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【試し読み】『彼女のかけら』(カリン・スローター/ ノンシリーズ)

名称未設定のデザイン (5)


 アンディは、中身が半分残ったコーヒーカップを見おろした。ひどく疲れた気がする。夜勤。いつまでたっても慣れることができず、昼間に途切れ途切れの仮眠をとってなんとかしのいでいる。そのため、日用品の買い物に行くひまがないので、実家の食品庫からトイレットペーパーやピーナツバターを黙って持ち出さなければならない。だから、ローラは今日、誕生日祝いのランチに行こうとしつこく誘ってきたのだろう。朝食だったら、アンディもガレージの二階のねぐらに帰って、テレビの前で眠ることができたのだが。
 残りのコーヒーを飲み干すと、砕いた氷が喉の奥に流れこんできたように冷たかった。ウエイトレスを捜す。当人は携帯電話をじっと見ていた。背中が丸まっている。ガムをくちゃくちゃと噛んでいる。
 アンディはこみあげてきた意地悪な気持ちを押し殺して立ちあがった。年を取るにつれて、母のようになりたいという思いに抗(あらが)うのが難しくなった。もっとも、いま振り返れば、母のアドバイスはいつも正しかった。背筋をのばさないと、三十になるころには腰を痛めるわ。もっといい靴を履かないと、三十になるころにはそのツケを払うことになるわ。身のまわりをちゃんとしておかないと、三十になるころにはそのツケを払うことになるわ。
 自分はもう三十一だ。たしかにツケを払いつづけ、ほとんど破産も同然だ。
「あんた、警官?」ウエイトレスがようやく携帯電話から顔をあげた。
「演劇専攻」
 ウエイトレスは鼻にしわを寄せた。「意味わかんない」
「わたしもよ」
 アンディは自分でコーヒーのおかわりを注(つ)いだ。ウエイトレスは、さっきからちらちらとアンディの様子をうかがっている。警官のような制服のせいだろう。ウエイトレスは、バッグにドラッグのモーリーか、そうでなければ大麻でも隠し持っているタイプに見えた。アンディも制服にはうんざりしている。この仕事を紹介してくれたのはゴードンだ。娘がいずれ警察官になるかもしれないと期待したのだろうと、アンディは思っている。最初は、警官になんかなるもんかと反発した。警官こそ悪党だと考えていたのだ。だが、本物の警官と接するうちに、彼らのほとんどはきつい仕事を引き受けようとしている立派な人間だということがわかるようになった。通信指令室に勤務して一年がたったいま、世の中が憎らしくなってきている。通報してくる人々の三分の二は、緊急事態とはなにかわかっていない愚かな連中だからだ。
 ローラはまだベッツィ・バーナードとシェリーの母娘と話していた。アンディは、似たような光景を数えきれないほど見ている。話しかけたほうはスマートに立ち去るきっかけをつかめず、ローラは礼儀正しいので話を切りあげることができない。アンディは席に戻らず、ガラス窓のほうへ歩いていった。このダイナーはベルアイル・モールの一等地、一階の角にある。遊歩道の向こうの大西洋は、嵐が近づいているせいで灰色の波が立っている。固く平坦(へいたん)な砂地には、犬の散歩をしている人や、自転車に乗っている人がいる。
 ベルアイルはとくに美しい(ベル)わけではなく、厳密に言えば島(アイル)でもない。もともとは、一九八〇年代に陸軍工兵部隊がサヴァンナの港を浚渫(しゅんせつ)し、人工的に造った半島だ。ハリケーンに備えた自然の障壁として、人の住まない土地になるはずだったが、州は新しいビーチフロントに商機を見出(みいだ)した。浚渫から五年もたたないうちに、半島の半分以上がコンクリートで覆われた。一戸建て、タウンハウス、コンドミニアム、ショッピングモールが建った。残りはテニスコートやゴルフ場になった。いまでは引退した北部の人々が昼間は日差しの下で遊び、夕暮れにはマティーニを楽しみ、隣人が通りにゴミ箱を長いあいだ放置していると九一一に通報する。
「やばい」がさつで品がなくて、だが同時に驚きが混じった声で、だれかがつぶやいた。
 空気が変わった。そうとしか言いあらわしようがない。アンディのうなじの産毛が逆立った。背筋に悪寒が走った。鼻腔が広がった。口腔(こうこう)が乾いた。目に涙がにじんだ。
 ガラス瓶の蓋がパンッとあいたような音がした。
 アンディの指からコーヒーカップの取っ手がすべり落ちた。それが床へ落ちていくのを視線で追う。白い磁器の破片が白いタイルに跳ね返った。
 一瞬、不気味な静寂がおりたが、すぐに大混乱になった。悲鳴。泣き声。人々が走りだし、床に伏せ、頭を手でかばう。
 銃声だ。
 パンッ、パンッ。
 シェリー・バーナードが床に横たわっていた。仰向けで。両腕を広げて。両脚を変な方向に曲げて。両目をあけて。赤いTシャツが濡ぬれて胸に張りついている。鼻から血が流れ出している。アンディは、赤い筋が頬を伝って耳に流れるのを見ていた。
 耳たぶには、小さなブルドッグのピアス。
「やめて!」ベッツィ・バーナードが泣き叫んだ。「やめ――」
 パンッ。
 アンディは、ベッツィの首の後ろから血が噴き出るのを見た。
 パンッ。
 ベッツィの側頭部がビニール袋のようにひしゃげた。
 彼女は横向きに倒れた。娘の上に。死んでいる娘の上に。
 死んでいる。
「お母さん」アンディはかすれた声で呼んだが、ローラはすでにすぐそこにいた。両腕をアンディのほうへのばし、低い体勢で走ってくる。口を大きくあけて。恐怖に目を見開いて。顔中に、赤い点がそばかすのように散っている。
 アンディはローラに押し倒され、後頭部を窓にぶつけた。ローラの口から一気に空気が吐き出されたのがわかった。視界がぼやけた。ピシッという音が聞こえた。目をあげる。頭上のガラスに、蜘蛛(くも)の巣のようなひび割れが広がっていく。
「お願い!」ローラが叫んだ。体をひねり、膝立ちになり、ゆっくりと立ちあがった。「お願い、やめて」
 アンディはまばたきをした。拳で目をこする。まぶたにざらざらしたものが食いこんだ。塵(ちり)? ガラス? 血?
「お願い!」ローラが叫んだ。
 アンディはもう一度まばたきをした。
 さらにもう一度。
 男がローラの胸に銃口を向けていた。警官用の拳銃ではなく、西部劇に出てくるような筒型の弾倉がついた銃だ。服装も西部劇の登場人物のようだ――黒いジーンズ、貝ボタンのついた黒いシャツ、黒い革のベスト、黒いカウボーイハット。腰にガンベルトを引っかけている。銃のホルスターと、ハンティングナイフを収めた長い革の鞘(さや)。
 整った顔立ち。
 しわひとつない、若者の顔。シェリーと同い年か、少し上だろう。
 でも、シェリーはもう死んだ。ジョージア大学には行けない。二度と母親のせいで恥ずかしい思いをすることもない。母親も死んだから。
 ふたりを殺した若者は、いまアンディの母親に銃口を向けている。
 アンディは体を起こした。
 ローラの乳房は片方しかない。左側、心臓の上。右側は手術で切除してしまったが、ローラはまた別の医者にかかってまた新たな手続きをしなければならないと思うといやになってしまい、再建手術を受けなかった。いま、ローラの前に立ちはだかっている殺人犯は、銃弾を左胸に撃ちこもうとしている。
「おか――」声がアンディの喉に引っかかった。頭に浮かぶのは、唯一――。
 お母さん。
「大丈夫よ」ローラの声は冷静で落ち着いていた。銃弾を受け止めようとしているかのように、両手を前にのばしている。ローラは男に言った。「早く出ていってちょうだい」
「黙れ」若者はアンディにさっと目をやった。「おまえの銃を出せ、くそ豚」
 アンディはすくんだ。体がぎゅっと丸くなるのを感じた。
「この子は銃を持っていない」ローラはやはり穏やかな声で言った。「警察署の事務員なの。警官じゃないのよ」
「立て!」若者はアンディに向かって叫んだ。「バッジをつけてるだろ! 立て、豚! てめえの仕事をしろよ!」
 ローラが言った。「これはバッジじゃない。エンブレムよ。落ち着いて」アンディを夜寝かしつけていたころのように、両の手のひらでぽんぽんと叩く仕草をした。「アンディ、わたしの言うことをよく聞きなさい」
「おれの言うことを聞けよ!」若者の口から唾が飛んだ。彼は銃を振りあげた。「立て、豚。次はおまえだ」
「やめて」ローラはアンディをかばうように立ちふさがった。「次はわたしよ」
 若者の目がさっとローラの顔に戻った。
「わたしを撃ちなさい」ローラは聞き間違えようのないほどはっきりと言った。「わたしを撃ってちょうだい」
 若者の顔を覆っていた怒りが、とまどいに変わった。彼の思惑とはまったく違う展開なのだ。普通は怯えるんじゃないのか、みずから進んで撃たれようとするんじゃなくて。
「わたしを撃ちなさい」ローラは繰り返した。
 若者はローラの肩越しにアンディを見やり、またローラに目を戻した。
「ほら」ローラが言った。「弾はあと一発しかないでしょう。あなたもわかってるはず。その銃には六発しか入らない」両手をあげ、左手で四本の指を、右手で一本の指を立てた。「だから、なかなか引き金を引かないんでしょう。あと一発しか残ってないものね」
「おまえになにがわかる――」
「あと一発だけ」ローラは六発目を示す親指を立てた。「わたしを撃てば、娘はここから逃げられる。いい、アンディ?」
 え?
「アンディ」母親がたたみかけた。「かならず逃げるのよ、ダーリン」
 え?
「弾をこめ直すのに時間がかかるから、絶対に逃げられる」
「黙れ!」若者は怒りを取り戻そうとわめいた。「動くな! どっちも動くな!」
「アンディ」ローラが若者のほうへ一歩踏み出した。片方の足を引きずっている。麻のパンツの破れ目から、血が流れている。骨のような白いものが突き出ている。「聞いて、アンディ」
「動くなって言ってんだよ!」
「厨房(ちゅうぼう)のドアから逃げなさい」ローラの声はあいかわらずしっかりとしていた。「裏口があるわ」
 なに言ってるの?
「止まれ、くそばばあ。ふたりとも動くな」
「わたしを信じて」ローラが言った。「弾をこめるのに時間がかかるから、そのあいだに逃げるの」
 お母さん。
「立ちなさい」ローラがさらに一歩進んだ。「ほら、立ちなさい」
 お母さん、だめ。
「アンドレア・エロイーズ」“お母さんモード”ではなく“母モード”の声だった。「立ちなさい。早く」
 アンディの体が勝手に動いた。左足で床を踏み、右のかかとをあげ、手を床につく。スターティングブロックの走者のように。
「動くな!」若者はアンディのほうへさっと銃を振ったが、ローラも同じ方向へ動いた。若者が銃の向きを戻すと、ローラも自分の体を戻した。最後の一発がアンディに当たらないよう、盾になろうとしている。
「わたしを撃ちなさい」ローラは若者に言った。「ほら、どうぞ」
「やめろ」
 アンディは、カチッ、という音を聞いた。
 引き金を引き絞った音? 撃鉄が銃弾を叩いた音?
 アンディは目をきつくつぶり、とっさに両手で頭を抱えた。
 だが、なにも起きなかった。
 銃弾は発射されなかった。苦痛の悲鳴はあがらなかった。
 母親が床に倒れ伏す音もしなかった。
 床。地面の下。棺桶。
 アンディは身を縮めたまま、顔をあげた。
 若者がハンティングナイフの鞘をはずしていた。
 ナイフをゆっくりと抜き出す。
 刃渡り十五センチ。片側が鋸(のこぎり)状になっている。反対側は鋭利だ。
 若者は銃をホルスターにしまい、ナイフを利き手に持ち替えた。ステーキナイフを持つように切っ先を上に向けるのではなく、人を刺すときのように下に向けている。
 ローラが尋ねた。「それでなにをするの?」
 若者は答えなかった。態度で示した。
 二歩、前に出る。
 ナイフが弧を描いてあがり、ローラの心臓めがけて振りおろされた。
 アンディの体は麻痺していた。恐怖のあまり縮こまることもできず、衝撃のあまり母親が刺されるのを見ていることしかできなかった。
 ローラがナイフを受け止めようとするかのように手を突き出した。刃は手のひらの真ん中を貫通した。ローラはしゃがみこんだり悲鳴をあげたりせず、刺された手でナイフの柄をつかんだ。
 揉(も)み合いにはならなかった。若者は愕然(がくぜん)としていた。
 ローラは、長い刃が突き刺さったままの手で、若者の手からナイフをもぎ取った。
 若者がよろよろとあとずさった。
 ローラの手から突き出たナイフを見つめている。
 一秒。
 二秒。
 三。
 若者は腰に拳銃を差していることを思い出したようだ。右手がホルスターへのびた。銃把をつかむ。銃口が銀色に光る。若者の左手がさっと拳銃に添えられ、最後の一発をローラの心臓に撃ちこむ準備が整った。
 ローラは黙って腕を振り、逆手でナイフの刃を若者の首の脇に突き刺した。
 ザクッ。肉切り包丁が牛肉の塊に刺さるような音がした。
 その音は、店内のすみずみにこだました。
 若者があえいだ。口をぱくぱくとあけた。目が丸くなった。
 ローラの手のひらは、ナイフで彼の首にとめつけられたまま動かない。
 アンディは、ローラの指が動くのを見た。
 カチッという音がした。若者の銃が、がくがくと揺れながら持ちあがった。
 ローラが声を発した。言葉というより、うなり声のように聞こえた。
 若者は銃を構えようとしている。狙いをつけようとしている。
 ローラがナイフの刃を若者の喉の前面へ引いた。
 血、腱(けん)、軟骨。
 さっきのように細かい血しぶきは飛び散らなかった。ダムが決壊したように、喉にぱっくりとあいた傷口から大量の血がほとばしり出た。
 若者の黒いシャツが濃さを増した。貝ボタンは濃いピンク色になった。
 まず、拳銃が落ちた。
 それから、若者の両膝が床にぶつかった。次に、胸が。そして、頭。
 アンディは、くずおれる彼の目を見ていた。
 若者は床に倒れ伏す前にこときれていた。



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