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わたしたちのすべて(読書録「蜜蜂と遠雷」/恩田陸)

 

 本当は、ミキちゃんが嫌いだった。

 幼稚園に年中から入ってきた、色が白くて、利発そうな顔立ちの女の子。ふわふわの長い髪はいつもお花やリボンのヘアゴムできれいに結ばれていた。

 わたしとミキちゃんが同じピアノ教室に通い始めたのは、4歳の時だった。姉が弾いているのを聴いていたのでそれなりに弾けてしまい、やることがなくて外の遊具で遊んでいた(レッスン中なのに)わたしとは対照的に、ミキちゃんはきちんとお母さんの隣に座って、上手に弾いていた。ミキちゃんはピアノだけでなく、絵も工作も上手で、かしこい子だった。

 小学2年生頃までは同じくらいだったピアノの実力は、わたしが厳しい先生の教室を辞めてから、どんどん差が開いた。ミキちゃんはコンクールに挑戦するような熱心な先生の下で教わっているようだった。

 地元の中学に上がってわたしがピアノを辞めてからも、ミキちゃんは部活には入らず、ピアノのコンクールに出続けていた。クラスこそ一緒にならなかったものの、私たちは定期テストの成績上位の常連で優等生として扱われていたし、生徒会でも、進学校を目指す塾のSクラスでも一緒だった。
 ミキちゃんは、相変わらず色白で、長く伸ばした髪はやっぱりきれいにまとめられていた。そばにいる子といつも小さな声で話していて、田舎の公立中学にはそぐわない「お嬢さん」という感じだった。


 塾の男の先生たちは、ミキちゃんが好きで、冗談を言っては、彼女が笑うと喜んだ。いつもはおとなしいミキちゃんは、「きゃはは」って、口に手を当ててはしゃぐように笑う。8人しかいない塾のクラスで、ミキちゃんが中心になって花がさく時間が生まれる。
 
 でも私は知っていた。本当は彼女が気が強くて、かなりの負けず嫌いなこと。この間、私立中学に進んだかつての同級生を見かけた時に、「あたしたちのこと見下してるのよ」って敵意をむき出しにしていたこと。同じ学年の男の子が、みんなの前でこれ見よがしにピアノの難しい曲を弾くのを見て、「あんなの全然上手くない」って陰で怒っていたこと。模試を受けに行く電車の中でも、わたしが持っていたテキストを「貸して!」って手から奪ったこと。幼稚園のころから、ミキちゃんは本当はずっとそうなんだ。そのころからミキちゃんを知っているのは、ここではあたしだけだ。みんな、騙されてるんだ。
 
 ミキちゃんにやさしい先生の授業はそのまま続いて、私は周りに合わせてなんとなく笑って、ミキちゃんは変わらずお嬢さんのままだった。


 ミキちゃんとわたしは、電車で40分の都会にある高校を受験して、わたしだけが落ちた。合格発表の翌日、通っていた塾に挨拶に行ったとき、大学生の若い先生にメールアドレスを渡されているのを見たのを最後に、ミキちゃんにはたぶん会っていない。ただ、時々夢に出てきては、わたしたちは互いに罵り合い、怒鳴り合った。
 夢から覚めると、ちっとも着たくなかったブレザーが部屋にかかっているだけだった。ミキちゃんへの「嫌い」は、ミキちゃん不在のままどんどん根を張った。

 高校に入ってしばらくしてから、ミキちゃんがピアノをやめたという噂を聞いた。「都会の高校にはすごい子がいくらでもいるからねえ」と、教えてくれたその子は言っていた。



 上には上がいて、ずっとは勝ち続けられないということに、わたしたちは大人になるまでのどこかで気付くようになっている。
 でも、田舎の中学生だったわたしたちには、あれがすべてだった。作文が特選に選ばれること、定期テストで1位や2位になること、電車で40分の都会にある、頭のいい高校に行って、羨望のまなざしを浴びること。わたしが座りたい席のそばにはいつもミキちゃんがいて、わたしたちは何も言わないまま、でも確かに居場所を争っていた。ミキちゃんは、わたしが勝ち取りたいすべてだった。


 ぜんぶを自分のものにできると思っていた15歳だったから、わたしはミキちゃんが嫌いで、負けたくなくて、羨ましかった。先生たちからの好意も、進学校のセーラー服も、全部自分のものにしたかった。


 そんなわたしの子供っぽさを、ミキちゃんはどこかで気付いていただろうか。
 大人になってから会っていたら、わたしと仲良くしてくれるだろうか。


* * * * *


 恩田陸「蜜蜂と遠雷」を読んでいる。

「彼は劇薬なのだ」
 巨匠ユウジ・フォン=ホフマンが生前遺した推薦書とともに現れた天才、風間塵ーーピアノと戯れ合うように演奏する少年の、途方もない才能を果たして審査員は裁けるか?コンクールのライバル達は、その演奏をどう捉え、舞台に向かってゆくのか?
 芳ヶ江国際ピアノコンクールを舞台に、4人の天才たちにフォーカスを当てながら、クラシックピアノの世界を描く本作は、2017年に直木賞、本屋大賞をダブル受賞し、2019年には映画化もされている。

 感じられるのは、描かれる情景の解像度の高さだ。音楽という、耳を使って感じるはずのものを、そこにあるように、鮮やかに受け取ることができる。

 芸術に点数がつけられる、不条理な世界。かけられてきた膨大な労力が観衆の目に晒され、それを審査員が裁く。残酷なイベントだからこそ数々のドラマが生まれ、魅せられた人々はまた会場に足を運んでしまう。
 4人の天才たちと、コンクールの審査員やステージマネージャー、ピアノの師匠といった周囲の人々の人間模様を、体温を以て体感させてくれる「蜜蜂と遠雷」は、クラシックピアノに詳しくなくても楽しむことができる作品だ。


* * * * *


 4歳でピアノを始め、曲がりなりに今も音楽を続けているけれど、わたしはこれまで、これ程までに、勝つために演奏したことがあっただろうか。ミキちゃんが立ってきたのは、こういう、張り詰めたステージだったのだろうか。
 ミキちゃんが背負ってきたのは、こういう孤独だったのだろうか。


 成人式でも、すれ違う間もなく、ミキちゃんは帰ってしまった。地方の国立大学の看護科に進学して、坂の多い町を、原付で走り回っているそうだ。

 それが、ミキちゃんについて聞いた最後の情報だ。今はどこで何をしているのか知らない。

 わたしの中のミキちゃんは、気の強さを隠しきれない、15歳の少女のままだ。

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