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出張授業 いじめの「あたりまえ」を考える90分

はじめに

絵本「いじめているきみへ」は、元は朝日新聞のコラムでした。まだわたしが小学生だった頃に書いたものです。この時の企画は、「いじめているきみ(加害者)・いじめられているきみ(被害者)・いじめを見ているきみ(傍観者者)」のうち、どれか一つを選んで著名人たちがメッセージを送る、というものでしたが、ほとんどの大人が「いじめられているきみへ」を選択し、その意見のほとんどが「つらかったら逃げてもいいんだよ」という事を書いていました。当時のわたしはそれに「そうだな」と思いながらも、なぜか少しだけ違和感を感じ、そして「いじめているきみへ」という「加害者へのメッセージ」を選択したのでした。

なぜなら、当然のことながら、加害者がいなければ、被害者も、もちろんいじめを目撃している傍観者もいないからです。ですから、「被害を受けている人にばかりあれこれと行動を呼びかける前に、もっとやらなければいけないことがあるのではないか。」と思いました。それも、出来るならばいじめっ子が、いじめっ子になる前の、もっともっと幼い時期に。

そして昨年、そのコラムを子ども向けに絵本として出版させて欲しいとお願いしました。不幸な事情で出版停止となってしまいましたが、「幼い子どもたちに呼びかけ、加害者になる前に止めたい。加害者を生まない社会をつくりたい。」加害者側にかたむきそうな子どもを救うことこそが、全ての解決につながる。これは、わたしがずっと考えていることです。

テーマ「いじめのあたりまえを考える」

①「逃げてもいいんだよ」という偽善
②「いじめられる側にも原因がある」という言い訳
③「みんな仲良く」という無茶ぶり
④「いじめられたおかげ」という錯覚
⑤ 「愛」や「正義」という凶器

紹介する本

☆【きみは知らないほうがいい/作・岩瀬成子 絵・長谷川集平】 

☆【黒豹たちの教室 いじめられっこ文化人類学/ユキ サマルカンド】

☆【ころべばいいのに/ヨシタケシンスケ 】

☆【わたしのせいじゃないーせきにんについてー/文・レイフ クリスチャンソン 訳・にもんじまさあき 絵・ディック ステンベリ】

☆【ぼくらが作った「いじめ」の映画?「いじめ」を演じて知った本当の友情/今関 信子】

【「目的志向」で学びが変わる—千代田区立麹町中学校長・工藤勇一の挑戦/多田伸介】

おまけ・大人になったらチャレンジして欲しい本

☆【きみといつか行く楽園/アダム・ラップ】

☆【隣の家の少女/ジャック・ケッチャム】

まとめ

☆  「どの登場人物の役になっても演じられるか?」いじめをなくす読書法

☆  感情は変えられなくても「行動」は変えられる                                                       

☆本能の獣から理性あるヒトへ


🌼1.【「逃げてもいいんだよ」という偽善】

毎年、夏休み明けに「無理して学校に行かなくて良いんだよ」というメッセージが溢れます。一見優しい言葉に見えますし、緊急対応としても間違いではありません。でも、学校に行かなくてもいいんだよと言うメッセージは、本来、いじめている側にかけるべき言葉ではないでしょうか。なぜいじめられた側にだけ逃げることをすすめるのでしょうか。心に問題を抱えているのも、いちど学校を休んで考えた方がいいのも、環境を変えた方がいいのも、どう見てもいじめている子の方なのに。

学校に残さなければならないのは、いじめを「していない」子どもたちです。いじめられた側を追い出しておいて、いじめた子たちが何事もなかったように学校生活を送っているのはおかしいのです。そもそも集団生活を送る上で、他人の権利を侵害しないという最低限のマナーを守れる人だけが、学校で学ぶ権利を有しているはずではないでしょうか。わたしは「いじめられるのが嫌なら学校に行かなくても良いんだよ」ではなく、「そんなにいじめがしたいのなら、学校なんて来なくても良いんだよ」と言いたいです。

いま現在いじめを受けている子どもたち。今はいじめがあるので、学校に行きたくないと思います。でも、その子たちには堂々と学校に行く権利があります。誰にも遠慮せず、学校で学ぶ権利があります。その事だけは、絶対に忘れないでいて欲しい。本来、学校を去るべきなのは、あなたではないのだということを。

社会がきちんとした受け皿を用意しているなら、不登校も良いでしょう。けれど、現状は誰からも、何の援助もありません。フリースクールに行く学費も、塾や家庭教師をつけるのも、転校にかかる費用も、全て各家庭の自己負担です。しかも核家族化や家庭の経済的困窮もすすみ、両親が共働きのお家も増えているので、多くの子どもはいったん不登校になってしまうと、昼間にご飯を食べるのも、勉強するのも、ずっとひとりぼっちになってしまいます。未成年が社会とのつながりもなく、孤独に勉強するのは大変。そう、学校に行かずに大人になるのは、決して楽な道のりではないのです。勉強の遅れだけでなく、差別を受けたり、就職できなかったりで、社会復帰すら出来なくなったりすることもあります。それらは全て、いじめさえなければ、本来はしなくても済んだ苦労ばかり。被害者だけが、今いじめられる苦しみだけでなく、今後の人生の不利益まで被るのはおかしいと思いませんか。

なぜこうなったのか?

①昔はいじめという理由では簡単に学校を休ませてもらえず、無理して登校しなければならない子どもばかりでした。それがだんだん「つらいときは休んでも良い」と言って貰えるようになり、休むことで命を救われる子が出てきた。でも、いつしかそれが正解になり、なぜか「いじめられたくなければ学校に来なけりゃいいじゃん」「なんで嫌われてるのに学校来るの?」と、いじめている側が堂々と言い放ったり、学校や教育委員会が「嫌なら学校をお休みしてもらっても良いんですよ」と言いつつ、やんわりといじめられている子を転校させたり、緊急事態に命を救うための言葉の意味がだんだんと形を変え、いつの間にか「被害者ひとりを追い出せば全て解決!」って流れになってしまったんですね。

②そりゃ、誰が首謀者なのか分からないいじめを解決するよりも、被害者1人を追い出して無かったことにする方がラクだし、被害者本人もいったん学校から避難することで「その時は」救われるでしょう

③でも長い目で見たら、将来の選択肢がたくさん与えられているのはその時も普通に学校に通っていたいじめっ子たちで、多くの不登校児たちはそれからもずっと遅れた勉強を取り戻すのに苦労したり、進学や就職の幅が狭まったり、不登校だったことで差別されたり、人と接するのが怖くなり、何十年も部屋の外に出られなくなったりする事すらあります。

わたしはいじめのせいで学校に行きたくても行けない子を、普通に学校に行かせてあげたい。逃げろとか死ぬなとか転校しろとか不登校になれとか、じゃなく「大丈夫、おいで」って言ってあげたい。

一方的に学ぶ権利を侵害され、イヤなら無理して学校に来なくてもいいよと言われ、出席日数が足りなくて内申点も学校推薦も貰えず、行きたい学校が受験出来なくなり、じわじわと将来の夢も奪われる。でも、いじめた子たちはその後も何も変わらない学校生活を送り、内申に何か書かれることもなく、普通に進学して就職もできるのです。こんなのは解決方法ではなく、単なる厄介払いでしかありません。

そもそもいじめられている子たちは毎日のように「学校来るな死ね」とか「近寄るな、キモい、あっち行け」とか言われて人格を否定されているのに、その上知らない人たちからも「ムリして学校に行かなくて良いよ」って言われて遠ざけられるなんて、切なくないですか。学校おいで!ここに居て良いんだよ!って、言ってあげたくないですか。

こういう事を言っていると、今までさんざん被害者に向かって「勉強は学校じゃなくても出来る」って言ってきたはずの人たちが急に「いじめっ子にも登校する権利がある!排除するな!」と言ってきました。「え??勉強は学校じゃなくても出来るんじゃなかったの?」って、思わず笑ってしまいました。結局、被害者を「ムリして学校に来なくても良いよ」と追い出そうとしていたくせに、なぜか多数派であるいじめっ子側を不登校にするのは可哀想だって思うみたいです。いかに彼らが今まで、被害者の人権を軽視していたかが分かります。

わたしは、いじめた側が「反省する機会を奪われる」っていうのも、本当は不幸なことだと思います。彼らは不登校になることも、怒られることもなく、何事もなかったかのように普通に学校に行って卒業して、いじめをしていたことすら忘れ、社会から許されて生きていく。そうして「いじめられるより、いじめた方が得だよな」ということを学んだまま大人になり、そして子どもを産み育ててゆく。本人たちはそれで幸せなのでしょうが、「己の罪に気づかない」ということはとても愚かで、悲しいことだなと思います。

果たして、そんな人間ばかりが大量に社会に放たれてゆく社会は健全なのでしょうか?いじめられた子どもを学校や社会からドロップアウトさせて、いじめをする子たちの立場を守り、反省させることもなく、立派な社会人としてどんどん育ててゆく環境は、教育現場としてまともなのでしょうか?

学校を弱肉強食の場所にしちゃいけない。被害者を集団から排除して、それがいじめの解決方法です!みたいにはしたくない、というのが僕の意見です。これからは、被害者を不登校にすることで問題を解決したことにしている現状から、もう一歩先の「本当の解決」に踏み出して欲しいと思うんです。

【きみは知らないほうがいい/作・岩瀬成子 絵・長谷川集平】 

不登校だった米利と、いじめで転校してきた昼間くん。昼間くんに関わってしまったことで、米利はまた、からかいの的になってしまう。でも、学校でハブられても昼間くんには外の世界の、ホームレスのクニさんとの交流があった。昼間くんのあとをつけてきた米利は、クニさんと昼間くんが「学校なんて行く必要ない。嫌なことからは逃げればいい」と、どこか遠くへ行ってしまう約束をしたことを知る。でも、クニさんと逃げるために消えてしまった昼間くんを探す米利のもとへ、昼間くんは自分で戻ってくる。悩んだ彼が出した答えは「ほんとうはみんなもこわいんじゃないかと思う」「みんなも学校の犠牲者なんだ」。事態は何も変わっておらず、相変わらず助けてくれる人は誰もいない。それでも2人は「学校へ行こう」と決意するのだった。

これは非常に挑戦的な本だと思います。この結論に持っていくことは、危険でもあるから。いじめのある学校に戻る2人が、この先救われるかどうかも分からないし、下手すると2人とも死んでしまうかもしれない。でも、昼間くんの言う「ほんとうはみんなもこわいんじゃないかとおもう」みんな、自分がいじめられたくなくて、誰かをいじめてしまうのかもしれない。本当はどの子もみんな、怖いのかもしれない。ここに、学校の真実があるような気がします。「ほんとうはみんなもこわい」。大人がこの問題を解消することができれば…。

🌼2.【「いじめられる側にも原因がある」という言い訳】

勇気を出していじめを打ち明けても、「あなたにも悪いところがあったのかも…」こう言われると、ほとんどの人は「そうかも」と思ってしまうはず。なぜなら、人は誰でも欠点があり、誰かに嫌われる要素を持っているからです。でも、ちょっと待ってください。じゃあ、いじめている人たちは、そんなに完璧な人間なんでしょうか。というか、いじめをする人こそ、いじめをしているのだから、いじめをしていない人より確実に「攻撃的な悪いところ」があるのではないでしょうか。

いじめをする人は、自分を正当化するために「相手の欠点が自分を苛立たせるのが悪い、それが原因だ」と言ってきます。そして原因を「むりやり被害者の中に探し出し、」その全責任を「被害者におっかぶせて」きます。

いじめられる側に悪いところがあるか聞かれたら、完璧な人間はどこにもいないので、ある、と答えざるをえません。でも、悪いところのない人間は存在していないので、いじめている側の子にも当然、たくさんの欠点があるはずなんですよ。つまりそれは、いじめる側が自分の欠点には都合よく目をつむり、いじめを正当化するための言い訳を相手の中に「見いだす」という、非常にずるく、卑劣で卑怯な行為なのです。

それに、どんな欠点が目につこうとも、他人を攻撃しない人はしないし、する人はする。他人を攻撃しない人は不愉快なことがあっても、なるべくいじめ以外の手段で交渉したり、何とか問題を解決しようとするはずです。…と言うことはつまり、いじめは「いじめる側の心の問題」ということなんです。他人を攻撃してしまう自制心のなさや、自分の欠点に目をつむるずるさや、いじめでしか問題を解決できない対人関係の未熟さゆえに、まずいじめる側に、誰かをいじめたい!という目的があって、その目的に向かって、もっともらしい理由をつけて、必死に言い訳をしているだけなのです。

【黒豹たちの教室 いじめられっこ文化人類学/ユキ サマルカンド】

「わたしは一人残されて教師の前に立たされ、きみは嫌われているから、好かれるようにしなければいけない。という、彼の口の動くのをみていた。」先生にいじめを打ち明けても、「あなたにも悪いところがあるのではないか?」と原因を探される著者・サマルカンド。本当に胸糞悪いので読んでください。

🌼3.【「みんな仲良く」という無茶ぶり】

誰にだって、嫌いな人や合わない人はいます。たまたま同年代だっただけの人間と、「みんな仲良く」なんてできるはずがない。子どもは大人が思っているほど天使なんかじゃない。

同じ教室に何十人も詰め込まれていれば自然と序列はできる。この距離ナシ地獄が変わらない限り、いじめを「学校で」なくすことは無理かもしれないな。同じ年齢だというだけで比べられ、嫌いな人がいても逃げられず、担任の先生と生徒にも相性があるし、合わない先生に当たれば一年間も耐えなくちゃならない。

わたしはいじめをなくすため、スクールカーストでいったん出来上がってしまった役割をシャッフルするために最も効果的な「単位制の導入」や「固定担任制の廃止」などを提案しているのですが、学校と言う環境は、けっこうハードなストレス環境だと思います。家族だって毎日ずっと一緒にいれば嫌になることもあるのに、こんな環境で、みんな仲良く!なんて無理がある。

この本は絵本ですが、そういう合わない人がいる時に、子どもがあれこれと知恵をめぐらせ、「自分で自分の機嫌をとる」という、最高のアンガーマネジメントが描かれています。ころべばいいのに。そうやって相手の不幸をちょっとだけ願うことで、自分の怒りを行動にしないようにコントロールする。嫌いな人がいたっていい。許せない人がいてもいい。でも、いじめにならないように、心の中でちょっとだけ。学校等で物理的に距離を置くことが不可能なら、出来るだけ心の距離を取りましょう。行動にさえ起こさなければ、心の中は自由です。

【ころべばいいのに/ヨシタケシンスケ 】


🌼4.【「いじめられたおかげ」という幻覚】

成功している人が、過去子どもの頃にいじめにあっていた経験を話すと「あの人はいじめを乗り越えたから成功した」とか、「いじめのおかげで強くなれたし、人に対しても優しくなれた」という風に言う人がいますが、本当にそうでしょうか。いじめにあって心を病んだり、自ら命を絶ってしまう人が大勢いる中で、生き残って夢を叶えた人の努力は素晴らしいと思います。けれど、その人は、いじめにあっても頑張れるぐらい素晴らしい人なのだから、もしかしていじめにあっていなかったら、今よりも、もっと成功していたかも知れない!とは思いませんか。

わたしは「いじめにあって、仕方なく、強くならざるを得なかった」事はあっても、「いじめにあったおかげで強くなれた」なんて事はないと思います。いじめだけじゃない。虐待や、体罰や、セクハラやパワハラだってそうです。その人は不幸を乗り越えて強くなったのではなく、もともと理不尽に奪われたり、失ったものを頑張って取り戻しただけなんだと。努力して努力して、必死に失ったものを取り戻して、やっと元のスタートラインに立つことが出来たんだと。

確かに、人間に取って、悔しさや怒りは頑張る原動力になるし、「絶対に、いじめたあいつらを見返してやりたい」という一心で、めちゃくちゃ奮起する事もあるでしょう。でもその結果、自分が夢を叶えても、それを「いじめにあったおかげ」と思ってしまったら、いじめた人達は、その人の将来のために良いことをした事になってしまいます。それに、悔しさや怒りをパワーに変えて頑張ってきた人は、「応援してるよ」「頑張って」などのプラスの言葉でも、喜びや幸せの気持ちを同じようにパワーに変えて、しかも、今よりももっと自信を持って頑張れたのではないか?と思うんです。

もちろん、もしも?の話をしても過去に戻って検証出来る訳ではないけれど、不幸があっても成功出来るほどのポテンシャルを持っている人は、不幸に会わなくても普通に成功していたと思うんですね。

突然ですが、たばこを吸っている人は、「イライラしている時にたばこを吸うとストレスが無くなる」と思っているそうですが、本当は「たばこを吸うことでイライラしやすくなり、たばこを吸っている時だけそれが治まるようになる」らしいです。

これはつまり、自分で自分に負荷をかけて、その負荷を一瞬だけ誤魔化すことで「たばこのおかげで楽になった」という間違った認識を持つようになっているんですね。でも、実はたばこを吸っていない人は、たばこを吸わなくてもイライラしないで生きているんですよ。つまり、たばこのおかげで楽になったのではなく、「たばこを吸う前の、元の正常な状態に戻った」だけなんです。

いじめを「乗り越えた」と思っている人は、いじめられた経験のおかげで「人生のプラスになった」のではなく、努力によって「いじめられる前の、本来のその人に戻った」だけなんだと思います。だから、頑張って夢を叶えても、いじめられた経験を、良かった事のように思わないで欲しい。歯を食いしばり、血の滲むような努力をして、人生のスタートラインに戻ることが出来た事は素晴らしいけれど、「いじめのおかげで強くなった」というのは、錯覚です。それは本来、その人が生まれ持っていた強さ。元からの基礎体力のようなものですから、いじめられても生き延びた人が立派で、いじめで自殺してしまった人の努力が足りなかったわけでもありません。それに、それだけの力がある人なら、もしいじめにあっていなければ、今よりもっと大成功していたかもしれないですよね。

いじめのせいで本来しなくても済んだ努力と、人生の遠回りをさせられただけなのだから、間違ってもその経験に感謝などしてはいけません。もしその経験に感謝してしまったら、いじめた相手は「良い事をした」ことになってしまいます。つらい病気を乗り越えて健康になったからといって、病原菌に感謝する人はいないでしょう。病気になったおかげで人の優しさに触れることはあっても、そのおかげで精神が鍛えられたとか、良い経験をしたと喜ぶ人はいないでしょう。いじめは、身体に入った毒なのです。

☆紹介する事件

☆「マイリー・サイラスは、学校に通っていた頃にイジメを受け引きこもった経験がある。「トイレに閉じ込められたことがある」「1時間ほど閉じ込められ、手が痛くなるまで何度もドアを叩いた」と悲惨な思い出を告白している。」→いじめの連鎖→「マイリー・サイラスがヘイリー・ボールドウィンをいじめていたことを暴露。マイリー・サイラスいわく、「いまのあなたは私が作り上げたもの。わかる? あの経験があなたを強くしたんだから」「いまならクソみたいないじわるだって、どう扱えばいいかわかるでしょ? 私がクソみたいにいじわるしたおかげで」と、ジョークにした。

「いじめのおかげで強くなれた」とコメントするスターは案外多い

☆ヘイデン・パネッティーアが、学校でひどいイジメにあっていたことを告白した。「学校ではよくからかわれたわ。本当にひどかった。ものすごいイジメの時期があって、ボロボロにされた」と語ったが、「大変だったけど、おかげで強くなれた」と言い、イジメにあってよかったとコメントしている。

☆イリーナ・シェイクが、少女時代に逆境を経験したおかげでモデルとして必要な強さを身につけることができたとインタビューで語った。「私は背が高くて肌が浅黒かったし、ロシア人らしいブロンドではなくダークな髪色だったから学校でいじめられたわ。でも、いじめられたことや苦労した経験のおかげで、私は強くなれた。モデルの世界では不合格になることがよくあるけれど、それに耐えられる強さを身につけたのよ」と、イリーナは話している。

☆「デブ、死ね、臭い! を乗り越えて/著者: 細山貴嶺」より「僕は今、僕をいじめた人達に本当に感謝しています。いじめられた経験があったから強くなれたし、自分自身を愛せるようになった。こうして自分の体験を語ることもできるようになりました。いじめられていたことは忘れられないし、それは決していい思い出ではないけれど、今の僕があるのはある意味で彼らのおかげです。」

ほとんどが皮肉だったり、そうでも思わないとやっていられない、ということなんだろうけど、「こんなことを被害者に言わせたくないなあ。」というのが、わたしの正直な気持ちです。


🌼5.【「愛」や「正義」という凶器】

皆さんは、同じ教室の隣の席に、不潔で臭いクラスメイトがいたらどう思いますか。悪臭が好きな人はほとんどいないので、大半の人が不快に思うでしょう。もし、あなたがその臭いに耐え切れず「臭い!学校に来るな!」と言って、まわりのクラスメイトも「そうだ!そうだ!良く言ってくれた!」と言ったとする。これは、集団いじめだと思いますか?それとも、「それぞれが、素直に本当のことを言っただけだ。いじめられる側にも原因があるから、自分たちは悪くない。」と思いますか?

もし、その子の家が貧しかったり、家でネグレクトにあっていて、お風呂に入れてもらえていなかったら?もし、幼い頃から悪臭漂う家に住んでいて、臭いに気がついていないとしたら?もし人工肛門のパウチ破れなど身体的事情があったら?ひとえに「臭い」と言っても、その原因は様々だし、本人にもどうしようもない(し、他人にわざわざ言う様な事でもない)問題だってあるのです。相手の状況も分からないまま、ただ自分の感想を投げつけて無神経に相手を傷つけるのは、決して正義ではありません。

ですが相手の事情を想像したり、相手を傷つけないように意見を伝えることは、大人同士であっても難しいし、とても時間も手間もかかる面倒くさいことです。ましてやお互いに子どもであれば、そこまでの対人スキルがある子どもはそういません。そういう時は発言をする前に「とりあえず一呼吸置く」そして「それは、どうしても相手に言わなければいけないことだろうか」ということを考える約束をするのが良いかも知れません。

誰もがいじめは良くないということを知っていても、いじめにならないように物事を解決することはとても困難なのです。いじめている人から見れば常にいじめは「正義」であるし、「自分からみた正義をぶつけて解決する」というのは人間関係において、とても「早くて楽」なやり方なんですね。

また、正義や正論というのは、一見とても魅力的で格好よく見えるもの。いじめはいつも誰かの一方的な正義からはじまり、その正義が周囲の共感を呼んでふくらみ、雪だるまのように大きくなってゆきます。気がついたときには言い出しっぺの手におえないところまでその勢いは増し、そこに誰かを叩いてスッキリしたいだけの野次馬が集まり、誰かを死に至らしめることもある。「そんなつもりじゃなかったのに」と思っても、もう後の祭り。ほとんどのいじめは明確な悪意ではなく、ほんの少しの「正義」と「共感」からはじまる。正義の暴走が、取り返しのつかないいじめを生んでしまうのです。

「正義」と同様に、「愛」もまた厄介な感情です。愛の反対は憎しみだと言われているように、人は愛するものや守りたいものができると、それ以外のものに対して攻撃的になると言われています。例えば我が子を守りたい気持ちがエスカレートしてモンスターペアレント化したり、他所の子どもを敵視してしまう親のように。

「復讐」がこれに当たります。復讐の源とは、愛です。自分や、自分の愛する人を傷つけられた怒りです。復讐したいと思うのは、人として当然の気持ち。ですが、復讐は認められていません。どんなに傷ついても、個人的に復讐をすることは許されていません。仮に大切な人を殺されても、仇討ちをすることはできません。

なぜなのか。それは、戦争で攻め入られた国が相手の国に攻撃して、その相手がまたやり返して…というように、復讐には終わりがないから・関係ない人々までもが苦しむことになるから、と言われています。が、やられた側としては因果応報で相手にも同じ苦しみを味合わせてやりたいと思うのは当たり前の感情だと思います。一応、復讐の代わりになるものとしては法律があり、国があなたの代わりに裁いてくれることで、憎しみの連鎖による悲劇を止めることができます。でも残念ながら、法はまだまだ不完全で、犯した罪に対して償えるとは言い難いし、加害者に甘いです。特に未成年者は、いじめ殺人で逮捕されてもすぐに出てきてしまうし、慰謝料の支払いすら踏み倒していたりする。法律は生きている人間の治安の安定のためにのみあり、死んでしまった人や、被害者のためのものではないからです。これはわたしたち大人側が解決していかなければならないと思っています。

ヤフー知恵袋ですが、「なぜ仕返ししてはいけないのか?」という質問へのベストアンサーが良かったので紹介しておきます。

「あなたの言われていること、よく分かります。被害者よりも、加害者の方が尊重され、守られることは少なくないです。いじめられる側の苦しみもよく分かります。復讐したい気持ちにもなりますね。それは、明らかに、いじめる側が間違っているからです。

しかし、“復讐”はしてはいけません。でも、ただ黙って、耐え忍ぶこともよいとは思いません。あなたは“復讐”ではなく、“正当に相手の間違いを正す”ことをしてください。あなたの“復讐”の動機は、いじめっ子にこれまでの行いが間違っていることを知らせ、後悔させ、改心させたいというのが目的のはずです。そうであれば、尚のことそうするべきです。

現状のいじめがどのようなものか、また相手がどのような人なのかによって、どのように話すか、どのように対処するかは異なりますが、復讐によって相手が自分の行いを改めることは少なく、また復讐の後に残るものは
虚無感です。でも、悪を行うことなく、正当に相手を正した後に残るのは満足感や清々しさです。そちらの方がいいとは思いませんか?」

悪を正すために、あなた自身が悪になってしまってはいけない。同じ穴に落ちてはいけないよ!ということですね。動機が正義や愛という正しいものであっても、その「行い」が悪であれば、それはもう悪なのだということ。人が最も他人に対して残酷になれるのは、正義や愛と言う、最大の凶器を手にしたときなのです。

【わたしのせいじゃないーせきにんについてー/文・レイフ クリスチャンソン 訳・にもんじまさあき 絵・ディック ステンベリ】

「はじめたのは、わたしじゃない」「みんなたたいたんだもの」「その子がかわってるんだ」口々に「わたしのせいじゃない」と言う子どもたち。
突如、真っ黒なページに無言で写真が続く。責任とは何かを突きつける絵本。いじめている側の大勢の子どもたちはそれぞれ「自分なりの正義」を大義名分にして、ほんの少しずつ嫌がらせや無視をする。でも、それらを受けている側の子どもはひとり。それぞれが、わたしは悪くない。わたしのせいじゃないわ、と言い続けた結果が最後の数ページにあります。これは、ぜひ実物を見て欲しいな。

まとめ

【「どの登場人物の役になっても演じられるか?」いじめをなくす読書法】

皆さんは、物語の本を読むとき、どのように読んでいますか?きっと、ほとんどの人が、その作品の主人公やヒロインの気持ちに感情移入して読んでいるのではないでしょうか。

わたしは、俳優の仕事をしています。世間では女性俳優のことを女優と呼びますが、男性俳優のことをあまり男優とは呼ばないし、声優の仕事のときなどは特に女性が少年や若い男性の役をやることもあるため、なんとなく自分の職業を名乗るときは俳優、または役者と言うようにしています。男性も、女性も、大人も、子どもも、時には犬や猫や宇宙人など、演じる役はさまざま。このように、自分ではないものを何でも演じる仕事です。

当然ですが、この仕事では好きな役や、自分が理解できる役ばかりをやるわけではありません。中には、ひどいいじめをする役や、無差別大量殺人犯の役を演じることもあります。どんなにむかつく、許せない、こんなことをするなんて信じられない!と思うほどひどい人物であっても、その作品の中の世界においては自分がその人そのものに見えなければならないし、その人物を「自分として」演じなくてはならないのです。

物語の脇役や、主人公の敵役など、理解できない人を演じることになったときは、私たち俳優は、その物語の主人公やヒロインの気持ちで物語を読むことはできません。どんなに脇役であっても、主人公やヒロインにとって許せない人物であっても、その役の俳優にとっては、その物語は脇役こそが主人公の物語になるんですね。本を読むときに、視点を切り替えなければいけないんです。

もちろん脇役の物語などは本のどこにも書かれていないので、そこに書かれていない部分は、俳優が想像力で補って演じなくてはなりません。よっぽどの酷い記憶喪失でもない限り、自分のことを何も知らない人間はいませんし、その人が生まれてから今まで経験したことの全てを知らないまま、その人を自分として演じることはできないからです。

この人物はどこでどういう家庭環境で生まれて、どうやって育ってきたのか。この人がこういう人間になるには、今までどんな経験をしてきたんだろう?と、そこには書かれていない脇役の人生を想像しなければなりません。そうすると、何が起きるか。だんだんと、今まで見えなかったものが見えてくるんです。

物語でも、実際の事件でも、殺人犯が人を殺す動機はたいてい短絡的で、自分勝手で、とても同情できないものばかりです。主人公や、被害者の目線で考えれば、犯罪者は人間じゃないバケモノだ、こんな酷いことをする人間は死ねばいいのに。きっと誰もがそう思うでしょう。

でも殺人犯が事件を起こす前には、いくつものきっかけとなる事件や、兆候があります。何度も理不尽なめにあい、世の中を恨み、あきらめることを覚え、少しずつ心が死んでいき、その先に、他人を傷つけても何とも思わない人間が出来上がる。誰もが生まれたときから、他人を傷つけたいと望んでいたわけではありません。

加害者は確かにバケモノかもしれないが、バケモノも元はわたしたちと同じ人間だったのです。人間は生まれ持った資質のほかに、環境によってもつくられる。決して同情はできませんが、「犯罪者はつくられる」。その言葉が何度も頭をよぎります。

みんな最初は、同じ赤ちゃんだった。その赤ちゃんだった時代までさかのぼって、人格を組み立ててゆくのが演劇の「役作り」といわれている部分です。もしかして加害者の人生を知ることは、また新たな加害者を生み出さないためにも活かせるのではないか。この作業を、いじめの加害者をつくらないためにも活かせないだろうか。

物語の本は、仮にこの人を主人公にしたら、世界はこういう風に見えますよ!という、あるひとつの方向からみたお話です。でも、現実の世界では誰もが主人公であり、自分から見た自分の物語以外にも、いろんな世界があります。自分からみて「これが正しい!」と思うことも、別の立場の人からみれば「それはおかしい!」と思うこともある。主人公に同情して涙するだけでなく、ひとつの本を、いろんな登場人物の目線で読むことができて、はじめて人は優しくなれるんだと思うんですよ。

秋吉里佳子さんの「暗黒女子」、湊かなえさんの「告白」みたいに最初から群像劇で、いろんな人がそれぞれの目線でひとつの出来事を語るオムニバス小説もありますが、常日頃からそういうトレーニングをすることが、本当の意味で「本を読んで感受性を育てる」ことなんだと思います。

【ぼくらが作った「いじめ」の映画「いじめ」を演じて知った本当の友情/今関 信子】

群馬県にある大胡小学校の映画クラブでは、「いじめ」の映画を作ることになった。撮影は順調に進んでいく。しかし、架空のいじめは、演じていくうちに、現実のように、出演者を苦しめていった―。社会問題にもなっている「いじめ」に、新しい形で取り組んだ、子どもたちの一年間を追う。

加害者、被害者、傍観者を自分たちで実際に演じてみることで、みんな自分たちと同じ子どもなのかもしれないと気づいてゆく生徒たちのドキュメント。わたしも先日「福島三部作」という舞台で、放射能と呼ばれていじめられる役をやりましたが、演技であってもいじめはつらい。でも、演じてみてわかることはたくさんありました。本を読むのも、演技をするのも、全ては疑似体験。本当の人生で取り返しのつかないミスを犯さないように、上手く物語を利用していけたらいいですね。

【感情は変えられなくても「行動」は変えられる】

心の中で誰かを嫌いだと思うことはどうしようもないし、心の中は自由です。でも、嫌いでも、誰かをいじめないようにすることは出来ます。絶対にできます。わたしが皆さんぐらいの頃、学校からいじめをなくしたいと訴えると、ほとんどの大人は「いじめをなくすなんて無理だ」と、馬鹿にして笑いました。でもそれは、わたしが「人が人を嫌う心」をゼロにしようとしていると勘違いしていたんだと思います。

正義の反対は悪ではなく、また別の正義があるだけで、みんなそれぞれ見ている世界が違うのだから、全ての人と人が分かりあえることは永遠にありません。どんなに素晴らしい人格者であっても、嫌いな人のひとりやふたりは必ずいるものです。でも、「いじめをやめよう」とか、「人を殺さないようにしよう」とか、「戦争をしないようにしよう」など、お互いの安全を保障しあうための行動を、共にすることならば出来るのではないでしょうか。

さっき言ったように、心の中は自由なのです。心の中で、「あいつをいじめたい」「あんなやつ、死ねばいいのに」と思っても、いじめなければいいし、殺さなければ良いだけです。それは皆さんの誰もが今すぐにでも出来る、とても簡単なことです。

行動に移さないということ。人はそれを理性と呼びます。嫌いになったり、いじめたくなるのが人間の本能なら、それらを抑制する理性があるのも人間です。

わたしたちは本能のまま生きる獣でしたが、今は、何年もかけて、理性ある獣になろうともがいている途中の人間です。人は理性を手に入れたことで、自分よりも弱い個体を多く生かすことに成功し、その結果、体は強くなくても頭脳面で優れている優秀な人たちもたくさん生き延びることができ、多くの知性が人類の寿命を延ばし、わたしたちの未来を切り開いてきました。

ひとりでも多くの子どもをいじめから守り、安全な場所で学ばせ大人にすることが、人類の未来をつくります。人にはそれぞれ得意なことがあり、それは1人ずつ違うから…。「感情ではなく、互いの人権を守る行動を心がけ、生存率をあげ、未来のために社会を良くしてゆく」

理性とは、きっとそのためにあるのかも知れない。

感情だけに支配されない「理性ある行動」を具体的に行うに当たって、とても良い文章と本を見つけたので紹介しますね。「みみくらげ3000さん」のこちらのツイートと、麹町中学校の工藤先生の本です。


【「目的志向」で学びが変わる—千代田区立麹町中学校長・工藤勇一の挑戦/多田伸介】

心の中は変えられないが行動は変えられるということや、固定担任制をやめた話など、先陣を切って学校を改革してきた工藤先生の活動を記した本。他にも学校づくりについて為になるお話がたくさん載ってます。

学校や社会を変えるのは大変だし、世の中は理不尽なことばかりですが、昔からこういうものだから仕方ない…いじめがあるのは仕方ない…どうかいろんなことをあきらめず、少しずつでいい。皆さんが「誇りに思える学校」をつくって行ってください。

これでわたしの授業を終わります。


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※実際の出張授業では、この他に質疑応答などの時間もとっています。




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18歳になりました

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コメント2件

私は常々思うんですが、こんにちは「優しさ自己慢症候群」で溢れてると思う。薄っぺらい優しい言葉を、言いやすいサイドに言う。そのことで自分が満足して自給自足。SNSが発達してそんなことを発信して賛同を求めて満足するのも容易くなった。本当に優しいのなら、今すぐ全力で割って入って止めに行けば良いのに。難病で死にそう可愛そうってRTするのが本気なら、全財産振り込めばいいのにしない。不思議だー。
悪いのは被害者じゃなくて加害者だと、久能 整君も言ってるよね。ほんとそれ。
はるかぜちゃんは小さな時から、いじめについて向き合い、その発信力に毎回驚かされていました。SNSなど、誹謗中傷は気にせず、わたしみたいにはるかぜちゃんを精一杯応援している大人もいますから、どうか、いじめについてこれからも社会の役に立ってあげてください。
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