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声が照らし出したルーツ

昨年の夏、「なりゆきの作法──道草氏の極私的文学論」という、ぼくのひとり語りのイベントをやった。

吉祥寺美術学院がひらいた夏のイベントの一環として、声をかけてもらって、実現したものだった。

きっかけは、「オトナのための文章教室」を始めてすぐに、石牟礼道子さんが亡くなったので、その「教室」で石牟礼さんの文章を紹介して、朗読した際、ぼくの中に眠っていた故郷・鹿児島のことばの音──とくに石牟礼さんの地元に近い北薩にルーツをもつ母方の祖母の声が蘇ってきたことだった。

ぼくは幼い頃からの吃り(吃音者)で、書かれたものを音読することは何よりも苦手、ずっと逃げてきた。

でも、その自分が逃げてきたことに、じっくり取り組んでみたいという気持ちになっていた。

若い頃──たぶん20代の頃までは、何を読んでも、ぼくの頭の中には、子供の頃、本を読み聞かせてくれた母の声が鳴っていたような気がする。

しかし、その向こう──祖父母の時代から先の(つまりそれより古い時代の)、いわば自分のルーツにはそれほど強い関心を持っていなかった。

ところが、石牟礼さんの書き残した文章を音読することで蘇ってきたことばの「音」によって、ぼくは一気に、この自分という人の、命の、ルーツへの関心に引き込まれたようだった。

「なりゆきの作法」と題した“ひとり語り”のイベントでは、最初の方で、その石牟礼さんの文章を読んで(母方のルーツを少し話して)、それから父の故郷である南薩・頴娃のことばを聴いてもらった(頴娃のことばは再現不可能と思って音源を探して持って行った)。

それにしても、音読により、自分のルーツが照らされるとは…

「声」は(そして「音」は)深い。

と、昨年ぼくはあらためて思い知ったのだった。

その探求の、いま、ぼくは入り口をくぐったところだ。

(つづく)

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