喋れるのなら

俳句甲子園が終わった。
今年、私は披講と、景の説明と、挨拶以外は発言していない。
「喋らずに勝つ」とか色々言われもしたが、私の場合は、喋りたくても喋れないのだ。

と言うのも、私は多分、普通の人とは違う俳句の鑑賞をしている。
俳句を見た時、その句の中の言葉から景を想像するのが普通なのだろう。
だが私には、それが全て、色や重量、温度、匂いで見えている。

予選リーグで詠んだ句を一例として挙げると、
『草笛や青空のある旅の果て』
この句が、私には「光に透けるエメラルドグリーン」として見えている。そこに真っ直ぐな風が吹いている感覚もある。

要は、全てを感覚で捉えるため、それを言語化するのに相当な時間が必要になる、ということだ。
それは相手の句に対してもそうで、初見で見た俳句を「中七のあたりが違和感」とか「寂しい感じがする」とか「上五が重たい」とか、そんな風にしか見えない。
それを説明しろ、指摘しろと言われても、30秒や3分では整理しきれない。

鑑賞だけでも、言語化できない「感覚」が、大量の選択肢として頭の中に広がるのに、そこに重度のあがり症なのが加わって、発言が出来なくなる。
景の説明も、話すことをいちいち書き出さないと、途端に言葉がまとまらなくなって言いたいことが言えなくなってしまう。
対戦校の特徴を収集、分析して、突かれるところを予測立てしてきたが、それでも「この返答では相手の質問に返せたことにならない」と判断してしまえば、何も言えない。

だからこそ、今回のチームメンバーには本当に感謝している。
私の感覚が暴走しないように、違和感があったら教えてくれたし、言いたかったことや伝えたかったことを、言葉として発信してくれた。
そこに至るまでにかけた迷惑も大きいから、本当に頭が上がらない。

そして同じくらい、先輩たちに謝りたい気持ちが大きい。
2年間、私がその感覚を使いこなせなかったり、そもそも気付けていなかったこともあって、相当迷惑をかけていた。
今年だって、景固めを手伝ってもらう時に、なかなか説明が上手く出来ないのに、最後まで助けてくれて、本当に何と言えば良いのか……。
今年みたいな喜びを、去年も、一昨年も、本当は一緒に味わいたかった。だからこそ、もし2年前から、今みたいな私で居られればと、そう考えてしまう。

絶対勝てる俳句を詠むこと、全員の俳句を景固めすること、出場校や対戦校のデータを集めて景固めの優先度を予測すること、ディベート中に全員の指摘内容を確認し順番を考えること。何があってもリーダーとして最後まで立つこと。
喋らないという選択肢を選んだ私が、唯一持っていた「感覚」と「分析」を生かして、この大会でやってきたことだ。
私達の試合を見る人にどう思われるかも、全て承知の上での選択だった。
チームメンバーには、ありがとうしか言えない。
地方大会から対戦してくれた多くの学校の子達や、私達の俳句を見てくれた人達。その人の思いを全部背負っての優勝だったから、それがどれだけ重たくて大切か、誰よりも理解している。

でも、これ以上何を望むのかと怒られてしまいそうだが、それでもやっぱり、大会が終わった今でも、こう思ってしまう。
喋れるのならどれだけ楽だったのだろうか、と。

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俳句やったり短歌やったり小説書いたり、自由気ままに生きています。ゲームと芝居と音楽が好き。Xジェンダー、ビアン。
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