見出し画像

カウンセラー、カウンセリングを受ける。【第二幕】

カウンセリングと意味について

 「なんのためにカウンセリング受けてるんだっけ?」「カウンセリングがなんのためになってるんだろう?」カウンセリングを始めたからには一回は誰もが体験するんじゃないだろうか。
 そうすると、「カウンセリング受けた意味がなかった」となりがちだけれども、当初受けた目的があるのだから、「意味がなかった」というより「意味を見失った」のかもしれない。
 人生がそうであるように、意味なんて予め存在したりなんてしない。意味とは、見出すものであり、与えるものと言ってもいい。そして、意味を疑うことはもう一度見出そうとすることでもある。

カウンセリングを受ける意味再考

 教育分析という名のカウンセラーが受けるカウンセリングを受けており、そこで深めた体験を書き記していた。プロセスを追うために連載する予定が、note離れしてかなりの時が経ってしまった。実は今カウンセリングは中断中。きっかけは体調不良。
 当日キャンセルは全額負担がカウンセリングの基本。カウンセラーがその時間のために用意し、スタンバイしてるからだ。それが2回続き、金銭的・時間的理由で中断した。でも、それは表面的な理由に違いない。お金と時間という誰もが口出ししづらいもっともらしい理由を隠れ蓑にした本質的理由があったのだと今は整理できている。カウンセリングに行けなかったことがきっかけとなったが、行けなかった理由がそもそもありそうだ。
 時が経ち、自分が臨んでいたカウンセリングを客体化できるようになった。noteを読み返すと、目を逸らすしかなかったのが、目を背けていても感じる受容感から目を見て話すことができようになり、真っすぐ私自身を自己開示できるようになっていった様子が書かれていた。そして、関係構築ができたころ、変化を望む欲が出るようになった。


 その頃には、きっかけとなった出来事から物理的に距離が置けるようになって、どうにかしたい感じがなくなっていた。そして、何をテーマに話したらいいかが自分でわからなくなっていた。出来事をどうにかすることが目的ではなく、それを契機に見えた課題に向き合うことが目的だったのだから、完全に自分が目的を見失い、カウンセリングに与える意味を失っていたのだと思う。そのなかで、”マゾ的”に自分の課題を見せつけてほしいという欲求が強くなっていき、カウンセラーには小さな苛立ちを覚えることも増えた。自ら意味を見出そうともせず、カウンセラーにカウンセリングのバリューを出してくれと望む気持ちがあったと考えられる、完全に他力本願で他責的なものだった。
 自分の課題をしっかり抱えられていただろうか?自分で引き受けていただろうか?精神分析、催眠療法、CBT・・・等心理療法の流派は数多あるが、それはマジックじゃない。鮮やかにカウンセラーが解き明かしてくれると依存するのは教育分析としては筋違いだろう。教育分析に臨む態度に課題があったと気付かされた。

受けていない間もカウンセリングは続いている

 こうしてカウンセリングが中断されている間にもカウンセリングの意味付けは変わっていった。中断中もカウンセリングが続いていたと言える。
 カウンセリングには回数制限がない限り「終了」がない。いくらでも深めることもでき全てに通じていくからだ。あまり気に留めていなかったが、「中断」と言う言葉に身をもって納得する。自分の中でカウンセリングは続いていて、意味を見出すことができたから、私はカウンセリングを再開すると思う。

人生にカウンセリングというパラレルワールドを

 カウンセリングはカウンセリングのなかで閉じられる部分と日常に持ち出していく部分とあるように思う。カウンセリングという非日常の世界で、”露わに”話せるが、社会的生活に戻るときにはまた閉じなければいけない。一方、中で得られた考えや気づきついては日常に生かし、自分の力にしくことが望ましい。開けたり閉めたり持ち出したりするそんなパラレルワールドがカウンセリングなのでは、と思っている。
 中断して以来、止めてせいせいしたという感覚よりもずっと気になっていて持ち出していたものがあった。そこに意味が見つかったから私はまた確かめに行きたいと思っている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?