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いつだってはじめては(八)

 呻き声がしたかと思うと、栞が身動(みじろ)ぎしていた。もうすぐ最寄り駅。そろそろ目を覚ますかしら。

 何かブツブツと呟いている。よく聞こえなくて耳を近くにやる。
「……ごめんね、京。黙っていて、ごめんね……」

          *

 結果的に、桜に相談しただけで、京には体育館での出来事を話さなかった。それがよかったのかどうかわたしには分からない。時間が経過するにつれ、伝えるつもりもなくなっていく。
 明るい気持ちで過ごせるようになってきてはいたけど、それはまだ夏休み期間だから。会う相手も家族や親戚以外は京と桜に限られていたため、すっかり忘れていられた。
 しかし、夏休みが明けたら。学校が再開してしまうと、嫌でもあの日の誰かを意識しなければならなくなる。加えて、それが誰なのかをわたしの方が把握していないことが何より問題で、何より怖い。
 恐ろしい。
 だけど、桜がいつでも一緒にいると言ってくれた。京も傍にいる。よっぽど気を抜かなければ、本来、校内は安全な場所なのだ。また予期せぬ事態が舞い込んだら、そのときは大人の人に相談しよう。それしかない。
 夏休み後半は二人と夏祭りに行ったり、宿題をこなしたりしているうちに過ぎていった。
 そして、二学期を迎える。

 二学期の最初のイベントは文化祭。クラス単位で出し物を考案し、協力して、催し物をする。クラスの雰囲気はどこも浮き立っていて、自分たちで何かを作ることにやりがいを見出しているようだった。
 話し合いの末に、わたしたちのクラスは劇を演じることに決まった。
「どんなストーリーがいいですか?」
 その過程で、学級委員が問いかける。ミステリー、冒険物語なども挙がったけれど、一番人気は恋愛ものだった。
 そうなると、特定の作品を参考にして話を作るか、もしくはオリジナル脚本をこしらえるか。ドラマや映画のパロディの方が楽だし、イメージを共有しやすいが、オリジナルなら独自性が生まれる。オリジナルを推す声が多かった。
 では、誰がストーリーを作るのか。この議題に移ると、途端にみんなの口が重くなった。話を考えるのは簡単ではない。それに、恥ずかしさもあるのだろうか。
 そんな空気の中、すっくと立ち上がる人が――京だった。
「わたしが脚本やるよ」
 異論はなさそうだった。彼女を認めるように、教室内に拍手が響く。京は軽く頭を下げて、座った。
 わたしは驚きとともに京をじっと見つめてしまった。すると、彼女もわたしを捉えていた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。まるで、何か企んでいるような。

 一緒に帰るときになって、その笑みの真意を知る。
「栞、脚本書くの、手伝ってくれない?」
 人通りの少ない住宅街を緩やかな足取りで歩いている。京の声を聞いて、そういうことかと何か腑に落ちる思いがする。
「手伝う?」
「うん。前から、自分でも話を書いてみたいな、と考えていて。今回がいい機会じゃないかと思ったんだけど、でも、一人だと不安だから。せっかくなら、栞と共同で作りたい」
 日頃からたくさんの本を読んできて、自分も物語を紡いでみたい、そんな欲求が湧いてくるのは自然なこと――だとは感じるけど、わたしはそこまででもない。
 ただ、京と一緒に作り上げる、という点に惹かれた。それは楽しいかもしれない。いや、絶対に楽しい。
「分かった。わたしも、協力する」
「ありがとう」
 桜が唇を尖らせる。
「ちょっと、わたしは蚊帳の外なわけ? わたしも手伝うよ」
 すると、京はふりふりと首を横に振る。
「ううん。桜は、ぜひヒロインをやってほしいな、って」
 桜が目を見張る。
「ヒロイン?」
「そう。脚本が固まってから配役を決定していくけど、ヒロインは桜をイメージして書き上げるつもりだから。もし嫌じゃなかったら」
 隣で桜が息を飲む。
 わたしは文化祭に対して曖昧な感情しか抱いていなかったけど、京はこんなに具体的に想定していたのだ。
「ヒロイン――それは責任重大だな」
 でも、と言葉を継ぐ。
「でも、京にそう言われたらやるしかないかな。がんばって、ヒロインやるよ」
「桜、ありがとう」
 京がほんとに嬉しそうに微笑む。その笑顔を目にし、今さらながら文化祭に心がときめいてくる。
 翌日から京との共同作業がスタートした。場所はやはり図書室。二人でどんな内容にするか意見を出し合い、大筋を固めていく。それを家に持ち帰った京が、台詞や細かい動きを書き起こす。次の日に確認のためわたしに見せ、言い回しなどに対して指摘する。
 桜もしばしば手伝ってくれた。横でふんふんと頷いて、たまに意見する。考えた台詞を実際に言ってもらって、イメージを膨らませる。
 そして、後日行われたクラスの話し合いで、桜がヒロインを演じることになった。
 おかげで、ますます脚本作りに熱が入る。
 その数週間はほんとに瞬く間に過ぎ、ほんとに充実していた。物語を紡ぎ出すのは並大抵のことではなくて、完成までの道のりは遅々とした歩みだった。それでも、京とそれぞれの感性を合致させる作業は胸を弾ませた。放課後、図書室へ向かう足取りはいつだって軽やかだった。
 そうして、試行錯誤の果てに、わたしたちのオリジナル脚本が完成した。

          *

 もう一度あの頃に戻れたらな、と望むことはあまりないのだけど、中学一年の文化祭は例外かもしれない。私のクラスは劇を演じ、そのストーリーを私と栞とで書き上げた。あの時間はかけがえのないものだった。互いの感覚を曝け出し合っているような。
 今はサークルで小説を書いているが、少しつらい。どうしてか分からないけど、自分と向き合う作業がひどく私を摩耗させる。だからといって、まったく自己から離れた作品は筆が進まない。
 経験からか、あの頃と感覚は変わってきているのだと思わせられる。
 キャンパス内の広いスペース、テーブルや椅子がたくさん並べられた一角に腰掛け、ノートパソコンと向き合って執筆している。もうすぐ大学の学祭があって、所属しているサークルでは、サークル員の短編を収録した小冊子を販売する。そこに間に合わせるように書いているのだが、さっきから唸ってばかり。作品を掲載するのは任意だから、下手をすると筆を置いてしまいそうになる。
 恋愛はしていなくても描ける。でも、しておくに越したことはないのだろうか。いいように作用した記憶がないから、どちらとも言えない。
「どうしたの、眉間に皺を寄せて」
 気安げに話しかけられて顔を上げると、名波がいた。了解を得てから、向かいの席に座る。
 たまに偶然出くわして、二、三言葉を交わすことがあるけれど、いつも彼の登場は唐突だった。神出鬼没というか、気ままな足取りが目に浮かぶ。
「ちょっと、小説を書いていて」
「ほう、自分でも書くんだ。趣味で?」
「ううん、サークルで。学祭で作品集を出すから、そのために」
「そっか、文芸サークルに入っているんだね」
 彼はすごいな、と呟く。すごいって、何が? そう聞き返すと、
「いや、おれは自分で書いてみよう、と思うことがないから。単純に尊敬する」
 そう、笑みを交えて答える。
 私はどうして自分でも書いてみたくなったのだろう。いろんな作品を読んでいく中で、私の方が魅力的な世界観を創出できる、という考えよりは、こういう物語があってもいいのっではないかな、という動機――言葉にしてみれば、そのようなもの。
「難しい顔をしていたのは、煮詰まっていたからかな」
 彼の指摘は正しかったので、頷く。
「うん、どうにも書き進まなくて。こんな展開にしよう、ってぼんやりと思い描いているんだけど、表現の一々が気になっちゃって」
「ジャンルは?」
「え?」
 思わず、問い返してしまった。彼は再度、丁寧に問いかけてくる。どんなジャンルの作品なの?
 考えるまでもなかった。だけど、答えようとして気づく。現在書こうとしているものにジャンルという額縁を嵌め込むと、あるいは、大まかな流れの説明を試みると、それはまるで別のものに変じてしまう。私たちは言葉でしか説明できないのに、そうすることは自由に膨らむ可能性のあった形を定める。
「――恋愛」
 仕方なく、語尾にクエスチョンマークをつけるようにして応じる。
 すると、彼は目を輝かせた。
「それは読んでみたいな。すごく興味を惹かれる」
 意図せず、彼の瞳をじっと見つめてしまった。読んでみたいな、彼の声。頭の中で繰り返され、遠ざかる残響。
「学祭で売るから、それを買ってくれれば、いくらでも」
 長いようにも短いようにも感じた時間見つめ合ってから、ようやく目線を逸らす。
「分かった。楽しみにしてるよ」
 じゃあ、がんばって。励ましを最後に残して、彼は席を立つ。現れるのも突然だけど、別れもふっと訪れる。誰とだってそうであるはずなのに、彼の場合はそれを強く意識する。
 まただ。また、小さくなる彼の後ろ姿を目で追ってしまう。
 とくん。
 読んでみたいな、彼の声。一個人に向けて作品を書いてみようとしたことは、未だかつてない。

          *

「あなたはこの雨の中、傘も差さずにどうしてぼくの元を訪れるのか」
 男の言葉に、女は投げやりな口調で返す。
「どうして? お分かりにならないの? これだけ水に濡れた姿を晒すことが、どんな言葉よりも説得力のあるものだと思いますけれど」
 講堂の舞台にて、劇の練習にいそしむ。もう本番はすぐそこまで迫っている。当初は気恥ずかしさの見えた演じ手たちも、中途半端な演技をしてしまう方が遥かに恥だと気づき、今ではまじめに取り組んでいる。
 わたしと京とで完成させたストーリーは、明治の日本を念頭に置き、煮え切らない態度の若き男と、彼の下宿先の一人娘の恋を描いたもの。活発で、芯の強い娘の像は桜と見事に重なっている。
 当日、見にきてくれた人たちにどんな感想を抱かせることができるのか、胸が弾む。
 最前列の座席に腰掛け、舞台上に視線を注いでいる。隣には京。時折、こうしたらいいのではないか、と意見できるのは、脚本を書いた者に与えられた権利。とはいえ、京はたまに口を挟む程度で、基本的には静観している。演劇に精通しているわけではないから、口喧しくしてもしょうがない、という考えがあるのかな。
 わたしはもっと大人しくしている。京にポツリと漏らし、代わりに彼女が言ってくれたことはあったけれど、とても意見する立場にないと承知している。
 何が正しいのか一口には言えないけど、でも、舞台上のみんなはわたしの思い描いていた以上の輝きを放っている。だから感じるままに任せるのもまた手。
「桜、かっこいいね」
 京がわたしにだけ聞こえるように呟く。顔を少し近づけ、そうだね、と返答する。
「それに、かわいい」
「うん。でも、わたしはやっぱりかっこいいな、って感じる。臆していなくて、表情が豊かで」
 桜はヒロインを快諾してから、脚本を読み込み、それぞれの場面での演じ方を絶えず巡らしていた。京の期待に応えるために。立候補した責任を果たすために。ヒロインの意志の強さは、内面から溢れる美しさは、桜そのもの。
「京は、いつから桜をヒロインにした劇を作りたいと考えていたの?」
「ずっと考えていたわけじゃないよ。たまたま、文化祭の話し合いで劇をやることに決まって、その瞬間に、思い出したの」
 雨の日に、川沿いで。透き通るような歌声を響かせていた桜。
「思い出してから、作品の想像がどんどん膨らんでいった。それで、これはもうやるしかないな、って」
「わたし、驚いたんだ。京があんな風に積極的に買って出るなんて」
 もちろん、教室の隅で小さくなっていたわたしに比べるまでもなく、彼女はクラスで存在感を放っていた。それでも、話し合いで自己主張する機会は稀だった。
「だよね。だけど、わたしがやることに必然性を感じたから、あそこで手を上げることに迷いはなかった」
 そう言う京の横顔は、ほんとうに綺麗だった。一つのことに没頭している女の子の表情は、何ものにも代えがたい美しさを有する。
「文化祭当日で、満開の桜が咲くといいね」
 わたしが思わずそう漏らすと、傍らの京がクスクスと笑っている。急に顔が熱くなるのを意識した。
「じゃあ、今は五分咲きくらいかな」
「――もう」
 再び、舞台上に視線を注ぐ。桜が身ぶり手ぶりを交えて、感情を表現する。
「わたくしがあなたを想い、慕っているのを、はっきり伝えなければ気づいてくださらないの?」
 わたくしは、と一度声を落とし、それからキッと顔を上げる。まっすぐな眼差し。
「わたくしは、あなたが好きなのです。心から」
 とくん、と心臓の高鳴る気配。
 ああ、好きって、いい言葉だな。

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