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おもしろくないことも書いてみよう。

今日から学校再開で、午後の3時間だけ学校へ行ってきた小学1年生の息子。入学以来、はじめての授業の日だったのだが… 帰ってきてひとこと。

「ぜんぜんおもしろくない」

くらーい顔をしてそう言った。ぼくは思わず笑ってしまったが、彼はほんとうに「おもしろく」なかったみたいだ。

後でいろいろ聞いていると、始業式(2ヶ月近く前)の時は教室の後ろの方の席だったが、そこへ行くと別の人が座っていて、あれ? 自分の席は? となったら前の方の席に変わっていて(ウィルス対策で動かしたんだろう)先生の話はよく聞こえたとか、絵本を読んでもらった時間があってそれだけはよかったとか、いろいろ話していた。

新コロナの対策で、クラスメイトとも距離をとれとか、マスクはずっとしていろとか、いろいろ面倒な(細かい)指示があるから、ぼくがこどもだったらと考えると、たぶん「こんなところ出ていって、ひろいところを走り回ったりしたいな」と思うだろう。たぶん。

大人の自分は、学校が出している指示に対して、「それはおかしい」とか「それは仕方ないね」といったことがわかるが、こどもたちはわからないだろう(とくに小学校低学年のこどもたちには)。言われたらその通りにするしかないだろう。

これから夏になり、マスクによって何か事故が起こらないか、ぼくは心配している。

通学路をひとり黙々と歩いて帰ってくるなら、マスクは外していいとぼくは教える(学校は逆のことを言っている)。暑いよ! なぜなら、ウィルスはひとりでいる時には、誰にもうつらないからだ。──そう話せばいい。

どんな状況でも何が何でもこうしなければならない、というふうに教える(学校に限らず)日本社会は本当に危険だ。本当のことを言うとね、絶対にこうしなきゃならない、ということはない。ないよ。何事も状況によって変わるんだから。新コロナ対策だって、3月の状況と、4月の状況と、いまの状況では変わっている。これからも変わる。

学習にかんして、ぼくは何の心配もしていない。学校にゆかず、何も勉強しないで、中学生くらいになって、ああ、自分はどうするんだ? となった時に、小学校の教科書を買い求めて読んだら、たぶんすごく面白いよ。ぐわーっと入ってくるはず。それでも全然、大丈夫。相変わらず「何年生レベル」とかやってる教育カリキュラムなんか無視していい(しなくてもいいが、してもいい、将来的には関係ない)。

ぼくの経験では、興味をもったものがあったら、わからないことがあってもいいから、とりあえず見たり聞いたり読んだりできることを全部やる方がいい。で、わからないことは後回しにしていい。続けていたら、必ず後から気になってくるから大丈夫。

問題は、その時、そのこどもがその学習を心おきなく実践できるような環境があるかどうかであり、あらかじめ引かれた線路に沿って予定通り歩けるかどうかではない。

ぼくは19歳の時に、文学を書くことをやるらしい大学に入って、最初に、原稿用紙の使い方とかそういうプリントを配ってる教授に、何か話したことがあり、「きみには必要ないんだ、こういう勉強は」と言われたのをすごくよく覚えている。ハッとした。自分が当たり前に思っていることが、全く当たり前でない人もたくさんいるということ。その時のぼくはまだ作品らしいものは何も書いたことがなかったが、本は読んでいたから、"かたち"は知ってたわけだ。でも知らなくてもいい。そんなことは後からどうにでもなる。

心配なのはこどもたちではなく、学校や、学校の先生だ。

危機とか、緊急事態に、こどもたちを助けるアイデアを、その場で出し、即座に検討し、実践できるか、ということで、彼らにはそういった能力がちょっと不足しているような気がして、たいへん心配している。だって、いつも事故が起きてから、対策を練るでしょう(とくに横浜市の教育委員会は「事故後にも対策しない」という話すら聞いており、たいへん心配している)。なぜそうなるか、というと、上から命令されたことをやる、ということに終始しているからではないか。

しかしそんなのに付き合って、ぼくという親も、何とか乗り切ってゆかねばならないことになった。ま、何はどうあれ、殺されないようにしたい。じつはそんなことばっかり考えて生きているのだったりして。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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