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【試し読み】『血のペナルティ』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)

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土曜日

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 フェイス・ミッチェルは、ミニの助手席にバッグの中身をぶちまけ、食べ物を捜した。細かな糸屑(いとくず)にまみれたガム一枚と、いつ紛れこんだのかわからないピーナッツ一粒のほかに、口に入れられそうなものはなかった。キッチンの戸棚に栄養補助バーが一箱あるのを思い出したとたん、胃袋から錆さびついた蝶番(ちょうつがい)のきしむような音がした。
 午前中に受けたコンピューター研修は三時間で終わるはずだったが、最前列でくだらない質問ばかりする間抜けのせいで、一時間半も延びた。ジョージア州捜査局(GBI)では、他地域の機関にくらべて捜査官向けの研修がやたらと多い。捜査官は、定期的に犯罪の統計値を頭にたたきこまれる。テクノロジーの進化にもついていかなければならない。年に二度、射撃のテストに合格する必要がある。強制捜査や銃乱射事件の訓練は実戦さながらの迫力で、その後数週間は夜中にトイレへ行くたびに、ドアの陰を確認せずにはいられなくなる。フェイスも普段は捜査局の徹底ぶりをありがたく思っている。だが今日は、生後四カ月の娘のもとに早く帰りたくてたまらず、正午までには戻ると母親に約束したことが気になってしかたがなかった。
 車のエンジンをかけたとき、ダッシュボードの時計は一時十分だった。フェイスはぶつぶつ文句を言いながら、パンサーヴィル・ロードの本部前の駐車スペースから車を出した。ハンズフリーで、母親に電話をかける。車のスピーカーからは、サーッという雑音が返ってきた。いったん電話を切り、もう一度かけなおした。今度は話し中だった。
 フェイスは通話中の音を聞きながら、指でハンドルを小刻みにたたいた。母親はいつもボイスメールを使っている。だれでも使っている。最後に話し中の音を聞いたのはいつだったか。どんな音だったか忘れかけていたほど昔だ。電話会社になにかあって、混線しているのかもしれない。電話を切り、三度目の正直でもう一度かけてみた。
 やはり話し中だ。
 フェイスは、母親からメールを着信していないかブラックベリーを片方の手で確認した。母のイヴリン・ミッチェルが警官を辞めたのは、勤続四十年まであと少しというときだった。アトランタ市警に対する世間の評価はさまざまだが、時代に乗り遅れているという批判は当てはまらない。イヴリンは、携帯電話がショルダーバッグほどの大きさだったころから使っていた。娘より早くEメールを使えるようになった。二十年前からブラックベリーを携帯している。
 それなのに、今日はなんの連絡もよこさない。
 フェイスは携帯電話のボイスメールをチェックした。歯のクリーニングの予約に関する歯科クリニックからのメッセージを保存してあるほかに、新しいものは届いていなかった。ひょっとしたら、イヴリンはエマのものを取りに自宅へ来ているかもしれないので、そちらの固定電話にかけてみた。自宅は実家と同じ通りにある。エマのおむつの替えがなくなったのかもしれない。哺乳瓶が足りないのかもしれない。自宅の電話は呼び出し音に続いて、フェイス自身の声の留守番電話が応答した。
 電話を切り、ふと後部座席を見やった。空っぽのチャイルドシートがある。プラスチックの枠の上に、小さなピンクのシートがのっているのが見えた。
「ばか」フェイスはひとりごちた。もう一度、母親の携帯電話にかけた。息を詰め、呼び出し音を三回まで数えた。ボイスメールが応答した。
 咳払(せきばら)いをしなければ、声が出なかった。自分でも声が震えているのがわかる。「お母さん、いまそっちへ向かってるんだけど。エマを散歩に連れていったところかな……」州間高速道路に入りながら、空を見あげた。アトランタまであと二十分ほどの距離だが、林立する高層ビルの細長い首に白くふわりとしたスカーフをかけたように、雲がたなびいているのが見える。「とにかく、折り返し電話して」頭の隅を不安にちくちく刺されながら告げた。
 食料品店。ガソリンスタンド。薬局。イヴリンの車には、フェイスのミニの後部座席にあるチャイルドシートとまったく同じものを取りつけている。きっと、イヴリンは買い物に出かけているのだ。約束の時刻を一時間以上過ぎている。だから、エマを連れて出かけた……だったら、娘にメッセージを残したはずだ。イヴリンは職業柄、いつでも連絡がつくようにしていたし、退職してからもその習慣は続いていた。手洗いに行くときすら、かならずだれかに知らせる。フェイスも兄のジークも、子どものころはよくそのことを茶化した。母親の居場所は、知りたくなくてもいつも知らされていた。知りたくないときにこそ知らされていた。
 フェイスは手のなかの電話を見つめたが、それで母親と連絡が取れない理由がわかるはずもなかった。なんでもないことに気を揉(も)んでいるだけかもしれないとは思う。固定電話はなんらかの理由でつながらなくなっているのかもしれない。それなら、あちらから電話をかけようとしないかぎり気づかない。携帯電話は電源を切っているのか、充電が切れたのか、もしくはその両方の可能性もある。イヴリンのブラックベリーは車かバッグのなかにあり、着信のバイブに気づかなかったのかもしれない。フェイスは前方の道路とブラックベリーのあいだで視線を行き来させてメールを打った。音声で文字を入力する。
「もうすぐかえる。おそくなってごめん。でんわして」
 メールを送信し、バッグの中身が散らかっている助手席にブラックベリーを放った。つかのまためらい、ガムを口に入れた。糸屑が舌にまつわりつくのもかまわず、噛(か)みながら運転する。ラジオをつけ、すぐにまた切った。アトランタへ近づくにつれて交通量が減っていった。雲の切れ間からまぶしい日光が差す。車内の気温はじりじりと上昇した。
 十分が過ぎても、フェイスはあいかわらずじりじりとした焦燥を抱え、車内の暑さに汗ばんでいた。サンルーフを少しあけて風を取りこんだ。胸騒ぎがするのは、娘と引き離されたことによる単純な分離不安のせいにちがいない。仕事に復帰して、まだ二カ月しかたっていない。それでも、毎朝実家にエマをあずけたあと、発作に襲われたような気持ちになる。視界がぼやける。心臓がどきどきする。百万匹の蜂が飛びこんできたかのように、頭のなかでブンブンとうるさい音がする。仕事中も普段よりいらいらし、とりわけパートナーのウィル・トレントに八つ当たりしてしまう。彼はその苦役に耐えうる忍耐力の持ち主か、そうでなければ、ついに我慢の限界を超えてフェイスを絞め殺したときのために、もっともらしいアリバイを考えているにちがいない。
 大学一年生になった息子のジェレミーが幼かったころ、ここまで不安になったことなどあっただろうか。フェイスは十八歳でポリス・アカデミーに入学した。当時、ジェレミーは三歳だった。あのとき、沈みゆくタイタニック号に残された唯一の救命具をつかむように、警察官になるしかないと思った。映画館の裏で判断を誤った二分間と、あのころすでにあきれるほど男の趣味が悪かったせいで、フェイスは思春期に入ったとたん、通常の段階を踏むことなく一気に母親になった。十八歳になるころには、安定した収入を得てアパートメントを借り、自分の思いどおりにジェレミーを育てたいと夢見ていた。毎日仕事に行くことは、自立へのステップだった。保育所にジェレミーを置いていくのは、ささやかな代価だと思っていた。
 三十四歳になり、住宅ローンと車の支払いと、自力で育てなければならないふたり目の赤ん坊を抱えたいま、ほんとうなら実家に引っ越し、母親を頼りたかった。実家なら、いつでも冷蔵庫をあければ食料があり、自分で買う必要がない。夏は電気代を気にせずエアコンをつけることができる。昼まで寝て、一日じゅうテレビを観(み)ていられる。ついでに、十一年前に亡くなった父親が生き返り、朝食にパンケーキを焼き、おまえはきれいだと言ってくれないだろうか。
 もちろん、そんなことはありえない。イヴリンは引退生活を孫の子守に費やすことに不満はないようだが、フェイスは生活が楽になるという幻想は抱いていない。フェイス自身が年金受給年齢に達するまで、まだあと二十年ほどある。ミニの支払いはあと三年残っているのに、保証期間はそれよりずっと前に終わる。この先、最短でも十八年間はエマを養わなければならない。それに、ジェレミーが幼かったころとちがい、いまは左右ちがうソックスをはかせたり、ガレージセールで買ったお古を着せたりするわけにはいかない。このごろの赤ん坊は、きちんとコーディネートした格好をしている。哺乳瓶はビスフェノールA(BPA)不使用のものでなければならず、アーミッシュ派の善良な農家が作っている有機認証済みのアップルソースを食べさせなければならない。ジェレミーがジョージア工科大学で建築を専攻すれば、あと六年は教科書を買いそろえ、洗濯をしてやることになる。なによりも気がかりなのは、ジェレミーには真剣につきあっているガールフレンドがいることだ。やたらと腰まわりが豊かで、出産適齢期まっただなかの年上の女だ。ひょっとすると、フェイスは三十五歳になる前に、おばあちゃんになるかもしれない。
 その可能性を頭からなんとか押しのけようとしたが、体が不快に火照った。運転しながら、もう一度バッグの中身を確かめた。ガムを噛んでも空腹はおさまらない。胃袋はあいかわらず不機嫌そうにうなっている。グローブボックスのなかを手探りした。なにもない。ファストフード店に立ち寄って、せめてコーラでも買ったほうがいいのかもしれないが、今日はユニフォームを着ている――カーキ色のチノパンツに、真っ黄色のGBIのロゴが大きく背中に入ったブルーのシャツ。このあたりは、法執行機関の人間がうろつくのに最適な地区ではない。警官の姿を見て逃げていく者がいれば追いかけないわけにはいかず、そうするとまともな時刻に帰宅するのが難しくなる。それに、直感が早く母親のもとへ帰れと言っている――いや、しきりにせっついている。
 もう一度、母親に電話をかけた。実家の固定電話、携帯電話はもちろん、普段はメールの送受信にしか使っていないブラックベリーにもかけてみた。どれもやはり応答がない。最悪の事態が次々と頭に浮かび、みぞおちのあたりがぎゅっと縮まった。パトロール警官だったころは、子どもの泣き声で隣人が異変に気づいたという現場に何度も呼び出された。駆けつけると、母親がバスタブで足をすべらせて動けなくなっていたことがある。父親がうっかり大けがをしたり、心臓発作を起こしたりしていたこともある。赤ん坊は、だれかに気づいてもらうまで、横たわったまま泣き叫ぶしかない。だれにも慰めてもらえずに泣いている赤ん坊ほど、胸が痛むものはない。
 フェイスは、恐ろしい想像をしてしまった自分を叱りつけた。最悪の事態を予想するのは、警官になる前からずっと得意だった。お母さんは大丈夫に決まっている。エマはいつも一時半ごろから昼寝をする。エマを起こさないように、電話の電源を切っているのかもしれない。もしかしたら、郵便を取りに出たときに、近所の人に捕まったのかもしれないし、隣に住むミセス・レヴィがごみを出すのを手伝っているのかもしれない。
 そう自分に言い聞かせながら高速道路を降りたものの、ハンドルを握る手は汗でぐっしょりとしていた。三月らしい穏やかな好天なのに、汗が止まらない。エマや母親が心配だからというだけではなく、ましてや息子の出(で)っ尻(ちり)ガールフレンドが気になるせいでもない。フェイスは一年近く前に糖尿病と診断された。血糖値に細心の注意を払い、正しく食事をし、いつも軽く食べられるものを携帯するようにしている。今日は例外だ。おそらく、そのせいで妙なことばかり考えてしまうのだろう。とにかく、なにか食べなければならない。それもできれば、母と娘のそばで。
 ふたたびグローブボックスのなかを探ったが、やはり空っぽだった。昨日、裁判所の外で待機中に、一本だけ残っていた栄養補助バーをウィルにあげたのが、もはや遠い昔のことのようだ。彼が自動販売機で買ったべとつく菓子パンにがっつくのを眺めるよりはと、バーを分けてやったのだ。ウィルはまずいと文句を言いながらも、残さずにたいらげた。そのせいで、いまフェイスは困っている。
 黄信号にもスピードを落とさず、住宅と商店が混在する通りをできるだけすばやく走り抜けた。道幅の狭いポンセ・デ・レオン・アヴェニューに入る。立ち並ぶファストフード店やオーガニック食品のスーパーマーケットの前を通り過ぎた。じりじりとスピードをあげ、ピードモント・パークと接する曲がり道を飛ばす。ふたたび黄信号を無視したとたん、交通監視カメラのフラッシュがバックミラーに映った。前方をのんびりと横切る人影があり、フェイスはブレーキを踏んだ。さらに二軒のスーパーマーケットの前を通り過ぎ、最後の信号の前に差しかかったとき、ありがたいことに信号が赤から緑に変わった。
 イヴリンは、フェイスと兄が育った家にいまでも住んでいる。平屋のランチハウスは、シャーウッド・フォレストという地区にある。アトランタ屈指の高級住宅地アンスリー・パークと州間高速道路八五号線に挟まれ、風向きによっては絶え間ない車の音がうるさい。今日は風向きがいいのか、新鮮な空気を取りこもうと窓をあけると、子ども時代の象徴でもある耳慣れた車の音がかすかに聞こえた。
 生まれたときからずっとシャーウッド・フォレストに住んでいるフェイスは、この地区を設計した人々に対する根深い憎悪を抱いている。シャーウッド・フォレストは第二次世界大戦後に開発され、復員兵たちが低金利ローンを利用して煉瓦(れんが)のランチハウスを買って住み着いた。設計者は、ロビン・フッドのシャーウッドの森を臆面もなく再現しようとした。左に曲がってライオネル・レーンに入り、フライア・タック・ロードを横切り、右に曲がってロビン・フッド・ロードを走る。分岐点を右へ進み、ドンカスター・ドライヴがバーンズデイル・ウェイにぶつかるところにある自宅の私道をちらりと横目でチェックしたのち、ようやくリトル・ジョン・トレイルにある実家の私道に乗り入れた。
 イヴリンのベージュのシヴォレー・マリブが、ボンネットを通りに向けてカーポートに停まっていた。とにかく、その点は普段どおりだ。フェイスは、母親がボンネットを奥にして駐車したところを見たことがない。パトロール警官だったころの名残だ。パトロール警官は、呼び出されたらすぐさま車を出せるように、つねに備えておかなければならない。
 母親の習慣についてじっくり考えている場合ではない。私道にミニを入れ、マリブと鼻を突きあわせるように駐車した。外に降り立ったとたん、両脚がずきずき痛んだ。この二十分間ほど、全身の筋肉という筋肉がこわばっていたようだ。家のなかから、大音量の音楽が聞こえた。ヘヴィメタルだ。母親はいつもビートルズを聴いているのだが。フェイスは勝手口へ向かいがてら、マリブのボンネットに手のひらを当ててみた。エンジンは冷えている。電話をかけたとき、母親はシャワーを浴びていたのかもしれない。まだメールも携帯電話の着信記録も見ていないのだろう。いや、けがをしたのかもしれない。勝手口のドアに、血の手形がついているし。
 フェイスは、はっとして手形を見なおした。
 血の手形は左手のものだった。ドアノブから四十五センチほど上についている。ドアはきちんと閉まっていなかった。おそらくキッチンのシンクの上にある窓から差しこんでいる日光が、ドアと柱の隙間から漏れている。
 フェイスはまだ自分がなにを目にしているのか理解できずにいた。子どもが母親と手のひらを合わせるように、手形の前に自分の手を掲げた。イヴリンのほうがフェイスより手が小さい。指も細い。薬指の先は、ドアに触れなかったようだ。指があるべき場所には、血の塊がこびりついている。
 突然、音楽が途切れた。静かになったとたん、フェイスのよく知っている喉を鳴らす幼い声が聞こえた。放っておいたら、やがて号泣に発展する声だ。その声はカーポートのなかで響いたので、フェイスはつかのま自分が音をたてているのではないかと思った。また同じ声がした瞬間、フェイスはさっと振り向いた。エマの声だ。
 シャーウッド・フォレストのほかの家は、ほとんど建てなおされたり、改修されたりしているが、ミッチェル家は建てられたときからまったく変わっていない。部屋の配置はわかりやすい。三部屋の寝室、居間、ダイニングルーム、キッチン。勝手口の外が、屋根だけで囲いのないカーポートだ。フェイスの父親、ビル・ミッチェルが、カーポートを挟んで物置を建てた。堅牢(けんろう)な造りで――ビルはなにごとにも妥協しなかった――金属のドアには鍵がかかり、一カ所しかない窓は安全ガラスがはまっている。物置にしては頑丈すぎるのではないかとフェイスが気づいたのは、十歳のときだった。年下のきょうだいがいる男の子特有の哀れみのこもった口調で、ジークが物置のほんとうの目的を教えてくれた。「ばかだなあ、母さんの銃の置き場だからだよ」
 フェイスはマリブの脇を走り抜け、物置のドアを引いた。鍵がかかっている。窓からなかを覗(のぞ)いた。安全ガラスの針金が、フェイスの目には蜘蛛(くも)の巣のように映った。作業台と、その下に重ねた園芸用土の袋が見えた。園芸道具も決まったフックにかかっている。芝の手入れをする道具も、いつもの場所にきちんとしまってあった。作業台の下に、ダイヤル錠のついた黒い金庫がボルトで固定してある。扉があいている。イヴリンの、グリップが桜材のスミス&ウェッソンがない。いつも一緒に保管されている銃弾の箱も消えている。
 さっきよりも大きく喉を鳴らす音が聞こえた。床の上で、ブランケットの山が鼓動する心臓のように盛りあがってはしぼんだ。急激な冷えこみに備えて、イヴリンが植物を覆うのに使っているブランケットだ。普段は棚のいちばん上の段にたたんでしまってあるが、いまは金庫の前の壁際でこんもりとした山になっている。フェイスは、その灰色のブランケットのなかから桃色の小さな塊が突き出たことに気づいた。プラスチックの湾曲したヘッドレストは、エマのチャイルドシートにほかならない。またブランケットが動いた。小さな足がぴょこんと飛び出た。足首のまわりにレースのついた、淡い黄色のコットンのソックス。また桃色の小さな拳が覗いた。そして、エマの顔が見えた。
 エマはフェイスを見て笑った。上唇がやわらかな三角形を作った。ふたたび喉を鳴らした。今度はよろこびの声だ。
「なんてこと」フェイスは鍵のかかったドアノブをむなしく引っぱった。震える手でドア枠の上をまさぐり、鍵を探した。埃(ほこり)が降ってきた。木材のささくれが指に食いこんだ。もう一度、窓からなかを覗いた。エマは母親の姿に安心して両手を打ち鳴らした。フェイスは生まれてこのかた最大のパニック寸前なのに。物置のなかは暑い。外も暖かいくらいだ。エマが熱中症になりかねない。脱水症状を起こすかもしれない。死んでしまうかもしれない。
 フェイスはあわてふためき、鍵が落ちているかもしれないと思い、両手と両膝をついた。ひょっとしたらドアのむこうへすべりこんでしまったのか。チャイルドシートの下部が、金庫と壁のあいだに無理やり押しこまれているのが見えた。チャイルドシートはブランケットの山で隠してある。金庫の陰に。
 金庫に守られている。
 フェイスは動きを止めた。呼吸の途中で肺が縮こまった。あごが針金できつく閉じられていたかのようにこわばった。のろのろと体を起こす。目の前のコンクリートに、点々と血の滴が残っている。目で追うと、勝手口まで続いている。血の手形まで。
 エマが物置に閉じこめられている。イヴリンの拳銃がなくなっている。家まで血痕が続いている。
 フェイスは立ちあがり、わずかにあいている勝手口のほうを向いた。自分の荒い呼吸の音以外、あたりは静まり返っている。
 だれが音楽を止めたのだろう?
 フェイスは車へ走った。運転席の下からグロックを取り出す。弾倉をチェックし、体の脇にホルスターをとめた。携帯電話を助手席に置き忘れていた。それを引っつかみ、トランクをあけた。GBIの特別捜査官になる前は、アトランタ市警殺人捜査班の刑事だった。非公開の緊急連絡番号は、指が覚えている。通信係が質問するひまも与えなかった。早口で以前のバッジ番号をまくしたて、実家の住所を言った。
 一瞬、ためらってから告げた。「コード30」言葉が喉に詰まりかけた。コード30。この暗号を使ったのははじめてだ。警察官が緊急支援を要請する際に使う。つまり、仲間の警官が重大な危機に瀕(ひん)している、ひょっとすると死んでいるかもしれないという意味だ。「娘が家の外の物置に閉じこめられてるの。コンクリートの地面に血痕が認められ、勝手口のドアに血の手形がついてる。おそらく、母が家のなかにいる。さっきまで音楽が鳴っていたのに、いまは聞こえない。母は退職警官。たぶん母は――」喉に握り拳のような塊がこみあげた。「助けて。お願い。助けをよこして」
「コード30、了解」通信係は張りつめた声で応答した。「外で応援を待ってください。絶対に、家に入らないで――繰り返します、家に入らないでください」
「了解」フェイスは電話を切り、後部座席に放った。トランク内にショットガンを固定しているラックの錠を鍵であけた。
 GBIは全捜査官に少なくとも二種類の銃器を支給している。グロック23は四〇口径のセミオートマチックで、装弾数は弾倉十三発と薬室一発。レミントンM870は、ダブル・オー・バック四発を装填(そうてん)できる。フェイスは銃床の前にサイドサドルを装着し、さらに六発を収納している。一発のシェルには八個の散弾が封入されている。散弾の直径は九ミリ程度だ。
 グロックは一度引き金を引くと一発の弾丸を発射する。レミントンは八発だ。
 GBIの規定では、グロックの薬室につねに一発装填するよう定められているので、装弾数はつねに十四発になる。従来型のマニュアルセーフティは備えていない。捜査官は法律上、自分や他人の生命が危険にさらされている場合のみ、殺傷力の高い武器の使用を認められている。発砲する意志がなければ引き金を引いてはならず、相手を殺す意志がなければ発砲してはならない。
 ショットガンも拳銃と同じ目的で使用されるが、使い方がちがう。トリガーガードの後方にあるセーフティはクロスボルト式で、すばやく解除できる。薬室は空にしておく。周囲の者に、弾をこめて発砲する準備をする音を聞かせるためだ。その音がしたとたんに大の男が膝をつくのを、フェイスは何度も見た。
 セーフティを解除しながら、家のほうを振り向いた。正面の窓のカーテンが小さく揺れた。人影が廊下を走っていく。
 片方の手でショットガンのハンドグリップをスライドさせながら、カーポートへ歩いていった。ガチャッという頼りがいのある音がコンクリートに反響した。流れるような動きで銃床を肩に当て、銃身をまっすぐ前方に向ける。ドアを蹴りあけ、しっかりとショットガンを構えてどなった。「警察だ!」
 その声は雷鳴のように屋内に響き渡った。声はフェイスの体の奥底にある暗い場所からこみあげた。二度と切ることのできないスイッチが入るのを恐れて、いつもはそんな場所が自分のなかにあることを忘れたふりをしている。
「両手をあげて出てきなさい!」
 だれも出てこない。家の奥で物音がした。キッチンに入ったとたん、視界が鮮明になった。カウンターの血痕。パン切りナイフ。床にも血痕がある。抽斗(ひきだし)や棚の扉が開いたままになっている。壁の固定電話は、ねじれた首縄で吊(つ)るされているかのようにぶらさがっている。イヴリンのブラックベリーも携帯電話も、床の上でばらばらになっていた。フェイスはミスをしないよう、ショットガンを構えたまま、指は引き金の脇に添えていた。
 母親とエマのことを考えていなければならないはずだが、頭のなかでは、繰り返し同じ言葉が浮かんだ。人間と出入口。住宅に突入する際に、もっとも大きな脅威となるものがそのふたつだ。人間がどこにいるか――犯罪者も、それ以外の人も――把握し、あらゆるドアに注意しなければならない。
 フェイスはくるりと体の向きを変え、洗濯室に銃口を向けた。床の上に、男がうつ伏せに倒れていた。黒い髪。黄色っぽい蝋(ろう)のような肌。くるくる回転する遊びをしている子どものように、両腕を体に巻きつけている。そばに銃器はない。後頭部は血にまみれ、ぐちゃぐちゃに崩れていた。脳のかけらが、洗濯機に散っている。壁の穴は、男の後頭部を通り抜けた銃弾があけたものだろう。
 ふたたびキッチンのほうを向いた。ダイニングルームへ入る開口部がある。フェイスはしゃがみ、そちらへさっと体を向けた。
 だれもいない。
 頭のなかに、家の見取り図が浮かんだ。左側に居間がある。右側には広い玄関ホール。まっすぐに延びた廊下。突き当たりがバスルームだ。廊下の右側に寝室が二室。反対側にも一室――母親の部屋だ。母親の部屋には小さなバスルームと、裏庭へ出るドアがある。廊下に面したドアのなかで、母親の寝室のドアだけが閉まっていた。
 フェイスはそのドアを目指して歩きはじめたが、すぐに立ち止まった。
 人間と出入口。
 心の目に、言葉の刻まれた石碑が見えた。いわく、“潜在的な危険に向かう前に、それ以外は安全であることを確認せよ”
 フェイスはしゃがんで左側を向き、居間に入った。壁沿いに視線を移動させ、裏庭に出るガラス戸を確認した。ガラスは割れていた。そよ風がカーテンを揺らしている。室内はめちゃくちゃに荒らされていた。何者かが、なにかを捜していたようだ。抽斗が壊れている。クッションが切り裂かれている。フェイスのしゃがんだ場所からは、ソファのむこうの少し離れたところにウィングバックチェアがあるのが見えた。室内と廊下を何度も交互に見やって安全を確認し、先へ進んだ。
 廊下のいちばん手前のドアは、フェイスが以前使っていた寝室だ。ここも荒らされていた。古い机の抽斗が舌のように突き出ている。マットレスが切り裂かれている。エマのベビーベッドもばらばらに壊れていた。毛布がまっぷたつに引き裂かれている。エマが生まれてからずっと、ベッドの上に吊るしてあったモビールが、ごみのようにカーペットの上に落ちていた。フェイスはそれを見たとたんに燃えあがった怒りを呑のみこんだ。無理やり捜索を続けた。
 クローゼットのなかとベッドの下を手早くチェックした。いまではイヴリンの書斎になっているジークの部屋も、同じように調べた。床に書類が散らばっていた。机の抽斗は壁に投げつけてある。バスルームのなかも見てみた。シャワーカーテンはあいている。リネンの棚も扉が開いたままだった。タオルとシーツが床の上に放り出されている。
 母親の寝室のドアの左側に立ったとき、最初のサイレンの音が聞こえた。距離はあるが、まちがいない。パトカーの到着を、応援を待つべきだ。
 だが、フェイスはドアを蹴破り、くるりと反転して腰を低くした。ショットガンの引き金に指をかける。男がふたり、ベッドの足側にいた。ひとりはひざまずいている。ヒスパニック系で、ジーンズしか身につけていない。裸の胸は、有刺鉄線で鞭(むち)打たれたかのようにずたずたに切られていた。全身が汗で光っている。脇腹も殴られたのか、黒ずんだ傷や赤い傷が並んでいた。両腕も上半身もタトゥーで覆われている。胸に彫られたものがもっとも大きい。赤と緑のテキサスのひとつ星のマークに、ガラガラヘビが巻きついている意匠。アトランタのドラッグマーケットを二十年前から牛耳っているメキシコ系ギャング、〈ロス・テキシカーノズ〉のメンバーらしい。
 もうひとりの男はアジア系だ。タトゥーはない。真っ赤なアロハシャツにチノパンツ。ヒスパニック系の男と向かいあって立ち、頭に銃を突きつけている。銃把が桜材のスミス&ウェッソン、5ショット・リボルバー。母親のものだ。
 フェイスはショットガンの銃口をアジア系の胸に向けた。冷たく硬い金属が、自分の体の延長のように感じる。しばらく前から、心臓がすさまじい勢いで拍動していた。全身の筋肉が引き金を引きたがっている。
 フェイスは早口で尋ねた。「母はどこ?」
 アジア系の男は、南部訛(なま)りのある鼻声で答えた。「撃ってみろよ、こいつに当たるぜ」
 そのとおりだ。フェイスはふたりから二メートルも離れていない廊下に立っている。ふたりの男も固まっている。アジア系の男を狙って撃っても、それた散弾が人質に当たる恐れがある――人質を殺してしまうかもしれない。それでも、フェイスはショットガンをおろさず、引き金にかけた指をはずさなかった。
 アジア系の男は人質の頭に銃口をぐいと押しつけた。「ショットガンを捨てろ」
 サイレンの音がだんだん大きくなっている。パトカーは第五管区のピーチツリー・ストリートからやってくる。「あの音が聞こえる?」頭のなかの地図では、パトカーはノッティンガム・ウェイに入った。一分以内に到着するはずだ。「母がどこにいるのか言いなさい。パトカーが来る前に死にたくないでしょう」
 アジア系の男はまた頬をゆるめたが、拳銃はしっかりと握りしめていた。「おれらの目的はわかってるはずだ。そいつをよこせば、あの女を解放してやる」
 フェイスにはなんのことかさっぱりわからなかった。母親は、夫に先立たれた六十三歳の女性だ。この家でもっとも価値があるものは、いま三人がいる土地にほかならない。
 アジア系の男は、フェイスの沈黙をはぐらかしと受け取った。「この若造のせいで親が死んでもいいのか?」
 フェイスは、理解したふりをした。「そんな単純なこと? 取引をしたいの?」
 男は肩をすくめた。「おれたちにおとなしく出ていってほしけりゃな」
「嘘よ」
「嘘じゃねえよ。公平な取引だ」サイレンがさらに大きくなった。通りでタイヤが甲高い音をたてた。「ほら、早くしろ。時間がない。取引するのかしないのか?」
 男に取引をするつもりなどないはずだ。すでにひとり殺している。そしていま、ふたり目を撃とうとしている。話がまったく通じていないと気づかれたら、こっちも胸に一発撃ちこまれて終わりだ。
「取引する」フェイスは左手でショットガンを前に放り投げた。
 射撃練習場の教官は〇・一秒まで計れるストップウォッチを使うので、フェイスは自分の右手が〇・八秒で脇のホルスターからグロックを抜くことができるのを知っている。アジア系の男が足元に落ちたショットガンに気を取られた瞬間、フェイスはグロックを抜いて引き金に指をかけ、男の頭を撃った。
 男の両腕がさっとあがった。拳銃が落ちる。男が床に倒れたときには、すでに絶命していた。
 玄関のドアが破られた。フェイスが玄関ホールのほうへ振り向いたと同時に、完全武装した突入班がどっとなだれこんできた。フェイスは寝室に目を戻し、ヒスパニック系の男が逃げたことに気づいた。
 裏庭へ出るドアがあいている。フェイスは外に走り出た。ヒスパニック系の男はチェーンの柵を飛び越えるところだった。スミス&ウェッソンを握っている。ミセス・ジョンソンの家の裏庭で、孫姉妹が遊んでいた。姉妹は拳銃を持った男が走ってくるのを見て、悲鳴をあげた。男は子どもたちの六メートルほど手前にいる。あと四メートル。子どもたちに銃口を向けて拳銃を発砲したが、弾は子どもたちの頭上を飛んでいった。壁の煉瓦のかけらが地面に飛び散った。子どもたちはもはや恐怖で声も出ずに凍りつき、逃げることもできずにいる。フェイスは柵の前で止まり、グロックを構えて引き金を引いた。
 ヒスパニック系の男は、胸を糸でぐいと引っぱられたかのようにのけぞった。一秒間は立っていたが、がっくりと膝を折り、仰向けに倒れた。フェイスは柵を跳び越えて男に駆け寄った。男の手首をかかとで踏みつけ、拳銃を捨てさせた。子どもたちはふたたび悲鳴をあげはじめた。ミセス・ジョンソンがポーチに出てきて、アヒルの雛(ひな)のようにふたりを抱えあげた。ちらりとフェイスを見やり、ドアを閉める。ショックを受け、怯おびえた目をしていた。ジークとフェイスは子どものころ、よくホースを持ったミセス・ジョンソンに追いまわされたものだ。ここは安全な場所だったのに。
 フェイスはグロックをホルスターにしまい、スミス&ウェッソンをパンツの後ろに差しこんだ。ヒスパニック系の男の両肩をつかむ。「母はどこ?」厳しく問いつめた。「母をどこへやったの?」
 男は口をあけた。銀色の詰めものをした歯の根本から、血がにじみ出ている。男は薄笑いを浮かべていた。人でなしは笑っているのだ。
「母はどこ?」男の血だらけの胸に手のひらを当てると、肋骨(ろっこつ)が折れているのが感じ取れた。男が痛みに叫び声をあげた。フェイスは手を強く押しつけ、肋骨をぎりぎりとこすりあわせた。「どこにいるの?」
「捜査官!」若い警官が片方の手をついて柵を跳び越えた。拳銃の銃口を地面に向けて持ち、走ってくる。「容疑者から離れてください」
 フェイスはヒスパニック系の男に、さらに顔を寄せた。男の肌が発している熱が伝わってくる。「母がどこにいるのか言いなさい」
 男の喉が動いた。もう痛みは感じていない。瞳孔が十セント硬貨並みに開いている。まぶたが震えた。口角がぴくぴくと引きつっている。
「どこにいるのか言いなさい」声を出すたびに、焦燥があらわになっていく。「ああもう――頼むから――早く言いなさい!」
 男の呼吸の音は、肺をテープで貼りあわせたかのようにべたついていた。唇が動く。なにかささやいたが、フェイスには聞き取れなかった。
「なに?」フェイスは男の吐き出す唾液がかかるほど、口元に耳を寄せた。「もう一度言いなさい」小声で命じる。「早く言って」
「アルメッハ」
「なに?」フェイスは繰り返した。「いまなんて言った?」男の口があいた。言葉ではなく、血があふれ出た。「いまなんて言ったの?」フェイスは叫んだ。「もう一度言いなさい!」
「捜査官!」警官がまた大声をあげた。
「ああっ!」フェイスは両手で男の胸を押し、心臓をふたたび動かそうとした。男を生き返らせたくて、握りしめた拳を強くたたきつけた。「言いなさい!」とどなる。「言えってば!」
「捜査官!」フェイスは腰にだれかの両手が巻きつくのを感じた。いきなり抱きあげられた。
「放して!」フェイスは警官に思いきり肘鉄を食らわせ、石のようにどさりと落ちた。芝生を這(は)い、一部始終を目撃していたはずの男のそばへ戻った。人質か。殺人犯か。どちらにしろ、この男は、母親がどうなったのか知っているこの場で唯一の証人なのだ。
 フェイスは男の顔を両手で挟み、生気の消えてしまった瞳を見つめた。「ねえ、言ってよ」手遅れだとわかっていても、懇願せずにいられなかった。「お願いだから」
「フェイス?」アトランタ市警にいたころパートナーだったレオ・ドネリー刑事が、柵のむこう側に立っていた。息を切らしている。両手でいちばん上のチェーンをつかんだ。安物の茶色いスーツのジャケットが、風ではためいた。「エマは無事だ。錠前師を呼んだ」漉(こ)し器にかけた糖蜜のように、ねっとりとした声だった。「しっかりしろ。エマには母親が必要なんだぞ」
 フェイスはレオの背後を見やった。そこらじゅうに警官がいる。家の周辺や庭を調べている紺色の制服がぼやけて見えた。窓越しに、銃を構えて部屋から部屋へ移動し、「異状なし」と確認の声をあげる突入班を目で追った。競いあうようなサイレンの音があたりを満たす。パトカー。救急車。消防はしご車。
 通報が広がったのだ。コード30。警察官が緊急事態で助けを必要としている、という暗号が。
 男性三名が射殺された。赤ん坊が物置に閉じこめられた。母親が行方不明。
 フェイスはしゃがみこんだ。震える両手で頭を抱え、泣きたいのをこらえた。


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