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田中義樹「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」ただのメモと私的感想、おすすめの弁

harukasaito

会場に到着した瞬間拍手と「ありがとうございました〜」という声が聞こえて、金曜日と土曜日に30分毎にコントが上演されているということは知っていたから「あ、ちょうど終わったタイミングで来ちゃったな」と思ったそのあと舞台の幕が開いた。
透明な舞台の幕は新型コロナウイルス流行時の現在飛沫感染防止のために設けられているので、上演中に閉じられていて、終演後に開かれ、演者である田中義樹は舞台から降りてくる。
舞台から降りた地面は観客が立って作品を鑑賞している地面で、「あっちに映像作品もあるので」といざなわれたままに「作家を集めてサッカーをする」映像を見ていると私よりあとに来たゆえに背後にいる別の観客に(でも私にも言ったのか?)「めちゃいい展示でしょ?」と作家本人が言っていて、来たばかりのその観客も、私も、曖昧な態度をとらざるをえない。”いい展示”かどうか判断される前の段階であると思う。しかし、”いい展示”かどうかはいつわかるんだろうか。

「作家を集めてサッカーをする」映像があると前情報で聞いた時とその画像をチラ見した際、Oh,ブラザーフット~と思ったんだけど、参加している女性作家が見えてきた。見えてきたというか活躍してなかったしことさらにそういうふうにはぜんぜん編集されていないから見えていなかったんだけど、家に帰って眠ってお腹痛くて起きた夜中、ふと思った。
決まらないゴール、相手チームのPKチャンスをもたらすハンドの発生。作家のサッカー内で女性作家はほとんど活躍しない身体的側面がよく見える。よく見えるけど、よく見ようとしないとそうは見えない。同じルールで戦っていることになっているから。私ももしこのサッカーに参加したら自分でそう思っている。自分のことをわざわざ女性だと思ってこのゲームに参加してはいない。ただ、目の高さに飛んできたボールに思わず悲鳴をあげてハンドしてしまう時は、どうしてもある。そんなの自分でも情けなくて嫌だけど、あるだろうとわかる。お腹痛くて夜中起きたりしなくていい人羨ましいし、羨ましがりたくない。
作家VS作家の勝負のフィールドは、ゴールネットをみんなで運び、設置することから始まる。
自ら用意したゴールにシュートを打ち込みあい、勝つのも作家で負けるのも作家で、本当笑えるビデオだし、なんか面白かったな~と思っていて実際男女の身体性に回収しきると減じる様々な要素があるんだけど、
男性と女性はちがう、なぜなら体の作りが違うから。その前提はよっぽどのバカ以外はそろそろ全員が了解している自明のもの。だけど。そうは言ってもそれが、作家の身体性が、男女というだけで違うということが、ここまで実際に可視化されたことが今まであっただろうか。しかも、ここでそれは可視化らしい可視化の手段をとってはいない…。ただ作家全員でサッカーをしているのだ。

ゴールネットを運びながら「今回の展示に今までの作品を流用しようとしたら全部著作権的にダメだったんです」と語るように、田中の作品は流用、転用、盗用、アプロプリエーションに満ちている。
青い床に置かれた本当にちっちゃい粘土の船「ボート」が、カモメ郡と、草間彌生のソフトスカルプチュアの呼応をささやかに形作る。
“クリス・オルデンバーグが最初にグリーンギャラリーでソフトスカルプチャーを発表する前に、それは草間彌生がやっていた。プリントのパターンで作品を作るのもアンディウォーホルよりも先に草間がやっていた。”と会場で配られているテキスト(絶対もらって帰ったほうがいいです)でアジア人で女性である草間よりもオルデンバーグやウォーホルが認められる空気を指摘し、”自分も草間彌生さんの作品をパクることはできないものかと、”思案する。

オルデンバーグやウォーホルのように、
のようにではなく、のように。
(帰り道のメモ、そうとしかメモることができなかった。)

舞台上の前説で
「〜という仕組みによって、この展示はじつは海原雄山展だったのでした」と語るその言葉はただの悪い冗談だろうか?
美味しんぼは数巻しか読んでいなくて海原雄山をどう見たらいいのか分かっていないけれど、美味しんぼ数巻読み状態の私が読み解ける程度のコンテキストとして、海原雄山が端的に”主人公にとって乗り越える父的存在”の象徴であるとしたら、”アーティストである田中にとって乗り越える父的存在”はウォーホルであり、今までの現代美術全部であり、それは”絶えず新しいものによって既存の美術を乗り越え時代を更新していき続ける”というやつではなくってもはやそういう価値観に裏打ちされたマッチョな現代美術自体が乗り越える父的存在である、と、問題意識を設置することはできる。

彫刻の台座/演劇の舞台について。
「ドガの絵の舞台のよう(高い台に上がる人たちの身分は低いから)」と題された舞台は、「CとMとYと、Kがないこと」と題された彫刻台の、”Kがない”つまりブラックがない彫刻台から続くようにも見える位置に設置されている。「CとMとYと、Kがないこと」においてシアン、マゼンダ、イエローで塗られた雌ライオンの彫刻(シアンが特に可愛いな)は、黒色のメスライオンがいないこと、肌色に塗られたオスライオンの彫刻との呼応、そこから続く舞台で上演されるコント。

象徴としての色。
前述の彫刻にかぎらずレインボーに塗られたがはがされた香港のライオンの話、ちびくろサンボでバターになった虎みたいな色のライオン、肌色のライオン、赤く塗れなかったライオンの目、色を超えた色、金色。象徴としての色に満ちている。(象徴としての素材、象徴としての動物、にも満ちているんじゃないかと思うんだけど拾い上げられていない。)
そもそも立ち返るとこの展覧会のタイトルは「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」である。気になるのみならず”めっちゃ気になる”。
めっちゃ気になるの対義語として「ジョナサンの目の色なんて全然気にしない」を設置できるけど、「そもそも差別という概念はないし意識をすることもない。」と言ったタレントがつい最近もいたように、リチャードバックにとってはジョナサンの目の色は設定するべき必要もない自明のものだった。母親しか女性のかもめが出てこない、かもめのジョナサン。
でも田中は「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」のだ、それは香港で赤く塗られたライオンの目と呼応し、ジョナサンの目の色なんて気にしない時代の終焉を告げる。終焉を告げながらも、その舞台の幕は始まる時に閉じられ、透明ゆえに見ることが可能で、終わる時に開かれる。開演しているはずの幕が開いた状態の時、演者は私たちの歩く客席であるはずの場所、社会、展示場で「いい展示でしょ?」と話しかける、社会側が喜劇(コメディア=ダンテの「神曲」らしい)にのみこまれる。透明なシートを隔てて一つの舞台が終わった後の世界がお互いに上演され合う。

もう今日で終わる展示だからはやくおすすめってことだけかいちゃわないととおもうっていうか要素めちゃめちゃに詰まってるから全然全部に触れられないしわかってないことのほうが多いけど、
“10年後を見てみたい作家”として今回選ばれた作家が現在から10年後を、世界が持つ過去全てを引き連れて見つめるすごい展覧会だと思う。ほんとうにすごい、見てない人は全員見た方がいいと思います。

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第21回グラフィック「1_WALL」グランプリ受賞者個展
田中義樹展「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」
会期:2020.9.15 火 - 10.17 土
時間:11:00a.m.-7:00p.m.
日曜・祝日休館 入場無料
http://rcc.recruit.co.jp/gg/exhibition/21gra_yoshiki_tanaka/21gra_yoshiki_tanaka.html

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