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【今日この日まで命を繋いできた事実を、どうか、否定しないでほしい】~メンタリストDaiGo氏の差別発言により、希死念慮と格闘したサバイバーのひとりとして。

日々さまざまな人たちが、自身の価値観を元に多種多様な発言をしている。「個人の感性」では済ませられない発言を目にするたび、ぐらりと眩暈がする。Twitterのタイムラインに流れてくる情報は、振り幅があまりにも大きい。正しいもの、有益なもの、心休まるもの、笑顔になれるもの、美しいもの。それらに混ざって、この世の絶望を煮詰めたような台詞や主張、事件などが容赦なく流れ込んでくる。

メンタリストDaiGo氏による、悪辣な差別発言をTwitterで見かけた。主にホームレスや生活保護受給者へのヘイトをまき散らした内容で、具体的に記すのが憚れるほど酷いものだった。端的に言って、心が砕けた。

私は、両親から酷く凄惨な虐待を受けて育った。その環境からどうにか逃げ遂せた先に、平安なんてものは欠片も存在しなかった。血反吐を吐きながら働き、それだけではどうにもならず、ときに自分という人間の尊厳を捨てながら必死の思いで生きてきた。

光熱費が払えず、公園で髪を洗っていた夜。声をかけてきたのは、スーツを着た一見まともそうな男性だった。その男性は、私にこう言った。

「いくら?」

父親と同じ年代の男性に値段を聞かれた私は、咄嗟に頭のなかで光熱費の滞納料金と数日の食費をはじき出していた。映画や物語の世界のように、颯爽と救い出してくれる人なんて現実にはいなかった。実質的な助けを得るためには、それなりの等価交換が求められた。そして、当時の私は、差し出せるものを多くは持ち合わせていなかった。

正社員でフルタイム。夜勤もこなしていた私の給料の手取りは10万円前後だった。サービス残業で副業をする暇もなく、そもそも時代的に副業そのものが認められておらず、知識も学も逃げ場所もない中卒の私は、1日を生き延びることが闘いだった。働く意思がなかったわけでも、現状を変えるための努力を怠っていたわけでもない。ただ圧倒的に知識が足りず、虐げられ続けた弊害として大人という生き物をはなから信用できず、頼るべきところに頼るという選択肢が私にはなかった。

公園で寝泊まりをしていた私は、きっと臭かっただろう。髪を毎日洗える人は、そのぶんの水道とガス代を払える人なのだ。それさえも払えない人間は、世の中に存在する。

生活保護を受給したいと何度も思った。でも、扶養照会が怖くて踏みきれなかった。私が生活保護を受けたことがないのは、たったそれだけの理由だ。その足枷さえなければ、20代の頃も今現在も、その選択肢を視野に入れていただろう。

先日、障害認定日から20年越しで障害年金を受給できることが決まった。障害年金も、国の税金で賄われている。生活保護受給者のそれと、出所は同じだ。生活保護と障害年金は違うと、そう言われるかもしれない。たしかに制度の仕組みや受給に関する条件は違う。どういう理由で支給されるかも違うし、そこを「同じ」と言ってしまうのは語弊がある。でも私は、DaiGo氏の発言を知り、自分でも驚くほど打ちのめされた。元々大きなトラブルが立て続けに起こり、弱っていた時期であったことも要因のひとつではある。それは私個人の問題であり、発信者のあずかり知らぬ領域であろう。ただ、そういう側面があるのだ。「発信する」という行為には、そういう残酷な側面がある。あと一歩のところで踏みとどまっている人間の背中を押すのは、何も身近な人間の発言だけではない。 

人間扱いされない。「要らない」「死んだほうがいい」と言われる。
そういう経験を持つ人間が、ふいにあの発言を目にした場合、どういう思考回路に陥るのか。「メンタリスト」とは、「メンタル」の「スペシャリスト」ではなかったのか。だったら、わかるだろう。希死念慮に襲われ、衝動的な行動に出る人間がいてもおかしくないほどの発言であるということくらい。私は別にカウンセラーでも心理士でもメンタリストでもない。ろくでもない家に生まれた、ただの普通の人間だ。でも、そんな私にだって、それくらいのことはわかる。

どんな家庭に産まれるかは、人生ガチャみたいなものだ。引きが悪ければ劣悪な環境が待ち構えている。どうにかそこから逃げたとして、その後も過去はついて回る。逃げた先の貧困生活、後遺症による苦しみ、避けようのない偏見。虐待は逃げたら終わりじゃない。ずっとそう言ってきたけれど、むしろ、「逃げきる」なんて不可能なのだ。産み落とされた。生き延びた。その後の人生を好転させられるかどうかが、本人の努力だけで決まるのならよかった。でも、現実はそうじゃない。

当事者の声より、現場の悲痛な叫びより、ああいう人たちの声が広く届く世の中を、私は「良し」としない。知名度の高い人間が偏見とヘイトにまみれた暴言を吐き散らかした動画の収益は、私が死に物狂いで働いていたあの頃の月収をはるかに凌ぐのだろう。ここで書き続けてきた有料マガジンの収益の一部を、数回に渡り虐待防止運動の団体に寄付している。けれど、それだって雀の涙だ。必死の思いで紡いできた文章何万字より、彼が謝罪動画で稼いだ金額のほうが圧倒的に多いのだろう。そして、それらを支援団体に寄付する姿は、呆気なく美談へと塗り替えられていく。

議論のきっかけになったんだから、よかった。
莫大な金額を寄付したんだから、よかった。
これを機に支援団体に寄付が集まったんだから、よかった。

何が「よかった」んだ。人が人を傷つけた事象において、容易く「よかった」という言葉を使わないでくれ。あの発言に背中を押された人間がひとりもいなかったなんて、何を根拠に言いきれるんだ。


私の声は、広くは届かない。それでも、それでも、と思い続け、書き続けてきた。私だけじゃない。多くの当事者の声は、誰かの強烈なヘイトに簡単に掻き消される。

あの夜、仙台の公園で私に「いくら?」と聞いたあの男。あの男と同じ感覚で扱われた回数を、もはや覚えていない。そもそも、父親がそういう人間だった。
私みたいな人間は、ときに「人間」としてカウントされない。DaiGo氏が、生活困窮者を指して「いないほうがいい」と言ったように。そう思うだけに留まらず、公然と口に出し、一時は「個人の感想」だとして謝罪さえ拒んだように。

「鋭いことを言う自分、かっこいい」と勘違いしている人をたまに見かけるが、その発言で人が死ぬ可能性を、もっと本気で考えたほうがいい。そして、それさえも考えられないのであれば、発信活動から身を引いてほしいと私個人は思う。「思う」としか言えない。私はただの人であり、誰かの行動を制限する権利など持ち合わせていないのだから。


今まで公に何かを批判するとき、個人の感情を極限まで削ぎ落して書くよう努めてきた。そうしなければ、尚更「届かない」から。俯瞰して見る冷静さのない文章は、「物申す」には危うい側面を多分に孕んでいる。でも、今回の記事は、冷静とは言い難い。もちろん、これでも全力でブレーキを踏んで書いている。しかし、いつも思う。どうしていつだって、傷つけられた側が理性的であることを求められるのだろう。アクセル全開の暴言に踏みつけられた側が、ブレーキを踏んで理性を持って反論する。その姿を「強い」「美しい」と言われることもあるけれど、すきでそうしているわけじゃない。ただただ、必死なだけだ。本当は私だって、泣いて怒鳴り散らしたい。


きれいにまとめられない。きれいにまとめたくないんだ。
人は人を言葉で殺せる。
抉られる言葉に触れるのも、それに憤るのも、声を上げ続けることにも、少し疲れた。いろんなことに、私は疲れてしまった。
ただ、意地でこの世にしがみついている。40年間、闘ってきた。その意地だけで、こうして足掻き続けている。

今後どんな生活になろうとも、どんな環境に身を置こうとも、私は私の命の選択を他人に預けない。誰かが「要らない」と言ったとしても、それを決めるのは私だ。

生きるも死ぬも、私が自分で決める。

私は踏みとどまれた。その結果論だけを見る人は、DaiGo氏と根本は同じであろうと思う。彼と同じ思想を持つ人は少なくない。彼だけを非難すれば解決する問題でもない。ただ、あれだけの発信力を持った人があの発言をしたことにより生まれた影響を、度外視はできない。差別を助長した先に何が起きるのか。そんなの、言葉にするまでもないだろう。

言葉は、伝えるためにあるのではないのか。
人を選別して虐げるために扱うものを、私は「言葉」とは認めない。

何度でも言う。人が人の背中を押すのは、容易い。
だからこそ、知名度など関係なしにお願いしたい。
簡単に、人に「要らない」と言わないでほしい。「死んだほうがいい」「いないほうがいい」なんて言わないでほしい。その人が生きてきた道のりは、その人にしか知り得ない。今日この日まで命を繋いできた事実を、どうか、否定しないでほしい。

「死んだほうがいい人間」なんて、この世にいない。
どんな人でも、頑張っているとか、努力量とか、実績とか関係なく、みんな生きていていい。


命は、他人に選別されるようなものじゃない。


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