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【こんな世界は、もうたくさんだ】

物事も人も多面体で、誰がどの角度から見るかで捉え方は大きく変わる。どこを切り取り、どこに焦点を当てたのか、何が事実で、何が虚像か、本当のところなんて、当人にしか分からない。だからこそ、時々思う。公にされていない事実の中に真実が隠されていたとしたら、「正しいもの」として表に出たものが「誤り」だったとしたら、一側面だけを見て感情任せに吐いた言葉は、一体どこに向かうのだろう、と。

映画『流浪の月』を、劇場で鑑賞した。目眩を覚えるほど感情が泡立ち、鑑賞後、すぐに立ち上がることができなかった。数日が経った現在も、感情のさざ波はしつこく私の内壁を揺さぶり続けている。

連日与えられる痛みに、いちいち大声を上げて怒ったり悲しんだり泣いたりするより、心を麻痺させてやり過ごすほうが、いくらか楽なのだ。そうやって生き延びた人を「強か」だと言う人もいるが、それは違う。それしか、選択肢がなかった。ただそれだけの話だ。

痛みも傷もその人個人のものだから、他人のそれを完全に理解することはできない。映画の主人公である文(松坂桃李)と更紗(広瀬すず)にも、文だけの、更紗だけの痛みがあった。でも、それを踏まえた上で寄り添いあえる誰かがいれば、それだけで救われる心があり、守れる命がある。そう信じなければ、とてもじゃないが生きていけない。きれいごとを何かひとつ手元に置いておかなければ、腐臭に囲い込まれたが最後、息継ぎさえもできなくなる。そういう世界に閉じ込められた二人を見ていたら、感情の塊と過去の記憶が、喉元まで込み上げてきた。

こんな世界は、もうたくさんだ。

そんな気持ちを、タイトルに込めた。人によっては「長い」と思われるだろうが、一文字も削れなかった。

『流浪の月』~体も、心も、そのすべては持ち主だけのものなのに、そんな当たり前の尊厳が簡単に踏みにじられる世界で、私たちは生きている

大袈裟な、と思うだろうか。世界はそんなに冷たくないよ、と。もしもあなたがそう思えるのなら、今いる場所を、どうか大事にしてほしい。こんな感覚を「わかる」と感じる人が、少ないに越したことはない。ただし、「わからない」からといって否定はしないでほしい。世界がこんなふうに見える場所に生み落とされ、そこから必死に這い出したのちも同じような苦しみを幾度となくと味わいながら、地べたを這いずり回って生きている人間は、たしかにいるのだから。

映画や小説で描かれる世界と同じ状況を生きる人がいて、どちらかといえば私はそちら側の人間で、外側から見て「ひどいね」と呟く余裕もなく、「あぁ、こうだった。わかる」と頷いては、痣を押したときのような鈍い痛みを味わっている。創作と現実がどこまでも地続きであることに、容赦なく打ちのめされる。そして、ほんの少し、救われる。


人は、自分の見たいようにしか物事を見ない。

映画レビューに記した、冒頭の一文だ。責めるような口調で書いたが、私だって例外じゃない。私は私の見たいように物事を見ているし、私の信じたいものを信じて生きている。だが、本作を通して、その価値観を根底から揺さぶられた。

何を信じるも個人の自由だ。だが、その前に「考える」ことを忘れてはいけないのだと、改めて思い知らされた。あらゆる角度から物事を見据え、考え抜く。これでもかというほどに、しつこく、しつこく。間違えることを恐れすぎる必要はない。ただし、思い込みの善意と被り物の正義が他者に与える苦痛の大きさは、決して忘れずにいたい。誰のことも傷つけずに生きるなんて不可能だ。でも、傷つけないために最善を尽くすことはできる。その過程をすっ飛ばしていいわけがないのだ。私たちは、誰しも、傷つけられたくなんかないのだから。


この作品に出会えてよかった。日を追うごとに、私の中に文と更紗が息づいているのを感じる。彼らの存在が、彼らの言葉が、私の新たな血肉となった。

「人として当たり前の尊厳が守られる世界」が、恵まれた人たちだけの特権ではなく、誰しもが手に入れられる世の中になればいい。奪われ、踏みにじられた側が、「あなたの落ち度だ」と後ろ指をさされることのない世界になればいい。願うだけじゃ叶わないと人は言うけれど、願いが存在しない行為は、芯の部分が空洞になりがちだ。だから、私は、願うことをやめない。

少女だった更紗が泣きながら訴えた、小さな小さな「やめて」が、世界中に届けばいい。あの声が届かないなんて、あの声が無視される世界なんて、私は嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。

こんな世界は、もうたくさんだ。

そう思って眠れない夜を明かす人が、どうか、ひとりでも減りますように。やさしい月の光が、誰かの心を癒やしますように。抉られた傷口が、夜風で乾きますように。私はそう願いたいし、そう願いながら、文章を書いていたい。


 


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