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僕の状況の変化に伴う行間に込められる情報量の増減


最近の2回はツアー先のホテルからの『自宅にて』だったけど、今回は自宅から『自宅にて』 です。
実は今現在、この原稿は締め切りギリギリです。ビールなんて飲んでいる場合じゃありませ ん。しかし飲んでいます。編集の尾形さんはさぞ心配していることでしょう。で、僕の傍らに あるシンハーというビール。タイのレストランには必ずといっていいほど置いてある有名なビ —ルです。ご存じの方もいるかもしれませんが、僕たちポルノグラフィティはCMの撮影でタ ィに行ってきまして。サムイ島に2日、バンコクに1日という、ごく短い滞在にもかかわらず とても刺激を受けてきました。発展途上国のパワー。先進国と呼ばれる国々(日本を含む)と は違うパワー。
余談だけど発展途上国ってネーミングいいよね。昔はたしか先進国に対して後進国って言い 方をしてたと思うんだけど、発展途上国というポジティブな響きのほうが、あの国の雰囲気を 言い当ててると思う。
まあ、そのシンハーを飲みながら。
今回は「僕の状況の変化に伴う行間に込められる情報量の増減」です。難しそうでしょ? 詞、とりわけ歌詞というのは言葉として実際に書かれていることもさることながら、〃行間〃 にも、たくさんの想いを詰め込んでいることが多い。無限というのはオ—バーかな?僕の考える〃行間〃とは、あえて書かなくてもわかってほしいという表現方法のことかな。行と行の 間。
まずは簡単な例から。普通、人と向き合って会話する場合「笑わずに聞いてね」とか「簡単に言うとね」とか直接内容には関係ないけど、内容のニュアンスを伝える言葉を使うじゃん? 「笑わずに聞いてね」だと、その後に続く会話の内容が自分でも他人には理解されにくいかなあと認識している、あるいは恥ずかしいことだと認識しているけど、それでも聞いてほしい。 多少滑稽に聞こえるかもしれないけど、だけれども聞いてほしい。
「簡単に言うと」は、その後に続く内容を私は言葉では言い尽くせない。どうか、あなた自 身が汲みとってください、みたいな感じかな。単に時間的な制限によって省略した場合に使う こともあるけど。これらの言葉を省いても、会話として成り立つかもしれないけど、伝わり方 は違ったものになるかもしれない。
他に挙げるとするなら、声に出すことだけじゃなくて、言いにくそうに話したり、自嘲の笑みを浮かべながら話したり。
「あんたなんかねえ、最初から本当は好きでもなんでもなかったわ」というセリフ。ちょっと薄ら笑いで言ってたら本心だろうし、目を潤ませて言ってたら彼女は強がってるんだろう。 次に歌詞の場合を見てみよう。何せ、歌詞には大前提として文字数の制限がある。多少の融 通は利くとしても、あくまで多少。だからなるべく本文を書きたい。前置きをだらだらと書き たくはない。もちろん「笑わずに聞いてね」という言葉が歌詞の中に出てくることはあるだろ うけど、「笑わずに聞いてね。本当? 噓、絶対笑うわ。それじゃ言うわ……あつ今ちょっと 笑ったでしょう?もう言わないつH いやんいやん 」なんて書いてると曲が終わって しまいます。なので、そこを省くことにします。でも前に書いたように、そんなところも感情 を表現するためには大事な要素。まったく省くわけにはいかない。じゃあどうする? はい、 〃行間〃に込めるわけですね。かといって実際には書かないのだから〃行間〃にどうすれば込 めたことになる?まあ、登場人物のセリフの言い回しのニュアンスだとか、リフレインさせ るセンテンスの選び方だとか多種多様なテクニックがあるが、それは教えない(ともったいぶ ってみるけど、誰でも自然にこのようなことは無意識にやっている。僕もそう)。 で、問題はここからH繰り返すが歌詞の文字数は限られているから、どうテクニックを駆 使したところで行間に込められることなんて、たかが知れている。せいぜい5分の曲が5分30 秒に広がるくらい。書くほうの想いもそれじゃ入りきらない。無限にはほど遠い。 じゃあ、どうやって無限ともいえるくらいに〃行間〃を広げる? それはね、書くほうのテ クニックの問題じゃないんよね。聴いてくれる人に委ねざるをえんのよね。どれだけ曲に感情移入して、どれだけ自分と重ね合わせてくれるか、みたいなとこ。
そこでは創り手と聴き手の関係が重要。
「アポロ」を創っていたころ。デビュー前。僕らのことを知っている人なんているはずもな く、僕らの曲を待ってくれている人もいない。コンビニの有線でなんとなく耳にする程度かも しれない。その状況で聴いてくれる人に〃行間〃を感じてくれと期待することはできないから、 実際に言葉にするところだけでも十分に伝わるように心がけて創った。あえて注釈を入れるま でもないとは思うが「アポロ」に〃行間〃がないわけではない。
そして今回の「アゲハ蝶」。「アポロ」とは違う創り方だった。〃行間〃を感じてほしいって。 むしろ言葉にできることも〃行間〃に託して、聴き手が自由に広げてくれたらいいって。 こんなことができるのはデビュー前と明らかに変化した今の状況があるから。僕らの曲に正 対して聴いててくれる人がいるからです。
〃行間〃にすべてを託しすぎると、歌詞という作品として薄っぺらくなってしまうこともあ るので、気をつけないといけないけど。そして今回は歌詞の〃行間〃を取り上げたけど、アレ ンジや演奏、もちろんメロディーや歌にも〃行間〃あるいはそれに相当するものがあって、そ こにも想いを込めているから、感じてくれたらうれしい。「アゲハ蝶」に限らず。ポルノグラ フィティに限らず。創り手として。
「自宅にて」



行間。
「自宅にて」では歌詞においての行間を書いてあるが、これは当然、人との会話の中にだってある。
そもそもイエスノーをはっきりと言わない文化を持つ我々日本人は、人とのコミニュケーションの大部分を、この行間に託している部分もある。
いかにもの日本映画にはやたら沈黙のシーンが多い。感情をぶつけ合うというより、お互いの表情や、ためらいの仕草なんかを言葉の代わりに使っている。youtubeなんかで見る海外のサプライズ映像、例えば突然プロポーズを受けた女性は体いっぱいを使って嬉しさを表現する映像なんかを見ると日本人とは違うなと思う。多分日本なら、周りの人からの注視に恥じらい、その上で俯き微笑んで「はい」という、それを見た男性は笑って頷く、といった慎ましいものになるのではないか。言葉としては「はい」の一言だとしても、そこにある感情の量や色は、体いっぱいを使って表現する海外の人となんら代わりない。昨今なら日本でもダンスを踊り出す人もいるだろうけど、日本人のメンタリティにそういう部分があるのは間違いない。

そういう文化で育った我々は行間を読むのに長けている部分があるのではないかと思う。この間、アメリカ人のBちゃんと話していて、日本の表現で理解しにくいのが「行けたら行く」だと話していた。我々がこれを聞いたら、まあ80パーセントは来ないんだろうな、来たとしても喜び勇んでという感じじゃないんだろうなと瞬時に受け取ることができる。もしこれを字面通りに解釈しようとすると、「行けたら行く」といった彼には、「行く」を妨げるなんらかの障害があって、もしこれを解決することができたら行きたい、「行く」意思を持っている、となるだろう。
しかし大抵の場合、我々の使い方はそれとは異なる。
「行けたら行く」に行間を読もうとするとーー
「行かない」という明白な表現は誘ってくれた人を残念な気持ちにさせるかもしれないし、「行かない」ときっぱりと言うほど断る理由もない。が「行く」と言うほど乗り気でもない。誘われた日、あるいは時間になって自分の気持ちが「行ってもいいかな」と変わってたら「行く」。
くらいの感じか。これほどの行間を普段使いできる我々は奥ゆかしいのか拗らせているのか。

大人になって変わったことはたくさんあるけど、ケンカの仕方もその一つだ。
小学生の時のケンカは、なんとか相手をねじ伏せようとした。相手を侮辱するために知っている数少ない言葉から汚い言葉を選んで使ったし、時には殴りかかることだってあった。相手を泣かせてしまえばこちらの勝ちだし、こっちが泣いてしまえば相手の勝ち。とてもシンプルなルールでケンカをしていた。しかし、大人のケンカはそうは行かない。相手をねじ伏せて勝ちとなるのはドラマや映画の世界の話。「倍返しだ」のような。我々が普段するケンカ相手はもっと親密で、この先の自分の人生に欠かせない人であることが多い。友人や恋人、職場の人など。3日たてば忘れて一緒に遊んでいた小学生時代と違って、大人の場合はねじ伏せてしまったら、その人との関係はそこで終わってしまう。だからそう言う時、我々は行間を駆使する。
そもそもの話になるが、我々は自分の感情の全てを相手に伝えるほどの語彙力を持ってない。辞書にのっている全ての言葉を尽くしても表せない感情というものは確かにあるしーー「パレット」で書いたなーー言葉に出すのは、感情の総量の一部。氷山の一角だとしたら、いかに水面の下の感情の本体を相手に感じ取らせることができるか、細心の注意を払って言葉を選ぶ。それはもはや詩と呼べる範疇かもしれない。
そんな時、自分が込めた行間をある程度正確に感じてくれる人は、やはり自分の人生に欠かせない人だということができるのだろうし、その逆は付き合いを改めることを考えたほうがいいのかもしれない。

おまけ

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