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私の入学式

 同行を許可されたのは、ほんの気まぐれだったのかもしれません。でもその気まぐれが、私の、大げさに言うなら人生観を変えさせたものだと、今でも信じております――。

 奥様は、車を降りられると、ヒールの音を響かせながら、背筋を伸ばして足早に進んでいきます。私は運転手の村中さんに頭を下げてから、小走りで奥様に追いつきます。村中さんは、車の中で数時間、待たされることになりますが、そんなことを苦にするようでは、運転手の任は務まりません。常々、村中さん本人がおっしゃっていました。
 奥様は、決して後ろを振り返りはしません。使用人の私を気にかけるなんて、ありえないことです。ぴたりと付いて行くことが、当たり前なのです。
 クジラのように横長の建物の入口で受け付けを済まし、少し暗がりのある中へと足を踏み込みます。何となく、以前に読んだ『鏡の国のアリス』で、アリスがうさぎを追いかけて穴に吸い込まれる場面と重なります。
 穴を通り抜けますと、不思議な国が広がっていました。私にとっては、という意味ですが。そこには見たことがないくらい多くの人がいて、みな、華やいでいらっしゃいました。今日の「入学式」という特別な行事のために、一つの箱に名前も知らない人たちが集められているのでした。何とも、興味深いことです。
「キョロキョロしない。しゃんとしていなさい。内海家の名に関わりますわ」
 辺りを眺め回している私を、奥様が叱りつけます。私は慌てて、正面を見据えて固まります。よろしい、と奥様の低い声がします。それ以降、緊張を解かずに前だけを捉えておりました。

 学校の教師らしき男の方が、マイク越しに、新入生の入場です、と告げられました。言い終わるよりも早く、割れんばかりの拍手が鳴り響きます。私も拍手をしながら、背中の方を向きます。陽の光の差し込み口から、同じ制服を身にまとった生徒たちが、列を作って入ってきます。表情は硬いように思われますが、堂々としていま
す。
 このときの感動を言い表す言葉は、今をもってしても見付かっておりません。ひたすら、胸のときめきを抱いておりました。言うなれば、恋に落ちたときの感情と似ています。
 続々と入場してくる彼らを、羨ましい、と感じました。憧れを覚えました。私もこの仲間に入れて欲しい、と強く願いました。
 お屋敷の中で奉公にいそしむ日々を嫌悪していたわけではありません。むしろ、私を拾って下さった旦那様への恩返しが済むまでは、文句は言えません。それでも、学校に行きたい、と思いました。同じ机、同じ教科書、同じ思い出を共有できる仲間が欲しいと思いました。「普通」が欲しかったのです。世間の子どもたちが持ち合わせている「当たり前」が欲しかったのです。身分不相応ながら。
 やがて、お嬢様が入ってこられました。お嬢様は緊張を窺わせず、柔らかな表情で歩かれています。お嬢様はお美しいと存じておりましたが、改めてその考えに間違いはなかったと確信いたしました。他の誰よりも、輝いておられます。
 全ての新入生が入場を終えました。式は、これからです。

 いつもなら、このような式に同行するのは優馬(ゆめ)の役割でした。私より年配で、落ち着きもありますから、伴うのに恥ずかしくないからでしょう。
 私の名前は、絵馬といいます。優馬と同じく、旦那様に拾われ、名前をつけてもらいました。
 私はこの名前を気に入っております。でも、名字はありません。これでは、「普通」に学校の一員となることはできないのではないでしょうか? 詳しく存じ上げませんが。いつか、学校に通える日が来るとしたら、内海の名を拝借したいと考えております。内海絵馬、悪くありません。
 衣食住において、何一つ不自由なく生活させていただきながら、学校に行きたい、なぞと申し出るのは憚られます。それは、わがままというものではないでしょうか?
 そうとは分かっていても、学校に対する憧れは消えません。私は、いつまでも子どもではないのです。いつかは大人になってしまいます。それでは、意味がありません。
 さんざん揺らぎながらも、心の奥底では一つの決意が固まっておりました。私はただ、学校に行きたい――そう望むのみです。


 長いようにも、短いようにも感じられた入学式が終わりました。咳払いのやたら盛んだった校長先生様のお言葉は、いまひとつ要領を得ませんでした。私が浅学なだけかもしれませんが。
 それにしても、新入生代表の言葉を述べられたお嬢様はたいへん立派でした。周りの方は、みな、聞き入っているご様子でした。さすがは内海家の令嬢と、心のうちで誉めそやしていたことでしょう。
「帰りますわよ」
 お嬢様と合流し、私たちは村中さんの待つ車へと向かおうとします。すると――
「内海さん」
 よく透る男性の声がします。声の方に顔をやると、牛田様が立っておられます。お嬢様と同じ、紺地の制服で身を包んでおります。何度かお屋敷においでになったことがあるので、存じておりました。
「牛田さん」
 お嬢様が、微笑みを返します。その声が嬉しそうなのは、気のせいではないでしょう。そうなのです。お二人は、恋人と申すべき間柄なのでした。
「少々、お待ちになって」
 お嬢様がそう申されて、牛田様のもとに駆け寄って行かれます。
 奥様は、ひきつった笑いでそれを見送られます。実は、奥様はあまり牛田様を好ましく思っておりません。身分の差があるので、仕方のないことかもしれません。ですが私は、お二人はお似合いだと思います。背が高く、顔も凛々しい牛田様とお嬢様が並んでいると、絵になります。
 言葉を何度か交わした後、手を振り合って別れました。いつもなら絶え間なく話されるお二人ですが、努めて「少々」になるように収めたのでしょう。
「お待たせいたしました」
 改めて、車へと歩き出します。
 私も、学校に通うようになったら、お嬢様みたいな素敵な恋ができるのでしょうか――?

 決意したものの、やはり迷いました。
 お屋敷に帰ってから、使用人の部屋で数分間、うろうろして、行くか行くまいか、考えておりました。
 とりあえずはと、部屋を出てみました。旦那様と奥様のお部屋は二階にあり、ここのひとつ上です。建物の中央に建てつけられた木製の階段を、ゆっくり、これ以上ないくらいゆっくりと上がりました。あまりに下を見つめていたため、段数を数えればよかったと、どうでもいいことを後悔しました。
 このお屋敷で一番大きな部屋の前に立ちます。言うまでもなく、旦那様と奥様のお部屋です。旦那様はお仕事で出払っているので、奥様のみのはずです。
 心臓の高鳴りを感じて、思わず胸に掌を当てます。おそらく、人生でこれほど緊張したことはなかったと思います。脇から冷や汗が体の横を伝います。
 刹那、お嬢様の勇姿が思い浮かびました。お嬢様は、あんなにもたくさんの人たちを前にしても、堂々としておられました。それなのに私は、奥様一人に怯えております。出過ぎた申し出だと叱られのが怖いから? 捨てられたくないから? 絵馬、あなたの学校に通いたい、という思いは、その程度の恐怖でしぼんでしまうものだ
ったの? 自分にそう言い聞かせ、勇気を奮い立たせます。
 よし。
 もう迷いはしません。後悔したくありませんから。手を丸めて、ノックしようと構えます。
 その瞬間、ドアが開きました。奥様が出てきたのです。私は驚いて、目を瞠りました。
「あら、どうしたの? 何か用?」
 奥様にそう言われて、やっと掲げていた手を下げます。
 そして、下げた手を腰に当てて、一礼しました。
「奥様、あの……お話があります」
「話?」
 奥様は、少し戸惑っているようでした。声のトーンにそれが表れております。
「はい。とても、大切な話です」
 私は、ここで一気に言い切ってしまおうと思いました。勇気が途切れないうちに。胸の内でともる決意の炎が吹き消されないうちに。
 一縷の望みを掴むために。

「私も、学校に通いたいです」
 哀れにも、声が掠れました。それでも、ひるみはしません。お嬢様のように、凛とした表情を作ろうと努めます。
「学校に通いたいです」
 他の誰かのではなく、私の入学式を迎えるために。

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