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記事には毎回、オチをつけなければならないと思っていた。

そう、思っていた。
だから、日々思うことは色々あれど、なかなか記事を上げられずにいた。
実際私にはよくわかっていないことだらけで、模索していたり、検証したりしていることだらけ。
そこに、自分なりの何かしらの結論を見つけていることじゃないと、記事にしちゃいけないような気がしていた。

けれど、ライオンズゲートと呼ばれるものを過ぎ、急に自分の中で、何かが吹っ切れた。
「なんかもうそういうの、どうでもいいか。。書きたいことを書こう」
と。

自分が囚われて癒着しているものから自分を引き剥がして、それと距離をとってみるってすごく大事なことで、吹っ切れてみて、初めて分かったことがある。
自分がいつの間にか、その過程をすっ飛ばして答えを知りたがる現代病のようなものに、絡め取られていたことに。

ネットやスマホという文明の利器は、本当に世界を変えた。
けれどそれは同時に私たちから、「思考力を深く働かせる余地」みたいなものを、どんどん奪っている。
表面的な答えやインスタントな解決策に飛びつくのが習慣となり、私たちの脳はどんどん短絡的な回路を強化しつつある。
(要はどんどん、馬鹿になるということ)
いつでも“答え”を提供してくれる誰かがいて、あまり深く考えるということをせず、安易にそちらに流されていく。

もちろんそれを仕掛けている側は、本当に頭のいい人たちだと思う。
そういう意味でも、仕掛ける側と仕掛けられる側の格差は、どんどん開いていく。

そんな中にあって、
“誰かに対して何かしらの答えや解決策を提示できるものでなければ、価値がない。認めてもらえない。”
いつの間にか私の思考回路も、そんなふうになっていた。


わからないことはわからないままに、モヤッとしていることはモヤッとしたまま、無理して早急にオチをつけないことで、その輪は完結せず、閉じずに続いていく。
そしてそこには、私の中にも、そして、読んでくれた誰かの中にも、思考の余地を生み出してゆく。

例えば仕事をする中で、私は人に教える機会がとても多いポジションにいて、すぐに答えを与えず、自分で考えさせるステップをとても大切にしている。
「すぐに、答えだけ教えてほしい」
相手のそんな眼差しを振り切って(笑)でも、そうすることもある。

根気がいるし、時間もかかるし、実際、目先のスピード感ばかりを求める社内的に、そんなに評価されるようなやり方ではないことは分かっている。
それでも、そうしていくことが本人の為であり、全体の為にもなり、後々の自分自身の為にもなっていく。(本当、最初は手間がかかっても、後からどんどん自分が楽になり、全体が円滑に回るようになることは実証済み)


解決策や答えではなく、問いを発するような記事。
それだってめちゃくちゃ大事なことだよな、と、今、そう思えている。



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