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幸福とはなんなのか?

HARU

個人ブログと、生活の色々な事を考えなくてはならなかったので、しばらく読書ができていなかった。
最近になって少し余裕ができたので、ブログには全く触れず、この2週間はひたすら読書していたのだけれど、ふと思った事があった。

「最近、ドーパミンもセロトニンも出てない…幸福を感じたいな

最近、達成感や幸福感を得られてない。脳が気持ち良くなっていない。
毎日運動したり睡眠は十分に取っている。家族とも仲良しだ。

どうして幸福感を得られないのだろう?

今回は「幸せとはなんなのか?」をテーマに脳内をアウトプットしたいと思う。


幸福を感じるための神経伝達物質

まずはドーパミンやらなんやらがなんなのか知らんのやが。と言う人のためにざっくり説明しておく。

ドーパミンは、「何かを達成した時に得られる報酬を期待して出る物質」
例えば、1週間ダイエットしたらチートデイとして好きなだけジャンクフードを食べられるとか、ご褒美をもらえる予感を得た時に脳に分泌される物質の事。
「もう少し!あと少しでご褒美ガァあっ!!うひゃぁ!」的な感情はこれ。

セロトニンは、幸せを感じる物質。
甘いものを食べた時とか、好きな音楽を聴いている時などに出るらしい。素敵な異性の画像を見たりしても結構出るのだとか。まぁわかる。
幸せだと感じて、満たされた感覚を得ている時は間違いなくセロトニンが出ている。もう、ブッシャブシャ出ている。

オキシトシンは他人と触れ合うことや、互いに良いコミュニケーションを取る時、取ろうとしている時に出る物質。母性にも深く関わっていて、愛情ホルモンなどと言われている。優しい気持ちになれる物質。素敵だ。
ストレスを軽減したり、記憶力を増強したりする効果もあるそうだ。

他にもまだあるが、これらの神経伝達物質が脳内に分泌されると人は「幸福感」を得ることができる。セロトニンはドーパミンの過剰分泌(暴走)を抑制する働きもあるらしく、幸福感とはこういった神経伝達物質のバランスなんだと考えられる。

どれが欠けてもよろしくない。こういった脳で分泌される多くの物質が体を動かすことで分泌されると最近では広く知られている。有酸素運動や筋トレは最強だ。
なんかわからんくても、やっておいて損はない。

幸福感と古代ローマの怠惰な生き方の関係

古代ローマの富裕層は召使いがいないと何もできないほど怠惰な暮らしをしていた。物を食べるために食べたものを吐き戻したり、1日で数百万円分もの食料を貪る毎日。他人の名前を覚えることができず、名前を覚えて耳打ちするだけの奴隷がいたり、自分で歩くことをせず、奴隷に担がせて移動するなど、生きていると言えるのか不思議な生活を送っていた。(人生全て介護状態)

古代ローマの富裕層達の脳内の神経伝達物質達はどうなっていたんだろうか?欲しいものは手に入り、最高級の食材を毎晩食べ、異性との交流なども十分。そういったやりたい放題の生活の中で幸福だったのだろうか?ドーパミンとかどうなっていたのだろうか?他人に対しての愛情はどうだったのか?

そういった生活が当たり前になると、幸せも何もなかったのではないだろうか。
何に対しても、誰に対しても「感謝」することがなく、彼らにとって全ては当然で、毎日がその繰り返しだったとしたら、たった一人で幸福の幻を見ているだけの人生だったのではないだろうか?

今の自分はどうか?

歴史に対しての考えを綴るのはここらにしておいて、自分に置き換えて「今、幸せか?」を自分に問うてみる。

答えは間違いなく「幸福」である。

愛すべき家族に恵まれて、幸せ以外に何があるというのか。
文頭で書いた神経伝達物質が出ていない事がなんだというのか?そんなものいつもの倍筋トレでもして搾り出せばいい。

毎日の繰り返される平穏を「退屈」と感じ、手の中にあるはずの幸福を当たり前だと思っている。今の私はまさしくローマの怠惰な人々と一緒だ。
幸福感をもっと得たいという欲を満たすことに意識が向いてしまっている。

明日の朝、きっと何事もなく目が覚めて、エアロバイクに乗って汗をかき、シャワーに入っている間に妻が起きて朝食の支度をしてくれる。

そしてシャワー上がりにヨギボーの上で読書をしている私に、寝癖で頭が爆発した息子が寝ぼけたままダイブしてくる毎日。

幸せじゃないか。

裕福では決してないが、私は十分に恵まれている。

今の世の中には便利なものや、贅沢なものが溢れかえっている。
他人とのつながりも簡単にできる。その中で感謝の気持ちはどんどん薄れていってしまっているように感じる。

私にとって幸せとは、誰かを満たし、満たされる事であり、愛する人たちに感謝することで得ることができる尊いものである。

これからも私は家族を愛し、感謝し続けて生きていきたい。

終わりに

私はローマのストア派哲学が好きだ。
セネカやマルクス・アウレーリウスや、エピクテトスの哲学がそうだ。
特に私は、セネカの「人生の短さについて」が、私のねじ曲がった人格を良い方向に曲げ直してくれた気がしている。

足るを知ることで「欲」を捨て、富や権力がなくとも幸福な人生を送ることができるという、日本の仏教と感覚的にとても近い思想なのではないかと私は考えている。私はブッダも好きだ。

私はこの年になるまで、まるで逆の思想を持っていて、得られる物は得るし、欲しいものを手に入れることが人生の幸福だと思っていた。

利己的で、欲深く、なんともまぁ・・貧しい思想だったのだろうか。引くわ。
死ぬまでに気づけて良かったと、心の底から思っている。

人生100年時代、これからの人生はまだ半分以上残っているので、もう少し、自分にとって、自分達家族にとっての幸せについて、考えてみようと思う。

ではまた。

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HARU
言葉を文字に。 文章や本が好きな方々と繋がりたい。 My blog ⇨ https://haru-san.blog