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推しを見つめ、燃ゆる自分の肉体

今話題の小説、芥川賞受賞の宇佐美りん『推し、燃ゆ』読了。

私自身物心ついた時には推しがいた、というぐらいオタク文化と長らくお付き合いしている人間なので、読まないわけにはいかないだろうと思い軽く読み始めてみたら、想像以上にかなり心に重みがのしかかるような、呼吸が浅くなるような、そんなラストだった。

小説自体はかなり短くて、文体もそこまで難しくないからするする読める。

でも自分の心身状態がいつもと異なる人や、さまざまな環境変化についていけない人はこの予測不能な状況下でたくさんいると思っていて、(というか今は必死に生きている人しかいないよね)全ての人に届け!!とはお勧め出来ないかも、と個人的には思った。あまりにもリアルでしんどくなる。

それでも気になる人は以下ネタバレ含むので、読了後に帰ってきてくださいな。

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自分の肉体と背骨

主人公のあかりが全身全霊をかけて「推す」のが、男性アイドルの上野真幸。物語の始まりは、彼がファンの一人を殴ったことで、ネット炎上する場面から始まる。『推し、燃ゆ』のタイトル通り、炎上することでまさに「推しが燃えている」のだけれど、「燃える」の意味はそれだけじゃないと読み進めていくと気付かされる。

推しはあかりにとって、自分の肉体を動かす基盤となる「背骨」。推しがいなくても生きていける人間は、背骨を覆い隠すように周りに肉を付けていく。肉付きは友達や社会との交流の証。自分で生きる意思を持ち、養分を自ら摂取して生きているという証拠。

あかりは推しに生かされ、共に生きる人間なので「背骨」に全てが集約されていく。推しが食べるものを同じ時間に食べ、推しがいなくなったら食べる気力すら湧かない。

小説の後半であかりがまさに痩せ細った自分の体を見つめる場面が出てくるが、推しが「芸能界を引退する」と発表し、推しと共に生きていたからこそかろうじて日々持ち上げられていた肉体、そしてその中心にいつも存在していた「背骨」までもが崩れ落ちていくような感覚を、その一瞬で見事に描写していた。

この肉体と背骨の表現、小説を通して一貫して描かれるテーマで、確かにリアルすぎるところはあるものの、私はとても気に入ったし、今までにない表現方法だと思った。女性の肉体、というとやはり性的なものに偏りがちだったり、第二者から見られるもの、という表現が本に限らずとも多い気がするのだけれど、描こうと思えばここまで普遍的に「人間の肉体」として描写できるのか、という再発見でもあった。

逆に見られるもの、だからこそ常に見た目を管理しなければならない男性アイドルを描くのも今まで抜け落ちてきた角度の描写だ。あかりが他人からの視線を顕著に嫌い、他人と共に「推し」だけを見つめる空間が至福だと表現していた点もそれに繋がる。

肉体に向ける視線の消費、それは無意識に様々なところで行われている行為であって、それが性的でも愛情表現でも何でもリスクを孕むということを自戒しているような、そんな書き振りが良かった。

「推し」文化の偏見を乗り越える

以前よりは少なくなってきたものの、日本で「オタク」というワードがもつ自虐的でネガティブなイメージは未だに残っているし、お隣韓国ではアイドルの追っかけは若い頃だけ、という根強い偏見があるらしく20代後半になると、職場や家族の前では「一般人コスプレ」をしてバレてはいけない、という暗黙の了解もあったりする。

どうせ「推し」なんて趣味でしょ、ずっと遊んでて羨ましいよね、そんな世間からの声を投影しているのがあかりの姉で、勉強も生活も仕事もちゃんと出来るまさに「一般人」。あかりにとっては全部頑張っているつもりで、でも人よりはできないだけで、いつも周りからできないのを「推し」活動のせいにされて、比べられて、モヤモヤしながら生きてきた。

あかりは「推し」のせいでできないんじゃなくて、「推し」がいるからこそ今まで生きてこれたのに、なんでそんな批判を受けなきゃいけないんだ、と思う。背骨が無くなった肉体は、ただの肉の塊だ。

私自身、一人の人間を自分の背骨になるほど深く推したことはなく、いろんな「推し」によって私の背骨は構成されている。友達や社会との繋がりも自分にとって切り離せないものなので、まあまあ肉付きがいい背骨。

特にコロナ禍になって、推しにも会えず、友達にも会えず、仕事ばかりして自分の意思だけでは生きていくのハードモードだなーと思っていた時に私はまんまと新たな背骨を見つけ、装着したことで毎日少しづつ楽に生きられるようになった。

日本社会では集団の中で協調性を持って動くよう教育されるから、互いに思いやりがある社会に見えたりもする。でも「一般人」とはちょっと違う個人のことになると「はい、勝手に生きて」と言わんばかり冷たい反応をされる。全てがリモートになって「助けて」と簡単には言いづらくなってしまった今の状況で、「推し」=生きがいをテーマにした小説が出てくるのは、何かしら意味があったのだろうな、と思う。大袈裟ではなく、本当に生きるために「推し」が必要なんだと。

これは余談かもしれないが、私がオタクだからもっと人権認めてくれよ!という話ではなく、ジェネラルに見ても「推し」文化がもつ可能性はもっと注目されるべきだ、と密かに思っている。

というのも「推し」文化というのはアジア圏でかなり強く根付いているものだと思っていて、現在はK-POPが世界的に有名になったこともあり、欧米圏のファンも増えているが、アニメ・漫画にしろアイドル文化にしろ、アジア色は未だに強い。欧米主体のヒエラルキーを変えられるのは「推し」文化なんじゃないかと最近リアルに考えたりもする。

「推し」がいなければ日本語や韓国語、タイ語など世界でたった1つの国でしか使用できない言語を英語ネイティブが必死に学ぶ日などこなかったと思うし、「推し」が白人だらけの世界的な授賞式や舞台に登場しないことに愕然とし、欧米圏のもつ圧倒的な権威を自覚するきっかけになることもなかっただろう。

資本主義に超貢献しているのは自覚しているし反省もしているが、数多くの「推し」のおかげで経済が回っているのも事実。

この小説をきっかけに、「推し」文化への興味や関心が高まってくれたら単純に嬉しいし、人間の生・肉体・精神と深く結びついたものとして文化的/社会的に研究が進んで欲しい(自分がむしろ研究したい…)。


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