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自宅にて2020

愛について本気出して考えてみよう
ただ今12月8日12時半。札幌のホテル。旅という意味でのツアーはここから始まる。一昨日から降り続いてる雪は、僕を一気に旅人気分にさせてくれる。
ツアーにはいつも大きなスーツケースを持って回るんだけど、大きいとはいえこの限られたスペースに何を詰めるかが悩みどころ。例えばサニタリーグッズ。洗面用具とかね。普通の旅行ならホテルの備えつけの物を使えばいいし、いつも使ってる物じゃない感じが旅気分にさせてくれたりもする。でも、ツアーにおいては、ホテルの生活を自宅でのそれといかに近づけら れるかが重要なんだよね。じゃないと、ライブで興奮した気持ちをオフにできないし、新たな 気持ちで会場に向かうこともできない。普通の旅行ならオフにしなくてもいいんだけど。ず一っと高いテンションのまんまで。
だから自宅の洗面台やバスルームにある物をごっそり持っていくか、もう1セットそろえる。トラベルサイズじゃないから、まずそれがスーツケースを陣どっていくでしょ。で、着替え。まぁ下着類は日にち分入れとけばいいんだけど、パンツ。ジーンズ1本じゃ寂しいし、他の種類のを持っていきたいんだけど、靴が合わないからなあ。さすがに靴を何種類も持って回れないしなぁ。あっ、アウタ—はどうする。いつもジーンズに同じアウタ—ってわけにもいかない
けど、アウタ—ってかさばるんだよな。
とまあ前日は大変。……いや噓だ。前日にパッキングをするような計画性のある人間じゃなかった、俺。出発前の15分間でするんだ、それ。だから本来で言えば高度な取捨選択が要求される作業なのに大慌てでするから、ホテルに着いてスーツケースを開けてみて自分でも理解できないようなセレクトになってることも多い。なんぼ自分ちと一緒がいいって言ったって、テレビのリモコンはいらないだろうとか、目薬3つはいらないよねとか。
そんなこんなで町から町へ旅をして、僕らを待ってくれている人の前で演奏して、夜にはおいしい食べ物とお酒で。
僕らの職業のことを簡単に「好きなことできていいよね」って言われると、「そんな気楽でもないんです」とも言いたくなるけど、ツアーは「ハイ最高です」って素直に言える。 レコードも何もない時代から音楽のライブはあって、レコード兄弟によってレコードが発明されて、録音したら何度もライブが聴けるじゃんってことでしょ? シーディー伯爵がCDを発明した今もそう。僕らの活動においてCDをリリースすることは重要だし、CDのレコーディングもこだわってるけど、そういう曲たちが最後にはこういう本来の生きる場所、つまりライブに戻ってこれるのはとっても素敵な瞬間だ。
そんな気持ちでリリースした曲の中の「愛が呼ぶほうへ」にちなんで、今回のテーマは「愛について本気出して考えてみよう」です。もう残りのスペースがそんなにないから挑戦します。長々とは書けません。
って、苦手なんだよね、こういうの。いや照れくさいとかそういうのじゃなくて、深すぎて 広すぎてここじゃ書ききれないんだよ。さらにその実態をいまだ僕自身は見たことがない。だからラジオでもインタビューでも、この『自宅にて』でも避けてるテーマなんだよね。両親は間違いなく僕を愛してくれたし、これまでに何人かは僕を愛してくれた女性もいた。ファンの人もいくらかは僕を愛してくれてると思うし。で、そういう人たちに同じように僕も返しているつもりだし。
で・も・ね、やっぱりまだわかんないんだよね。愛っていうものがあるとして、その端っこに触れてる感じがする。死ぬまでにその実態を見れるのかもしれないし、死ぬときしかそのでかすぎる実態は見えないのかもしれないし。そのときにしか、自分の人生がなんだったのかを知ることができないようにね。
「愛が呼ぶほうへ」は、みんなにどんなふうに届いてんだろ?
恋人同士が見つめ合って「愛してるよ」「私もよ」はまだ端っこな感じがする。それも間違いなく愛なんだろうけど。
なんとか、いつかは、どうしても、たぐり寄せたいよね。その端っこから。

「自宅にて」

愛、というのはこの歳になっても、捉えどころのない不思議なものだ。
深すぎて、広すぎて。
それについての本もいくつか読んでみた。それによると愛とは普段我々が考える「与えれば減る」という法則が当てはまらないらしい。
つまり「与えれば増える」という。自分のなかで。「情けは人の為ならず」的なことなんでしょう。愛を、誰かに、何かに与えると、それは減るどころか自分の中で増えていくものなんだそう。ただ与える。
一方、「与えれば減る」という法則の中では、何か見返りを求めてしまう。
千円の中から五十円を使うと、それに見合うものが手に入らないと、僕の手持ちはただ五十円減っただけになる。
誰かに「百円貸してくれ」と言われて気前よく貸していたら、さらに手持ちは減る。
残りの八百五十円で、心から大好きな人にプレゼントを買う。ただ喜んでくれたらいいなと思いながら。。。。ほら!見返りを求めている。喜んでほしいという期待、これこそが間違いなく見返りじゃないか。だから喜び方が自分の思うよりもあっさりしたものだとがっかりしてしまう。八百五十円のプレゼントじゃしょうがない、とかいう話ではない。この金額はもちろん概念なわけで。
「与えたら減る(時々、思いもよらず増えることもなくはないが基本的には減る)」。我々はこの当たり前すぎる法則に慣れているもので、「与えたら増える」という感覚はどうにも入ってこない。
血の繋がりのある親子なんかでは、確かにそういう感覚があるのだと思うけど、それでも、生まれたばかりの乳飲み子に対してはともかく、自我が芽生え生意気になってきた我が子に対して、本当の意味で何も見返りを求めたりしていないか。もちろん、「無償の愛」みたいなものを標準装備として内蔵している人だっていると思うけど、少なくとも自分は「俺はこうまでしてやってるんだから、ちょっとはいうことを聞け」くらいの思いが全くないと言い切れない。


愛が「与えれば増える」という概念が本質を突いているのか、ここにも議論の余地はありそうだけれど、俺が読んできた心理学やら哲学やらの本には概ねそんなふうに書いてあるので、そういうもんかいな、としておく。
そういうもんかいな、としたところで、自分はとどうだ、と考えてみる。まあ、考えるまでもない。中国雑技団の人が、後ろに反り返って頭がお尻につくポーズ。あれを真似てやってみた時の、俺の頭と俺のお尻の距離くらいがある。
俺の後頭部は、その方向に俺のお尻があるんだろうな、くらいのことはわかっているが、生まれ変わりでもしない限り出会うことはないことも薄々気づいている。
もしくは、生まれ変わるつもりでそれを求めないと。

「愛が呼ぶほうへ」は悪くない歌詞だと思っている。
時々、それは人生で何回かくらいかもしれないけど、自分から溢れる愛みたいのモノを感じられたら上出来ではないか。
この「自宅にて 2020」を書いていて、いつも思うことだけど、20年弱前に書いた文章と同じような結論になってしまう。

なんとか、いつかは、どうしても、たぐり寄せたいよね。その端っこから。

おまけ

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475字
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