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鯨とわたし①

『この扉を開けてごらん。』

そう言われて重い鉄製の扉を開けると、そこには海が広がっていた。波瑠(はる)はわけが分からなかった。何故、父の書斎の奥にある扉が海に繋がっているのだろう。

我が家は20階建てマンションの8階だ。しかも都会のど真ん中。それなのに、どうして?

『お父さん、これ何?どうなってんの?』

夢を見ているのかと思った。こっそり太ももをつねったりもしてみた。普通に痛いだけだったし、目が覚めることもなかった。

父は私の問いには答えてくれず、黙ってその海に向かって歩き出した。私もその後に続いた。砂浜を前後になってゆっくりと歩く。砂の感触が、少し違う。私が知っている砂浜より、だいぶ硬い。さくさく、ではなくザリザリ、という感じ。

『どう思う?』

突然そう問われて、私は砂浜から顔を上げた。どうって、何が?父の質問や発言はいつも突拍子がない。己の中でぐるぐると掻き混ぜて咀嚼してから話す自分に対して、父は真反対に思いつきを思いつきのまま言葉にする。

なんのことか分からない様子の娘の困惑顔を見て、ようやく父は主語が抜けていることに気付いたらしい。

『この海を、どう思う?』

海を?

改めて海に目を凝らした。誰も泳いでいない。波が寄せては返すその様は同じはずなのに、何だろう……何かが違う。そして気付いた。

波が、重たい。

よくよく見てみると、波が濁っている。透明感がない。粘度がありそうなその波は、重たいが故に押し寄せるリズムが通常の海より少し遅い。

何なんだろう、これは。これは、海じゃないの?

『おかしいよ。この海、すごく、すごく汚れてる。』

ゴミが落ちているとか、そういうレベルの話じゃない。いつだかニュースでやっていた、石油タンカー沈没後の油まみれのタールのような海。油に翼を絡め取られて、羽ばたくことも出来ず真っ黒な海に浮かんでいた海猫。当時は酷く衝撃を受けたくせに、すっかり忘れていた記憶の断片がむくりと頭をもたげた。あの時ブラウン管を通して見た光景よりは、ビジュアル的にはマシなはずなのに。何故だか、やたらに胸騒ぎがした。

『匂いには気付いたかい?』

『匂い?』

『潮の香りがしないだろう?』

言われてみれば確かに、しなかった。この匂いは、海の匂いじゃない。この匂いは……。

『プール?プールの塩素の匂い?』

何故気付かなかったのだろう。この違和感に。鼻をくすぐるあの潮の香りが大好きなのに。家族で海に行く度に、胸いっぱいに潮風を吸い込もうと深呼吸する私を見て、父さんはよく目を細めていた。突拍子もなく目の前に現れた信じられない光景に高まっていた胸が、ざわざわと嫌な音を立て始めた。


『この海はなんなの?』

父さんは、じっと海を見ている。私は重ねて、もう一度聞き直した。


『此処は何処で、この世界はなんなの?』






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私には世界を変える力はない。でも、書くことは出来る。
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書くことは呼吸をすること。ライター。エッセイスト。 *磨け感情解像度コンテスト『佳作』入賞。 * Night Songs コンテストMuse『Muse賞(グランプリ)』受賞。 エッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。 アイコンのブックカバーは心象風景Koji。