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四季、放送室にて ep.3

     うだるような暑さの夏、陽の一番高い頃 放送室にて


『……というわけで、あっという間にエンディングのお時間ですー』
『もう終わりか。ほんとうにあっという間だったね。どうだった?』
『――わりといつも通り過ぎて、今さらやばかったかもな、って冷や汗かいてる』
『確かに、かなり自由だったね。でも楽しかった』
『めっちゃ楽しかったけど、一回きりの校内ラジオ、こんな感じでよかったのかなー、なんて。智恵とか綾芽とかと一緒にできたらよかったのに』
『そりゃ、私だってその二人とやりたかったよ!』
『お、怒んなよ。冗談なんだから』
『あの二人、まだやってないよね。やっぱり二人でやるのかな』
『かもね。ここでこういう話したら、より確実になるだろうね』
『……じゃあ、そろそろ締めよっか。名残惜しいけど。お便りの募集とかないの?』
『そんなシステムないでしょ。本物のラジオじゃないんだから。――ということで、ここまでのお相手は佐々井心愛と』
『西和葉でした。ありがとうございました!』
『ありがとうございますー』


     *


 あの頃の感情に名前を与えるとしたら、それは恋なのだと思う。揺るがせない。
 夜空を見上げると切り落とした後の爪みたいな形をした三日月だった。月を見上げる瞬間って、日常生活においてあまりない。だからどうしても自分の今の気持ちをなぞってしまうし、ちょっと気障な気もしてしまうのだ。
 今日、久しぶりに高校のときの同級生二人とお酒を飲んだ。それぞれの大学の最寄り駅から等距離くらいにあって、かつ、お店がいっぱいあるところと考え、新宿を選んだ。私が騒がしいお店は嫌だな、と何気なく漏らしたら、二人はゴールデン街の方へ連れて行ってくれた。初めは面食らった思いもあったけれど、意外にも若い人向けのお店も存在していて、なんだかんだその雰囲気を楽しめた。
 今はその帰り。中央線で吉祥寺まで行き、自宅までとぼとぼと歩いている。
 季節は冬。コートとマフラーが欠かせない。年が明けてまだ間もなく、大学では期末のレポートやテストが差し迫っていた。大学で冬を迎えるのは二回目。年々、時間の経過が早く感じられるようになってきている心地がして、焦る。
 今夜酌み交わした心愛と和葉は、大学生活をとことん楽しんでいるようで、話の端々からその空気を嗅ぎ取った。二人ともいつでも明るくて、いわゆる賑やかし、だったから、新しい環境に飛び込んでもすぐに溶け込めたのだろう。心配なのはどちらかというと単位とか、学習面かも。
 高校時代の友人に会ったら、当然かつての思い出が話される。それは避けようがない。部活のこととか、行事のこととか、誰々がどうしたとか。話していても、二人は明らかにある一人の人物についての話題に触れないよう、注意している。どんなに酔っぱらって喋り方がふにゃふにゃになっても、そこだけは気をつけているようだった。彼女たちがそうしてくれるのが果たして優しさからなのか、単に面倒臭いだけなのかは分からない。両方あるのかもしれない。
 綾芽は元気にしているだろうか。高田馬場にある有名私立大学に進学したはずだ。綾芽のことだから研究に打ち込む一方で、プライベートも充実させていることだろう。その様子が目に浮かぶ。綾芽はいつだって完璧だった。私は彼女に焦がれていた。
 綾芽と話せなくなってしまってから、その手に触れられなくなってしまってから、そのもどかしさは日を追うごとに募った。だけれど、私が悪いから仕方ない。綾芽に許してもらえるまで、私から綾芽に近づくことはできない。結局、卒業の日を迎えても許されることはなかった。式の最中、目元はずっと乾いていたのに、家に帰り着いてからぽろぽろと涙がこぼれ、こみ上げてくる嗚咽をベッドに突っ伏すことで押し殺した。だけど、涙は止まらなかった。
 綾芽に会いたい。夜空に浮かぶ三日月を見つめながら、切に願った。会って、もう一度ちゃんと謝りたい。許されなくてもいい、これはきっと自己満足に過ぎないから。
 風が吹いてふわりと髪を揺らした。静かな住宅街の路地に、私の足音だけが響く。


 綾芽と出会った日のことは、まるで昨日あった出来事みたいに鮮明に記憶している。どんなシーンよりも印象深かった。
 入学式の日、式が行われる講堂まで移動してから、私はお手洗いに行きたくなった。まだ誘えるほどの仲の人はいなかったから一人でさっと立ち上がり、講堂から校舎へと通じている外廊下を歩いた。
 急ぎ足で歩を進めながら、学校の中をなんとなく見回した。都内の高校にしては広い校庭、綺麗な校舎の白壁、敷地を囲う無機質なフェンス――この箱でこれから三年間やってゆくのだと、改めて感じた。そこかしこから女生徒たちの華やいだ声が耳に届く。私は中学も女子校だったから(やがて大学も女子大へと進学する)、当たり前の、それは馴染んだ光景だ。
 校舎に入ってすぐ、窓に寄りかかって外を見つめている少女を見出した。初めは先輩かと思ったけれど、制服のリボンの色を確かめたら、私と同じ色だった。艶やかな長い黒髪、豊かな肢体、そして美しく整った横顔を見ていると、私の心はだんだん落ち着かなくなっていった。かわいい娘、綺麗な娘はこれまでにもたくさん出会えた。私はそういった娘たちに目がないから、同じ箱であったら漏らさず見つけてきたはず。――だけど、その人を知ってしまった瞬間、かつて私の心をときめかせたいずれの顔も霞んだ。
 傍らで不自然に足を止めた私に気づいて、その人はゆっくりと首を巡らせた。互いの目が合う。「まあ、綺麗な人」
 思いがけず、その人からそんな風に言われてしまった。あまりのことに謙遜することも、褒め返すことも叶わず、ただ瞳を大きくするしかなく――。
「あなたも新入生なのね。みんな、ずいぶんはしゃいでいるものだから、少し疲れてしまって、一人でぼんやりしていたの」
 そろそろ講堂に戻らないと、とはにかんだように笑む。
「私、河瀬智恵」意識せずともすらすらと言葉が口から出た。「あなたは」
「内野綾芽」束の間もなく教えてくれる。「チエってどう書くの」
 智恵子抄の智恵よ、と高村光太郎の詩集を挙げると、すぐに理解した。アヤメは、と問い返せば、彼女もまた「綾なす花の芽」と説明する。たちどころに互いの名を知り合えた。
「菖蒲の花言葉を知ってる、智恵?」
 私はショートカットの方が似合うから、ずっとこんな長髪に憧れていた。自分の唇が薄いから、こんな色っぽいそれにもまた、憧れていた。さっきから、綾芽から目が離せない。こんなの初めて。
「ううん、分からない」
「菖蒲の花言葉は――」目を逸らし、時間を巻き戻したみたいに、元の外を眺める姿勢に変わる。再び横顔を見つめて、その唇がどんな言葉を紡ぐのか、待った。
「よい便り、希望、あるいは……チエ、よ。Wisdomの方のね」


 大学の一つ下の後輩を誘って、神楽坂のあんみつ屋さんに行った。その後輩とはある講義で席が隣り合わせになって、私から声をかけた。講義の最中、教授の話に耳を傾けながらちらりとその顔を覗き込むと、やはり、と腑に落ちる部分があった。横目でもそんな気がしていた。髪は栗色に染めているものの、黒く澄んだ瞳とか、色っぽい唇とか、白い肌とか――とにかく、雰囲気が綾芽に似ていた。先輩だったらどうしようと、おずおず声をかけたのだけど、後輩だと分かると安心した。それなら誘いやすい。
 小動物的な、かわいい女の子も好きだけれど、琴線に触れるのは綺麗な女の子と言うのか。髪型や服装よりも、面立ちや立ち居振る舞いから楚々とした雰囲気が漂っていると、私はすぐに惹かれる。自分が童顔だから、持っていないものを持っている人に惹かれてしまうのかもしれない。
 綾芽と入学式の日に運命的に出会い、すぐに親しい仲になれたのは、今思い返せば上手くいき過ぎたと捉えられる。私にはあまりにも過分な幸いだったのだ。いつも一緒に行動し、二人だけの時間はかけがえのないもので、華やかな二輪の花、だなんて陰で呼ばれていた。
 綾芽が好きだった。あの感情につける名前はそれ以外にない。私の好きは、柔らかな頬に触れたり、色づいた唇に唇を重ねたり、人の目からは隠されている部分にそっと手を伸ばしたりしたい――そういう、好きだ。
 目の前でおいしそうにクリームあんみつを堪能している後輩は、どこかかわいらしさが窺えた。匙で小さな口まで持ってゆき、味わった後でちらりと赤い舌が覗く。満足できるものだったのだろう、双眸がカシューナッツの形になる。
「なんですか」
 あまりにもじろじろ見られているのに気づいて、後輩は声を上げる。怪訝そうに寄る眉根がまたいじらしい。「おいしそうに食べるな、と思って」
「甘いもの、好きなんです」
 食べないなら、私が食べてあげましょうか。さっきから観察に忙しくて、自分の分がほとんど手付かずだった。いいよ、お食べ、と椀を差し出すと、自分から食べましょうかと言ったくせに目を丸くし、ややあってから「ありがとうございます」それを受け取った。
 確かに、ここに来たいと誘ったのは私の方からだし、彼女が目を丸くするのはもっともだ。甘いものは私も好きだけれど、それより、かわいい娘が食べている様を見ているのはもっと好き。
 こんな風に綾芽と甘味処で向かい合ったことはない。お互い高校生だったから、行っても喫茶店やファミレスくらい。周りからはいつも二人きりでいるように思われがちだったが、実際はいろんな子たちが一緒にいた。心愛や和葉もその一人。
 ずっと勇気が持てなかった。掌の中のスマートフォンの電話帳を開く。五十音順だと目当ての名前がわりあいすぐに見つかる。「内野綾芽」色褪せない、なんて甘美な響きだろう。非はすべて私にあるのだから、どんな口実をもってしてもこちらから連絡は取れない。でも、もし、どこかでまた向かい合えるとしたら、その場所はきっとこんなよそよそしいところじゃなくて、埃っぽいあの放送室に決まっている。
 マイクの前で、あの日できなかった話をするのだ。


 春に出会って、じめじめとした嫌な雨が続く季節に入った頃には、綾芽の家に招かれるようになった。私立の、それなりに名の知れたお嬢様学校である私たちの高校には、しかしピンからキリまでの女生徒が在籍している。その中にあっても、おそらく綾芽はかなり恵まれた家庭で育った方だと思う。家が広く、たまに家政婦さんの姿も見かけた。
 私はそれまで、自分は恵まれている側の人間だと自負していた部分があった。でも、綾芽の家に上がらせてもらう度に、その自負はどんどん萎んでいった。案外、自分は普通らしい。
 綾芽のお父さんはお休みが不規則らしく、会えることは滅多になかったけれど、笑顔が柔和でとても若々しい方だった。なんというか、もっと話を聞いてもらいたくなる人。きっと職場での人望は相当なものだろうと推察する。一方で、お母さんは顔の造作は整っていて綾芽によく似ていたが、それに歳とともに神経質さが加わった、という感じを受けた。初めてお目にかけたとき、綾芽は「ママ、智恵のこと気に入ったみたい」と、それが珍しいことであると言外に含ませて、言った。私は強いて気にしていないよう努めた。
 何回目に招かれた日のことだったか記憶は曖昧なのだけど、そんなある日、綾芽の弟に遭遇した。いつもみたいに綾芽の部屋へ向かう途中の廊下で、不意に一つの部屋から彼は現れた。――私はその容姿に心臓を射すくめられたような心地になる。
 自分自身、兄弟がいないから余計にそう思うのかもしれないが、歳がいくらも離れていない家族がいること、そしてつかず離れずの関係を築いていること、というのが上手くイメージできないときがある。羨ましい、とか、鬱陶しそうだな、とかいう感情はなく、ただただ不思議。分からない。そして、校内ラジオの存在などよりもずっと私の心に引っかかっていたその謎は、綾芽の弟に出会ってむしろ深まった。
 似すぎていた。顔の作りも、肌の色も、何気ない瞬間の表情まで。体格はいいし、声もちゃんと低いから、さすがに姉妹みたいとまでは感じないけど、ほんとにそっくりだった。彼は男子にしては髪を長くしていた。
 ――初めまして。弟の歩夢です。
 挨拶をされて、夢から醒めたように我に返る。
 ――河瀬智恵です。初めまして。
 束の間、互いの視線が重なった後で、歩夢くんはにっこりと笑みを浮かべ、階下に降りていった。その後ろ姿を見るともなしに眺めていると、かわいいでしょ、と横から綾芽の声がする。それから間もなく知ったが、二人の歳の差は二つだ。よく似てるね、と言葉を返すと、綾芽は急に押し黙ってしまった。
 綾芽も私と同じで、中学から女子校に通っている。そして彼女は、歩夢くんをこよなく愛していた。

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