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舞台に、花は咲き乱れ(十九)

 花音は、昔からかわいい。小さな顔に目や鼻や口が綺麗に収まっていて、髪を毎日丁寧に編んできていた。身体の線は細いけど、頬はふっくらとしている感じで、笑うとあどけない印象が残った。
 花音はクラスで決して目立つ方ではなかった。それでも、明るさに吸い寄せられるみたいに、いつも誰かがその傍にいて言葉を交わしていた。落ち着く存在。わたしもその笑顔をいいな、とずっと思っていた。
 そして気づいたら、花音の隣に一番寄り添っているのはわたしになっていた。
 ――わたし、旭山に行きたいんだ。
 そっと打ち明けてくれた赤い唇。その唇に自分のそれを重ねたら、と想像するだけでドキドキした。
 花音が旭山に行くのなら、わたしも。だけど、皮肉にも行けたのはわたしだけだった。花音はどこの大学に進むのだろう。今ではそんなことも確かめ合えていない。
 教室の窓際、一緒の机で、わたしたちはいろんな話をしながらお弁当を食べた。その机が別の机とくっついて、ほかのグループと一緒のときもあったけれど、絶対にわたしと花音は離れなかった。どちらから執着したのでもなく、自然に。
 ――自分が本気で打ち込みたいことを見つける。
 ある日、花音はそんな思いを伝えてくれた。念頭には演劇があったのだろう。花音は言ったことをもう忘れてしまったかな。今、彼女は本気で打ち込みたいと心から思えるようなものを見つけている。
 学校帰りには花音の家に頻繁に寄った。わたしたちの家は比較的近所で、その偶然を神様に感謝した。花音の家はどこにでもありそうな一軒家、猫の額みたいな庭がついていた。
 学校でも言葉を交わし、帰り道もその続きを話し、家に着いたらまたその続きを話す。わたしたちは毎日、毎日、いったいどんなことについて話していたのだっけ。あの頃は時間が膨大にあるような気がしていたけど、今思えばあの時間はとても貴重なものだった。失われてしまった、大切なもの。
 リビングにはいくつかの写真立てが置かれている。花音が幼いときから、つい最近までの家族写真。それを見ているだけで、家族の繋がりの深さが窺える。花音はきっと愛されて育ったのだろう。
 それらを見ているときに抱くのは微笑ましさだけではなかった。わたしはちょっと愕然とする。小さい頃から、花音はカメラに向かって衒いのない笑顔を浮かべていた。笑い方なんて誰からも教われない。わたしはこんな風に笑えなかった気がする。
 二階には花音の部屋。花音には兄弟がいないから一人部屋。そういえば、お互いに一人っ子だ。部屋は整然と片づけられていて、らしい、と感じる。
「柊子、そんなに気落ちしてなくてよかった」
 夕暮れの道を歩いていた。放課後、部活は藍葉に任せ、花音とミナちゃん、それに芽瑠は柊子が入院している病院に向かった。わたしも同行させてもらった。花音はなにも言わなかったが、いい顔をしなかった。気づかない振りをした。
 柊子がどんな様子か確かめたかった。意気消沈していてほしかった、は言い過ぎになるけど、多少でも鼻柱が折られていたらいいかも、くらいには考えていた。実際、大人しくなっていたが、花音が言うようにそんなに気落ちしていなかった。怪我を負ったことを詫びた上で、自分の役をどうするかは委ねると付け加えた。
 花音は腕組みをして押し黙っていた。やがて柊子の手をそっと握り、あなたを待つことに決めたの、と呟いた。わたしは驚いた。わたしのいない間にそんな話し合いがなされたのだろうか。しかし、ミナちゃんと芽瑠の表情を窺うと、二人も驚いているらしかった。では、花音の独断なのだ。
 場の雰囲気を敏感に感じ取ったのか、「それは部の総意ですか」と柊子は返した。花音は即答した。そうよ、と。
 ――分かりました、早く治します。
 柊子はそれだけ言って、窓の方に目を向けてしまった。やはり感謝の言葉はなかった。どうしてこんなにかわいくないのだろう。
 前を歩く花音の背中を見つめながら考えた。わたしは花音の眩しさに強く憧れ、好きだと思った。今もきっとそう。だけどもしかしたら、胸の内にそれと同居する別の感情があるのではないか、と感づいている。正体は分からない。真綿に染み込むようにして、ぶら下がって重くなる。嫉妬、とは少し違う。
 花音に向ける感情が歪みつつある。

 流行りの歌を歌いながら、わたしたちは手を繋いで下校した。人通りの少ない学校からの帰り道には、二人の少女の華やいだ歌声だけが響く。
 道をもう一本向こうに行けば商店街の賑わい。活気のある声で溢れている。でも、こちらは二人だけ。
 その日も花音の家に寄った。彼女の両親は共働きだから、基本的に陽のある時間は家にいない。リビングを抜けて、花音の部屋へと向かった。先に行ってて、とキッチンの方に足を向けた花音が言う。飲み物とお菓子、持っていくから。
 先に部屋に入って、真っ白なベッドに疲れた体を沈める。毎日、彼女が寝起きしているベッド。枕に鼻先を埋めると、かすかに甘い香りがした。
 背後でドアの開く気配がした。花音が来たのだろう。ベッドに寝そべっているのを怒られるかもしれない。そう思っていたら、急にわたしの上に覆いかぶさってきた。彼女の手がわたしの手を握り、スカートから伸びる互いの足が触れる。背中に当たる胸の感触が柔らかい。首をめぐらして、花音の表情を確かめようとしたら、「動かないで」と耳元で囁かれた。そのままにしてて。
 どうしてこういう状況になったのかさっぱり掴めないけれど、全身で温もりを受け止めているのは分かるし、わたしの鼓動があっという間に速くなっていることにも気づく。今、心の距離も体の距離も、誰よりも花音の近くにいるのはわたし。
 しばらくして背中から体が離れていき、わたしの足元で彼女はしゃがみ込んだ。上半身だけ起こして、ようやく花音の方に向き直る。
 ――どうしたの? 突然……。
 戸惑うわたしの迷いを打ち消すように、花音はわたしの頬に優しく両手を添えた。そして、顔を近づけてくる。整った顔立ちが、吸い込まれそうになる瞳が、目の前にある。
 ――わたし、小百合のことが一番好きだよ。
 鼻先がかすめそうな距離で花音はそんなことを口にした。彼女の息が口元に届いて、わたしはぞくぞくと震える。快感に酔いしれる。
 しかし、花音はパッと手を放すと、ベッドから立ち上がって、ドアの脇まで下がってしまう。
 ――ごめんね。急に変なこと言ったりして。
 どんな瞬間よりも近くに感じられる奇跡だったのに、この機を逃したらまたただの友達に戻ってしまうかもしれない。わたしは遠ざかる背中に追いすがるように、待って、と大きな声を発した。
 ――わたしも、わたしも……、
 わたしも花音が一番好き。
 強く憧れていた。自分の内側に宿る眩しい光に彼女の存在が彩りを添え、ぐるぐると渦巻いていた。姿のはっきりしないなにかが、すべて花音に向けられていた。誰かに強い感情を向けることは、それだけ誰かを強く意識しているということだ。わたしの頭の中は花音のことでいっぱいだった。
 ――ありがとう。
 そう呟いて、いつものようにかわいらしく微笑む。
 好き、と伝え合っても劇的な変化はもたらされなかった。二人の関係に新しい名前はつかなかった。いつまでも親友のまま。
 そうして、深い理解へと至る。わたしたちの「好き」はどうやら違う。それはこんなにも距離があるものなのだと心づいてしまう。わたしは花音とキスしたいし、柔らかな乳房に触れたいし、恥ずかしいところに手を伸ばしたい。いつも抱きしめて、その温もりを全力で自分だけのものにしていたい。
 この胸をこんなに惑わせる、あなたはほんとに罪深くて、愛おしい人だ。

          ◯

 一度、腹を割ってちゃんと話し合わなければ、と感じていた。二人の間は川によって隔てられている。対岸の彼女を眺めて知ったようになるのは間違っている。川の流れはこのままゆけば分かれて、末に至っても会えない。
 部活に小百合が来なくなっていた。夏休みに入り、本番までの日数はあっという間に減っていく。確かに脚本担当の彼女に来てもらって特に任せる仕事はないけれど、これが最後の舞台なのだ。一緒に作り上げた、という実感が欲しい。三浦のミナちゃんに訊いても、旭山に行っているわけではないみたいだから、すっかり演劇から離れているのだ。それもまた悲しい。
 部活終わり、まだ太陽が高い場所から照りつける頃合い、あたしは一人で小百合の家へ向かった。中学生のときはしょっちゅう行き来があった。こんなに緊張感を抱いて訪れるのは初めてだった。自然に、笑えますように。
 柊子は認められたい子なのだ。柊子を鼻持ちならない子、と断じている人はたくさんいるだろうが、彼女はもがき苦しんでいるのだ。具体的になにか打ち明けられたのではないけど、なんとなくそれを感じる。だから、きっと「あなたを待つ」と伝えれば、柊子は絶対に本番に間に合わせるだろうことが確信できた。
 小さい頃から親の意向で大きな劇団に所属し、演技を楽しいと思う暇もなくあらゆる成果を求められた。そして次第に人の目を気にしすぎ縮こまってゆく彼女は、周囲の大人から見放される。自分から足を踏み入れた世界じゃないからこそ、そこで認められたいと余計に望むのかもしれない。劇団を抜け、高校に進学し、それでも演劇部に執着したのはそういう経緯からだ。
 柊子はもがき苦しんでいる。自らが光照らされる瞬間を夢見ている。そのとき、きっと彼女は縛り付けられていたすべてから解放される。殻を破って力強く羽ばたく。それを見届けたかった。荒療治だったかもしれないけれど、主演を託したのはその感情に動かされたためだった。
 その結果、あたしは小百合を傷つけたかもしれない。小百合なら分かってくれる、と勝手に信頼を寄せるのは甘えだ。誰よりも信頼できるのなら、誰よりも言葉を尽くさなきゃ。
 でも、今も迷っている。自分の中ではなんとなく整理がついているつもり。言葉にする自信がないだけ。小百合の顔を見たら、あたしはまた甘えてしまうだろう。
 小百合、ごめんね。
 家に着いた。胸に手を当てて深呼吸し、呼び鈴を鳴らした。数秒の後、出てきたのは小百合のお母さんだった。小百合によく似た優しそうな人。尋ねると、小百合は不在だという。もうそろそろ帰ってくるかもしれないから、部屋に上がって待ってて、と言ってもらえた。ためらう心はあったけれど、お言葉に甘えることにした。
 二階の小百合の部屋に足を踏み入れる。久しぶりだ。相変わらず部屋は整頓されている。あたしも小百合も綺麗好きだが、あたしと違って彼女はものをあまり持たない。ほんとに大切なものしか残さない少女。
 ベッドに座ってぼんやりしていた。親友とはいえ、人の部屋で勝手な真似はできない。小百合がいつも眠っている、匂いが染みついているベッド。掌で触れ、撫でてみる。あなたはいつもどんな夢を見ているの。あたしはどのくらい出てくるの。
 ふと、いろんな本が並んでいる本棚に、一つだけ明らかに毛色の異なる背表紙を捉えた。日記、らしい。小百合が日記を書いていたなんて初耳だ。そういえば、三浦のミナちゃんは昔からずっと日記をつけていると話していた気がする。花音ちゃんも書いてみたら、と勧められた。
 気が咎めたけど、無意識のうちに手が伸びていた。そっとその日記を掴んで、ゆっくりと開いてみる。最初のページを見つめたところで一度顔を上げ、ドアの向こうを窺った。しんと静まり返っている。小百合が帰ってくる気配はまだなさそう。改めて、その先を読んでみた。
 日記は長く続かなかったらしい。ほんの何回か記しただけで途切れている。だけど、その中に書かれている内容は目を見張るものがあった。あたしは呼吸が止まるような心地でじっと捉えた。


   五月○日

 今日から日記をつけてみることにしました。きっかけは、ミナちゃんと話しているとき。ミナちゃんは中学二年生の頃から毎日欠かさず日記をつけているそうです。日記をつけると、後からその日のことを振り返れますし、自分の考えをまとめるのに最適だそうです。やってみたら、と勧められたので、とりあえず一度やってみることにしました。どれくらい続くかは分かりませんが、せめて、三日坊主で終わらなければいいです。


 やはり、ミナちゃんの勧めがあって始めたのだ。だけど、この埃をかぶった状態から察するに、ほぼ三日坊主で終わってしまったみたい。書かれたのは二年生の春先。


 沼田鈴花。一年生。彼女を意識しない日はありません。
 初めて話してみて、その印象が花音と重ならないことに安心している自分がいました。よかった、彼女は花音ではない、と。当たり前なのに。
 鈴花は普段は大人しく、自己主張もしない子です。少し、演劇部にいるのが不思議になるくらい。でも、スイッチが入るというか、活動中はしっかり声も出て、動きも機敏です。加えて、物怖じしないタイプらしく、緊張で硬くなる瞬間は見受けられません。
 彼女を上手く、劇の中で使いたい。密かに思案しています。
 それにしても、見た目はほんとうによく似ています。笑っている顔も、まじめに考えている顔も。


 鈴花のことを書いている。出会って間もないのに、小百合は鈴花を強く意識していたらしい。でも、あたしの印象と重ならないことに安心している、とはどういう意味かしら。


 今日の帰り、ミナちゃんと帰ろうとしたら、塚原のミナちゃんと約束があるからと、行ってしまいました。仕方なく一人で帰っていると、川の向こうに花音を見つけました。その隣には、遠くてもツインテールで分かる、芽瑠ちゃんです。向こうもミナちゃんを奪われたのだと知れました。
 手を振ったら気づいてもらえるかな、と手を上げかけましたけど、陽が暮れてきたので見えにくいでしょう。それよりは先に駅に向かって、二人を待っていようと心に決めました。夜空の星を探しながら、さっきよりも早歩きで帰りました。
 芽瑠ちゃんは花音とどんな話をしていたのでしょうか。花音と一緒に帰れる彼女が妬ましいです。


 そういえば、そんな日もあった。小百合は、芽瑠のことをずっと「芽瑠ちゃん」と呼んでいる。深い理由など存在しないだろうけど。
 妬ましい、なんてずいぶん強い言葉。
 日記は六月まで飛ぶ。


 最近、鈴花と話す機会が増えてきました。
 鈴花は都心から時間をかけて学校に通っていて、旭山を進学先に選んだのは、自然が豊かな学校に行きたかったことと、やはり、演劇がやりたかったからだそうで。旭山、あるいは翡翠ヶ丘に来る女生徒はだいたい二つのパターンに分かれます。自らの意思でほかの場所からここを求めてくるパターン。もう一つは、家族の意思に押されて。母親が通っていた、とか、娘をお嬢様学校に行かせたくて、とか。演劇部志望の女生徒は前者のケースが多いでしょう。
 鈴花はわたしが脚本を書くようになった経緯に興味を持ちました。去年の舞台も観にきていたそうで、「海のプレリュード」のことも葵さんのことも知っていたので、簡単にその経緯を話しました。鈴花は相槌少なく最後まで聞き、わたし、あの作品すごく好きです、とまっすぐに伝えてくれました。その瞳の目映かったこと……。
「箱に願いを」において、鈴花は役を勝ち取りました。わたしが彼女をイメージした役を一つ紛らせていたので、公私混同と言われてしまえばそれまでですけど、オーディションで射止めたのは彼女の実力です。その奇跡に胸が震えました。
 花音。あなたに好きと伝えたら、ちゃんとした意味で受け止めてくれるかしら。
 もし、鈴花だったら――節操のない自分に戸惑います。
 今日は早く眠ります。

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