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萩原治子の「この旅でいきいき」Vol.8

パリと南仏の旅 2015年5月

好きなアーティストたちに近づく

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2019年11月

この夏頃から数ヶ月、休館していたニューヨークのMOMA(近代美術館)が、この10月にリニューアル・オープンになった。$450ミリオンをかけて、増設、改装、配置の大編成が行われたのだ。
再オープンした新しいMOMAはどんなものか、ニューヨーク・タイムズには、それに関する記事がいくつも載った。展示面積は30%増、今まであまり取り上げられていなかったアーティスト(主に女性、非白人)の作品とか、お蔵入りだった絵画とかが展示になったとか。一番のユニークな点は有名な作品の並べ方。(ゴッホの)”Starry Nightはどこへ“という記事の見出しがあった。これは私の一番好きな絵のひとつ。それで、数年前(正確には2015年5月だから4年半も前)に私は南仏のアルルまで行って、この絵が描かれた場所を見たことを思い出した。急にその旅で観た絵をいろいろ思い出す。それで今回は南仏の旅のことを書くことにする。

前回までの記事
Vol.7 オーストラリアとニュージーランドの旅2017年10月(下編)
Vol.6 オーストラリアとニュージーランドの旅 2017年10月(上編)
Vol.5 アイスランドの魅力 ベスト5」 2017年夏
Vol.4 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(下編)
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(中編)
Vol. 2 ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く

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South of France

フランスの地中海沿岸地方のことを「南仏」と、日本語でも特別の言葉があるように、英語でも“South of France”と、この響きのいい特別の言い方をする。私はそれまでに、パリには3、4回行っていたが、South of Franceには行ったことがなかった。
行くことにしたキッカケはシャガールだった。2013年に初めて北海道を旅したとき、札幌の近代美術館でシャガール展をやっていて、パリのガルニエ・オペラ座の天井画を製作中のシャガールのパネル写真があり、それに惹きつけられた。ニューヨークに戻ると、ユダヤ人美術館でもシャガール特別展をやっていて、それに合わせて、パリと南仏のツアーが組まれていた。私がこのことを知って、申し込んだときにはすでに定員に達していて、waiting listで半年待ったが、ついに空きはなかった。私はすでにすっかり行く気になっていたので、彼らと同じようなコースを回る一人旅を計画する。前半だけはロンドンに住む友人も来ることになった。

シャガールとの出逢い

私が初めてシャガールの絵の本物を観たのはいつだっただろうか?
多分何十年も前、ニューヨーク近代美術館MOMAのこの「I and the Village」と題した1911年の作品を観たときだったと思う。鮮やかな色で分けられたキュービズム的な空間に、何かの物語を描いたのか、不思議な具象がいろいろ散らばっている。逆さまだったり、大きさも違う。彼の空想の世界らしい。特に私は大きな牛の顔が気になった。彼の他の絵にもよく空飛ぶ牛とか羊とか馬が描かれていることに気づく。故郷であるロシアの田舎を思い出しているらしい。空飛ぶ牛には何か伝説とかがあるのかも。それ以後、シャガールというと、その空想的な画面に飛ぶ牛や羊を探して来た。

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もうひとつ、これも何十年も前からよく見ていた絵は、メトロポリタン・オペラ・ハウスの中央階段の左右にある大きな壁画。赤が基調で、多分オペラ劇のヒーロー、ヒロインが飛んだり、泳いだりしている彼らしいもの。お伽話的なモチーフもだが、やはり、全体に光る赤とか、黄色の色そのもの、それと全体のバランスがこの壁画の一番の魅力。

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もう一枚は、ずっと後になってメトロポリタン美術館で観たもの。彼の絵には花束だけでなく、恋人たちがよく現れる。二人揃ったウェディングの絵もあるが、大抵はどちらかが幽霊のごとく、そっと忍び寄って、抱きすくめてキスするシーン。なんともぞくっとくる。彼の恋人はロシアの故郷の人だったから、それを思い出させるものがバックに登場したりする。これなどは若い時の作品で、画面を埋める具象がもっとはっきり描かれ、陰影もはっきりしている。壁に掛ける絵としてまとまりもある。

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マーク・シャガールは1887年に帝政ロシアのベラルーシで生まれたユダヤ人。サンクト・ペテルブルクなどでアートを勉強した後、1911年にパリに来る。数年でかなり画家として成功してから、故郷に帰り、最愛の人と結婚するが、すぐにロシア革命に巻き込まれる。ようやく1922年にフランスに戻る。しかし第2次大戦が始まると、ユダヤ人の彼は、アメリカに亡命する。戦後フランスに戻り、1950年に南仏のヴァンスという村に落ち着く。1985年に98歳で亡くなるまで、ここからアート活動を続ける。特に旧約聖書のお話を多く描き、市民権を持つ仏国に、全てを寄贈する。それでニースにシャガール国立美術館がある。

この旅はパリのオペラ座から始まった

ユダヤ人ミュージアムのツアーと同じように、私のこの旅もパリからスタート。私はそれまでにオペラ座は行ったことがなくて、次回には絶対にと思っていたところに、シャガールの天井画のことを知り、今回の2日のパリ滞在は、これが中心になった。

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夜のオペラ座のファサード

パリに到着した翌朝の10時半に、オペラ座見学を申し込んでいた。近くのホテルに泊まったので、前日は外観を見学。40年前に初めてパリに来た時は、この前のオペラ座大通りの端っこにあったホテルに泊まり、遠くから、このフランス貴族文化を代表するような建物とそれを囲むベル・エポック風空間に圧倒されたのを覚えている。
ナポレオン3世がコミッションした建物。確かにルイ王朝などの貴族文化的なスタイルだが、これは1851年にナポレオンの甥がナポレオン3世として、第2帝国を確立し、オスマンという偉大なセンスを持った人が、まだ中世的だったパリの街を一掃して、現在のパリの原型を造っていた頃に建てられた。建築スタイルとしては、確かにルイ王朝の貴族文化的だが、技術的には中に鉄骨が使われ、当時としては近代的だった。
ナポレオン3世は自分のために造らせたが、完成したのは1875年で、すでに第3共和制の時代。ナポレオン3世は1870年のプロシア戦争中に王座を追われ、英国に亡命、1873年に亡くなっている。第3共和制の政治家は、デザインした建築家の名前をとって、パリ・オペラ座ガルニエ宮とする。
この日の見学ツアーは15人くらいの小グループ。フランスの30才くらいの女性が英語で説明。
この建物の内部は1見どころか2見の価値あり。これでもかこれでもかとばかりの装飾芸術。大きくはないが、小さくもない。なかなか堂々としている。フランス革命後、60年近く政治的、社会的にドサクサが続いていたというのに、一旦平和を取り戻すと、このような贅を尽くしたものを造ることができるフランスという国は不思議だ。

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真上に燦々と輝くシャガール!

大階段を登って、劇場内に入り、彫刻が施された大理石の柱近くのダーク・レッドのビロードの19世紀風観客席に座って、天井を見上げると、真っ黄色に輝くシャガールの天井画があった。「オペラ座の怪人」に出てくる大シャンデリアも真ん中で輝いている。シャガールの絵は彫刻が施された濃い金色の円形の枠で縁取りされ、それに沿って、真珠のような丸い電灯が二重に並び、華やかそのもの。素晴らしい。こんなにスタイルも色調も違うのに、このシャガールの絵はこがね色に輝いている。こんな美しいもの、見たことない!と感激。不思議な相性。そこがアーティストのセンスなのだろう。

この天井画は1964年にシャガールが77歳の時、制作したというから、驚く。ガイドの説明だと、当時フランスも一家に一台テレビを持つようになり、オペラ座へ足を運ぶ市民の数が著しく減少。そこで当時の文化相アンドレ・マルローが案を出して、突拍子もない天井画を入れることにしたそう。その作戦は成功して、オペラ座の人気は元に戻り、それどころか、シャガールの美しい天井画はそれだけでも見に入る価値があると評判になる。

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ヴェルサイユのような内装

オペラ座自身も素晴らしい。ベルサイユ宮殿を真似たサロン・エリアは、凝ったロココ調の装飾が天井から、壁や床、天井からぶら下がっているいくつもの豪華なシャンデリア、大理石のギリシャ式柱まで、濃い金色で埋めつくされている。バルコニーに出ると、オペラ座前の広場を見下ろす、幅2メートルくらいの前廊も天井、床、柱などがモザイクや彫刻で飾られている。
中も外も沢山写真を撮りまくる。ツアーの後、外に出て、外観をも鑑賞する。古代ギリシャの神殿のようなファサードも立派だし、その両側に並んだ、街灯を支えているミューズたちのブロンズ像もいい。

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オペラ座バレエを鑑賞

さらに2日後、私はここでオペラ座バレエ団の公演を観る。出し物は「マノン」。マッシネットの音楽に、このバレエ団が振り付けしたもの。アメリカン・バレエ・シアターに比べると、お上品でエレガント、動きも衣装も舞台も、全てが優雅に落ち着いている。
オペラ座は、建物はグランドだが、舞台としてはやはり、現代のグランド・オペラをやるには小さいので、バレエ公演が多いよう。伝統を感じさせる公演だと思った。マノンを踊ったバレリーナは有名な人だと、あとでそれに詳しい友人から聞いた。

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パリではちょっとお買い物も

パリではオペラ座近くにホテルをとったので、有名なギャレリ・ラフィエットに行って、ちょっとお買い物もする。この建物も素晴らしい。1900年に開催されたパリの博覧会の頃、エッフェル塔を造った技術でこうした鉄骨建築が流行ったらしい。それが100年後も綺麗に保存され、このようなデパートになって、ショッピングをもっと楽しくしてくれている。
ここで私はイザベラ・マランというデザイナーのジャケットを買う。それまで聞いたことのない新進デザイナーだった(ここ数年、ニューヨークの高級デパートでも“ジュンヤ・ワタナベ”などと並んで、かなり大きい場所を占めているくらい人気がある)。 夏物で裏地もないし、前身頃の空きの縁も袖口も流行りの切りっぱなしのせいか、お値段は普通だった。

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グランド・パレ

さらに私はセーヌ川の方に歩き、グランド・パレに行く。1900年の世界博覧会の会場として建設された建物。外観はグランドだが、中は建設目的に合わせて、空っぽ。ただ、大きな空間を作るため(多分安価に)、上半身は鉄骨とガラスで覆われている。有名なアーティストの展示場にもなる場所だが、その日は古本、古版画などを扱う古書商が集まって店を出していた。この国はどちらを向いても、明らかに、こうした美しいものを大事にして、愛でる文化が感じられる。
日本のものが初めてパリの博覧会に展示されたのは、1867年。開国早々で、絹織物とか、伊万里とか、浮世絵などが展示され、フランスにジャポニスム旋風を巻き起こす。日本は間一髪で、近代西洋文化の潮流に乗ることができたと思う。これは当時の日本人にも賢い判断力があったから?などと考える。

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パリからニースに飛ぶ

パリからニースに飛んだ日は5月1日で、運悪くメーデーという祝日だった。労働者の日ということで、ニース空港からの公共交通機関はすべて止まっていた。それで仕方なくレンタカーをする。それにここは南仏というのに、5月はまだうすら寒かった。

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私たちはエズという城壁に囲まれた中世の村の5つ星ホテルに泊まる。5つ星のホテルがどんなものか、一度は泊まってみたく、それにはこういう古くからの観光地がいいということになったのだ。ホテルの名前は「金色羊のシャトー」。

ニースとモナコの間の断崖の中腹にある。山道をちょっと行き過ぎて、急坂のヘアーピン・カーブをバックで戻ろうとしたが、うまくいかず、そのまま車を放置してゲートまで歩くと、修道士のようなおじさんが出て来て、全てよきに計らってくれた。チェックインして、高い割には広くない部屋でリラックスしていると、崖の下からどんどん霧が発生して、あっという間に窓の外は何も見えなくなってしまった。

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ホテルのゲートで。私はイザベラ・マランのジャケットを着ている


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レストランから、このホテルの象徴、金色羊の像が見えたが5分後には霧に包まれる


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エズ村の地図。私たちのホテルは左下の13番

夕食には、ここのレストランでまた散財してしまう。テイスティング・メニューで12、3種類くらい出てきた。何を食べたかよく覚えていないし、すごく美味しかったという印象もなかった。しかし、この内装の美しさ! うっとりしてしまった。

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霧が晴れて、コートダジュールの絶景!

翌朝は、霧はかかっていたが、太陽も出ていた。真下の海岸線が見える。これぞ、まさに、コートダジュール、碧い海岸だ! 断崖の中腹に沿った狭い土地に建っているこのホテルの敷地の真ん中に、村の街道が通っている。朝食用カフェは街道の海岸側にあり、コーヒーでも飲もうとテラスに出ると、霧が晴れて快晴になってきていた。
崖下の海がアズレ色に輝いている! 遠くにはその日行くことになっているフェラット岬の半島も見える! この景色! 全く絶景! 歓びで感動!
これがエズの有名な景色! 前日はダメだったけど、何とか今日、帰る前に観ることができたのだ!興奮して写真を何枚も撮る。

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シャガール美術館

シャガール国立美術館はニースの郊外にあり、そこまで、距離は大したことないが、ちょっと迷ったり、路上駐車のスポットを探したり、そして、カーブしている坂で、スタンダードシフトのレンタカーを縦列駐車するのは楽じゃないし、時間もかかる。

この美術館は私が読んだ旅行書3冊とも、大いに褒めてあるところ。シャガールは戦後アメリカ亡命生活からフランスに戻り、ニースから近いヴァンスに住み、10年位旧約聖書に関する絵を描いていた。そしてフランスの市民権を再取得した時、手持ちの全部の作品をフランス国に寄付した。仏国政府はそれらを収納するために、この国立美術館を建てた。
「聖書のメッセージ」と題したシリーズで、主題は旧約聖書のお話。「創世記」「出エジプト記」に関する10枚と、The Song of Songsが5枚、大きな(4m x5mくらい)キャンバスに有名な話のエッセンスが描かれている。彼がすでに60代を過ぎたころに描いたもので、具象の人間とか動物とか天使とかは、オペラ座の天井画などと似て、絵本のようというか、漫画のようというか? または子供が描いたようなとも言える描き方。輪郭は何本もの線で描かれ、それで動きがあるように見える。色が素晴らしい。鮮やかなブルー、緑、黄色、オレンジ、赤など。どの絵も光り輝いて見える。

私はそれより10年くらい前にイスラエルに行ったとき、ジョルダン側のどっかから、モーゼが目の前に広がるエルサレムの谷を見て、ここがPromised Land!と神のお告げを理解したところに行った時、旧約聖書の話が急に現実味をおび、そのあと、旧約聖書を拾い読みした。ニースに行った時にはその記憶はすでにおぼろげだったが、これらの旧約聖書のお話が大体わかった。一緒に行った友人はカソリックの学校に行ったので、よく知っているようだった。外国に住むにはキリスト教の知識は役に立つ。

シャガールの若い頃の絵にも、ユダヤ教のトーラ、教典巻物を持ったラバイがよく登場するが、戦後南仏に戻ってきてからは、特にユダヤ人への迫害も画題にした。イスラエルにも行って、あそこのシナゴーグのステンドグラスなどもデザインしている。ユダヤ教とキリスト教をごちゃまぜにしていると批判的に見られることもあるようだが、それは彼がユダヤ人ということで迫害された体験から、これら宗教的な主題を扱ったものには「すべての宗教の自由の名において」という気持ちだったらしい。子供が無心に描いたような絵、または混同した観念の絵の中で、彼は宗教の自由を訴えているのだと知る。

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The Song of the Songs III


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Paradise


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Adam and Eve Expelled from Paradise


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The Creation of Man


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Abraham and the Three Angels


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The Sacrifice of Isaac

フランス国の土壌

それともう一つ言えることは、フランスは美しいものを愛する人々だが、フランス革命を実現させた国、常に政治的にアクティブな態度が容認されているように見える。容認というより、何をするにも、アートに於いても、政治抜きではないのだ。個人一人ひとりが常に政治を意識しなければ、デモクラシーは存続しないと彼らはよく知っているように見える。生きるということの一部なのだ。だから、シャガールのこのような絵にも人気があったのはないだろうか?
宗教に関しては、特に第2次大戦中に、ナチスからユダヤ人を守らなかったと、フランス知識人は特に非常に後悔、懺悔していることも影響したかも知れない。

特別展としてタペストリーになったものも展示されていた。印象が違う。最後の部屋では彼の生涯のドキュメンタリー映画をやっていた。

なんでこの人の色はこうも鮮やかなのだろう?他の画家だって同じ絵の具をつかっているだろうに。不思議だ。

私たちはその鮮やかな色いっぱいの絵画に圧倒されて、その日は終わる。ギフトショップではやはり、彼の絵の画集を買ってしまう。

ニースの夜

夜はニースの街に出て、夕食。1820年にイギリス植民地からの資本で造られたという海岸通りは、ほとんど直線のビーチ沿いに、幅広い車線、歩道が並び、多分その後の世界の有名ビーチの海岸通りの原型を造ったのではないかと思われる。端っこにホテル・ネグレスコというヴィクトリア女王がお泊まりになったホテルがある。現代のグランド・ホテルの感じは全くない、こじんまりしたものだった。まあ時代が違うのだろう。
ちょっと大通りから外れた所に車をパークして、繁華街らしきところを歩き、良さそうなレストランを探す。意外とよく、手頃な値段でシーフードが食べるこことができた。私はとなりの人が食べているのを見て、新鮮そうな人参が沢山のっていたので、それを注文した。グリルしたエビ料理。前2晩と大きく違って、30ユーロくらいでワインとコーヒーまで飲めた。帰り道、ニースとホテルの間の海岸沿いのルックアウトで車を止め、夜景を楽しむ。カーブした海岸線に沿って街灯の灯りが輝き、その上が黒く崖になっている。反対側にはひょろひょろと松の樹が茂り、その上の雲の間から朧月夜が覗いていた。これがフレンチ・リヴィエラだ!

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ヴァンスに向かう

ヴァンスはニースから山側に入った村で、シャガールが1950年にアメリカから戻ってきてから、亡くなるまで住んだところ。ここにお墓がある。お墓をお参りすることも、考えてはいたが、他にもいろいろ見るところがあって、行けなかった。
ここにきた第一目的は、マチスの作品を見るため。彼は1917年、48歳の時に、パリからニースの郊外に移住している。マチスは誰もが知っている通り、1910年代に起こったパリのモダニスト運動の中心的アーティスト。ここに移り住んだ後、フレンチ窓から見える海の絵とか、またタヒチやモロッコに行って、もっとリラックスした画風で描き続けた。

マチスのペーパー・カットアウト

現代美術の巨峰ピカソとマチスを考える時、私は普通の日本女性らしく、どちらかというとマチスの方が好きだった。カラフルで何となく楽しい画面、変形した具象もピカソほど、どぎつくない。それでいて、新鮮。
ニューヨークの近代美術館にはマチスの作品がいくつもあったので、「ダンス」とか、「ピアノ・レッスン」とか、赤い壁の居間の風景とか、何十年もおなじみだった。しかし最近ロンドンのテート・モーダン美術館が企画したマチスの「ペーパー・カットアウト」という展示を見て、彼の人生の後半のアート活動のことを知る。
彼は1917年にニースに引っ越してからも、エキゾチックな絵を描いていたが、1941年72歳のとき、癌の大手術を受ける。結果が悪く、その後立つのが困難になる。それで彼はアシスタントに絵の具を塗った紙を用意させ、ベッドの上でハサミを使って、いろいろな形に切り、それらを紙の上に並べて作品を作るようになる。その海藻のような形のモチーフは昔からよく見ていたものだ。この展覧会で知ったことは、彼がそういう健康状況にあったということだけでなく、それでも、最後の最後まで、ベッドに入ったまま、時には立って不動の状態で、長い棒を使って下絵を描いたりして、アート活動を続け、10年くらいの間に、またまた沢山のユニークな作品を生み出したということ。作品は以前の通り、カラフルなモチーフの中にセンジュアルな女体が覗いたりするもの。軽いタッチに見えるが、その努力に彼のアーティストとしての執念のようなものを感じる。
亡くなる前の年に、ニースの町のスイミング・プールの壁画をデザインした。MOMAの展覧会では、これだけは写真だったので、今回ニースにあるマチス美術館で、本物を見ようと計画した。その美術館はシャガール美術館から、そう遠くないところにあった。ところがここは私設美術館なので、入場料は高く、展示物の内容は今一歩。ほとんど諦めていたところ、地下でこのプールの壁画を見ることができた。

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本物ということはタイルでできているということで、あまりにも平坦で固定されていて、今一歩感触的な良さはなかった。でも形は素晴らしい。

マチスがデザインしたチャペルを見に行く

ヴァンスはシャガールが長いこと住んでいた町だったこともあるが、マチスの作品がこの近くにあるので、私たちはわざわざここまで来たのだった。
作品というのは小さなチャペルのステンドグラスを含む内装。マチスは無神論者だったが、大手術後、懸命に看護をしてくれた人が、のちに尼僧になり、ヴァンスのチャペルのデザインを依頼されていることを知り、恩返しをしたいと考える。初めは助言だけだったが、最終的には彼のデザイン通りになったそう。

ヴァンスのバス停から20分くらい歩いてやっとたどり着く(レンタカーは城壁の中に入ったまま)。小さなチャペルで、横の入り口から入れてあげますという感じだった。10ユーロくらい取られたと思う。非常階段のような階段を上がってチャペルに入ると左側が窓になっていて前方の窓2つに、マチスらしいブルーに黄色い葉っぱをモチーフにしたステンドグラスがあった。その前で東洋系の顔をした修道女が観光客を監視している。見に来る人は皆アートを見に来るのであって、お祈りに来る人は日曜日で無い限り、いないのではないか?その信心のなさを嘆いているのか、彼女の表情は険しかった。
たった2つのしかも幅80センチ、丈3メートルくらいの町の教会のサイズだから、ここまで見に来た価値があったか?と思うのは私だけではなかっただろう。しかし後から想い出すと、やはりこの鮮明な色のステンドグラスは目に焼き付いている。写真を撮れないのでカードを買ったが、その色は本物と全然違う。この色とモチーフの並び方がこの作品の生命と思う。

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私はそれから数年後、バチカン・シティの美術館で法王所有の美術品を観覧したとき、このステンドグラスの複製とマチスの下絵スケッチがあるのを見つける。さらに2017年の夏、ニューヨークのメトロポリタン美術館で、センセーショナルな、”Heavenly Bodies”という展示があり、ここにマチスがデザインした、牧師用の礼服があった。この特徴あるモチーフと緑の色。すぐにあのヴェンスの教会のデザインだとわかる。

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サンポール・デ・ヴェンスのコロンバドール・レストラン

ここで私はエズと同様の城壁に囲まれた中世村、サンポール・デ・ヴェンスのホテルに泊まった。その入り口にある、どの旅行案内にも書いてあるコロンバドールというレストランで遅い昼食をとる。
その日は南仏に来てから一番いいお天気になった。青空に白い雲が浮かび、中世的な石の塔も見える。辺りは観光客がいっぱい歩いている。こんないいお天気の時期には、ランチは庭でサーブされると決まっているらしく、庭には大小30くらいのテーブルがあり、どのテーブルの上も大きいパラソルで日陰が作ってある。エスタブリッシュした、そしてウェル・マネージされたところとはこんなものだ。お客さんの気持ちをよく理解して素晴らしいランチを楽しんでもらう心遣いがすべてに感じられる。メイトラディも親切で感じいいし、ちゃんと私が見たいだろうものを(建物の中の絵とかアートとかバーエリアとか)聞きもしないのに教えてくれる。嫌みなく、大げさでもなく、簡潔に、楽しそうに。私のために、入り口近くのテーブルがちゃんとひとり用に準備されていた。にくーい!

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お天気は最高。日差しはまぶしく、日陰はひんやりした空気で、お客さんは皆楽しんでいる。隣は何とヒューストンから来た60代のカップル。最近知り合って、今回一緒に旅行している様子。英語ができるウェイターに私はあまりお腹すいていないと言ったら薦められた‘小さい’ローストチキンを注文する。コーニッシュヘンのような小さい鶏の丸ごとをテーブルの横で切り分けてお皿に載せてくれた。そう、ソーセージつき。これにロゼーを飲む。このところロゼーばかり。南仏はロゼーが似合うところとアリスはいつも言っていた。
一口食べて、このローストはまず何回も温めなおしたものではなく、オーブンが取り出してすぐの味だとわかる。塩こしょうの加減も焼き加減も焦げ具合もパーフェクト! 同じものを食べているとなりの人たちに、‘これジュリア・チャイルド級!’と私が言うと、大きくうなずいて同意した。この有名なレストランで、こんないいお天気に恵まれて、車の路上駐車の問題はないし、急いで次に移動する必要もなく、ロゼーでちょっとポーッとなって、幸せ!!!な気持ちになった。

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ニューヨーク・タイムズの載った記事

ここに来る少し前に、このレストランに関する記事がニューヨーク・タイムズ・マガジンに載った。それを読むと、実はここは、1910年代から、南仏に集まってきたアーティストたちがよく利用したところだった。第1次大戦中、ピカソ、シャガール、マチス、レゲエ、カルダー、ブラークなどのアーティストたちが、安らぎを求めて、パリから南仏に移動した。戦時中のこともあり、彼らは経済的に裕福ではなく、この店主(現在のオーナーの祖父)は宿泊と食べ物を彼らに提供し、彼らの作品と交換したそう。

スイミングプールやバー・エリアや室内の食堂に足を入れて、何気なくおいてある有名アーティストの作品をあれこれカメラに納める。すごいところだ。ピカソのエッチング、カルダーのモバイル、などなど。聞きしに勝るところだった。第2次大戦では、フランスはナチスに数年占領された。アーティストの多くが、静かにこの南仏に身を寄せた。シャガールはユダヤ人だったので、彼はアメリカに逃れた。当時ニューヨークで画商として成功していたマチスの息子の世話で、彼の亡命生活は可能になったらしい。行った先はニューヨーク州のBig Fallsというウッドストックに近いところ。そこに53年まで7年間住む。彼はそこでももちろん創作活動を続けた。戦後、フランスに戻ってからは、この南仏、それもこのヴァンスに住んだ。ピカソはVallaurisヴァロリスという町に住み、陶器を大いに作る。そこで知り合ったジャクリーヌと結婚、アンティーべという町のグリマルディ・シャトーをスタジオにして、半年制作。彼は戦後南仏にいくつもの家を持っていた。マチスはニースに住んでいた。その他にも多くの芸術家が南仏に住み、行き来があったよう。シャガールはピカソに誘われて、同じ窯元で陶器を一緒に作っている。最後に掲げた絵はパリのピカソ・ミュージアムで見た絵。マチスの死を悼んで描かれたとあった。そのくらい親交があったのだ。

1950年代には、映画人たちが集まるところとなる。このプールでイヴ・モンタンやジャンポール・ベルモントなどが泳いだり、ひなたぼっこしたらしい。カルダーのモビールが左端に見える。

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昔と変わらぬバー・エリア


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イヴ・モンタンなどが遊んだプール。左端にカルダーのモビールが見える


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ピカソのエッチング画がホールウェイに掛かっている

これでたった40ユーロ。ああ私たちはあのシャトー金色の羊のレストランで300ドルも使ったのは全く馬鹿げている。でもやってみなくちゃわからない。

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パリのピカソ美術館で観たもの。マチスの死を悼んで描かれたものとされている

ニースから西へ

ニース空港でロンドンに帰る友人をドロップオフしてから、レンタカーも返す。これで南仏の旅の前半が終わり、そこから私の南仏の一人旅が始まった。

南仏を旅するにあたって、私は3冊の旅行案内書を買った。読んでいると、観たいところがいっぱいあった。South of Franceは、東はモナコとニースから、西はマルセイユまで、19世紀中頃からヨーロッパ中の貴族の遊び場となった。交通手段としては、自動車が一般的になる前に発展したので、電車が通っている。それプラス、現在はバスもあるし、レンタカーという手もある。
私は電車とバスで、アンティーべ、カンヌ、サントロペ、そしてマルセイユに出る旅程を考える。そこからさらにアルル、アビニヨン、そしてパリに戻る。ほとんど1箇所、一晩の早足で。

アンティーべのピカソ美術館

ニース空港から、長距離バスでアンティ−ベに行く。1時間もかからない。バス停からは電車の駅の上を渡って、町の中心部に入る。これなら明日は電車でカンヌに行こうと決める。TIを探して、宿も見つけてもらう。ゴロゴロと重くなったスーツケースを引っぱって移動するのは楽じゃないし、まず快適でない。しかしレンタカーを返したから、その責任から解放された安堵感はある。どっちもどっち。ツアーに入らない限り、自分独りで旅するのは、楽ではないし、計画通りにいかないこともおりおりある。これも旅の思い出のひとつだし、そういう冒険旅行を私は望んだのだから、文句は言わない。別に大した苦労ではないと自分に言い聞かせながら。

街は庶民的な雰囲気で、城壁が一部残っていて、その中の旧市街は古く、ごちゃごちゃしている。ホテルはカフェ・レストランの上にある。古くさいが、町の中心プラザに面しているし、目的のピカソ・ミュージアムへの途中にあるから、便利。チェックインして多少休んでミュージアム、別名シャトー・ギルマルディ、へ行く。この時すでに4時頃で閉館時間が気になっていた。
ヴァロリスに住んでいたピカソが、1946年にここにやってきて、このシャトーの持ち主のギルマルディ氏に、この場所をスタジオとして提供してくれるなら、ここいっぱい作品を作ってあげようと提案して、その通りになったらしい。長い戦争が終わり、彼はやる気いっぱいだったという。海のすぐ横にある。ギルマルディ家というのは中世時代のイタリアからこの辺まで地中海沿岸の領主で、モナコの王家もこのファミリーから発生している。間にいくつもこの名前のお城が散在する。シャトーと言っても、四角い石の家のいう感じ、多分 ほかの領主とか、海賊とかからの攻撃を防ぐ、見張りと防衛機能を考えてのデザインだろう。ピカソの作品の数は多くはないし、46年からその後10年くらいの作品がほとんど。一部修理中で、時間もなかったし、どういう訳か好きな絵はなかったし、写真が撮れなかったので、印象が薄い。

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ただ庭にある壊れた彫刻から古代ギリシャのものがあるのに気づく。それでここは適当に切り上げる。ギフトショップだけは良かった。

アンティーべの夜

その夕方は爪が伸びて、気になっていたので駅からの道沿いで見かけたネイル・サロンに行った。ベトナム人の家族がやっていた。もう店じまいの前で、若い大学生のような息子がやってくれた。ベトナム戦争が終わってもう40年というのに、この家族はお互いベトナム語で話している。もちろんこの息子はフランス語ができるだろうが、フランスにいても、やはりこんな商売しかできないから、いずれベトナムに帰る気なのか?

そのあと途中にあるブラッセリーで夕食を食べる。メインはメニューから選んだが、デザートは冷蔵ガラスケースから自分で選ぶ。その中に大きいスープ皿にふわふわしたメレンゲの塊が卵色のソースに浮かんでいるのが、入ってくるときにチラッと見えたのだ。冷たくて甘くて、食べがいがある。美味しい!と言うと、うちのベストデザートだよ、と、店の主人は自慢げに言った。これがフローティング・アイランド、浮島というフランスのデザートだ! 昔「暮らしの手帖」に載っていて、作ろうとしたが、うまくいかなかったことを想い出す。火にかけた卵ソースの中でメレンゲに熱を入れて固めるのだが、すぐ溶けてしまう。汗をかきながら奮闘したのに! シェ・パニースでも同じようなことが起こったらしい。そんなことを想い出しながら、ホテルに戻る。前のプラザにはすでにほとんど人がいなかった。

考古学博物館へ

翌朝は、9時に起きて、10時にオープンする考古学博物館まで歩く。途中前日コーヒーと何かを食べた屋根のある場所がファーマーズ・マーケットになっていた。新鮮そうな野菜、果物が並んでいる。その前に町で魚屋さんも見た。道で売っているベンダーもいた。こうやってフランスの主婦は新鮮な野菜や魚を手に入れる。それさえ揃えば、あとはシンプルに料理するだけ。アリスが感心したように。楽しい光景だ。

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考古学博物館は小さいもので、英語の説明はなし。ローカルの小学生が先生に連れられて、勉強に来ていた。私はぐるりと見て回る。大したものはないが、そもそも私が興味をもったのはこの町が、古代ギリシャ時代から交易船が行き交う重要港(ギリシャ名はアンティポリス)だったと知ったから。この旅の後半でもっと古代ギリシャとローマの影響を見ることになるが、それを実証するものを観る最初の機会だった。印象に残ってカメラにも納めたものの、ひとつは青銅の海の神のマスク。多分量産されたもの。頭に乗った葡萄の実と葉の飾りも、ひげのウェーヴもデザイン化され、洗練されている。技術的にも高度なアート作品だと思う。多分紀元前3、4世紀のものだろう。何に使われたものなのか?説明が読めないので分からない。

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もうひとつは大理石の大風呂。一辺2メートルくらいの四角形で、20センチくらいの壁には大理石のタイルが貼られている。内側には4辺とも真ん中に腰掛けが造ってある。まったく現代のジャックジーとそっくりなのに感心する。

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1時頃の電車でカンヌへ

ホテルをチャックアウトして、駅に向かい、1時ごろの電車でカンヌに行く。アンティーベに比べるとカンヌは大都会という感じだ。駅の大きさから違う。駅の周りにはシャネルやグッチのいわゆる有名店が並んでいる。有名な海岸通り、ラ・クロイセッテまで歩く。右手がその次の週からはじまるカンヌ映画祭の会場となるコンベンションセンター、左手にビーチとレストランがありそうなので、そちらに向かって歩く。まずはカーニバルの乗り物や食べ物小屋が並んで、家族連れがいっぱい。それを過ぎると、カフェやレストランが並んでいる。しばらく歩いて、歩道より下がったところにあったレストランに入る。勘が当たったようで、ロイヤル・ビーチとかいう名前だった。食べるところは室内もあり、テラスもあり、その先はパラソルの下もあり、さらにはビーチでもいい。私はビーチの手前のパラソルの下のテーブルについた。
よく見るとビーチパラソルは白と紺のストライプで、多分Lonely Planetに載っていた写真と同じだ。ここで私はニース風サラダを注文する。本場ニースで食べ損なったから。カンヌなら、ニースとこのサラダを作る条件は同じはず。ツナは地中海のベストツナと、ウェイターが自信ありげの様子。実際これまでで一番おいしいニソワー・サラダだった。ツナは煮てあるけれど、缶詰ではない。ロメインレタスとトマトの上に、アンチョヴィーのフィレ、ゆで卵、アーティチョーク、フェンネル、ペッパー、オニオン、ケッパーなどが乗っている。ドレッシングは赤ワインのヴィネグレットに、多少バルザミックがお皿に塗ってある。それにタプナードを塗ったバゲットのスライス。もちろんロゼーを飲みながら、大いに楽しむ。

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カンヌにはミュージアムがないとRick Stevesも書いている。1週間後に始まる、あの有名なカンヌ映画祭の準備で町はきっと、盛り上がっているのだろう。観光客もいつもより多いのかも知れない。フェスティバル・ホールの回りにはテントがズラリと建てられている。その横にある埠頭には超巨大なヨットがズラリのムアーしている。華やかなイベントなのだろう。大通りを市役所まで歩いて、引き返して、ホテルに戻る。

グラースで香水美術館を見学

カンヌはあまり観るところがないので、香水で有名なグラースに行くことにする。カンヌから電車とバスで山側に1時間ほど入ったところ。
フラゴナールという香水会社が有名らしい。何代目かは結構名の通ったアーティストでもある。まずここのミュージアムに行く。主に香水ボトルやそれを入れるバッッグなどのコレクション。18、9世紀には実に多くの美しいものが上流階級の貴婦人たちのために作られたようだ。香水としてだけでなく、よく小説に出てくる‘気付け薬’も婦人たちがハンドバッッグに隠し持っていたもの。

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香りのミュージアム

それから、グラースの町がやっているミュージアムに行く。順路がはっきり書いてあり、第1番目の部屋は薄暗く、ビーンバッグのようなものが部屋の片側に並べ置いてある。反対側はスクリーンになっていて、ビデオをやっている。ここが旅行書にあったマルチメディアのSensorial Room、知(嗅)覚の部屋だった。スクリーンでは小さな女の子が野原でデイジーを摘んでいる。しばらくすると横の壁にとりつけてある管からシューという音と共に白い湯気か煙のようなものが出てきて、部屋は花の香りで充満する。私はビーンバッグの上に半分横になった状態で、急いで深呼吸を何回もした。この美しい香りが消えるまえにいっぱい胸のなかに吸い込んでおこうと思ったのだ。しばらくするとそれが終わり、スクリーンは農夫がわらを積んで行くシーンになる。すると、壁の管から今度はそれらしき香りが掃き出される。花の香りも素晴らしいが、こういう干し草の香りも、香水屋にかかるとこうも快感を覚える香りになると感心しながら、私はまた何回も深呼吸をする。

香水の歴史

次の展示は香水の歴史。古代メソポタミア、エジプトから、ギリシャ・ローマ時代、それから、中世、近世とその時代その時代で何が新しく、どんな製造法で、何がポピュラーだったかというような説明がアンティークの道具などを含めて、展示されている。日本の香道のセットもあった。最後が近世、それもグラースで開発された香水製造法の展示。新鮮なバラなどの花びらを集めて、それに蒸気や、アルコールやその他の方法で、香りを抽出、移行させ、それを封じ込め、化学的に安定させて商品にする。

もともとこの地域はタンナリー、皮をなめす手工業が本業だった。貴婦人用の皮手袋によい香りづけをするところから、香水作りが始まり、すぐにこちらの方が本業になる。大産業になるにはフラゴナール家など、この地方の有力者たちの努力と商才に負うところらしい。
古代から香りのあるオイルを愛用したクレオパトラなど、地中海沿岸は、いつも肌を出している気候で、香水を日常に愛でる習慣があった。香りの一番の原料の花がここにはふんだんにあったことで、大産業になり得たのだろう。
未だに香水といえば、フランス製が圧倒的というのは、その技術、その香りのアートの奥深さがあったということ。フランス人はお風呂に入らないから、体臭を隠すために香水を使うなどと、半分軽蔑的にうちの父はよく言っていた。最近の若い日本人はどう思っているのだろう? 私は香水が大好き。毎日欠かさない。Yes, I wear it everyday!

このミュージアムの入場券にはその直属のバラ園の入園料も入っていて、ちょうどバラの季節だし、是非行きたかったが、乗ったバスをどこで降りていいのか、分からず、結局行き損なった。まあ 仕方がない。

サントロペ

サントロペは小さな半島を南に下がったところにあるので、電車路から離れている。それで、サンラファエルというところまで、電車で行くのだが、30分くらいの間ほとんど海岸のすぐ近くを走り、風光明媚。駅名にも海沿いのいうSur-la-merがついている。サンラファエルでサントロペ行きのバスに乗り換える。バス出発まで20分待ち、行程1時間のところ、2時間近くかかったので、サンペトロに着いたのは6時ごろだった。途中、海側を振り返ると赤い色の岩の山裾が海に突っ込んで、いくつもの入り江を作っているのが見えた。これがこの地形で有名なエステレルという地域だった。サントロペまで2時間もかかったのは、途中、大きなバイクに乗ったツーリングの群れが何組も行き交うから。騒音がひどいだけでなく、交通渋滞を起こしていたのだ。サントロペのひとつ手前の町でハリー・デイヴィドソンのユーロ・フェスティバルの幕が見えた。5月ともなると、どこもいろいろなイベントが計画されているようだ。このバイク群はその晩も翌朝もサントロペの町まで侵入して、あっちでもこっちでも我が物顔で大爆音をたてて、走り回って大迷惑だった。

サントロペの1日はちょうど、70年前、ナチスから解放された日

サントロペでの宿は、金曜日ということもあるし、カンヌの体験から、予約しておいた方が無難と思い、インターネットで予約を入れた。適当なところがなく、結局、この旅行で一番高い独りで330ドルのホテルに泊まることになる。バス停からも歩ける距離ではなさそうなので、バスの運転手が斡旋してくれたタクシーで行く。近道を行けば、10分くらいの距離を交通止めになっているとかで、ぐるりと廻って20ユーロも取られた。それでまず頭にくる。ホテルは安藤忠雄がデザインしたような、打ちっぱなしのコンクリートの幾つもの棟に分かれた3階建ての建物で、スイミングプールはあるがロビーがない。若い男がひとりで取り仕切っている。と言っても、すでに7時を過ぎていたから、そんな時間にチェックインする客はいない。重いスーツケースを運んでくれた。というのも私の部屋はプールの向こう側にあり、しかもコンクリートの螺旋階段で3階まで上がらなければならない。

お茶を湧かすようになっていないので、フロントに電話すると、さっきの男が出てきて、今すぐ持って行くという。実際熱いお湯の入ったポットを持ってきてくれた。お茶を飲んで、すこし休んで、日が落ちたころ、ダウンタウンまで出かける。この町にはブリジッド・バルドーなどの超有名人が住んでいるので、シャネルなどは大きい西洋館の店を持っている。ダウンタウンの店はすでにしまっていたが、せめてもウィンドーショッピングでもと、観光客が町中うろうろしている。
ヨットが並んだ港まで出たが、その前に並ぶレストランやバーは派手な客でいっぱいのようなので、気後れして、少し裏に入った、そう旅行書に出ていた‘ル・カフェ’というところで座る。外はすでにかなり涼しかったが、私はひとりで外のテーブルに座り、南仏に来てまだで食べていなかったムール貝を頼む。それとロゼー。しばらくかかったが鍋とバゲットを持ってくる。鍋の中にいっぱいのムール貝。まだ季節が早いのか小さい貝ばかり。でもその方が柔らかくておいしいとウェイトレスは言う。食べても食べても貝の山は減らないように思えるくらい、沢山入っていた。多分100個くらいあったのではないか? 味はまあまあ。ガーリックと白ワインの味つけ。夜ご飯はそれだけ。また歩いてホテルに帰る。

フランスの終戦記念日

翌日の5月8日はフランスの第二次大戦の終戦記念日(しかも70年目)だった。それで祭日。フランスでは5月には3回ロングウィークエンドがあると、後から読んだ。これが2番目。旅行者には不便なことが多い。
ダウンタウンにある観光案内所を見つけて、ツーロンへのバスの時間を確認しようと思って入る。係りの女性と話していると、突然彼女が“見て見て”と私の後ろのドアをさして言う。外には古い軍服を着た十数人が旗や楽器を持って行進していた。この先の岬近くで行われる式典に向かうところだった。ドゴールがよくかぶっていた帽子の箱にひさしが付いたようなキャップ帽をかぶっている。その帽子と軍服をみただけで、大戦のイメージが蘇る。観光案内所を出て、私も岬の方角に歩く。式典の準備はできていたが、しばらく始まらないようなので、そのまま横道に入り、ビーチを歩く。1944年8月にアフリカの植民地国(アルジェリアなど)からの援軍が上陸して、南仏が一番先に解放されたのは、このサントロペからだったとどこかで読んだ。その記念すべき日にその地に居合わせた偶然、何か胸にぐっと来るものがあった。

新印象派アーティストの美術館

20世紀前半にモダニスト・アーティストたちが南仏に集まってくるより前に、第一波は新印象派のポール・シニャックが1892年に、ノルマンディーのオンフリから、サントロペに移住してきたことから始まる。彼の後を追って、新印象派からフォーヴィズムのアーテイストたち多数がこのあたりにやってくる。港の横にあるサントロペ・ミュージアムは、彼らの作品を主に展示している。シニャックは新印象派の画家のなかでも点描画を広めた画家と、南仏では言われている。

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彼はパリでゴッホと知り合い、彼に点描画の効果を説いたという。それで気がついたのか、ゴッホは“点”描ではないが、もう少し太いブラッシュ・ストロークを取り入れたとどこかで読んだ。確かにそうだ。この辺りにくるまでに、私の絵画鑑賞力は上がり、このミュージアムにある絵画群から、名画、平凡なものの区別もつくようになり、点描画というのはあらゆるものに南仏の陽の光が輝く自然の中で生まれたと、私は理解した。シニャックだけでなく、マチスの太めの点描画風作品もあった。ゴッホだけでなく、モネの絵だって、近くで見ると何だかわからない、つまり点描画が変形したものだからだ。

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マチスの1904年の点描画風作品

マルセーユへ

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サントロペからバスと電車でほとんど半日かけて、マルセーユまで行く。着いたのは7時頃。その鉄道駅はカンヌ駅どころじゃなく、19世紀風な貫禄を備えた大都市の大ターミナル駅。アルルに行く電車の時刻表だけ貰って、すぐにタクシーでホテルに行く。このホテルはパリにいるときに予約した。土曜日なので、いっぱいかもよっと、フランスの友人に忠告されて、取った。でもそれは正解。あのセザーの映画(アリス・ウオータースが惚れ込んだ1930年のマルセル・パニョル監督の画)の舞台になっている旧港の海岸通りから歩いて15分くらいの場所で、なかなかセンスあるホテルだった。ニューホテル・オブ・マルセーユという名前。正面の古い建物には石壁にパスツール・インスティテュ−トと刻んであった。その古い建物がロビーになっていて、その奥に4階建ての長いコンクリートビルディングが部屋の棟になっている。中は感じのいいアート作品が随所にある。下にはレストランもあり、その辺りは大学用地だったらしく、学生街っぽい雰囲気が残っている。レストランには若い人のグループがいっぱい飲んだり、食べたりしている。一応部屋に入り、少し休むが、日が沈む前にどうしてもあの海岸通り辺りまで行きたかった。黒人のコンシェルジュは丁寧に行き方(歩き)、帰りのバスの乗り方まで教えてくれる。さらにシーフードの店というと、高級なところと安いところも教えてくれた。

海岸通り

下り坂になった道を海岸通りに向かって歩くと、太陽がマルセーユ湾の向こう側に傾いていた。金色の光の帯が海岸通りとその奥にある建物群を真横から照らしている。空気が乾いているせいか、実に美しい色に輝いている。気温もちょうどいい25度くらい。左側にある古い港にはぎっしりヨットやセールポートが係留されている。海岸通りまでくると、あのセザーのカフェ・バーやパニースの船具店のようなものは一切なく、10階建てくらいのパリにあるような装飾的で古い大きな建物がズラリと並んでいる。その前は大きな広場になっていて、主に黒っぽい人たちが、がんがん音楽を鳴らし、踊っている。その30メートルくらい上には鏡のように磨かれた金属の板の屋根が4つの細い支柱に支えられている。あの映画の雰囲気はまったくないが、なぜか、嬉しい気分になる。屈託無く楽しそうなアフリカ人からのバイブかもしれない。日が沈むまで、その辺りをぶらつく。

そしてコンシェルジュお勧めの安い方のレストランを探す。海岸通りから奥に3、4本の道をクロスした辺りで、魚市場街になっているようだった。レストランの前に、屋台が2、3軒並び、生ガキ、茹でたエビなどを売っている。中に入って、まったくローカルの人々に混じって(花の金曜日!)生ガキ、ムール貝、エビのセットを注文する。生ガキはベロンという日本のカキ臭さのある種類ではなかったが(代替を頼むが、断られる)、おいしかった。カキ自身の新鮮さ、充分なカキ臭さ、それに海水のジュースの塩の味が効いていた。ミニョネット・ソースなどいらない、レモンを絞っただけで充分だった。ムール貝はまたとても小さいものだったが、生だった。身も小さく、食べるとヒモなどの部分がコリコリして、食感としてはホタルイカを食べているよう。値の高いセットではないので(実は子供用)、エビも小さ目だが、新鮮なことと、海の塩けが効いていておいしい。この晩はこれで充分だった。食が細くなって、食べ歩きなど、できない。まあそれでもいい。ちょっと摘んで、ちょっと飲んで、ちょうどいいくらい。

帰りはホテルまで歩きで15分の道のりだが、少し登り坂だし、お腹もいっぱいで、タクシーで帰る。

ナポレオン3世が建てたノートルダム寺院

翌日5月9日(土):マルセーユの街は非常に気に入ったが、ゆっくり見て回る時間はない。午後の電車でアルルまで行くことになっている。朝早めに起きて、ここだけは見ておこうと前夜に選んだノートルダム大寺院までタクシーで行く。地域としてはホテルの東側の丘の上で、距離は大したことない。そういう意味でもこのホテルはよかった。タクシーにしたのは正解で、そこまでの上り坂はきつい。タクシーを降りて、丘の頂上まで登り、さらに階段を相当数登らねばならなかった。景色はいい。海はもちろん、マルセーユの街を360度見わたすことができる。とても風の強い日で、これが有名はミストレル(マルセーユ名物の強風)なのかな?と思ったが、だれかが、本物はこんなものじゃないとか言っていた。真偽の程はわからない。
カソリック大寺院だし、景観があるし、ナポレオン3世が建てた寺院(彼の叔父さんはもちろんまだ国民的英雄として人気が高い)だから、フランス人がいっぱいいた。皆プロヴァンスの日焼けした素朴な感じの地元の人々だ。3階分くらい外側の階段を上がり、礼拝堂に入る。そこから5階だて分くらいある高い天井まで、縞模様の細長いアーチ型の柱がいくつも続いていて、間は金色のモザイクで覆われている。幾つかのアーチの下にはキリスト使徒の姿がやはりモザイクで描かれている。その高さ、金色の美しさ、ナポレオンIIIのころだから、150年前くらいのものだが、威厳のある、それでいて華やかさのある礼拝堂である。寺院のてっぺんにはこれまた金色に輝くマリアと赤ん坊のキリスト像が立っている。これがマルセーユのどこからでも見える。効果ある記念の塔とか、像とか、建物とかを建てる方法をフランス人は心得ている。

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本場のブイヤベースを食べねば!

帰りもタクシーでホテルに戻り、荷支度をして、チェックアウトする。12時だった。日がよく当たるロビーに座って、その後、電車の時間までの行動を考える。マルセーユに来たからには、やはり本場のブイヤベースを食べなくてはと思い、旅行書のオススメの中から、駅までの途中にあるレストランについて、フロントの女性に聴いてみると、美味しいシーフードを食べるのには、方角が違うと言う。この先にあるとてもいいレストランのブイヤベースを勧められる。昨晩のコンシェルジュもこの先の高級レストランのことを言っていた。それで予約を取ってもらい、荷物を預けて、歩いて向かう。風が強いが、淡いブルーの空が半球に広がって気持ちがいい。iPhoneのGPSを使って、レストランに到着。すぐそこっと言われても、探し当てるのは、そう簡単じゃない。今回の旅行でこのGPSには非常にお世話になった。パリの街中でも(放射状に街が広がっているので、迷わず目的地に行くのはニューヨークのように簡単じゃない)、あのサンポール・ド・ヴァンスの城壁の中でも。

ペロンというレストランは海に突き出した白い岩の上にあり、ミニマリスティックなデザインの店で感じがいい。やはりあのホテルと好みが合っている。すぐにブイヤベースを注文する。パンをかじりながら、ロゼーを飲む。料理が出てくるまで、30分くらいかかったと思う。その間、ライトブルーの湾の外側に浮かんでいる島がアイル・オブ・イフと確認して、アレクサンドル・ディュマの岩窟王の小説のことを思う。マルセーユについてはアリス関係(つまりパニョール)のことを知っているだけで、全然調べていなかったが、友人のSさんがこの小説のことを教えてくれた。だから私は彼女を友人として大事にしているのだ。日本人としての教養を身につけている。外地でそういう人と知り合うチャンスはあまりない。巌窟王とはモンテ・クリストフ伯爵の話、あんな青少年向きの小説ももう一度読んでも面白いかもしれない。オルター・スコットのアイヴァンホーなども。

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やっときたブイヤベースは私の思っていた料理とはちょっと違い、真ん中が凹んだパスタ皿に揚げたさかなの切り身が幾つか入っていて、ウェイターがワインの瓶に入ったソースを入れてくれた。もっと欲しかったら入れますという。ソースというより、ビスクのようなスープで、エビの頭などが入った濃厚な味。食べるのは4種類の揚げた魚のフィレとボイルドポテトだけ。それにルイユとトーストしたパンが出てくる。生のガーリックの半片も。あとで読んだものの本によると、マルセーユでブイヤベースというと、4種類以上の新鮮な魚で作るものらしい。貝類はオプショナルとある。だからここで食べたのは正真正銘本場のブイヤベースだったということになる。量も多いし、ビスクのようなソースは、濃厚で私には全部食べきれない。上出来でおいしかったけれど、私にはエビやイカや貝やロブスターが入ったもっとトマト味のものの方が賑やかな味でおいしいのではないか思われた。これは全く別ものだった。

しつこい味だったので、エスプレッソを飲んで、ついてくるダークチョコレート(これも必要)を食べて、呼んでもらったタクシーで早々に引き上げ(といっても2時間はゆうにいた)、ホテルで荷物をピックアップして鉄道駅へ行く。

アルルの町

3時頃のアルル行きの電車に無事乗ることができた。ここから1時間。アルルではやはりインターネットで、駅から一番近い3つ星ホテルを予約してある。

4時過ぎにアルル駅に到着。傾きかけた太陽がギラギラして、暑苦しく感じる。また重いスーツケースをゴロゴロ引きながら、ホテルまで10分くらい歩く。この三ツ星ホテルは私のような一晩しか泊まらないお客に慣れている様子で、それなりに快適には泊まれるところだった。多少荷解きして、外に出る。ここもこの半日しかないから、忙しい。ホテルからのセルフ・ウオーキングの地図を頼って歩く。最初の見物はアリーナと呼ばれる古代ローマのコロシアム。ここに来て、改めてシーザーがガリアを征服してからローマナイズした事実が、鮮明に理解の中に入って行く。そうか、こんなにもローマの勢力が及んでいたのかっと、驚く。征服といっても、庶民は文明と文化をもたらしたローマを歓迎しただろう。アリーナは戦車競争などの競技で庶民を湧かせていたようだが、その後長い間、放置され、中世には建築用ブロックが持ち去られていったようだが、今は修復され、夏には闘牛の会場になる。約2000年まえに、しかも、ローマから遠く離れたこのプロヴァンスに、これだけのものが作られたというのは、日本の歴史と比べ、驚異的に高度な文明/文化が存在したということだ。

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やはり西洋文化はすごい。当時の人口は今の2倍で5万人くらいだったという。
アリーナのほかに野外劇場とか、墓地もあったが、遺跡として、アリーナのようにフォールで残っていない。

私とゴッホ

退職してから初めての大旅行は、ギリシャのエーゲ海クルーズだった。私はその帰りにアムステルダムに寄り、ゴッホ美術館に行った。2009年のこと。その前のアムステルダム訪問は1973年で、ゴッホ美術館はその年の秋に開館したので、私は行っていなかった。一番のお目当ては「ジャガイモを食べる人々, Potato Eaters」。この絵の写真をどこかで観て、絶対本物を観たいと思ったからだった。この強烈な絵、暗い部屋の明かりの下で、お茶を入れながら、ジャガイモを食べようとしている農民たち。決してガツガツではない。1日の野良仕事を終え、夕闇の中で、やっと食べ物を口にできるという安堵感も見え、表情は落ち着いているし、食べる動作にはお行儀よさを感じさせる。でもその中で、食べ物を前にした緊張感が漲るこの絵の本物を観にアムステルダムまで行った。そこだけでなく、郊外にあるKroller-Muller Museumまで行って、ゴッホの絵を沢山観た。さらに伝記も、テオとの手紙集(両方とも省略版)も、それに彼がいかに日本画びいきだったかの本(日本語)なども読んで、私はすっかりゴッホのファンになっていた。
「ジャガイモを食べる人々」は暗すぎるとテオに忠告される。それでゴッホは南仏に移住することを考える。行った先がアルルだった。
ここに彼は1年ちょっとしかいなかったが、非常な数の絵を描いたところだった。現在アルルに彼の絵が残っているわけではないが、彼が輝く太陽光線を求めて南仏を目指し、この町が気に入って、精力的に絵を描きまくったところに来て、私はその場を感じてみたかった。

アルルのゴッホ記念碑

アラン・デュボトンという人の‘アート・オブ・トラベル’という本に、アルルの町ではゴッホの足跡を歩くウオーキング・ツアーがあり、ゴッホの絵が実際に描かれた場所で絵の写真を見せて、説明する町のガイドさんのことが書かれている。それにヒントを得たのか、その後、ゴッホ没後100周年の年、1990年にアルルの町が、町の中の11カ所を選んで、そこで描かれた絵をはめ込んだ碑を建てた。

私は旅行書にあるウオーキング・ツアーの地図を片手にそれらを探す。一つ一つの場所がちゃんと明記されているのに、なかなか見つけることができなかった。彼が右耳を切り落としたあと、自ら入院した精神病院の中庭でまず見つけた。彼はここで数ヶ月治療を受けながら、滞在し、少しよくなると、親身になってくれたレイ医師の配慮で、(町ではあの気狂いオランダ人をうろつかせるなと署名運動が広がっていたにもかかわらず)、昼間は外に出て絵を描くのを許される。絵を描くことが彼のセラピーになるからと言うことで。フランスの社会は進んでいた。
実は私はこの絵について知らなかった。が、どんなものが碑として建てられているのか分かったので、それから多少見つけ易くなった。

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ロアール川にかかる橋とそこに上がる階段の絵、それからホテルよりもさらに城壁の外に出て、イエローハウス、黄色の家を探す。この家は前と横がカフェで、2階、3階は簡易長期宿泊所になっていて、彼はここの1室を借りていた。その部屋の中が、イエロー・ベッドルームという絵。家の横にオウウィングが張り出した夜の絵が有名なSidewalk Café at Nightで、内部の奥がバーで玉突きテーブルがある絵もここが舞台になっている。現在建物は残って立っているが、黄色ではなく、また前のカフェは取り除かれてしまっている。横にもオウウィングもカフェ・テーブルもない。でもその碑を見つけて、家はちゃんと立っているのが確認できたときは嬉しくなった。カフェだったところの先には高架の電車線路が見える。今もである。その線路を左に行ったところが駅で、私がさっき降りたところだ。

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謎解きができたときのように、快感に浸る。さらに真ん中に噴水がある町のプラザを横切ってロアール河岸に行くと、対岸のライトとその上にキラキラ輝く多数の星を描いた‘スターリーナイト’の碑があった。碑が立っているところより、20メートルくらい下流に行ったところが本当のスポットだと私は信じる。
この絵は「ローヌ河のスタリー・ナイト」という題の絵で、ニューヨークのMOMAが所有しているただのStarry Nightとは違った。この絵はウィキで調べるとオルセー美術館所蔵になっている。何年か前にMOMAがゴッホ特別展をやった時、オルセー所蔵のこの絵が入っていたのだと思う。私はそれを観に行って、夜空に輝く星の黄色がすざましかったという記憶がある。川面に映った町の灯りの黄色の帯もあるからか? その黄色は眩しいくらいだった。ゴッホはその絵をここで描いたのだ!

私は町を一回りしたあと、疲れてホテルまで戻ると、隣に提灯が下がっていた。ベトナム料理店が隣だったのだ。それで一度、ホテルの部屋で休んで、8時半ごろまた来て、おそうめんを食べた。そこから20メートルくらい離れた所にある崩れかかった城門の間から、あのイエローハウスが見えた。私はご満悦だった。さらに暗くなったのを見計らって、ロアール河畔まで行って、星は出てなかったが、この写真を撮ったのだった。

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アビニヨンとポン・デュ・ガール

その翌日はまた電車でアビニヨンまで行く。この町は14世紀にローマ法王が法王庁をここに移したので有名。その建物はそそり立つ石の殺風景で巨大なものだった。

それにはあまり興味がなく、ここに泊まったのは、ここから30キロくらい西にある古代ローマ時代の水道橋、ポン・デュ・ガールを観るため。これは絶対に外せないと思い、アビニヨンからの行き方について、Rick Stevesの本を念入りに読んで備えた。ところが5月はまだ観光シーズンでないため、特別バスは運行していなかった。仕方なく、私はまたレンタカーをする羽目になった。しかも残っている車はシフト式のジープのような大型。値段も高かった。それでももう一度来るよりは安いと決行する。田舎道を30分走って、大駐車場に着く。

駐車場にパークして、その日の観光客数の20倍くらいの人出を考慮して造られたような施設を通り抜ける。朝ご飯も食べていないので、まずは何かを食べようとする。最初のキオスクはパスして、ミュージアムのレストランに行こうとするが、今日はどうもお休みらしい。突然、木々の間から、ポン・デュ・ガールが目の前に現れる。世界遺産のひとつだけあって、チャチなものではない。3段にアーチが並んだ橋で、下を流れる川は細いが、橋の下流側では広がり、水に入って遊んだり、泳いだりしている人たちもいる。そうだ、あの旅行書には水着を持ってくるように書いてあった。ゆっくりとローマ時代に造られた橋の1段目の上を歩く。お天気もよく、Just Magnificent!!  信じられない!ローマ時代の橋の上を歩くなんて!

橋の歴史

この橋は紀元前19年からローマの誇る土木技術を駆使して建設された(近年の調査で、建設は紀元後40から60年という説もある)。3段の橋桁の高さは約50メートル、長さ200メートル(建設当時は350メートル)くらい。1段目には大きなアーチが6つ、橋桁の下にはさらに石の土台があり、普段は橋桁が濡れないようにデザインされている。2段目のアーチも同じ大きさだが、両脇の土手が斜面になっているので、両岸を繋ぐにはアーチが10あり、両岸の岩にはめ込まれている。一番上は2段目のアーチひとつの上に3つずつアーチが作られている。普遍的に美しいデザインだ。きっと力学的にも計算された結果を元に、アーティストが考案したのだろう。石は近くの石切り場から運ばれた。石とレンガの薄茶色は明るく、周りの緑の中で映えている。

右岸の石の岸壁を登り、3段目の橋の上部に作られている導水管を見る。幅80センチくらいの水路の底は大きなブロック石、両側の壁は1メートル強の高さで石の塊を積み重ねてある(ローマ人はセメントを知っていたが、ここでは使われていない)。石壁の厚みは50センチくらい。この上に大きな石板の蓋が被せてあったらしいが、それは見えなかった。この水道橋に至るまではトンネルや水路が掘られている。

そもそもこの水道橋はアルルよりさらに西に位置するニーム(デニム発祥の地)という古代ローマのプロヴァンス最大の都市に、ここより北にある湖から水を送るために建設された全長50キロという道のりの人工水道の一部として建設された。人工水道は途中、水路あり、トンネルあり、水道橋ありの大工事だった。流水量は秒速400リットル。ニームの町の人口は当時5万と推定され、送られた大量の水は生活用水だけでなく、公共風呂や噴水など、庶民のいこいのためにも使用されたという。2000年まえにそういう生活を楽しむという考え方があったというのが、すごい。西洋文化はすごい。そして橋は2000年後にも立派に原型をとどめて立っている!

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やっとランチ

橋を渡り、反対側の木々の中に広がっているカフェ・レストランでランチを食べる。選んだ料理はローストした仔牛肉の薄切りにツナソースがかかっているもの。薄切り肉は8、9枚あり、ソースの上にはレッドオニオンの薄切り、パセリ、それにケッパーが乗っている。横にはミスクラン・サラダがついている。これにロゼーを飲む。

隣のテーブルには若夫婦と5才くらいの女の子、それにおばあさんの4人がずっと食事をしておしゃべりしている。女の子は食べ終わると、退屈そうにその回りを行ったり来たりしている。私の存在が気になる様子で、こっそり私のすることを観察している。両親とおばあさんもそれに気がついて、どこの人かね?ハポネかね?なんて話しているようだった。料理はお腹がすいていたこともあり、おいしかった。コールドプレートなのだ。ツナソースというのはイタリアン・レストランなどで時々見かけたが、食べるのは初めて。しっかりした味があり、仔牛肉のようにフレーバーがあまりない肉のソースとしていいようだ。
橋をバックに、ウェイターに写真をとってもらう。ここまで1時間くらい。休憩ついでにと、さらにコーヒーとデザートを注文する。デザートは大きいカスタード・プリンで、上にウィップ・クリームがたっぷり乗っていた。これでやっと餓鬼状態から脱することができた。

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アビニヨンからは新幹線でパリへ

ピカソ・ミュージアムと私

パリのピカソ・ミュージアムは2010年に、パリもこのマレー地区のホテルに泊まった時、探し当てたが、改造中だった。5年かかった改造、その間ここの作品は世界中にツアー展示された。サンフランシスコでも見たし、ミラノでもやっていた。あのキラキラ星が輝いているようなドーラの‘椅子に座った女’に感動した。

このパリのピカソ・ミュージアムは建物がすごい。17世紀に塩で大儲けをした貴族が建てたので、「塩の館」と名前がついていた。1973年のピカソの死後、法的相続人たちはピカソが残した作品で、フランス政府に相続税を支払ったという。それを元にフランス政府は、資金を作り、この館を改造して、ピカソ・ミュージアムにした。いかにも貴族の館という感じの美しい大きな建物の中には、驚くばかりの数の作品が展示されていた。観覧者も多く、特にフランス人のグループが多かった。あっちでもこっちでもフランス語のガイドの声が聞こえる。リニューアル・オープンしてからまだあまり月日が経っていなかったかららしい。フランス人は本当に美術鑑賞の習慣が身についている。

沢山の作品を観て、ピカソが好きになる

実に沢山の作品、習作的なのも多い。それにしてもピカソはモンスターのような精力的なアーティストだ。クリエイティブィティは天才的だし、その制作精力はすごい。こういう人は四六時中、制作のことを考え、仕事をする(マチスも、シャガールも、ガウディも)。そして80何才まで生きたのだから、作品数は膨大だ。習作も多いが、いい作品も沢山あった。

私はそれまでにニューヨークのMOMAとグッゲンハイムを始め、バルセロナの若い頃の作品を多く集めたミュージアムも観てきたが、いくつかの例外の作品(例えばブルー期の’アイロンをかける女’とか)はあるが、好きなアーティストではなかった。しかし、ここで初めて、彼の人間味ある優しい面を見出したと思う。
ひょっとすると、それはあまりに多くの作品が展示されているので、自分が気に入った作品だけを観て歩くことができたと言うことかも知れない。気に入った作品には、油絵あり、エッチング画あり、スケッチあり、彫刻、陶器もいろいろあった。
または、ピカソもすぐに高値で買い手がつく、度肝を抜くような作品はすぐに画商に渡し、毎日見ても飽きない、心が和む作品は手元に残したからかも知れない。

何をやらせても、天才的というピカソの実力に私は降参し、それ以降、ファンになる。やはり世界中が認めているように、彼は偉大なアーティストだったと改めて痛感する。今後パリに来た時には、必ず寄りたい場所になった。

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お目々がキラキラ星のようなドーラ


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実はこれは私がハウスシットしていた家にあったもの。やはりミュージアム・ピースではない


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これはフランソワーズか?強そうな女はカッコいい

その他にもパリには美しいものがいっぱい

そのいくつかの写真を載せたい。

1.チュルリー公園で見かけたアート

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2.アリス・ウォータースがお手本としようとしたラ・クポール・レストランの内部

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3.プチ・パレ。グランド・パレの向かい側にあり、現代アートを主に展示している。その建物、内部も良かったが、中庭の池の淵を飾るモザイクがとても気に入る。

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4.エズで泊まった5つ星ホテルの庭園ギャラリー

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5.私がパリ(モンパルナス)の蚤の市で見つけたアール・ヌーヴォーのガラス花瓶。アートを楽しんだ旅の最後を飾る、よい買い物だった。

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帰国後記

憧れの南仏への旅では、シャガール、マチス、ゴッホ、ピカソの足跡を追うことができた。しかし、この旅は3冊の案内書とインターネットでいろいろ調べて望んだにも関わらず、思うようにいかないかったこともしばしば。実はこの旅で懲りて、私は一人旅を断念し、ツアーに参加することになったのだった。若い人がバックパックで予定なしで、気ままに歩き回る旅ならともかく、私はこれが最初で最後で、大事なところは全部見ようという旅をしようとしているのだから、何かをミスることは避けたい。また最近はインターネットの普及で、ヨーロッパならどこでもバスの時間でさえ、調べて、切符を予約することもできる。しかしそれには時間がかかり過ぎ、努力の割が合わないと私は結論を出した。しかもこの旅は今より5才若かった時のことで、体力的にも今の私にこういう一人旅ができるかどうか自信はない。ツアーに参加でも、老い過ぎないうちにと、今頑張って旅を続けているのだ。でも旅の体験が多くなればなるほど、知識と理解は深まり、感慨は大きく、旅の思い出は豊富になる。それで私は「いきいき!」、素晴らしい。

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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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