箱に願いを(1)

     一


 見えないから、ちゃんと確かめようとしただけなのかもしれない。動機はそれくらい些細な。どんな結果が舞い込むのかなんて、よく考えていなかった。
 すべてのきっかけは、とある雑貨屋でとある箱を見つけたこと。なんてことのない、小さな箱だった。でも、その箱と出会わなければおれたちの日常は、今でもあの頃のままだっただろう。

               *

 寒かった毎日を忘れさせるようなぽかぽか陽気。沿道に咲き誇る鮮やかなピンク。春を迎えると、何かがリセットされて、新しい日々が始まる予感がする。実際に、数週間前まで中学二年生だったおれは、一つ進級した。少し、気分がいいかもしれない。
 桜に左右から見守られながら、おれは一人の女子生徒と一緒に登校している。家が近くて、こうして一緒になることも多い同級生。小学校から知っているから、まあまあ気心の知れた関係。
「真夏くんは、どう?」
 こちらに首を向けるたびに、真っ黒な長髪が柔らかく揺れる。切り揃えられた前髪の下の瞳がまっすぐで、ちょっとだけ目を逸らしてしまう。苦手、ではないのだけど、少なくとも得意ではない。
「冬が行きたいのなら、付き合ってやらんでもないよ」
「そんな言い方して。ほんとうは、わたしとお出かけしたいんじゃないの?」
 唇の前に人差し指を当てて、悪戯っぽい笑みを浮かべる。そんなわけじゃ、と小声で否定するのがせめてもの抵抗。
 なんでも、神楽坂に輸入雑貨を主に扱うお店が新しくできたらしい。女子の間ではすっかり話題の的で、評判もいいそうだ。だいぶ騒ぎも落ち着いてきたから、冬も行きたいのだとか。それで、おれも誘われた。
 冬は同性の友達がいないに等しい。そうかと言って、異性についても、おれによく絡んでくるだけだが。浮いているわけではないけれど、必要以上の交流をしようとしなくて、それでいて自分を見失わないところがある。そして、なぜかおれには親しげに話しかけてくる。嫌じゃないけど。
「じゃあ、次の日曜日、空けておいてね」
 はいよ、と気だるげな身ぶりで応える。
 線路沿いの道を歩いて、角を曲がると住宅地に入る。学生以外にはあまり人通りもなく、しかも、おれたちは早めに登校しているから、今はどうやら二人きり。学校に着いたら嫌でもたくさんの人の相手をしなければならない、こういう静かな時間があっても悪くないと思う。
 わりと長い付き合いになるけど、おれと冬の距離感はもう一つ分からない。表現の仕方に迷う。
「もう、中学校生活最後の一年なんだな」
 冬の横顔を見るともなしに見て、呟いた。
「どうしたの。真夏くんが、そんな感傷に浸るようなこと言って」
 心底驚いたような表情をして、こちらを覗き込んでくる。
「別に、そんなんじゃない。ただ、冬はこのままでいいのか」
「このままでいいのか、って?」
 きょとん、と睫毛を瞬かせている。
「だから、周りとあんまり関わってないで、いいのか。あっという間に中学終わっちゃうぞ」
「え、心配してくれてるの? 優しいところあるんだね」
「はぐらかすな」
 呆れた風に息を吐く。本気で言っているのに。
「大丈夫だよ」
 ぴょん、と前方へ軽くジャンプした。紺のスカートがふわりと膨らんで、白い足につい目がいってしまう。
「真夏くんがいれば、わたしは大丈夫」
 柔らかい微笑み。どうしてそんなに眩しい表情ができるのに、みんなの前では見せないのだろうか。
 友達、というには照れ臭い。幼馴染は、当てはまるけれど、すべてを包含できるものではない気がする。恋人、ではもちろんない。
 何か、決定的な言葉を待っているのだろうか。とても、そんな感じはしない。中学校生活最後の一年も、上手く表現できない関係性のまま続くのかもしれない。それはそれで、いいことなのだ、きっと。
「ほら、真夏くん」
 すっと、さりげない動作でおれの手を取る。とくん、と心臓の高鳴る気配。女子の手はこんなに小さくて、こんなに柔らかいのだ。
「早く学校行こう」
 そのまま数歩引っ張られる。早めに出てきているのだから、焦る必要は皆無だというのに。でも、なんとなくされるままに任せる。
 人の目を気にして恥ずかしさを覚えるまでは、こうしていてもいいだろう。秘密めいたことを共有しているわけではないけど、おれたちは決して付き合っているのではないから。下手に人の口に上るようなことはしない方がいい。
 手を引かれながら、桜の木の向こうに見える空を捉えた。こうして、冬の傍らで何度青空を見上げてきたかな。
 息を吸い込むと、少しだけ冷たい空気が流れ込んできた。それと、長い髪を揺らす冬の甘い匂いも。

 学校に着くと冬は真っ先に図書室へ行ってしまう。おれもたまにちょっと付き合ってみるものの、性格的に読書が向かないらしく、すごすごと引き返してくる。
 冬がいなくなったので、仕方なく誰かが来るまでぼんやりしていた。見るともなしに見た窓の向こう、綿あめみたいな雲が遅い足取りで、それでも確かに流れていく。見つめていると、長閑すぎて、少し眠たくなる。
 誰もいない教室。黒板に下手くそな絵を描くことも、好きな歌を歌うことも、もしかしたらできるのかもしれない。誰かが入ってきて中断を余儀なくされるまでは。
 足を組み替えて、頬杖をつき、相変わらず外を眺める。やはり、雲は左に移動していた。
 頬杖をついていると歯並びが悪くなる、と教えてくれたのは誰だったか。冬だったか。いや、この話は確か――
「おはよう、真夏」
 春海だ。
 ガラガラと、勢いよくドアを開ける音とともに同級生の広末春海が現れた。その音に、不覚にもびっくりする。
「春海か。おどかすなよ」
「え、普通に入ってきたじゃん。一人でぼうっとしているから、驚いたんでしょ」
 春海はいつだって明るくて、活発な性格だ。冬と異なり、友達も多い。おれは昨年度から同じクラスで仲好くなった。
「真夏、早く来ていること多いよね。せっかくなら勉強とかしていればいいのに」
「おれがそんな殊勝なことすると思うか?」
「思わないけど」
 花が咲くように、笑う。
 一つ、沈黙が落ちた。おれが黙ってまた窓の方に視線を向けると、春海が背後から静かに近寄ってきた。そして、後ろから思ったよりも強く抱きついてくる。胸の柔らかい感触が背中にとろけるように広がる。とくん、動悸がする。
 春海はおれたち二人だけのとき、こうして何も言わずに身を預けてくることがある。はじめは圧倒的に戸惑ったし、どういうつもりなのか分からなかった。だけど、ある噂を耳にしてから、抵抗するのをやめた。黙って、受け入れるだけ。
 春海はそうすることで、伝えられない思いを伝えようとしている。言葉を介するよりも確実だと信じて。
 おれは春海の何もかもを知っている、なんてことはない。むしろ、知らないことがたくさん。だけど、できることがあるならしてやりたい。どこか、優しさを施してやりたくなるもろさを、明るさの裏側に隠しているのが窺えるから。
 やがて、春海が体を離す。でも、おれの両肩に手を置いたまま。そっと首をめぐらすと、ごく近いところで瞳と瞳が合った。春海の目におれの間抜けな顔が映っている。吸い込まれそうだ、とそう思った。
 春海が唇の両端を持ち上げる。応えるようにして、笑いかけた。
 不思議な時間だった。

 電車に揺られ静かに運ばれていく。車内は意外と空いていたが、すぐに降りるからと二人とも立っていた。
 冬はドアに軽く寄りかかるようにして立ち、おれは手すりに掴まって向き合っている。レモンイエローのワンピース姿の彼女は、制服のときよりも大人に見える。唇が艶やかに色づいていた。
「わたしたち、付き合っているみたいだね」
 その唇が動いた。
 そんな台詞、よく平気で言えたものだ。
「もっとかわいげのある彼女の方がいいな」
 平静を装ってそう返したけれど、内心あまり落ち着かなかった。
 くすくす、冬が口の前に手をやって笑っている。
「真夏くん、照れちゃって」
「照れてないやい」
「顔が真っ赤だよ」
「うそ」
 そう言われると、そんな気がしてくる。
「うそだけど」
 偽りだと明かされたわけだけど、もてあそばれたおれは結局やや照れたようになることに。
 普段からこうだ。冬はくるくると表情を変え、おれはそれに付き合ってやる――もとい、付き合わされている。他人には決して見せないこの表情を、ときどき特別なものみたいに感じることもある。でも、同時になぜだろうって考える。どうして、おれには心を許してくれるのかな。
 付き合いがまあまあ長いため、仲好くなったきっかけを思い出すのが難しい。
 小学校から中学校と、着実に大人への階段を上っていく途中。おれの身長はかなり伸びたと思う。クラスの中でもわりと大きい方。
 それ以上に、冬が大人の女になっていくのだと、しばしば感じてしまう。悔しいけれど、それは認めるしかない。顔立ちや胸の膨らみにどきりとさせられる瞬間が増えた。もう小さい頃みたいに、寝転がってじゃれ合うことなんて、できない。
 ほかの誰よりも冬を一番に見てきたから、こんな風に感じるのかしらん。自分でも正体の分からない感情が、ここのところ胸の内の部屋に住まっている。
「真夏くんは」
 束の間の沈黙を破って、冬が呟いた。目線は横を向いている。電車の進む先に目を凝らすかのように。
「ふとした瞬間に、押しつぶされてしまいそうな寂しさに襲われる、みたいなこと、ある?」
 唐突な質問だった。でも、声の調子はいたって落ち着いていて、何気ない問いと変わらない。
「ふとした瞬間に、どうしようもなく誰かに甘えたくなること、ある?」
「どうしたんだよ、冬」
 茶化してはいけない気がしたけれど、おれはつい、おどける。
「答えて、真夏くん」
 おれは気迫に負けて口を噤んだ。心の中で質問を唱え直してみる。押しつぶされてしまいそうな寂しさに襲われる、みたいなこと、ある? どうしようもなく誰かに甘えたくなること、ある?
「一人で家にいる休日に覚える感情は、たぶん、寂しさだと思う。友達に対してはあんまりないけど、家族に甘えちゃうときは、ままある」
 真面目な声のトーンで答えた。
「まともだね」
 冬はなぜか横を向いたままだ。
「冬は、あるのか? 何か悩みでも抱えているのか?」
 もし悩みがあるのなら相談してほしい、言外にそんな気持ちを含めた。冬のために何かしてやれる自信は、そんなに大きくなくても。
 言葉が返ってくるのを待って、冬の横顔をじっと見つめた。知的な眼差しが規則的なリズムで瞬く。すっと通った鼻梁。ほんのり色づく唇。ほんとうのほんとに考えていることは窺えない、その表情。電車内、触れられそうなほど近くにあるその横顔が、迂闊にも綺麗に見えてしまい――
「見惚れちゃった?」
 ぱっと首を戻して、おれに笑いかけてきた。さっきまでの真剣なやり取りを、すべて遠くへやるように。
「わたしの顔、じっと見ちゃって」
「お前な」
 おれは腕を組んだ。
「冬が深刻な感じの質問をするから、なんか言いたいことがあるのかと待っていたんじゃないか」
「ありがとう。真夏くんの優しさで、わたしの胸はいっぱいになったよ」
 冬は自分の胸元に手を当てる。
「それで、あるのか?」
「何が」
「だから」
 おれは一応食い下がる。
「寂しさに襲われること。誰かに甘えたくなること」
 電車が目的地の駅にたどり着いた。神楽坂駅。ドアが開く。
「あんまりないよ」
 スキップするみたいにしてホームへ降り立つ。ワンピースの裾がふわりと踊った。
 真意のほどはやっぱり分からない。

 水色のカーディガンを羽織る冬を、彼女の鞄を持ちながら待った。袖を通して、小さく頷く。
「ありがとう」
 手渡した鞄を片手で受け取る。
「今日、思ったより寒いね。春先ってこんなものだっけ」
 駅から出てすぐ、寒い、と冬はこぼして、鞄からカーディガンを取り出した。毎年、春の気候はこんなものだったと思うが、冬が終わって、暖かくなっていくという期待は確かに強い。
「後で、なんか温かいものでも飲むか。喫茶店とかあるだろうし」
 並んで、神楽坂の街を歩き出す。左右にさまざまな店が展開し、その道がずっと先まで続いている。若い人もいれば、お年寄りもいる。色の異なる文化が自然と溶け合っている、そんな風に見えた。
「真夏くん、友達とよく喫茶店に寄るの?」
 冬はそんな経験、したことないのだろう。
「頻繁に、ってわけじゃないけど。学校帰りとか、休みの日とか」
「学校帰りに寄り道したらいけないんだよ」
「――寄り道したかったら、いつでも付き合ってやるからな」
 きょとん、と冬は目を大きくしている。おれの方をじっと捉え、それからにんまりと笑った。
「なんだか、今日の真夏くんはとっても優しい。そんな言葉、どこで覚えたの?」
 よしよしするように、片手でおれの頭を撫でてくる。すぐに逃げたけれど。これじゃ、ただの子ども扱いだ。
 機嫌が上向いたのか、冬はおれの腕に自分の腕を絡めてくる。これではほんとうに恋人同士みたいだ。でも、そのままにさせてやった。悪い気分ではなかったから。
 数分歩いたところで、冬が歩みを止める。目的地に着いたのだろう。冬の視線の先を見据える。少し古めかしい、どこか懐かしい匂いのする雑貨屋がそこにはあった。
 店内は手狭だ。その限られたスペースを最大限有効活用するように、たくさんのものがひしめき合って並んでいた。陶器、磁器、ガラス製品――どれも品のよさとかわいらしさがあって、なるほど、これなら女子は惹かれるだろう。
 はじめは目を輝かせる冬に、適当に相槌を打って付き添っていたけど、次第に彼女のペースで巡らせることにした。おれは一人、気の引かれるままに見ていく。
 店内にほかのお客さんはいない。店員さんも二人きりで、カウンターの向こうでボソボソと話している。外から切り離された、別世界に迷い込んだみたい。
 ふと、視線を吸い寄せられるものがあった。なんてことはない、木製の小箱。インテリアとして使うのかな。実用性はあまりなさそうだけれど。おれは手を伸ばし、持ち上げてみた。見た目以上に、重い。
 その刹那、一陣の風が店内を駆け抜けていった。風圧に煽られ、尻餅をつきそうになる。じっと耐えていると、気づいたときにはもう風が止んでいた。それどころか、店内の様子に変化は見られない。ちらりと見やっても、冬のワンレングスの髪は乱れていなかった。
 気のせいだったのか。いや、でも確かに、強い風を全身で感じた。
 改めて箱を捉える。金具を外して蓋を開けてみた。中には何も入っていなかった――なのに、見ていたら、すっと紙切れが浮かび上がってきた。魔法みたいに、すっと現れる。
 ひょっとしたら、おれは疲れているのかもしれない。それとも、この箱はそういう特殊なものなのだろうか。値札を確かめると、ワンコインで買えてしまう。とても、特別な箱とは思えない。
 浮かび上がってきた紙切れに、言葉が書かれている。
『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』
 なかなか、洒落た箱だ。大切なものと引き換えに、願いを叶えてくれる。ほんとうなわけないけど、興味を持った。
 こんなに安いなら、買ってしまおうか。
「真夏くん、それ買うの?」
 いつの間にか、冬が隣に立っていた。おれの手元を覗き込んでくる。
「うん、いい感じだし、安いし。せっかくだから、買おうかな」
「おー、いいね。真夏くんが何か買うなんて」
「冬は? 欲しいものなかったのか」
「今日は、いいかな。よさそうなのはたくさんあったのだけど、決められそうにないから。また来ることにする」
「そっか」
 そういうことなら、もう店を出よう。おれは箱をカウンターまで持っていき、会計してもらった。
 これは、願いを叶えてくれる箱なんですか。店員さんにそう訊いてもよかったけれど、なんとなくしなかった。怪訝な表情をされてしまうのも嫌だし。
 買ったものを持って、店を出た。

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