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【自己責任】の程度について

どこまでが自己責任か

自己責任という言葉は便利です。所得が低いのは本人の努力不足だ、こんな苦境からでも成り上がった人はいる等……この論理を振りかざすと、一定の賛意があり、弱者に対して手を差し伸べなくてもいい理由づけになります。

しかし、本当に所得が低いのは本人だけのせいでしょうか?ケースバイケースですが、とりあえず「隙あらば自分語り」します。

私の場合

私の父親は私が小学校に入る前に心臓病が発覚し、家族はパートの母の収入に頼る貧困世帯になりました。

父は苦労して大学院を修了し、研究職に就いて頑張っていました。当然職も失い、いつ死ぬともわからない障害なのでどこも雇ってはくれません。

そんな家庭で育った私が、大学を卒業し大企業に就職できたのは誰のお陰でしょうか?私も確かに努力しました。でも、その努力ができたのは私だけの力ではありません。

父も、私立高校に進学したいという私の願いを聞き入れてくれ、進学校に進学できました。その父の判断の裏には、貧困世帯の授業料免除という制度があったからです。もしそれがなかったら?

父の実家は貧困世帯ではなく、万が一切羽詰まったら助けを求めることができました。しかし、もし貧困が何代か再生産されてしまい親族一同みんな貧困だったら?

私が仮に努力の成果として我が家を貧困から脱出させることができたのは、その「努力」できる土台があったからこそです。

ifの話①

もし私の行きたい学校で授業料免除が使えなかったら?私は小学校時代にいじめを受けており、自宅から通える範囲の進学校はいじめっ子が通う可能性のある学校でした。

いじめっ子がいる学校でも「努力」すればいい?脳のリソースは有限です。学業で成果を残すならば学業以外の懸念材料は少ない方がいい。クラスにいじめっ子がいれば、脳内の何割かが不安に割かれます。

そんな状態でも努力出来る人は尊敬します。しかし、お金があることで足かせを外せた「同程度の能力の子供」との間で不平等が発生します。親の貧困は子供のせいではないですし、努力すれば才能がでるはずの子供を埋没させることで国にも損がでます。

ifの話②

もし私の父も親族もみんな貧困だったら?極度の貧困だと「一度にお金が必要になるもの・こと」に一切お金を割けなくなります。自炊の方が安く済むとわかっていても、口座残金ゼロ、クレジットも持てないでは冷蔵庫洗濯機すら買えません(我が家はそこまでではありませんでしたが……)

冷蔵庫がなければ不健康な食生活になりがちですし、洗濯機がなければ近くのコインランドリーに行かなくてはなりません。ポチッとボタン押すだけで洗濯が完了する人がキャリアアップに使えたはずの時間です。

親族も貧乏ならば、助けを求められる人がほぼ存在しないことになります。子供は努力出来る環境からしてじわじわと奪われています。

自己責任の範囲

お金があるのに有意義に使わず自滅する人は自己責任でしょう。でもその子供は?

努力できる環境にいたのに努力しなかった人は自己責任でしょう。しかし、努力できる環境がそもそもなかった人は?

貧困は連鎖します。そこから子供を脱出させることができるのは、教育の平等です。

教育はある程度、お金によって左右されてしまいます。

貧困世帯にお金をあげることは、決して「自己責任で貧しくなった人間に我々の取り分を奪われた」とかそういう問題ではないのです。

春瀬由衣

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