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うぬぼれ小学生時代

私はヴァイオリン教室を立ち上げて、都内で指導もしている。

よく生徒に「ここはまず覚えるほど歌って、そのあとメトロノームで確認して、まず2時間は練習しなさい!」

と偉そうに言っている。

20数年前の私が聞いたら鼻で笑うだろう。

大人になったら五嶋みどりになる

私がヴァイオリンを始めたのは3歳の時。

英語教育番組を観ていたらヴァイオリニストの五嶋みどりさんが演奏していた。

「ママ、これやりたい」

といった記憶が1番古い記憶かもしれない。今でもはっきり覚えている。

母の教育方針は、「お金は残せないけど、教育を残してあげたい」とのことだった。小さい頃から沢山の本物に触れてきた。

長崎市外の片田舎。一般家庭の幼児がヴァイオリンを習いたいとほざくので父は激怒。

「こんなに小さい子供に楽器なんてさせてなんになる」と、母と口論していた。

父をなだめるために、とっておきのキャンディを渡すも、激昂した父には効かず、キャンディを投げ飛ばされて大泣きしたのも覚えている。

でも母は父を説得し、私のためにヴァイオリン教室を探してくれた。
本物のヴァイオリンが届くまで、母が作ってくれた発泡スチロールのヴァイオリンで遊んでいた。

ヴァイオリンを初めて触ったときのことは覚えてないが、自分からやめると言ったことがないので、きっととても嬉しかったんだろう。将来は五嶋みどりさんになる、いや、大人になれば五嶋みどりになれる、うぬぼれが始まっていた。当時の練習時間、1週間20分。これが小学6年生まで続く。

幼稚園を卒園し、市立の小学校へ入学した。

1クラス30人。学年は2クラス。これから中学3年生までの9年間、クラス替えをしながらみんなと過ごすことになる。

ヴァイオリンをやっているひとは私のほかにいなかった。周りのピアノを習っている子は数える程度だった。

学年が上がるにつれて、周りとだんだん合わなくなっていって、取り残される子になった。2人組を作るときが1番嫌いだった。

小学3年生から体操服がなくなったかと思えばバルコニーに投げられていたり、絵の具セットがなくなっていたり、図書カードがぐしゃぐしゃになってゴミ箱に捨てられていたり、机の上に落書きがされていたりと、日常茶飯事だった。

先生は全く頼りにならなかった。大人は信じられない存在だった。

でも私はなにも悪いことをしてないし、というドライな気持ちで毎日休まず学校に通った。

「よくあんなに嫌なことされたのに学校に来れるね…」と、まぁまぁ仲良い友達に言われたときに「まぁ、私なにも悪いことしてないから…」といったのを覚えている。

たぶんそれなりに辛かったと思う。
でも、家に帰ればヴァイオリンがあるし、土日になればジュニアオーケストラの友達に会えるし、私の世界がここだけじゃないことは知っていた。

だれが嫌がらせをしたのか、絵の具セットはどこにいったのか、未だにわからないままだが、普通に過ごしていると、友達と呼べる存在ができた。

小学校高学年になって、1つ上の先輩の卒業式の練習が始まった。

私は5歳からピアノを習っていて、先生がスパルタだったこともあり、実はヴァイオリンよりも熱心に練習していた。

「ツキモトさん、卒業式の合唱の伴奏弾いてくれない?」

と音楽の先生に頼まれた。当時、どんなことがあっても音楽の授業には熱心に取り組んでいた。絶対に音楽では負けたくないと思っていたから。

私は快諾して練習に励んだ。叔母が音楽の先生だったので、伴奏用のCDを借りて朝から晩までピアノを練習した。ピアノのレッスンも増やした。

すると、もう1人、隣のクラスの友達が卒業式の同じ曲の伴奏を頼まれていることを知った。

卒業式当日、どちらかが風邪で休んだ場合の代奏のために2人用意しているらしい。私とその友達のオーディションをすることを知った。

「じゃあ私降ります。自分が弾けなかったら悲しいし、友達が弾けなかったらせっかく練習してるのにかわいそう。風邪で休んだら先生が弾けばいい」

こう伝えたのがオーディション直前。

担任の先生から「せっかく練習したんだから聴かせてくれば?」と促され、音楽室へ向かった。

音楽室には、音楽の先生、伴奏志望の隣のクラスの友達、なぜか隣のクラスの担任の先生がいた。

棄権の旨を伝えるも、とりあえず弾いてみて、との一点張り。

審査員はピアノの前で演奏を聴く音楽の先生、奥の楽器室には隣のクラスの担任の先生。どちらが弾いたかわからないようにドアを閉めての審査だった。

じゃんけんの結果、先行は私。

転調するところで1箇所つまずいてしまい、一瞬弾き直した。でも自分なりにベストは尽くせた。

次に演奏した友達は緊張のあまり、途中2ページすっ飛ばし、1分くらい止まり空白の時間があった。その後なんとか最後まで弾いて私たちの演奏が終わった。

そのあと、音楽の先生は楽器室で、隣のクラスの担任の先生と数分でコソコソと話し合う。

「あぁ、こうなったら私が演奏することになるのか」と労わりモードになっていた私に先生2人が告げたのは

「今回ツキモトさんは残念でした。1箇所弾き直したね?あれは合唱が困っちゃうよね。〇〇さんは途中カウントして合唱が入るところで入れたよね、だから後者の方が卒業式に演奏してもらいます!」

もちろんミスはよくない。でも、参加するつもりがなかったオーディションでよくわからない理由で落とされて、納得できないままでいた。とりあえず担任の先生に結果を伝えると「ドンマイ!」と満面の笑みで励まされ?た。

次の日から、私は学校に行かなかった。
どんなに自分の物がなくなっても学校に行ってたけどもう行けなかった。

私が自分の身に起きたことを母に伝えると、驚いて学校へ連絡し、校長先生と担任の先生と音楽の先生がうちに謝りに来た。私は近所の祖父宅へ逃げた。

審査員が音楽の先生、またなぜか隣のクラスの先生の2人だけなのか、そこが疑問だった。
落とされて恥ずかしいとか、受かった友達が憎いなんてことはなかった。ただ悲しさだけに包まれた。先生がどう謝ったかは母から聞かされたとおもうが、覚えてない。

そのあと数日間は保健室登校だったのを覚えている。友達が休み時間に会いに来てくれたことが嬉しかった。

私のコンクール嫌いはここからきているのかもしれない。

どう乗り越えたか、あまり覚えてないが、自分の中で沸々とこみ上げた感情と共に

将来、五嶋みどりになって絶対に見返してやる…

という思いで当時を駆け抜けた気がする。練習時間が少ないのに反比例して野望は途轍もなく大きかった。

でもこのうぬぼれが当時のガソリンになっていたんだろう。

中学生になって気づくことになるが。

我ながら面白く少し冷めた小学生時代を送った。これが私の後のひねくれへと続く。

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