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舞台に、花は咲き乱れ(十二)

 香ばしい匂いがあたりを包み始めた。もうすぐできあがり。なんの変哲もないカレーだけれど、自分たちで作ったと思えばよりおいしく感じられるはず。なにより、部活の疲れで空腹は極まっていた。
 日が暮れる頃、今日の部活が終わると夕食の支度にかかった。みんな疲れているに違いないのに、ろくすっぽ休まないで取り掛かれたのは不思議だった。一種の興奮状態にあったのかもしれない。今夜はよく眠れそう。
 合宿といえばカレーでしょう、と前々から言っていて、材料などは事前に揃えていた。使用許可をもらっていた調理室で、三年生以外の部員全員で調理開始。ちなみに、三年生は別の仕事をしている。生徒たちだけで大丈夫なのかと気にしていると、顧問の相川先生がひょっこり顔を出し、「火の取り扱いには気をつけろよ」というようなことを言い残し、すぐにいなくなってしまった。聞くと、今日は職員室に詰めて、仕事をしているらしい。来ていたのなら部活にも顔を出せばよかったのに。先生の考えはいつも分からない。
 料理は楽しかった。カレーなら簡単だし、協力すれば大人数分もあっという間に作れた。合間は話に花が咲いて、今日の演技がどうだったとか、誰々がこうだったとか、感想を述べ合うことに終始した。
 そして、完成。藍葉が「三年生、呼んできます」と言って駆け出し、しばらくして三年生と相川先生まで現れた。「いいのかな、ご相伴にあずかって」と頭をかいて、遠慮気味だったけど、促されるままに席に座った。そんな先生をはじめ、部員たちは配膳されたカレーを手にし、調理室に円を作る。全員分がいきわたったところで、紅美子さんの号令の下に「いただきます!」が室内に響く。当たり前だけれど、みんないい声。
 やっぱり、協力して作ったカレーは最高だった。自然と笑顔になれた。温かい食べものを食べると涙が出るくらい嬉しくなる。外はすっかり暗くなって、普段ならいられない時間帯に学校にいることも相まって、非日常の空気感を味わった。
 今日までのことを思い返した。作品が決まり、演じる役が決まり、シーンごとの演技を重ねてきた。だんだんと有森桜子が自分に近くなってきている。ここをこうしよう、ここをこうしたら、思い、言われ、メトロノームみたいに左右に揺れるのが中心で止まりそうになる。でも、まだ止まらない。
 稽古しているあの体育館に、今年はたくさんのお客さんが詰めかける。去年、旭山開催だったから、次はあたしたちの番だ。あの舞台で、どんな風に観てもらえるだろう。悲しいラストを用意したから、できれば泣いてほしい。小百合にも泣いてほしい。小百合の涙が見たい。
 一人で考えを巡らせていたのはほんの束の間だったらしい、周りに怪訝に思われないうちに、紅美子さんがパッと立ち上がった。めいめいで話に興じていたのが、すっと視線を一か所に集める。それを受けて、紅美子さんが話し出した。
「はい、すいません。カレー、おいしかったですね。後輩のみなさん、ありがとうございました。――作ってた間に、今夜のお楽しみ、肝試しのコースを確認し、さらに一緒に行くペアを三年生で決めました」
 わっと歓声が上がる。怖い、と口々に言っているけど、本気で怖がってはいないだろう。むしろ楽しみの方が大きいはず。真夏に肝試しといえば、いかにも青春の一ページを飾りそうな。
「じゃあ、早速だけど発表しちゃいますね。一組目――……」

 暗闇の向こう、風でざわついた林の中になにかいそうな気がする。そういえば、ちょうど一年前くらいに、茂みで口づけを交わしているかさねさんを見てしまった。あれから、もう一年経ったのか。かさねさんもいのりさんもこの場にはいないし、それにすっかり慣れている自分がいる。忘れないでいることは容易いけれど、それよりも順応しなければならない新しいことの方が多い。
 一年後の今、演劇部は初めての試みとして合宿を敢行し、部には智恵子や藍葉といった個性的な新人が入った。紅美子さんと愛さんがすっかり部を切り盛りしていて、あたしとミナちゃんと芽瑠は主演を任されている。すべては地続きだから気づかないが、こんなにもたくさんの変化に恵まれている。いつだって今しかない。
 知らなかったことをいくつか知った。かさねさんたちを遠い世界の人たちみたいに感じていたのに、口づけの甘美な味わいを――。
 視線の先、芽瑠が自分の髪を手で梳きながら、隣の智恵子ににこやかに話しかけている。二人は肝試しのペアだ。並んでみると、いかにも女の子らしい芽瑠と、ちょっと影のある智恵子は意外な組み合わせだけど、もしかしたら通じ合う部分があるのかもしれない。そんな風に映る。
 一方、ミナちゃんは相川先生とペア。演劇部の人数が奇数だったため組み込まれたのだが、ミナちゃんが「女子と一緒がよかった……」と思わず呟いてしまったことで、調理室は爆笑に包まれた。それを受けて恐縮する先生と、慌てて弁解するミナちゃん、という絵がたまらなくおもしろかった。
 紅美子さんは苦り切った顔で「藍葉」と実の妹の名前を最後に告げていた。三年生がくじ引きで決めたのだけど、よりによってこんな偶然があるとは。嬉しげな藍葉と、つれない紅美子さん、というコントラスト。
 あたしは愛さんと。素直に嬉しい。まあ、部員だったら誰でも大歓迎。コースは歩いたことのないところではないから、二人きりでゆっくり言葉を交わせるいい機会だ。
 順番に校門からコースへと旅立っていく。学校の裏手に回って茂みの中を少し進み、山が右手に見えたら左手の遊歩道へ折れる。しばらく辿ってゆくとそこだけぽっかり穴が開いたように湖があって、視界の向こう先まで広がっている。湖の傍まで行って証拠のための写真を撮ってきたら、来た道を引き返す。それだけのコースだけれど、学校外で下手に騒ぐわけにもいかないから、なんとか肝試しの体裁を整えた感じだろう。
 あたしたちは最後から二番目。待っている間、部員たちは校庭で輪になって誰かが話す怪談に耳を傾けている。平和だ、と思う。怖いものを意識できるのはきっと底抜けに平和だからだ。
 ミナちゃんが実体験だと前置きした怪談でみなを爆笑させているときになって、直前のペアが帰ってきた。二人とも笑顔だし、この先にはなにもいないのだろう。安心しながら愛さんと歩き出す。
 このあたりの夜は暗くて、ちょっとだけ涼しげですらある。豊かな自然に囲まれて生活している実感を改めて抱く。
「静かね」
 愛さんが吐く息に紛らせるみたいにして呟いた。
「落ち着きますね、このあたりは。好きです、この雰囲気」
「……そういえば、花音はどうして翡翠ヶ丘を選んだの?」
「演劇がやりたくて。――ほんとうは、旭山が第一志望だったんですけど、受からなくて。でも、翡翠ヶ丘も同じくらい行きたかったので、決まったときは嬉しかったです」
「そういう子、多いよね。やっぱり演劇か。――あ、あなたの仲よしの、向こうの脚本書いた子もそうだったの?」
「小百合は、演劇ありきじゃなかったです。でも、結果的に関わることになったみたいで……二人で同じ高校に通いたかったですけど、こうして隣近所に分かれたのももしかしたらよかったかも、なんて最近では思ってます」
 ふうん、と興味深そうに愛さんが頷く。愛さんは? と訊いてみた。「愛さんはどうして翡翠ヶ丘に」
「あたし、中学までシンガポールに住んでて」
 覚えず、大きな声を出してしまった。「え、愛さんって帰国子女?」
「あれ、初耳だった? 父親の仕事の関係で小学校に上がる前からそこに住んでて、ずっと日本人学校に通ってた。それで、高校を選ぼうってなったときに、母親に勧められたの。母親の親友がここの出身で、母親としては憧れがあったみたい」
 間抜けに感心する声しか出てこなかった。
 東南アジアの国、シンガポール。マーライオンの像が頭に浮かんだ。水を盛大に吐き出しているやつ。それと、あとなにがあるかな。思い浮かばない。
「シンガポールって、どんな国でした?」
「住みやすいよ。日本人も少なくないし。多国籍国家だから外国人にも寛容。ただ、一年中夏だから、桜の花とか紅葉とか、それから雪とかが恋しくなるかも」
「なのに、愛さんは割烹着が似合うんですね」
 そう言うと、愛さんは腰を少し屈めて笑い声を上げた。「まあ、両親は日本人だからね」
 気づいたら湖はもう目の前だった。暗闇の中で確かに存在を主張している。どこかへ通じていそうな穴のように見える。ずっと見ていると、いつか吸い込まれる。そうなる前に写真を撮った。ちゃんと歩いた証拠写真。
 引き返す。今度は山の方へ、やがて愛しき学校の光の下へ。
「花音は、好きな人いる?」
 むせた。愛さんを横目で見やると、わずかに目を細めてこちらを見つめていた。思いのほかまじめな質問のようだ。
「いない――と思います」
「思います?」
「いないです。分からないんです、そういうの」
「ふうん。そうなんだ。女子校にいると異性と関わる機会も限られるしね」
「……愛さんは」
「ん?」
「愛さんは、好きな人いるんですか」
 かさねさんの話を思い出した。いのりさんに付き合っている人がいること、葵さんに想いを伝えて涙していた瑞希さん、などのことも。誰もが当たり前のようにいろいろな経験をしているのだ。
「好きな人というより、付き合ってる人がいる」
「…………」
「花音には、ペアになれたよしみで教えてあげようか。それが誰か」
「じゃあ、あたしの知ってる人なんですか」
「うん、あなたもよく知ってる人」
 まさか。まさか愛さんも、いのりさんと葵さんみたいに――。
「誰ですか」
「知りたいんだ」
「ここまできたら」
「誰にも言わないでね。いけない恋だとそしられてしまうから」
 その言い方で、違う方向に頭が働いた。あたしもよく知っているのは、同じ学校にいるからか。「ひょっとして、先生ですか」恐る恐る尋ねると、彼女は頷く。重ねて「相川先生?」と小声で尋ねると、再び頷く。それはほんとにいけない恋だ。
「……いつからですか」
「あら、あまり驚かないのね」
「心の中が動揺しすぎて、どんなリアクションをすればいいのか思考が追いつかないんです」
「あなた、おもしろい」
「それで、いつからなんですか」
「あたしが入学して半年くらいかな。秋の舞台の後に言い寄って。――あ、でも先生が演劇部にめったに顔を出さないのはあたしのせいじゃないのよ。元からだから」
「先生の、どこに惹かれたんですか」
 数学科の若い、誠実そうな先生だと思っていた。これから見方が変わりそう。知らない方がよかったのかもしれない。
「知的なのに控えめなところ」
 木々の隙間から学校が見えるようになる。ゴールまでもうすぐだ。これが終わったら、二人のお付き合いについて話す機会はなくなるだろうか。それがいいのか悪いのかも分からないうちに、みんなが待っている校庭が近づいてくる。
 ミナちゃんや芽瑠の顔を見て心が落ち着いた。いろんな感情が内側で渦巻いてしょうがない。

          ●

 たくさんのものを失って、それでも一つの輝きを見出していく物語だった。読み応えは十分すぎるほど、涙が滲む瞬間もあった。津島佑子の『火の山―山猿記』。
 うんと一つ伸びをし、教室の外を見つめた。蝉の鳴き声が盛んに聞こえてきているが、室内は冷房のおかげで涼しいくらい。これから部活の時間だけれど、外で活動する運動系の部活はつらいだろう。文芸部、あるいは演劇部でよかったかも。
 立ち上がって講堂へと向かう。残り数ページだったから読み終わってから演劇部に顔を出すつもりだった。話を書いたわたしは最初からいなくても問題ない。ただ、脚本はまだ手探り。一応まとまった内容にして渡しているけど、ちゃんとした書き方はまだ勉強中なので、稽古に立ち会いながら修正を加える。そうして本番までによりよい形に仕上げていくのだ。今年は作詞を任されていないため、この作業に集中できる。
 廊下の角を曲がったところで、階段の踊り場にいる鈴花が目に入った。「鈴花」気づくのとほぼ同時に、呼んでいた。
 くるりと鈴花が振り返る。眼鏡をかけ、三つ編みのお下げにしている彼女はいつでもわたしをあの頃に引き戻してくれる。ぺこりと頭を下げた、その澄んだ瞳。
「今日は遅いのね」
「日直だったので」
 並んで二人で歩き出す。もっと急ぎたいところだが、校内は静かに歩くよううるさく言われている。淑女のたしなみ、みたいなものかしら。
「今年は」鈴花がぽつりと言葉を落とす。「ミュージカルにしなかったんですね」
 きょとんとしてしまう。「去年もミュージカルのつもりじゃなかったけど」
「そうなんですか。二回も歌うシーンがあって、それが印象的だったので」
「去年の、観にきてくれたんだよね。どうだった?」
「……よかったです、すごく。わたしも主人公の少女に近い性格だから、親近感を覚えました」
「――歌が好きなの、鈴花は?」
 鈴花はゆっくりと頷く。「好き、かもしれないです。わたし、ミュージカルが好きで。『サウンド・オブ・ミュージック』とか」
「そうなの」
 すると、突然鈴花は控えめな声で歌い始めた。控えめだが、揺らぎのないまっすぐな歌声だった。

  薔薇の花びらの雫 子猫のひげ

  銅製の光るケトル 暖かいウールのミトン

  紐で結ばれた茶色い紙の包み

  それが私のお気に入り

 歌い止めて、聴いたことありませんか、と言うように首を傾げる。その愛らしい表情に、無垢な瞳に、心がかき乱された。
 周囲にほかの人がいるかどうかは気に懸けなかった。結果的にはいなかったらしいと後で分かったけれど、その衝動に従ってしまったのが正しかったかは未だに知れない。――さっと鈴花の体を引き寄せ、強く、あるいは優しく抱きしめた。自分に上背があってよかった。包み込める。
 鈴花のいい匂いがした。甘く、花が咲いている。舞台じゃなくてもあなたは風に揺れる美しい花。
「鈴花。今度、二人でお出かけしない?」
 彼女の耳元に囁く。祈りながら、願いながら、その首が縦に振られることを。
 最近、日記はすっかり放置していた。あまりにも自分の感情を素直に書き連ねてしまいそうになるから。――感情がもっとほしい、だけど、それが自分から遠く離れ肥大したものだと、戸惑う。
 いつまでも彼女の返答を待つ。

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