター、指揮)
 現代音楽の演奏を活動の主軸とし、多くの新作初演に携わる。近年では楽器の枠を超えたパフォーマーとしての活動、ダンサーや造形家とのコラ ボレーションによる舞台制作など、さまざまな切り口で新しい表現へのアプローチを試みている。
これまでにALM Recordよりソロアルバム「Ostinati」「melodia」をリリース。ギターのあらゆる可能性を示した鮮烈な録音として話題を呼び、「レコード芸術」誌にて特選盤およびレコードアカデミー賞へノミネートされる他、各方面で高い評価を獲得している。
第 9 回現代音楽演奏コンクール " 競楽 IX” 第1位。第20 回朝日現代音楽賞受賞。
桐朋学園芸術短期大学、福山平成大学非常勤講師。

主催:CIRCUIT
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京
  公益財団法人朝日新聞文化財団

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?