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自粛中、上演計画。アンビバレンス。

拡大するアートチーム・エリア51で演劇を企画・演出している神保です。
このnoteでは、新型コロナウイルス拡大に伴いイベント類の自粛を要請されている中、演劇公演を企画するということについての、葛藤とその内省について書きます。

4月1日に解禁して動き出そうとしていた企画が昨日、発表延期との判断になり、途方に暮れかけたのですが、止まるのではなく考え、動いていたいと思い、現在の自分のリアルな状況を、文章にしようと思いました。

ここには科学的根拠や、上演可否の判断基準となる客観的な情報は掲載されていません。書かれているのは主に、最近身の回りで起こった出来事に対する自身のポジションの確認、主観的な意見、そして哲学的なスタンスについてです。イベント業の主催者として、震え、考え、絞り出した言葉です。

自粛要請

2月26日。政府より、全国規模イベントを2週間程度中止・延期・規模縮小するよう要請されました。これにより、国民(経営者)は一気に選択を迫られ、国民(生活者)から"糾弾される可能性"を背負うことに。

公的な施設の利用・助成を受けている公演の類は軒並み中止となったでしょう。ロジックはいたって簡単で、「誰も責任を取れない」から。公費を使ってウイルス患者を出したのでは後始末がつかないので。

すごく楽しみにしていた公演・東京芸術劇場の「カノン」が公演中止になった時に一気に当事者意識が芽生えました。多くの知り合いが関わっていた上、自分にとっても思い入れの深い作品でした。出演者解禁は2019年9月。上演の発表はさらに前です。関係者曰く、水面下では数年前から企画が決まっていたそう。私は宣伝ビジュアルのライブペインティングも見にいったし、演出・野上氏のツイッターで日々の稽古の感想や手触りを追い、企画ができあがっていくのを追体験していました。

2月28日。残念ながらこの「カノン」も、上演中止という決断に至りました。幕開けは3月2日に迫っていました。

確かな情報がないまま、情報を追い、振り回され、先行きがわからない日々。

しかしこの時点私はまだ楽観していました。1ヶ月もすれば収束するだろう、正直、この時期に舞台を上演していなくてよかった、とさえ思っていました。甘かったです。

閉鎖されるという危機

3月1日。東京芸術劇場の芸術監督である野田氏が「公演中止で本当に良いのか」というタイトルで意見書を発表しました。野田地図公式サイトより引用します。

コロナウィルス感染症対策による公演自粛の要請を受け、一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます。演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。もちろん、感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません。けれども劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄をついた言葉かと思います。 

これに対し、ネット上でさまざまな賛否の意見が交わされました。私は、8割賛同します。賛同できない部分は〈スポーツイベントのように無観客で成り立つ〉という点。おそらく、この声明が批判の対象とされたのはとりわけ上記一文を受けてのことかと思います。
なぜというに、それはスポーツイベント当事者たちの視点を欠いているという点です。この声明はあくまで、演劇と劇場の当事者の意見書として受け取られるべきでした。無関係な分野と比較して論じる必要はなかったでしょう。

また「いかなる困難な〜継続されねばなりません。」とあるように、精神論で意見書が締め括られている点についても、批判の対象とされた要因であるように思えます。これについても、精神論がそう簡単に許容されるべきでないとアレルギー反応を示されるのも無理はないと思います。

しかし、この意見書は、単に上記のようなアレルギー反応に対する処方箋として易々と取り下げられるべきものではないのである。ここには彼の強い意思とともに、”演劇の死”だけに留まらないあらゆる危機が示されているのです。

まず、〈感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で〉と明記されている点。
新型コロナウイルスに関して十分な知識を持っている専門家が、果たして現時点でどれほどいるのだろうか。風邪ひとつをとっても、絶対に予防できる方法など存在しない。それでも記載したということは、客観的根拠の提示というよりは”それくらいの覚悟を持って対策をするぞ”という意思表示だと受け取りました。

さらに重要なのは文章後半の「観客の理解を得ることを前提」という部分です。これは明確なルールです。劇場は歩かない。待っている。入り口を開けて。つまり、「あらゆるリスクを理解した上でやってくる観客を拒まない」というスタンスなのです。逆説的に、劇場を拒むことは誰でもできます。「理解しない観客はそれを拒むことができる」のです。

これは、あらゆる”場所”に置き換えることができるスタンスです。カフェは、図書館は、老人ホームは、公園は、駅は、会社は。すべての場所は待っている。入り口を開けて。
すべての場所に該当する「開かれているべきである根拠」が、この意見書には間接的に示されており、野田氏はただ、劇場を守る当事者として、演劇や劇場について意見しているのだと思います。

危惧されるべき根本的な問題は、イベント空間が狙い撃ちされたということです。しかし本質的には、すべての開かれた空間は狙撃の対象となってしまう。とすれば、ある指定されたジャンルの空間が閉鎖されるというすべてのことについて、危惧すべきではないでしょうか。

決行vs自粛?

意見書に対する世間の反応は批判の方が多かったのではないでしょうか。実際に、私が意見書を援護するツイートをしたら、見ず知らずの即席アカウントから反対意見が飛んできました。まず、私のツイートを引用します。

14:09 2020/03/02 神保治暉👽エリア51
演劇人たちのいう「演劇の死」に対する「延期すればいい」という反論は、残念ながらレイヤーが違いすぎて同じ土俵に立ててない(反論した人を土俵から下ろしたいのではないのだけれど)。演劇人たちは演劇を「人類の営み」として捉えてるので、延期「せざるを得ない」ことを危険視してるのであって。

それに対して受けたリプライはこちら。

その同じ土俵には立ててない、という野田さんもそうだけど上から見下ろしてる価値観が演劇に興味のない人たちからは絶対に共感されないわけです。他の人にとってはスポーツや音楽などが同じ存在であり、みんな我慢を強いられている中で演劇だけ特別なんだって話が共感されるわけありません。

下記の通り返信をしました。

15:46 2020/03/02 神保治暉👽エリア51
ご意見ありがとうございます。見下ろしているような書き方しか出来なかった点は撤回させてください。そういった意図はなく、「お金が回収できればいい」だけの問題じゃない、と言いたかったのです。僕は演劇だけが特別とも思っていません。当事者たちが納得いかなければ皆そのように反論すべきと思う。

以降、返信はありませんでした。

ここで考えたのは、「上から見下ろす」「演劇だけ特別」という彼の視点について。やはり、〈スポーツイベント〉と比較してしまったこともあり、またそもそもの一般的に見る「演劇」の性質の特異さも相まって、対立の構図が際立ってしまっていることが感じられます。

やや話は飛躍しますが、ロックバンド・東京事変が東京でのコンサートを開催したところ、YOSHIKIさんをはじめ多くの批判が集まりました。もはやイベント決行者に人権はないと言っても過言ではない。これはもはや、戦時中の「非国民」同様の扱いだと思いました。

この「決行vs自粛」の論争は何も生まない。対立してる場合ではないのです。そもそも、「みんな我慢を強いられている」状況そのものに対して我々は意見しているはずです。
必要なのは、このような危機的状況の中で継続可能なイベント業の成立させ方を議論することだと思います。

それに、あくまで私見ですが、「我慢を強いられている」のは、ただ「ウイルスによる国難」だけが理由ではないと思います。国の、対策そのものに対する疑問や不安。そのフラストレーションが解消されない限り、このような分断・対立・監視糾弾合戦は終わらないでしょう。終わらない限り私たちは声を上げ続けるし、対立ではなく共存を求め続けます。

自粛の合理的客観性

3月10日。安倍首相は、大規模イベントなどの開催について、今後10日間程度も自粛を継続するよう求めました。最初の自粛要請から数えて24日間、自粛を要請したこととなります。しかも、嘆かわしいことに「程度」という表記がある。

運営者たちはさらなる混乱を強いられたでしょう。あらゆる物事において「誰が決めるのか」「何を基準に決めるのか」それらのすべてが自己判断・自己責任。延期しようが中止しようが決行しようが、もはや誰も嬉しくない状況になりました。

そもそも、自粛を要請されたパフォーマンス空間(=広義で劇場)は、なぜ狙い撃ちされたのでしょう。一説には、不特定多数の人間が、密閉空間で長時間滞在することがウイルスの拡散を手伝ってしまうからだといいいます。

その時ツイッターでにわかに増えたのは「じゃあ満員電車は?」という疑問のつぶやきです。電車内では、マスク越しに咳をする乗客に向けられる視線を感じながら、騙し騙し、通勤を続けなければならない会社員たちでごった返しています。

ここで私は「劇場はダメで電車はいいのかよ!」と当たり前のように思うのですが、それとこれとはワケが違うことも理解しているつもりです。彼らは止むを得ない事情があって通勤しているのであり、経済活動があり、家庭があり、職場の人間関係があり、、、

いや、それはイベント関係者も同じだ!!

そう、この感染拡大は、イベント関係者だけでなく、すべての企業という企業が関係しているということは、火を見るよりも明らかです。都内の電車に乗ると、テレワークや時差出勤を促す案内が聞こえ始めました。それでも、会社の方針に従わねばならないのが働くものの定めです。会社が対策として動かなければどうすることもできない。問題は「上」がどう対策するかということ。

(自分の意思に反するなら属する組織を変えればよいことですが、ここでは一旦「その自由」については考えないものとします。なぜかというと、その自由をここで話題にしたら、かく言う私も演劇を続けられなくなってしまうからです。)

つまり、世の中の「人が集まる場所」の運営に決定権を持つ「上」の人間たちの裁量にすべてがかかっているのです。

何を信じ、
何を選ぶか。

「上」の人間たちがいま問われていることです。

綺麗事ではなく、人命が関わる危機に面しているいま、全「上の人間」への問いが浮き彫りになったのだと思います。これは私のような表現団体の責任者に関しても同じことです。

この「自粛」に合理的必要性はあるのか。無論、あります。少しでも感染ルートを抑えるため。では、私たちの生活をどう保つか? 職を変え、いまの状況でも生きていける方法をとればよいではないか。確かに正論です。さて、ここで問われる、何を信じるか?

私にとっては演劇で生きることは生きる意味なのです。演劇で生きる自分を信じるし、演劇で営まれる環境の健全さを信じている。なにより、これはやっと見つけた生きていていい居場所なのです。この先、演劇以外で生活を保つことを考えるくらいなら死んでいいとさえ思う。そうか、そんな奴は死ねばいい。正に、それも正論です。さて、ここで問われる、何を選ぶか?

生きるか? 死ぬか?
曲げるか? 貫くか?

仮に、この問題に直面した人の多くが自殺という道を選んだとする。その時、この国は、本当に彼らを救うことができなかったのでしょうか?

では果たして、彼らに死を選ばしめ、元を辿ると”演劇で生きることを必要たらしめ”た社会そのものを「運営」していた「誰か」に責任はないのでしょうか?
”演劇がなくては生きていけない”ことは、当事者のみが背負った十字架なのでしょうか?
家族に責任はなかったでしょうか? 育った環境、学校、職場、友人関係・・・
人を自死に追いやるのは結局、人なのでしょう。

閑話休題。さて、この「自粛」に客観的必要性はあるのかどうか。
死に至らしめる(可能性のある)コロナウイルスと、”演劇を選ばなければ生きる意味がない人間”から演劇という選択肢を断つこと。どちらも同じくらい驚異的なのではないでしょうか。
「自粛を要請」することだけが、真の客観的解決策であるとは断じて思えません。

これは、対策を「自粛要請」にとどめた政府対応に対する疑問であり、「自粛に肯定的な人」に対する反対意見ではありません。自粛を推進することは至極真っ当です。ひとつの正義としてまったく受け入れられるべきスタンスです。ですが、他人の死生観に踏み入るような殺傷力の高い言葉が、いまネット上で溢れかえっていることは事実です。

おそらく、野田氏の意見書の「演劇の死」が起こった先で起こるのは、「演劇人たちの死」でしょう。この演劇人たちの死を、客観的かつ合理的に許容できてしまうルールがあってはならないと思います。その上、そのルールではない「ひとつの価値観」は、貫いてもいいけれど押し付けてはならないのです。

代替不可たる由縁

演劇がないなら家で映画でも見れば?
という意見がありました。でも私は納得できません。

米がないならパンでも食べれば?
と言うのは確かに簡単です。ですが仮に、「米の供給が一度止まったら次に供給されるのがいつになるのか分からない」と提示されていたらどうでしょうか。当然、明日も食べられないし、来月はもちろん、一年後もどうなっているか分からない。

コロナウイルスに関しても同じはずです。収束がいつになるのかは分からない。この先永遠に人類につきまとう問題になる可能性だってある。であれば、演劇がないなら家で映画でも見れば? というロジックは成立しないはずです。

これは地球上のすべてのものごとにあてはまります。すべてのものは代替不可です。

劇場閉鎖を恐れる理由

野田氏の意見書の中に「悪しき前例」という言葉がでてきます。

ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。もちろん、感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません。けれども劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。

これに対して、「ちょっと閉めたくらいで破綻するような興業ならやめちまえ」という意見が見られました。確かに、一見まっとうなお叱りのように思えます。ですが、さきほどの米の例を思い出していただきたい。

「米の供給が一度止まったら次に供給されるのがいつになるのか分からない」と提示されていたらどうでしょうか。当然、明日も食べられないし、来月はもちろん、一年後もどうなっているか分からないのです。

「悪しき前例」とは、まさにそのことなのです。

それに、ちょっと閉めたくらいで破綻する危機を持っているのはどの分野でも同じはずです。なぜなら、「ちょっと」が「ちょっとじゃない可能性」が非常に大きいから。

はじめから期間が示されていたら、当然、損害を計算し把握することができますよね。その上で、破綻するかどうか、はじめて見当がつくのです。
しかし、このウイルスの収束など誰にも分からない、「ちょっとの間」と言われたって、誰しもその破綻を防ぎようもありません。

この「悪しき前例」とは、見通しは立たないけどしばらく劇場は閉めておこうという前例のことです。自粛ムードが蔓延りやすい日本において、この前例は、劇場を介して生活する人々にとってかなり不穏な意味を持ちます。

3月23日。小池百合子東京都知事は、都民に対して4月12日までの3週間、換気の悪い密閉空間、多くの人の密集、近距離での会話が発生する行動を避けるよう要請しました。ライブハウスやスポーツジムなどの施設利用、イベント開催も自粛するよう呼びかけました。

そう、収束の見通しなど立つはずがない。よって自粛要請は延々と、コンスタントに続くでしょう。
こんな状況の中で、ちょっと閉めてみたらもう再開できないことぐらい、誰でも想像できるはず。
だからこそ野田氏は、「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」と強く念押ししたのだと思います。

やはり、すべての人に理解される立場など存在しない。野田氏も、東京芸術劇場という、公的意味と私的意味の狭間におけるやりきれない立場で、やむを得ず、「苦渋の決断で」公演中止を下したことでしょう。確かに演劇に興味のない人からしたら知ったこっちゃないかもしれませんが、「ちょっと閉めてみたらもう再開できないこと」は理解できるはずです。

立場の違いや当事者意識の有無は、この議論の場に持ち出してはならないと思います。「人間が生活を営むための普遍的な方法」について、考え続けなければならないと私は思う。

お肉券で税金払いたい

外出禁止令が出される諸外国の中で、一部ライフラインの支払い免除や現金の給付などの動きが見られました。これを受けて、ネットでも日本政府への多くの批判が飛び交った。そんな中、3月26日、政府による現金支給はおろか、農林水産省によるお肉券の配布を行う方針を発表しました。ネットの反応は「肉で納税すんぞ」と怒りと呆れに満ちていた。

現金給付でなく無利子の貸付を行うなど、彼らの対応はどうも手厳しい。確かに、それでは外出禁止とまで強気には出られないでしょう。あれだけ死守したかったオリンピックのためでさえ、外出禁止+現金給付という大胆な作戦に出られなかった。(3月31日現時点で一世帯10万円の自己申告制給付を検討中とのこと)

なぜか?
それはもう、おそらく日本に経済的な余裕がまったくないからです。
前々から露見していたことだが、一連の政府の対応にてハッキリしてしまった。

今更政府叩きをしても仕方ない。叩いても出ないものは出ない。ない袖は振れない。叩くのではなく、前に進めるための行動にしたい。
どうしてお金がないのか。どうしたら諸外国のようにベーシックインカムを今の段階で検討できるような国になるのか。ここではそこまで話す必要はないですが、全国民が皆当事者となった今、みんなで今後の日本について考える必要があると思います。(今はこの状況をどう乗り切るか、が先ですが。)

一度飛び出したら引き返せない、まるで横断歩道の猫のような政府のことなので、もしかしたら肉や魚で納税できるようになる日が来るかもしれないですね。

自粛要請の中での動き

3月27日、小池知事は会見で、外出自粛要請でも”制限しないこと”を以下のように例をあげました。
・スーパーなどへの食料品の買い物
・食料品や医薬品の買い物
・通院
・仕事で公共交通機関利用(やむを得ずテレワークできない場合)

そもそも「自粛」とは自らの言動を慎むことであり、慎むこととは過ちがないように行動を控えめにすることです。つまりその基準は自分の中にあるものです。"過ち"が何なのか、"控える"がどの程度なのか、各人に委ねられているということです。

ですが、そんな自粛の要請で「制限しないこと」を提示してきました。これは結局「自粛要請」とは「制限」だったということを裏返し表しています。これに矛盾を重ねるようにして、「制限しないこと」を指定してきています。つまり、あげられた例の中のことであれば控える必要がない、と名言していることとなりますよね。
でも実際はそういうわけじゃない。あげられた項目の中であっても、控えるべき行動はあるはずです。感染拡大しないよう注意することが根本的な自粛要請の意図だったはずです。

揚げ足を取るような言い方になりましたが、注意したいのは彼らの制限の仕方には論理的根拠が欠けている点が多すぎる、という点です。責任が取れないのは分かりますが、正直、責任なんて追求しないから誰かが舵を切ってくれというのが大半の人々の本音なのではないでしょうか。

結局、最後の砦は自己防衛しかないことに違いはありませんが、入って来るはずのなかった敵に出会すことのないように作るのが城壁であり、外堀なのではないでしょうか。なぜ全国民が一斉に本丸で一対一の戦いをしなければならないのでしょうか。

そんな混沌の中、同日、「SaveOurSpace」という動きが始まりました。これは、ライブハウス・ナイトクラブ・劇場などにおける、自粛要請期間に発生した関係者への損害を国に助成するための署名と、交付実現に向けた活動です。著名人を含め、非常に多くの声が集まっています。(こちらから賛同できます。私は署名しました。)

注目すべきなのは、3月31日に開かれた会見の様子です。感染拡大に配慮し、会見は記者を入れずネット配信のみでの公開、参加者全員がマスクをして距離を置くという光景でした。普段であれば異様ですが、彼らの、感染を防ごうという強い意思が現れていました。

それに対し、都や政府の記者会見では、多くの人が集まり、マスクもせず、悪い手本と言わざるを得ない状態でした。

遡って3月22日。安倍首相が防衛大の卒業式に訓示のため出席し、登壇し挨拶しました。その様子が、総理官邸のインスタグラムに投稿されていたのですが、見る限り参加者は誰一人マスクをすることなく、証書を渡すときは手袋を外して握手をしていました。(オランダ首相の握手やめよう会見が話題になったのは3月15日。)自粛のためか、参加者数制限や式の時間短縮は行われたようですが、参加者は600人。あの光景は”この状況下”ではかえって異様だったと思います。

多くの学生が卒業式を中止させられ、切ない思いをしていることかと思います。そんな中、首相ともあろう人物がマスクもせず公で行ってよい行動でしょうか? 正直、私は納得できません。

結局、自粛をどのように捉え、どう行動するか、それは各組織・各人に委ねられているのです。委ねられた中で、何を正義とするか。そして、何を守り、何に貢献しようとするか。その精神は行動を見ればわかるはずです。

雰囲気

3月29日、新型コロナウイルスで入院していたタレントの志村けんさんが亡くなりました。

高齢の方や既に病気を患っている方は特にリスクが高いとされていましたが、それらの条件も重なってか、入院の報道があってからわずか4日での訃報。あまりの急な事態に、私を含め、多くの方が悲しみに沈んだことと思います。

小池都知事が3月30日に開いた会見で、志村けんさんの死去を「最後の功績」と表現し、ネット上で激論が交わされました。
「人間が死んでいるのに心ない発言だ」と批判する声と、「コロナの怖さを伝える意味ではそのとおりだ」と擁護する声。私はどちらにも同調するつもりはないですが、どちらにせよ志村さんをそっとしておいてあげたい気持ちです。

ですが、この件でイベント業に関する賛否の議論が、また一つ異なるステージに移った感覚があります。

なぜかというと、圧倒的に、数日前とでは、国民のコロナウイルスの驚異に対する当事者意識のレベルが上昇したように感じるからです。

これを受けて、自粛(中止や延期、またはそれに関する決定を遅らせるなど)の舵取りをするイベントが増えることが予想されます。また、そう予想されることによって、それを受けて自粛を選択する人が増え、2波、3波と影響してくるでしょう。

一部のメンバーと、この雰囲気の中で企画発表するのは得策ではないのでは? という議論もありました。
しかし、「”延期はすべき”としたうえで、”自粛の雰囲気が高まっているから延期する”というスタンスは間違ってる」という意見もありました。私は「判断の基準の一つにはなりうる」と考えていると説明しました。
やはり、エリア51メンバーの中でも、完全に意思を統一することが難しい状況にあります。

毎日変わっていく状況に対し、考えたり感じたりすること。
メンバー内でも部分的に異なる意見が出る中、どのように向き合って、どのように歩んでいくか。残された時間で話し合い、考えなければなりません。

まとめ

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

企画発表が延期になり、虚無感に晒された反動で、考えていたことを堰を切って書き出してみました。これを見て、きっと不快な気持ちになった方もいると思います。理解しろとか、演劇は上演されて当然だ、とは思っていません。人の命があってこそ。強行するのではなく、延期や中止の可能性を考えながらリスクを承知で進むことを(現段階では)選ぼうと思います。

こんな状況の中でも、いろんな人や、いろんな商品・作品・ことば、それらの出会いが、共存できたらいいなと強く思います。この先社会がどんな状況になってもです。

エリア51、ふたつめの演劇企画。発表はもう少しお待ちください。

前作でみなさんからいただいた希望を、あたためて、必ず孵す。

殻の中で鼓動しはじめているこの企画。殺さぬよう、責任を持って産まれさせてあげたい。彼が飛び立つのを想像しながら。

これより、その長い旅が始まります。

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