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いつか彼女みたいに ep.23

 予選会当日が明後日に迫っていた。もう見えるところまで来ているという実感を、夕映は嫌でも噛みしめる。庇護欲を駆り立てるようなかわいらしい容姿をしていながら、その実、性格はけっこうサバサバしていて、だけどやはり本番となると緊張もひとしおなのだ。そんな思いの動きを誰にも悟られないように、細く長く息を吐き出した。高揚した気持ちと冷静な気持ちのバランスをよくする。
 選抜はたったの五人。夕映はなんとなく選ばれるだろうと自覚していたけれど、実際に選ばれてみると大変なことになったと焦り出した。一年生三人、二年生二人の布陣。怪我人や極端に調子を落とした者がいないため、ほぼほぼ予定通りのメンバーで走るはず。――予備メンバーを含め、選抜されなかった面々の顔ぶれに驚愕した。どうしてあの人が、と嫌味ではなくほんとうに不思議だった。そして日に日にプレッシャーは増した。走れない人たちの分まで背負って走る、なんて言葉にするのはいとも容易いけど、それを現実に叶えるのはとても難しい。
 それでもたった一人の一年生、とかではないのはありがたい。紫乃や澪はきっと夕映よりもずっと期待されていて、おそらく当日、二人はその期待に応えるだろう。できる限りのことを果たせばいい。だんだんとそう折り合いをつけられるようになってきていた。
 日が暮れゆく。予選会に向けて筋肉が悲鳴を上げる練習をここのところ積み重ねていたが、今週は目前に控えているとあって軽めの調整が続いていた。ここで無理をしても仕方がない。本番前はどうしても走りたくなってしまうものだけれど、それを抑えて、ベストな心身の状態で臨めるかどうかも勝負の内。
 平素よりもずっと楽な、だけどみなの集中力が異様に高かった部活が終わり、下校することとなった。校舎の上階、音楽室から吹奏楽部の演奏がよく聴こえてくる。放課後ずっと演奏していたのだろうが、意識するまで気づかなかった。最終下校時刻のギリギリまで活動するみたいで、なにかコンクールとか演奏会とかが近いのかしら。夕映は吹奏楽事情に疎いので知らない。
 彼女らはいいな、と考える。もちろん無際限ではないだろうけど、直前まで目一杯練習を積み重ねられるのは羨ましい。と同時に、でも条件はどこの学校も同じだと分かる。今日、明日はイメージトレーニングが大事になるかもしれない。
「本番どうなるかな」
 間延びした言い方で紅海が口にする。これまでに何度も歩いてき、これから何度も歩いてゆくだろう駅までの道をたどっていた。影が薄く長く伸びる。
「さあね。予選会は実力通りにいきやすいけど」
「つまり、恵那学院ってこと?」
「うちだってチャンスがなくはないよ」
 確認するまでもなくそんなことはもう分かっている。だけど口に出すことで、言葉にすることでより強く実感できる。チャンスはある。絶対的な存在を脅かすくらいには、秋桜のポテンシャルも捨てたものじゃない。
「夕映は、なんで陸上始めたの?」
 美姫が不意を突く形で尋ねた。ちなみにこの場には一年女子三人しかいない。紫乃と澪は用事があるとかで二人で帰ってしまった。気心の知れた三人で並んでいると落ち着くが、不在も確かに感じている。
「なんでだろうね、今となっては。でも誰だってそうだと思うけど、自分は足が速いのかもって気づいた瞬間が出発点だろうね。それをどの方面で生かしてゆくかは人それぞれだと思うけれど」
 だからむしろ紅海みたいに、作品に感化されて挑戦してみようとするのは稀だし、その純粋さにたじろいでしまう。もしそれで大成できたら手放しで賞賛できるはずだ。
 夕映は中学から陸上部に入った。話す通り、小学校の頃から特になにをしたわけでもないのに足が速く、それ以外に取り柄や圧倒的な興味もなかったので陸上部に所属し、その個性を伸ばそうとした。速くなってゆくのは快かったし、たくさんの仲間もできた。この道以外の選択肢に思いを馳せられないほど一心に走り込んできた。現在では結果を残して当たり前という扱いをどうしたって受けてしまう。
「もう、そういうところまできたんだね」
 夕映が物憂げに呟くと、意味の取れなかったらしい紅海と美姫は顔を見合わせた。胸の内を曝け出すつもりはなかったし、曝け出そうにも上手く伝えられそうになかったため、夕映は曖昧に微笑んで首を横に振った。暮れ切った空の下ではその表情がよく映えた。
 いつか大人になって、こんなありふれた一日を振り返ることになるとき、どんな感情の芽が萌すのか。きっと甘くて酸っぱい気持ちでいっぱいになって、すぐにお腹いっぱいになるかも。夕映は星空を見上げながら、今日はずいぶんといろいろなことを考えるとひとりごとを漏らしたのだった。
 秋の冷たい風が少女たちの髪を揺らした。


 バス停に降り立ち、すっかり朝方は冷え込むようになったと紫乃は感じた。コートもマフラーもない冬服で歩いているのがちょうどよい涼しさ。一年中このくらいだったら絶対に過ごしやすいのに。でもやっぱり、夏の暑さも冬の寒さもたまには恋しくなるかも。
 澪と出会ったのは今と向かい合わせの季節の頃だった。これから暖かくなりゆく頃合いで、声はなくとも辺りはなんとなく賑わっていた。どうして人は春の陽気に誘われると浮かれ気分になるのかしら。自分自身もそういう部分があるからなおさら気になる。
 横断歩道を渡り、校門から学校へ入った。すっかり見慣れてしまったという意味ではもう半年通ったし、ここを離れることを想像すらできないことを思えばまだ半年しか通っていない。これからどんな未来が待っているのだろう。少なくとも入学した日には、現在置かれている状況にあるなんて思わなかった。
 取り返しのつかない失敗をしてしまったけれど、確かな手応えをちゃんと掴んだ夏。そして今再び勝負のとき、秋。明日、全国高校駅伝への切符を手に入れるための予選会に出場する。予定通り、光が選抜した五人のメンバーで臨む。秋桜高校の、考え得る限り最強の布陣。出られなかった人もいる。だけど、複雑な胸中を隠してサポートに回ってくれた。この部の雰囲気は変わりつつあった。
 紫乃は教室の自分の席に鞄を置くと、すぐに着替えとスパイクを持って更衣室に向かった。練習は軽めにしろと部長に釘を刺されているから、ほんとに軽く走り込むだけだ。前日になにもしないでいるなんて酷だ。少しでも体を動かしておきたい。
 更衣室の前に立つ。そこで立ち止まって、一度深呼吸した。ドアの向こうは静まり返っているけど、紫乃には室内に誰がいるのか分かっていた。同じようにじっとしていられなくなっているはずだ、彼女は。紫乃はその彼女を気遣うように、驚かさないようにそっと扉を押し開け、そこに腰掛けている人物を確かめた。
 弱く差し込む陽の光を背にして、すでに着替えを済ませている澪がそこにいた。ちょうどスパイクを履こうとしていたところらしく、紫乃と目が合うといったん結んでいた手を止めて、「遅かったですね」と呟いた。まるで口約束を交わしていたみたいに。
「ごめん」
 紫乃は急いで着替えることにした。暖房の利いているわけではない部屋、上半身と下半身が下着だけになる瞬間は肌寒く感じられた。なんとなく自分の体のあちこちの神経がいつもより敏感になっているのが分かる。スパイクを履き終えた澪は、座ったままじっとこちらを見つめていた。それがとても緊張した。どうにかなってしまうのではないかと思った。
 身支度を整えて振り返ると、紫乃が誰よりも意識する少女は柔らかく微笑んでいた。二人はしばし――永遠にも感じられるほど――見つめ合って、どちらからともなく「行こうか」と練習に誘った。そしてやはりどちらからともなく頷き返した。すべてが曖昧ではっきりしない。
 大人しい一面を垣間見せている学校の中を、足音を忍ばせるようにして歩いた。紫乃は「いよいよだね」と呟いた。澪もまた「いよいよですね」と言った。優しいアルトの響きだけが耳に届く。ずっと二人きりだったらどんなにいいか。
「澪は、距離の長い種目で大会に出たことあるの?」
「ないです。マイルだって初めてだったんですから」
「そうだよね。秋桜じゃなかったら、また一緒に走ることもなかったかな」
「そうですね。だから、よかったのかもしれません」
「澪、ずっとがんばってたもんね」
「でも、長距離のエースは紫乃ですよ」
 つと、紫乃は足を止めた。息も止めたかったけれど、代わりに言葉を紡ぐのを止めた。黙ったままでいるといろんな感情が湧き上がってきて、どうにも抗えなかった。苦しい思いを吐き出しそうになったとき、温かい感触に包まれて、やっと呼吸ができた。
「澪……」
 声に涙が滲んでいたかもしれない。澪がそっと抱きしめてくれていた。その心地よさに、嬉しい、という言葉よりももっと嬉しくなる。
「不安ですか」
 耳元で囁かれる。だって。
「だって、もう失敗できない」
 いつだって、頭にはそれがあった。リレーのバトンのミスをしたこと。澪に頬を張られたこと。昨日の話みたいに記憶している。だから今度こそは、中途半端な結果では許されない。自分で自分が許せないのだ。
「大丈夫ですよ」
 猫を飼ったことはないのだが、寝るときにお腹のあたりで猫が丸まって、一緒に横になってくれたら、きっと今と同じくらい温かいのだろうなと、紫乃はなぜか連想した。澪はもう一度、大丈夫を口にする。
「紫乃がとっても強いこと、知ってますから」
 ようやっと心から笑えた。
「澪もいてくれるしね」


     *


     エピローグ


 待機場所となっているテントで入念にストレッチをしながら、はやる心臓を落ち着かせようと懸命だった。爪先を両手でがっしり掴み、その体勢のまま空を見上げると少し曇っていた。雲と雲の隙間からわずかに漏れる光が目にも温かい。今日は予報通り寒くなった。走り出したら気にならなくなるだろうけれど。
 ここまで来た。信じられない心地は今もまだ続いている。当たり前のような顔をして並みいるランナーたちと同じ空間に押し込められているけど、紫乃はずっと夢の中にいる気分だった。一方でこれは現実だと分かっている自分自身もちゃんと存在しているから、その乖離がとても不思議で、面白かった。
 だんだんとテントの中は人が少なくなってゆく。襷を受け取るために出てゆくためだ。秋桜高校はかなり苦戦している。一区を任された葵はそのマイペースさで周りに流されることはなかったが、やはり実力差はどうにもならなかった。後ろから数えた方が早い順位で二区の夕映に繋いだ。
 紫乃は夕映の走りを控え室のある建物内で、画面越しに捉えていた。テレビ中継されるとは事前に分かっていたものの、そうして見知った誰かが大きく映されると現実感が希薄で。でも、テレビに映った夕映は、他校の選手たちよりもずっとかわいくて、そこが誇らしかった。と言っても、中途半端な順位の秋桜がフューチャーされる場面なんてそうそうなかったけれど。
 女子の二区はエース区間と呼ばれる。距離が最も長く、当然どこもエースをここに投入してくる。光は夕映で勝負すると早いうちから決めていた。実力と、舞台度胸と。紫乃は後者について、ちょっとだけ信頼されていなかったのかもしれない。夕映は期待に応えようと必死に前のランナーに食らいつき、二つ順位を上げて仄香に襷を託した。――走り終えた後で夕映が意識を失った、という話を聞いたのは、すべてが済んでからだった。
 三区を任された仄香は、本番前からかなり緊張している様子だった。多弁な性格ではないのでけっして「緊張してる」と連呼はしなかったけど、硬く張り詰めた表情は見ているこちらも強張った。そんな彼女を直前まで雅樹が支えている様子は、ほんの少し妬けたかも。――その甲斐あってか、彼女は普段以上の走りを見せ、なんとか順位を保ったまま三区を駆け抜けた。
 いよいよ四区。勝負は後半戦へと差しかかっている。秋桜の四区は澪。光はここもまた早いうちから想定していたそうだ。四区は全区間の中で最も短い。正直、どれも微妙な差だから短いも長いもないのだが、ここには比較的スピードランナーが起用されやすい。全国のスピードに対抗できるとしたら澪しかいないだろう、そういう采配だった。
 澪はどんなときも澪。それを今回、改めて思い知らされた。襷を受け取ってから一気に加速してゆき、順位を五つも上げたのだ。ただ出場校が四十以上もあるため、入賞にとどくかどうかもまだなんとも言えない。それでも初出場の高校にしては健闘していた。
 紫乃は澪が襷を届けに来るのを待っている。ストレッチをし、ウォーミングアップをし、精神を統一して、今か今かと待っている。襷には、選ばれなかったメンバーたちから五人への激励の言葉がびっしり書かれていた。そういう青臭いことが嫌いな紫乃は、せっかくの襷が汚れてしまうのではと内心思っていたけれど、できあがったそれを目の当たりにした瞬間、涙がこぼれそうになった。「意外とちょろいよね」と夕映に心の内を言い当てられたような台詞を囁かれ、その涙はあっという間に引っ込んだが。
「秋桜高校、準備してください」
 澪が近づいてきたらしい。立ち上がって、中継地点へ赴いた。沿道はたくさんの人で埋め尽くされていて、その熱気がまるで押し潰しにかかってくるみたいに伝わってきた。
(これが駅伝なんだ)
 紫乃は手汗をかいている掌をぎゅっと握りしめた。澪の姿が大きくなってくる。
 陸上競技を始めるきっかけは特別なものじゃない。周りの人よりもちょっとだけ足が速かったから、それでもう少し勝負してみようかな、くらいの魂胆。あるいはテレビや競技場でその道のスペシャリストを目撃し、憧れたことで始める場合もあるだろう。でも、紫乃や今ここでしのぎを削っている者たちがずっと続けている理由は、きっと好きだからだ。
(私、けっこう好きみたい、陸上)
 澪の名前を思い切り叫んだ。誰だって最後はきつい。応えるように澪は外した襷を掲げた。仲間たちからのエールがいい縞模様になっている。
 そして秋桜高校最後の襷リレー。その勝敗の行方は紫乃に託された。走り出した彼女はもしかしたら誰よりもいい表情をしていたかもしれない。風を切って進んでゆく。
 空が遠く、青い。

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