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人は遊びに遊ばれている

お疲れ様です。
遊び大好き、はるびんびんびんです。

今回は「遊びと人の相互関係」について簡単に書いてみようと思います。

まず、そもそも遊びの主導権って誰が握っているかというと、それを遊んでいる人、すなわち「遊び手」ですね。
当たり前です。遊び手が遊んでいるのだから、遊びは成立するのです。
変な言い方をすれば、遊び手が遊びを遊んでやってあげているのです。
もちろん、それは間違っていません。

しかし、サッカーを元に考えてみます。
もちろんサッカーをしているのは遊び手である選手なので、「選手はサッカーの主導権を握っている」と言えます。
ですが、遊び(サッカー)のルールにおける「試合時間」という面では、選手はそれに抗うことができません。
もし、それを抗ったとき、それはサッカーという遊びの崩壊させたことになります。
つまり、遊び手は遊びに主導権を握られている部分があるんですね。
この関係性は挙げた例ではわかりやすいですが、遊びにおける様々な要素で行われており、それは非常に曖昧なものです。

遊びというのは人と遊びの相互関係の上、成り立っています。
ここから考えていくと、実は「遊び手によって遊ばれている遊び」とは逆に「遊びによって遊ばれている遊び手」という構図も成り立っています。
ここはあまり意識されていないところだと思います。

遊ぶということは、自分の空間に遊びを取り込むと同時に、遊びに取り込まれているとも言えます。
すなわちそれは、遊びと人が同調するということです。受け入れてしまうということです。
遊びによって演技する遊び手は、もはや遊びによって演技させられ、演技ではなく呪縛に近いモノになる場合もあります。

このように話すと、何やら怪しいように聞こえますが、これは決して遊びだけの話ではなく、人が自然と行っている人的な行動の一つで、遊びはあくまでそれが普段よりわかりやすく見えてくるだけのことです。

このような関係性も含めて、遊びというのは興味深く、面白いモノだと思います。
また、この遊びと人の関係性については、しっかり向き合って、わかりやすくまとめたいです。

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