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『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント 第12回  第九章 自由と連帯の交差点

第九章 自由と連帯の交差点 ~マネジメントが紡ぐ人間の誇り



<本章の内容>
この章では、自由と連帯の関係性と、その中でのマネジメントの役割を探求しています。自由と連帯のバランスを取り戻すための具体的なアプローチを提示しています。


「かくてアテナイは強大になった。圧制下にあったときは、独裁者のために働くのだというので、故意に卑怯な振舞いをしていたのであるが、自由になってからは、各人がそれぞれ自分自身のために働く意欲を燃やしたことが明らかだからである」

(ヘロドトス『歴史』)

ここまで会社、労働、組織、資本、そしてマネジメントと正義の関係について、普段私たちが見落としている見えないものを把握し、均衡ある全体像を持つことを目的としてさまざまな角度から考察を加えてきました。

対象はいずれも人間が概念として把握しているものであり、明確な形はありません。私たちが見ている映像は、魚のように直線が曲線に見えていたり、鳥のように目の前のガラスが見えなくなっているかもしれない。そんな疑問から、マネジメントの中心であるこれらの概念をもう一度点検し、失われたマネジメントの役割を再定義しようと試みてきました。

人間の行動は、見えているものに対応しようとします。もし、これらの概念が歪んで見えていたら、私たちのマネジメントは間違ったものになります。

富の集中や格差がなぜこれほど広がったのか。テキサス州の1.5倍の森林がなぜ毎年消滅しているのか。企業の不正や不祥事がなぜ後を絶たないのか。なぜ社内でハラスメントが繰り返されるのか。これらはすべて人間の行動の結果です。原因はさまざまな要素が絡み合っており、一つに絞ることはできません。しかし、そこには共通する重要な理由を見つけることができます。それは「社会の市場化」です。

21世紀に生きる私たちは、多くのことを市場の決定に委ねて生きています。損か得かという効用の基準、短時間で成果を上げる効率の基準、勝者か敗者かという選別の基準。市場はこれらの基準を用いて人間の行動を決定づけています。対等な個人の自由な取引を基本原理とする市場社会では、勝者は能力があり、敗者は能力がないと見なされます。能力主義の価値観が社会に浸透していく中で、市場の選別や格差を不公正と感じる人々が増え、それが深刻な社会の分断を生み出しています。

なぜ市場の仕組みはこのように社会の隅々に浸透していったのでしょうか。市場社会の始まりは、最初の経済学者といわれるアダム・スミスが市場の機能を「(神の)見えざる手」と表現した18世紀後半、イギリスで産業革命が始まったころに遡ることができます。その後、革命や戦争、深刻な経済危機を経て、産業の発展とともに市場経済は拡大し、1990年前後の冷戦の終結によって一気に世界に拡散しました。その背中を押したのが、グローバリゼーションと革命的な情報通信技術であるインターネットの登場でした。

息苦しい社会主義計画経済から自由な資本主義市場経済へ。世界の人々がこれほど市場経済に魅了されたのは、スミスの言う「私益の追求」を市場が奨励し、市場の自由が経済を発展させることを、ベルリンの壁の崩壊によって確信したからです。しかし、スミスは私益の追求と並んで、もう一つ重要な概念を提起していました。それは「他者との適合性」です。

「他者との適合性」が意味するのは、人間は他者の言動に共感したり、否定の感情を抱いたりすることによって、適切な行動の基準を自らの中に形成していくということです。スミスはこれを社会的動物である人間の本能と捉え、調和ある社会を創り出す根幹の要素と考えました。

私益の追求だけでは社会は歪み、分断し、他者との適合性だけでは創造のエネルギーが失われ、社会は停滞する。このどちらを欠いても人間社会は発展を持続することができない。それがスミスの考えたことでした。

しかし、この2つの要素は、放っておけば自然に均衡するものではありません。私益の追求は市場の力で勝者と敗者を選別し、勝者への不信や嫌悪が危険な全体主義を台頭させる。何もしなければ、両者は対立し、社会は分離していくのです。

両者の調和を生み出すのが「正義(Justice)」です。基本的自由を保障しつつ、他者との関係の均衡点(Just)を見出し、差異や格差を恵まれない立場の人々の状況の改善に活かす。正義の物差しが、私益の追求と他者との適合性を均衡させ、両者を促進するのです。その物差しを見つけるために必要なのが、人々との交流とコミュニケーションです。

かつてローマ時代の「フォルム(Forum)」は、ラテン語で「公共の広場」を意味し、人々が集まり、物資を交換し、意見を述べ合う場所でした。物資の交換に使われたのが貨幣であり、意見や情報の交換に使われたのが言語です。人間社会が発展したのは、人々の交流を促進する貨幣と言語という道具を手にしたからでした。ローマ時代の「公共の広場」は、後に「フォーラム(Forum、公開討論場)」と「マーケット(Market、市場)」に分離していきます。

人間社会は、フォーラムとマーケットという2つの広場を内包しています。市場化した社会では、言語のフォーラムが片隅に追いやられ、貨幣のマーケットが拡大して社会と一体化していきます。現代社会は、スミスの思考した人間の2つの本能のバランスを大きく喪失してしまいました。

両者のバランスを回復するヒントを与えてくれるのが、ジョン・ロールズの「正義の二原理」です。

全員に対等に基本的自由を保障し、差異や格差は恵まれない人々の利益を導くために活かす。先に基本的自由があり、次に全体の利益がある。

この原理をマネジメントに当てはめてもう少し具体的に考えてみましょう。

多くの経営者から、「うちの社員は主体性が足りない」、「もっと挑戦して欲しい」、「もっと創造的であってほしい」という声を聞きます。しかし、自由には、判断の拠り所となる基準や情報が必要です。自由がやみくもに否定されないように、予めルールや制度を整えて安心を確保しておかなければなりません。個人が自由でありながら、組織として成果を上げるには、それぞれの担う役割が明確でなければなりません。

社員に主体性や挑戦を求める多くの会社は、自由を支える「普遍的な基盤」が整っていないのです。その状況では、社員は指示や命令なしには怖くて動けなくなります。それは、治安が悪く、情報が開示されない無法国家に外国企業が投資しようとしないのとまったく同じです。

人事制度や職務権限など、制度や規程はこの普遍的な基盤を構成するものですが、多くの企業はそうした制度や規程を社員を縛り、秩序を維持するために使おうとします。

人事制度は会社と社員、社員同士の間の公正を担保するためのものです。役割や責任があいまいで、幹部の気分や好き嫌いで給与が変わるようでは、誰もその会社を信用しなくなるでしょう。職務権限規程も、誰にどの権限を付与するかを定めるのではなく、承認を要する事項を明示することが目的です。つまり、基本的に社員は自由であり、自分で判断して行動してよいが、これだけは許可を取ってから行うように、という「許可を要する事項」を定めるのが職務権限規程の本質なのですが、多くの会社では、権限を与えるか与えないかという議論に向かいがちです。

大会社に義務付けられている内部統制も、株主の利益を守るために執行業務を統制するという解釈が一般的ですが、それ以上に社員の安心を確保し、自由に活動してもらうための指針を示す効果の方が実は重要なのです。

社長であれ、部長であれ、新入社員であれ、みな同じように基本的自由を保障された人間です。その自由を実現するために、ルールや制度が存在します。自分が自由だと思えれば、人は指示や命令がなくても自ら判断し、リスクを予測して行動します。これが組織に働く遠心力、すなわち発展する力です。

しかし、自由を解放するだけでは社会は成立しません。人類を地球を支配するほどの強力な存在に押し上げたのは組織を形成する能力でした。組織は分業によって成立します。一人ひとりが強みを持ち寄って役割を果たし、個々の仕事を孤立させずに他者とつないで流していく。それが分業の仕組みです。会社は、バラバラな個人の力ではなく、個人の力を結集した組織の力によって会社となります。特定の個人がいなくなっても人が入れ替わって航海を続ける「テセウスの船」であることによって、会社は知見を蓄積し、価値を熟成させて未来に受け継いでいくことができるのです。

人々の連帯を創り出すのは、集団の目的、理念、価値観、規範、ルール、制度、そして情報です。これらが「普遍的な重なり」となって人々に共有されることで、自由な人々の連帯が可能になります。普遍的な重なりは自由を制約するのではなく、自由の土台となり、個人が自ら判断し行動するための指針となります。この普遍的な重なりは、「他者との適合性」という人間の本能によって作り出され、正義(Justice)によって支えられているのです。

普遍的な重なり、自由と連帯(筆者作成)

ようやく、私たちは「マネジメントとは何か」を定義できる地点にたどり着きました。

人間の誇りは、誰にも支配されず、他者とつながり、自分の強みが誰かに貢献していると感じることから生まれます。つながりと貢献の範囲は、周囲の身近な人々から、地球の裏側の見知らぬ人々、数百年後の世界に生きる人々、そして人間以外の自然環境までさまざまです。小さな世界であれ、大きな世界であれ、他者の存在を感じ、他者とつながり、自分にできる役割を担うことで、人は生きる誇りを感じることができるのです。

自由であるとは、自分で考え判断することです。与えられた情報や他者の意見をそのまま鵜呑みにするのは、他者の人生を生きるに等しく、自由を放棄することを意味します。アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、自分で判断をせずただナチス幹部の命令に従って殺人を重ねたアイヒマンの行為を「悪の凡庸さ」と表現しました。ゲーテは、そのことに気づかない人々のことを「最良の奴隷は自分を自由だと思っている」と辛辣に批判しました。

市場の結論にただ従う行為は「悪の凡庸さ」と何ら変わりありません。人間として自由に誇りを持って生きたいなら、市場に持ち込めない大事な価値を視界に捉え、自らの頭で考えて判断をしなければなりません。そして、公正さという基準によって人々の信頼を保ち、社会の連帯を支えていかなければなりません。

マネジメントは、この大事な価値判断を担う仕事であり、自由と連帯の交差点に立って人間の誇りを紡ぎ出す仕事なのです。

★ 希望のマネジメント

第10条 「自由と連帯の交差点に立つ」

<本章のまとめ>

  • 自由を奨励し、経済を拡大させる市場の機能に人々は魅了された。そして冷戦の終結とともに市場経済が世界に広がった。

  • 市場経済は、能力主義や格差の拡大によって社会の分断を加速させた。

  • アダム・スミスは「私益の追求」だけでなく「他者との適合性」が重要と考えていた。

  • ジョン・ロールズの「正義の二原理」が、両者を共存させる鍵である。

  • マネジメントは、自由と連帯のバランスを取らなければならない。正義に基礎を置く「普遍的な重なり」が連帯を創り出す。

  • 人間の誇りは自由と他者とのつながりから生まれる。それを繋ぐのがマネジメントである。

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