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想像力と空気のはなし

不登校だった頃のことと最近思うこと。

想像力が豊かな人が好きだ。面白い発想とかグレートな世界観とかの想像力もめちゃくちゃ尊敬するけど、そういうのではくて。


想像力って一対一の人間関係においてものすごく重要だと思うようになった。中学生の頃私は不登校になったわけだけれど、小学校の六年間はどちらかといえば優等生だったし皆勤賞も何度もとっていたので自分がまさか学校に行かなくなる日が来るとは思ってなかった。というか、そんな漫画の中みたいなこと本気で現実味を持って想像できる十代なんてたぶんいないのだろう。自分のことなのに現実味がなくて、「不登校児ってこういうかんじでいいのかな。」とぼんやり思ってた節がある。

私の数少ない当時の友人たちとは不登校中も連絡を取り合っていたのでなんとなく私がどんな状態なのかわかっていたのかもしれないけれど、それ以外のクラスメイト達にとってはドラマの中の感じだったのだろう。毎日届く明日の時間割プリントにはご丁寧に書いた人からのメッセージ欄というのがあったのだが、その欄にひとこと「立ち向かってみれば。」と書かれていた時に、私はそれを察した。かわいそうな不登校のクラスメイトを元気づけて学校に来させるヒロインの気持ちになっちゃったんだろうな。脳内だけで済ませてほしかったな、と思いながらプリントは捨てた。

彼女はきっと、別に私を傷つけたかったわけじゃないのだと思う。不登校のクラスメイトに送るメッセージを考えた結果のやさしさであり、正しいことから外れた私を救おうとして書いたのだろう。まあ、特別学校に戻ってきてほしいとも思っていなかったのだ。


想像力って、ないものを生み出す力ではなく、自分とは違う可能性を考えて判断することだと思う。たとえば、弱くてかわいそうな不登校児に見えている彼女は「本当は学校に行きたいけど勇気が出ない」のではなく、「毎日勇気を振り絞って学校に来ていたけれど自分の意志でいかないという選択をした」のかもしれない、みたいなね。

優しい人が好きっていうと「自分にとって都合がいいことをいう人」がすきなのだという人がいるけれど、そうじゃない。優しいって難しいのだ。優しいことしようとすると結局自己満足で、優しいことをしようとするんじゃなくて、目の前の人に幸せでいてほしいとかこころよくいてほしいという気持ちがないと土台無理なのだと思う。だから、そのやさしさの矢印がすごく大きかったりいろんな方向に拡がっていく人は素敵なのだ。


そして、人は変わっていくのだ。私に「立ち向かってみれば。」と書いた彼女も、不登校になる直前は嫌な空気を察して無視してきていたのに試験を受けるために別教室に登校した日になぜかやってきて「はるのー久しぶり!!なんかかわいくなった!?」と言った彼女も、もうすぐ二十歳でどこかしらで誰かしらときっと楽しく生きているのだろう。そしてきっと今後の人生で彼女らと交わることもないだろう。来世で会えたら、ともだちになれたりするだろうかと考えた。でもまあ、わたしはそこまで友達になりたいとは今は思わないよ。なぜなら私もあのころと変わって、友達がいないと人間として間違っているみたいな強迫観念はなくなって、自分が好きな人といたいと思うようになったから。


ここまで書いておいてなんだけれど、これは全部私の主観だから本当とは言えないのかもしれない。十五歳のころ、あの狭い教室の中できっと誰もが間違えないように必死だったのだから。私はたくさん間違えて結果として教室が苦痛になった。だから彼女たちがひどい人間だったとも思わない。実際に暴力やいたずらなどのいじめはないし、一部の女子に無視されるとか悪口を言われるとかは、まあある話だ。私も愚痴のつもりで陰口をたたいてしまったことは多分にある。そういう年代なのかもしれない。小さい箱の中にぎゅうぎゅうに詰められて自分の形を保つために、周りを崩そうとしてしまったのかもしれない。あの学校は廊下の日当たりが悪くていつも真っ暗だった。あそこを一人で歩くと、無性に怖いので走って通り抜けた。隣のクラスの子に、どうしてはるのが不登校なのかわからないってみんな言ってる、と言われた。たぶんそれくらい、あいまいなものだったんだろう。真綿で首を締めるような?

ただ、自分が傷ついたことだけは自分が知っている。卒業してとっくに会わなくなったクラスメイトがどう思おうと、彼らはどうせ好きな時に私から離れられるのだから。私は、私から離れられないので、結局あのころを経ての私として生きていくしかないのだ。傷ついた人の気持ちがわかるとは言わない。わからないこともいっぱいあるから。でも、想像したいと思うし、私はそういう人に幸せになってほしいと強く思う。それはたぶん自分自身が救われたいからなんだな。うーむ。

話がそれた。人に対しての想像力って、その人の気持ちについて一生懸命考えることで、きもちを理解することってほぼできないからこそその言葉で相手がどう感じるか様々な可能性をシュミレートすることだと私は考える。たとえば、自分がそういう状況になったら、って想像するのが一番簡単ではあるけどそれが難しいこともあるし。じゃあせめて、できるだけ無駄な悲しみを相手に与えないために自分は今から何を伝えたら、なにをしたら、もしくはなにもしないか、を考えることだと思う。


最近さ、SNSでたくさん嫌な言葉をみるでしょ。なんでだろうね。なんで顔を突き合わせてないとあんなに人って凶暴になるんだろうね。顔を見て一生懸命伝えたって伝わらないことだらけでそんなつもりなかったのに傷つけてしまってっていう気持ちを、知らないまま大人になるなんてこと、きっとないのにどうして画面の向こうならどうでもよくなっちゃうんだろうね。


15歳のころ教室で、「いまは私の番なんだな。」って思ったの。この子とこの子がなんとなく私を嫌ってるのがわかってたけど、あれ、この子は普通にしゃべってたはずなのに三日学校を休んでもどってきたら私のことを無視してるなってってなった日に。たぶん、「今私のことみんな嫌いな空気」があったんだろうなと思う。

ね、今Twitterでそういうのいっぱい見ますね。この人には好き勝手なこと言っていい空気、みたいなの。


想像力って、だいじ。



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