箱に願いを(4)

     二


 せっかちな蝉が早くも鳴いていた。窓の向こうに目をやると、じりじりと日が照っている。肌で感じなくても暑いだろうことは読める。だけど、夏は嫌いじゃない。
 上はTシャツ、下は下着一枚だけ。冷房が苦手だから、できる限り身軽になるしかない。乱れた髪を手で梳いて、すたりとベッドから下りる。学校へ行く準備をしなければ。
 部屋にはわたしの身長と同じくらい大きい鏡がある。Tシャツを脱いで上半身裸になったとき、鏡に映るわたしの瞳と目が合った。柔らかく波打った髪、明るい色。
 体育の授業のときとかに、友達からおっぱいが大きいと褒められる。嬉しいような気もするし、どうして大きいのだろう、とふと不思議に感じる瞬間でもある。その場では照れたように笑うだけに留めるけれど。
 おっぱいは女性らしさを表すものの一つだろう。男性はいつまでもまな板のままだから。大きい方が魅力的なのかもしれないし、異性の目を引くのかもしれない。
 わたしは自分が女性としての魅力がある人間なのか分からない。容姿の話ではなく。わたしは昔から男子に特別な想いが抱けない。好きになるのは、いつだって女の子だった。男子に対して特に意識せず接することができるから、友達は男女分け隔てなく多い。
 同性を愛する人は少数だ。大きくなる過程でそれに気づく。気づいても、女の子を好きになってしまうのはどうしようもなかった。何が当たり前か気づくことはできても、その想いを偽れない、今のわたし。子どもではないけど大人でもない、中学生という頃。
 自分が男子だったら、とは考えない。男子だったら遠慮せず女の子への愛を表明できるかもしれないが、それはわたしの愛じゃない。わたしは自分が女として生まれてきたから、女を愛するようになったのだと思う。
 胸が、つきり、と痛んだ。掌を当てて、同時に秋乃の顔を思い浮かべた。そうすることで、痛みは遠ざかる。
 物腰柔らかで、控えめで、あどけなくて。赤い縁の眼鏡の奥の無垢な瞳でこちらを見つめてくる秋乃が、ほかの誰よりもかわいくて、好きだ。
 友達でいられればいいと妥協していた。想いを伝えられないもどかしさを抱えても、失うよりはいいと自分の胸に言い聞かせていた。同性を愛する人が少数だってこと、知っているから。
 しかし、ふとした弾みで彼女に打ち明けてしまった。
 ――好きです。愛しています。わたしと、付き合ってください。
 告白するときに言葉が丁寧になるのはどうしてか。想いが偽りでないと、誠意を示すためか。
 ――ありがとうございます、春海。よろしくお願いします。
 その日が人生最後の日でも、神様に文句を言わなかったろう。眩しい幸せの光に包まれた。
 着替えてから部屋を出た。食卓の方から朝食の匂いがするのは、ありがたいこと。

 これは、理想的な世界なのだろう。
 わたしが好きな人といつでも一緒にいられて、愛し合えて。そして、みんなに認めてもらえていること。きっと、どうにもならない思いを抱えて苦しんでいる人は、たくさんいる。
「秋乃、宿題見せてくれない? どうしても分からないところがあって」
 教室の中。背後からそっと忍び寄って、両腋の下から手を回すようにして軽く抱きしめる。ほっそりした見た目の秋乃は、触れるとちゃんと女の子、柔らかい。
 周囲の視線が少し集まるけれど、眉を顰める人はいない。わたしと秋乃は、公認カップル。
「見せてしまったら、春海のためにならないでしょう。分からないのなら、わたしが教えてあげます」
 秋乃がわたしの手を握って、ふんわりと微笑む。秋乃の口調はいつだって乱れない。
「じゃあ、教えて」
「いいですよ」
 二人で席に腰掛け、教科書とノートを広げる。手を伸ばせば触れられる距離に彼女がいてくれることで、こんなにも安心するなんて。
 存在を主張するように鳴く蝉。その合唱はいつまでも響く夏のBGM。

 あまり使われない階段を上がっていく、真夏くんの後ろ姿を見かけた。その階段は屋上へと通じている。用事があるのかな。
 黙って付いていくことにした。誰かと待ち合わせしているのかもしれないけれど、そうと分かったら踵を返せばいい。でも、なんとなく、真夏くんの足取りは誰かとこれから会うことを感じさせなかった。一人でのんびりしたいのでは。
 真夏くんとはよく話す。彼は特別かっこいいわけでも、クラスの中心人物というわけでもないが、潜在的にたくさんの人を惹きつけている。ひょっとしたら、こう思っているのはわたしだけかもしれないけど。人の話を聞いてくれて、思いやってくれ、優しさが伝わってくる。具体的な解決策を提示してくれなくても、そういう態度で接してくれる中学生男子は稀少だ。
 秋乃を好きになって、想いを打ち明けようかと悩んでいた頃、真夏くんに相談した。ケースがケースだけに、同性には言いたくないし、そうかと言って男子に話を聞いてもらうのも難しい。それでも、真夏くんなら。彼にならいいと思った。
 付き合えたことを感謝していなかった。わざわざ尾行する目的が浮かんだ。
「真夏くん」
 屋上に出るドアの前で、彼は足を止めた。それほど驚かずに、ゆっくりと振り返る。
「春海か。奇遇だな」
 目を細めた。透き通るような茶色の眼差しをしている。
「わたしも一緒にいい?」
 屋上を指差して尋ねると、彼は無言で頷いた。二人並んで、ドアの向こうへ。
 空が広がった。よく晴れていたけど、おかげで蒸していた。少しくらいならいいけれど、長くいるのは遠慮したい。
 ぽつねんと、佇む一つの影を目の端で捉えた。フェンスに片手を当てて斜め下を見据えている整った横顔、会田冬さん。この暑い中なのに、彼女の周りだけ涼やかな風が吹いているようだった。腰まで達する黒髪が、揺れる。
 会田さんは不思議な人だ。話しかければちゃんと受け答えしてくれるのに、基本的には周囲との交流を絶っている。かわいくて、笑えば明るい印象を与えるのに。何を考えているのか分からないところがある。わたしも数えるほどしか言葉を交わしたことがない。
 わたしたちの気配に気がついて、会田さんが首をめぐらせた。目が合うと、何かを了承したように頷いて、黙ってわたしたちの横を通り過ぎていった。そのまま、ドアの向こうへ消えてしまう。
「悪いことしたかな」
 一人を満喫していたところを邪魔しただろうか。
「かもな」
 真夏くんもやや申し訳なさそうな表情をしていた。
「会田さん、屋上に来ることなんてあるんだね」
「うん。でも、おれはここによく来る方だけど、初めて見た。そんなに頻繁でもないのかも」
 よく来るのか。知らなかったことだけれど、そちらに話を広げなかった。
「彼女って、不思議だよね、なんだか」
 さっきまで会田さんが立っていたあたりをちらりと見やった。
「まあ。話したことないからなんとも言えないけど、半透明の膜に覆われているような印象がある」
 わたしと同じで、真夏くんも彼女と中学校から一緒なのだろう。
「いつも一人で、だからといって暗いわけでもなくて。ふわふわと漂っている感じもすれば、深い深淵にどっぷり嵌まっている感じもするし――」
「それより」
 会田さんへの興味は失ったようで、真夏くんは言葉を遮った。
「小嶺に想いを伝えられたんだな。おめでとう」
 そうだ、そのことのお礼を言うつもりだった。
「真夏くんが相談に乗ってくれたおかげだよ」
「そんな、おれは何も」
「ううん」
 まっすぐに彼の双の瞳を見つめた。風に乗せて届けるように、ありがとう、を。
 受け取った真夏くんの照れた顔が仄見えた。

 すべては幸福のうちに進んでいくと思っていた。わたしは日々それを噛み締めていればよかった。秋乃がそばにいれくれること。手を握ったら握り返してくれること。見つめたら微笑み返してくれること。
 一学期の期末試験が終わり、あと数日学校に通ったら夏休みに入る。高校受験が控えているわたしたちにとって、あまり待ち遠しくないかもしれない夏休みだが。志望校を目指し、励まないと。
 そんな頃、教室で寂しく俯く秋乃の姿を捉えた。窓辺に寄って、外の景色を見るともなしに見ている。あまりに虚ろで、その瞳にちゃんと街が映っているのかしら、と。
「秋乃」
 驚かさないよう、そっと呼びかけた。秋乃はわたしに気づいた風だったけれど、こちらを向かなかった。元気がない。物静かな性質とはいえ、ここまで打ち沈んだところは見せたことがない。何か、あったのだろうか。小さい体が、より小さく思えた。
「どうしたの?」
 まだ、わたしを見てくれない。無理に視界に入り込もうとしてもよかったけど、ただ横顔を眺めていた。赤い縁の眼鏡で目の色がちゃんと分からない。
「ねえ、秋乃」
「春海は」
 秋乃がようやく口を開く。誰もいない教室じゃなければ、きっと聞き取れないほど小さく。
「自分の感情に違和感を覚えること、ありませんか?」
 言い終わると、目が合った。切り揃えられた前髪の下の目は微かに揺れていた。
「どういう、意味」
「わたしはあります」
 橙色の日差しが眩しくきらめいた。遠くから、懐かしい音楽が聞こえる。
「わたしは、ときどき、自分の感情の正体に心当たりがなくなります。ほんとうだと思い込もうとしているだけで、ほんとうではないのかもしれない、と。形を確かめようがないから、どう折り合いをつけていけばいいのか分かりません。
 わたしはほんとうに春海が好きなのでしょうか」
 天地が引っくり返るような心地がした。掴めない話をして、ひょっとして、最終的に別れ話を持ち掛けようとしているのか。
「秋乃、どうしてそんな……」
「誰かを好きになる感情はどこからくるのでしょう。どうしたら、揺らがないものだと信じられるのでしょうか。――わたしは春海の恋人だというのに、つい目で追いかけてしまう自分に気がつく。東くんの姿を、ずっと――」
 そこまで喋ってから、秋乃は目を瞠る。口元を手で覆って、慌てて口を噤んだ。
 いつの間にか、懐かしい音楽は止んでいた。

 物置の整理は骨が折れた。軍手で額の汗を拭う。ここが灼熱地獄かと見まがうばかりだ。服はびっしょり、背中に張り付いている。
 夏休みに入ってすぐ、親の休日出勤や自分の塾などで日中に揃わなかった家族の顔ぶれが久しぶりに揃った。それを待っていたかのように、母親は大掃除を敢行しようと言い始めた。うちの家族はみな几帳面だから、家の中はいつも整理整頓されている方だが、とはいえ。綺麗にしようと心がけるのはいいこと。それに、普段気にしていないところをこういうときに気にしなければ。
 それで、わたしは物置に。
 中はぎっしりものが詰まっているのに、一つずつ確かめていくと不必要なものばかり。どうして残していたのだろうと不思議になる。たまに、懐かしさを喚起させる品が出てきて、つい耽ってしまうこともあった。
 体を動かす作業はいい。考えごとをしなくて済む。ちらちらと脳裏によぎる秋乃の顔を、汗と一緒に拭う。
 秋乃のことを深く思ってしまうと胸が痛んだ。息継ぎが上手くできなくなって、膝をつきそうになる。何かの病気に罹ったのかと不安を覚えるほど。
 片想いをしていた頃もよく胸が痛んだ。病は気から、とはよく言うけれど、精神的な影響が働いているとしか考えられない。
 ふと、手を止めた。整理している途中で、見慣れない箱を発見した。両の掌に乗るくらいの、古めかしい木箱。
 思い出の品が出てきて、少しずつそれにまつわるエピソードを思い出していくことが先ほどからあったけど、その箱はいつまで眺めていても何も思い出さなかった。あまりに、見覚えがなさすぎる。
 そっと手に持ってみて、驚いた。見た目以上の重量が手にかかる。揺らしてみても音はしない。空箱のようだけれど、それではこの重さはいったい。
 もしかしたら、お父さんかお母さんの大切なものなのかも。だとしたら、物置にあるのはおかしいか。秘密がある、とか。だんだん、興味が湧いてきた。
 周囲を一応窺ってから、ゆっくりと蓋を開いてみた。古びた印象と違って、蓋の金具は錆びていなかった。中には、やはり何も入っていない。――そう思ったのはほんの一瞬だった。手品みたいに、紙片がぼんやりと浮かび上がってきて、ついにははっきりした輪郭を得る。
 目を瞬いた。何がなんだか分からないまま、その紙片をひょいと持ち上げた。そこには言葉が。『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』
 願い。今のわたしが願うことは一つしかない。

 文字を追う真摯な眼差し。ページをめくる白い手。窓から差し込む淡い光を背中に受けている。どうして、あんなにも可憐なのだろう。そして、どうしてわたしは、こんなにも恍惚としているのかしら。惹かれたのは、いつから。もう憶えていないくらい以前のこと。
 図書室で一人、本を読んでいる秋乃を棚越しに窺っている。周囲から怪訝に思われかねないし、付き合っている者同士なのだから、近づいて話しかければいいのに。そうは思っていても、なぜか隠れてしまった。この間のことが念頭にあったからかもしれない。
 秋乃とは決別することはなく、今でも関係は続いている。でも、時折降りる沈黙が耐えられなかった。前までは気にもしなかった。それを振り払うように、ひたすら話した。秋乃の笑った顔だけを見ていたくて。
 集中した表情をしている。秋乃は読書が好きだ。本を読んでいるときの彼女はいっそう静けさが増して、神秘的なベールを纏っているよう。
 つと、一心に読み耽っていた秋乃が顔を上げた。そして、少しはにかむ――そんな笑い方もするのね。
 彼女の視線の先には、真夏くんがいた。
 ――わたしは春海の恋人だというのに、つい目で追いかけてしまう自分に気がつく。東くんの姿を、ずっと――。
 偶然、彼も図書室に足を運んだのだろう。顔を見合わせ、二、三、言葉を交わしている。二人ともけっしてはしゃぐことはないけれど、わたしには、秋乃がとてもいい表情をしている風に見えた。
 つきり。また、胸が少し痛くなってきた。このままここにいたら、呼吸困難になって倒れてしまうかも。真夏くんが秋乃から離れたのを見届けて、わたしは図書室を後にした。足を引きずるようにして。
 校舎内に置かれているベンチに腰掛けた。慎重に息を吸って、吐いて、を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。胸元に当てていた手を離し、スカートから露わになっている太ももに落とした。
 秋乃が好き。誰よりも。そして、秋乃もわたしを想ってくれている。
 だけど。
 思い通りにいかない状況を覆す。それが、願いかな。でも、わたしだけの意を貫くことが、果たして正しいのかしら。人の愛情はいつだって偏執のきらいがあるにしたって。
 どんなに自分本位だったとしても願わずにはいられない。好きになるって、つまりはそういうことじゃないだろうか。
 では、大切なものは何。
 物置から見出した箱には、大切なものと引き換えに願いを叶える、とあった。わたしが大切にしているものとは? すぐに思い浮かんでしまうのは、やはり秋乃の顔。かけがえのない存在なのは疑いない。しかし、引き換えとして差し出したら、願いが成就しない。本末転倒だ。
 そこまで考えて、はたと思い至る。今のわたしに、秋乃以外に大切な何かなんて存在しない。
 ベンチから見える、校内の様子。楽しそうな笑い声がした。夏の暑さに負けないくらいのきらめき。
 いったい、どうしたらいいの。

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