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お気持ち経済



 わたしはあまり働けない半引きこもりとして、路上で投げ銭をもらうことをやっている。最近は、絵をほめられて投げ銭をもらったり買ってもらうこともある。この前奈良に行った時は、絵を褒めてくれた人から交通費に使ってくれと2000円を頂いた。また、路上で話しかけてくれた人の似顔絵を描いたら5000円もったこともある。絵は簡単に描いたもので特に練習をした訳でもない。このように、大したことはしてないけど路上で何かしてると、それを見て面白がってくれた人からお気持ちという形でお金やモノをもらっている。散発的な投げ銭があると、心の支えにもなる。これで、つかの間だが人と話せたりして、暖かさを感じることもできる。能力主義の社会では、できる人がお金をもらえるのは当たり前だ。でも、できない人はできないなりにでも、お気持ちという形で人から少し支えてもらえることもある。

●  お情けで投げ銭をもらえる

 路上にイラストを飾っていると、絵の個展を開いた事があるおばちゃんから、「絵がしょぼくて可哀想に思った」と言われて、お情けで500円をもらった。また、別の日には、「やってることが売れそうにないから難儀やな」と言われて1000円もらったりした。ひろったモノやいらないモノをお気持ちで買ってもらえたりもする。路上で不要品マーケットをしていると、お情けでモノを高く買ってもらったりすることも度々ある。不思議なことに、何も買わなくても投げ銭してくれる人も結構多い。お金の入りが悪いと、通行人に声かけて「すいません!ちょっと、引きこもりの支援してくれませんか?」とダイレクトに言うとお金を恵んでくれることもある。大した技がないしょぼい人には、お気持ちでちょっとばかり助けてあげようという心理が働くのかもしれない。

●  倫理的消費として

 有機農業をやってる農家を支えようと、少し野菜の値段が高くても買い支えようという消費者運動がある。生産者の生活を支えようという意味があるという。本来、商品の価格は市場だけで決まるのではなく、売り手の生活を支える水準に設定された。地域社会は生活共同体でもあり、そこにあるパン屋のパンの値段は、そのパン屋の家族の生活保障も考慮され決定されたという。

 アダム・スミスなどは、経済もまた道徳感情を基礎としていて、人々の生活への顧慮や哀れみ(=pity)が価格に上乗せされ、それにより人々の暮らしや経済活動も成り立つのだと言っていた。市場原理の下、モノが買い叩かれると消費者は安く買えてありがたいが、その分売り上げが伸びず、労働者の賃金が安く抑えられる負のスパイラルに陥る。市場原理に任せると、巡り巡って経済は閉塞する。倫理のテコ入れがないと社会は動かなくなるということだろう。

 物乞いやしょぼい路上パフォーマーへの投げ銭も相手に対する哀れみ(=pity)からなされる。そういう点では、しょぼい人への投げ銭はある種の倫理的消費と位置付けられそうだ。できない人は、お気持ちで少しばかり上乗せされることになる。もらったお金が消費されるとさらにお金の流れをつくり、これもまた経済の動きをつくるのだ。

●  お気持ちは埋もれている

 人のお気持ちはふとした瞬間に出てくるものだ。ちょうど、こちらが笑えば相手もつられて笑うのと似ている。路上にいる物乞いの人もただ居るだけで、通行人の良心に揺さぶりをかけるメタ・メッセージを発している。

 日本にはチップ文化が貧しい。ただ、貧しい人や不遇な人への哀れみ(=pity)の情は表には見えにくいが、道徳感情としてはもっている人も多いと思う。みんな、物乞いを見てかわいそうと思うけど、声をかけたり深く関わりたくはしない。哀れみ(=pity)をうまく表現したり形にするのがしにくいのだと思う。でも、何かしらの契機で、コミュニケーションできたり施しをするに至ることもある。お気持ちは埋まっているが、何かのキッカケでふと表に引き出されることもある。

 市場システムは無慈悲で、能力がない人や働けない人にはお金が流れないようになっている。しかし、路上で人と話したり絵を見て楽しんでもらうと、お気持ちとして投げ銭をもらうことを経験した。何らかの非日常や思わぬ人との出会いは、システムからのズレとなりお金の流れ方に乱れを生む。市場の枠組みからお金を少し解放してるともいえる。みんながお気持ちをうまく表現できると、お金やモノの流れのオルタナティブができて、色んな人にお金が行き渡りやすい。溜めのある社会にもなるのではないか。わたしは、みんなから生活を支えてもらうために、路上で埋もれたお気持ちを掘り起こしていくのである。

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