『死の貝――日本住血吸虫症との闘い』奇病撲滅に挑んだ人々の生きた証と、罪なき貝の悲劇
天正10年(1582年)、甲斐の名門戦国大名・武田家が織田信長の軍に攻められ、今まさに滅亡しようとしていた。追い詰められた武田勝頼に、律義にも暇乞いに来た足軽大将がいた。
その足軽大将・小幡豊後守の腹部は膨れ上がっていた。「水腫脹満」とは古くから農民を中心に甲府盆地の人々を悩ませてきた、太鼓腹になってやせ細り、やがて死に至る病であった。
しかし次第に、これに似た病が日本全国に点々と存在することが明らかになってくる。本書はこの奇病を克服しようと原因にせまり、その原因を断つべく奔走し、治療法を拓こうと奮闘した人々の、何世代にもわたる軌跡を徹底的に調べ上げた驚くべき労作である。
現在の広島県福山に近い片山という地域にも、「片山病」と呼ばれて昔から恐れられた病があった。江戸末期の1840年代、連日患者を診察していた若き漢方医・藤井好直は、原因不明のこの病を世に問おうと書物にしたためた。この書物を要約すると、「土地の者が水に入ると湿疹が出る。やがて嘔吐、下痢、発熱などの症状を起こし、腹が膨れあがってやせ細り、死に至る。原因がわかれば治療もできるが成功した例はなく、まことに悲しく残念である。広く諸国の医師の力を借りたい」。
だが、藤井の願いも虚しく「片山病」の原因はその後もわからぬままであった。やがて、原因究明に取り組む医師が現れる。藤井より20歳ばかり年下の窪田次郎である。窪田は新聞に投書するなどして全国の医師に意見を求めたが、他の地域にこの病を知られることを恥とした人々からの反発を招いてしまう。
結局、藤井も窪田も、「片山病」の原因を知ることなく世を去った。
じつは窪田が亡くなるよりも前、明治22(1889)年に佐賀、明治26(1893)年に福岡からも同様の奇病が報告されていたのだが、これらの病が広島と山梨と同じものではないかと提唱されるには、まだ何年もの時を要することになる。
一方で、明治を迎えて「甲斐」から「山梨県」となった甲府盆地も、変わらず奇病に悩まされていた。いつしかこの病は、「地方病」と呼ばれるようになっていた。
転機が訪れたのは、明治30(1897)年。「地方病」に冒され余命を悟った杉山なかという50歳を超えた農婦が、主治医・吉岡順作に自分が死んだら解剖して病気の原因を究明するよう申し出たのである。死後に解剖されたなかの内臓からは、大量の寄生虫卵が発見された。成虫こそ見つからなかったものの「地方病」が寄生虫による病であることが、これでほぼ明らかになったのだった。本書で意訳された
から始まる杉山なかの『死体解剖御願』には、善良でしっかりとした人柄がにじみ出ていて、長年この地で真面目に生きてきた人たちが数多くこの病に苦しみ、命を落としてきたことに思いを馳せずにはいられない。
なかの献体から7年が経った明治37(1904)年。山梨を訪れた岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)の病理学教授・桂田富士郎は、地元の開業医・三神三郎から「地方病」に冒されてもはや救われる術のない飼い猫の提供を受ける。「姫」と名付けて11年間家族の一員としてかわいがってきた愛猫を解剖に差し出した三神は、逡巡する桂田に、地方病解明を願って死んだ杉山なかの例を出して説得した。――そしてついに、その三神の愛猫から、未知の寄生虫の成虫が世界で初めて発見されるのである。
この頃広島では、藤井と窪田の遺志を継ぎ、「片山病」に取り組む若い医師が現れていた。明治34(1901)年に開業した吉田龍蔵は、「片山病」を寄生虫によるものと考え、死亡した患者の遺族に懇願して解剖を繰り返していた。「腹切り医者」と陰口を叩かれ生活に苦しむようになりながらも、京都帝国大学医科大学の病理学教授・藤浪鑑と共に片山病患者とみられる殺人事件被害者の遺体を解剖し、こちらもついに未知の寄生虫を発見する。山梨の猫から寄生虫が発見された、わずか4日後のことだった。
何百年以上も病に苦しみ、原因の解明に取り組み始めて何十年、何人もの医者がバトンを渡しながら同時多発的に各所で研究を進め、やっとたどり着いた小さな寄生虫。今ならSNSにあげればあっという間に「身近に似た症例がある」とつながることもできるだろうし、精度の高い顕微鏡や解析技術などで、より迅速に原因にたどり着くことができただろう。本書でこの謎の寄生虫――日本住血吸虫が発見されるまでの気の遠くなるような経緯を見ただけで、医学の進歩がいかに困難で時間のかかるものであったか、そしてそれがテクノロジーの進歩に伴って加速度的に早まっていることを実感させられる。
でも……、ここで紹介したのは、病を克服するための、ようやく入り口に立てたところまでにすぎない。まだ、日本住血吸虫の生態を解き明かし、感染経路を確定し、感染を防止し、治療薬を開発するという、気の遠くなるような試練を乗り越えなければならない。
本書『死の貝――日本住血吸虫症との闘い』はその過程を克明に記録し、この病の撲滅に挑んだ人々の生きた証を、おそるべき重厚さで私たちに伝えてくれる。本書を手にする人たちは、なぜこの寄生虫に感染するのか? どうやって撲滅するのか? その謎解きの緊迫感と、生物たちのつながりの複雑さに打ちのめされながら読書することになるだろう。
ひとつだけネタバレをするなら、それは本書のタイトル『死の貝』である。日本住血吸虫が人体に感染するのには、発見者の名前をとって「ミヤイリガイ」と命名され新種として発表された、小さな巻貝が関与している。
もし日本住血吸虫症の感染源探しよりも前からミヤイリガイが研究され、すでに生態が明らかにされていたら、感染経路の解明はもっと迅速に進んでいたかもしれない。マイナー生物の研究によく投げかけられる「それ、何の役に立つんですか?」という質問があるが、このミヤイリガイの例は、日ごろからの基礎研究の重要さについても考えさせられた。
そして本書では、さまざまな手段でミヤイリガイを根絶しようとする様が述べられているのだが、勝手に寄生虫に利用されているだけで、貝自身に罪はない。この貝が生息しないように溝渠のコンクリート化も徹底して行われたが、これは現在の生物多様性を重視する価値観に慣れた身には衝撃だった。本書でも、山梨県内から出たというこんな意見が紹介されている。
もともと人の暮らしは、野生生物とそれが媒介する病との闘いの歴史でもあった。最近では「野生生物との共生」や「自然豊かな町づくり」といった言葉がよく使われる。それは「良いこと」として受け入れられるし、実際、良いことであるには違いない。ただ……
新型コロナウイルスも野生動物が媒介したと言われているし、昨今はクマやマダニによって人が命を落としたニュースを耳にすることも増えた。だからといって、人間に不都合な生物をすべて滅ぼせば生態系は崩れ、そのしっぺ返しが待っていることは想像に難くない。いや、それ以前に、生物たちが人為によって存続できなくなるような状況自体に心が痛む。でも……
自然や生物に人一倍関心をもってきたつもりだったのに、一筋縄ではいかない自然との関わり方に頭を抱え、自分の視野の狭さに気づかされて圧倒的な敗北感に打ちのめされながら、「読んで、良かった」と心から思った本。『死の貝』は、忘れられない読書となった。
Wikipedia三大文学とされる「地方病 (日本住血吸虫症)」、「八甲田雪中行軍遭難事件」、「三毛別羆事件」。図らずもこの『死の貝』のレビューで、そのすべての関連書をHONZで紹介したことになる。過去2作はいずれも反響の大きかったレビューだが、執筆にあたって小説は史実とは違うことを改めて実感させられた。小説と共にノンフィクションの方も、ぜひ読み比べてみてほしい。
『八甲田山 消された真実』レビューはこちら。
『慟哭の谷』レビューはこちら。
「自然豊かな町づくり」が、「町の真ん中にクマが出る」につながってしまった事例が本書でも紹介されている。レビューはこちら。