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"懐かしさ"から離れて

いろいろ考えてはみるが、今週もやはり予定は立てず、とりあえず書き始めてみる。

最近は1998年〜99年頃に自分が見たり、聴いたり、触れたりしたことを思い出す機会が立て続けにあり、どうしてかなあ? と不思議に思っている。

朝のページ(毎朝、1ページを書く、というより、ノートに向かい思い浮かぶことばを書き連ねてその日のページを埋める)が影響しているかもしれない。

20年と少し前だ。ぼくは20歳になる前後の時期であり、大学進学のために故郷の鹿児島を離れて大阪に住み始めたばかりだった。

懐かしいなあという気持ちが、しかし、あまりない。なぜか。思い出されることは、記憶の中でブツ切れにはなっていなくて、ずっと続いているように感じているからだ。

"懐かしさ"には、ぼくはあまり関心がないのかもしれない。

切り離されていることは、懐かしく感じられているかもしれない。しかし、そのことにぼくはあまり惹かれていない。もう関係ないような気がしているということかもしれない。

ということは、何十年前のことでも"つながって"いたら懐かしくはないし、1年前のことでも"切り離されて"いたら懐かしいのかもしれない。──というのは、いま思いついた仮説だ。

とはいえ、ほとんどのことは忘れている。ぼくは自分で書いた原稿の内容すら忘れているものがたくさんあるようだ(ということは、『音を聴くひと』の制作を通じて痛感した)。

いつだって、1日、1日があったわけで、いまでも、1日、1日があり、その中を私たちはみな生きている。そんな1日、1日のことなんか覚えていられるはずもなく、だいたい、ボンヤリとした記憶で、「あの頃は…」なんて思っているわけだ。だって、昨夜の晩ご飯が何だったかも忘れていることがあるじゃないか!

しかし、"書く"ことには、そういう1日、1日の、ちいさなこと(?)を、凝縮させる力があり、これは何だろうか、と思う。その力に、ぼくはずっと魅せられており、続けてきたのかもしれない。

そういえば、誰もが、そういう何でもない日に生まれて、何でもない日に死ぬのだ。いや、何でもない日に生まれ、何でもない日に死にたいと思う。

さて、1998年〜99年頃のことを立て続けに思い出しているのは、原点を思い出せ、と自分の奥の方にいる者が言っているんだろう。

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こんなことを書くなんて、書き始める前には想像もしなかった。

(つづく)

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