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『ザ・ゴールド』試し読み

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ザ・ゴールド
[著]カリン・スローター:リー・チャイルド
[翻訳]鈴木美朋

(以下、本文より抜粋)

 ウィル・トレントは廊下に座り、閉じたドアの向こうで、求職票に記された二度の飲酒運転の逮捕歴と空白だらけの職歴について、ぼそぼそと話し合っている声に耳を澄ましていた。会話はウィルの都合のいいように進んでいる様子ではなかった。まずい。なんとしても採用されなければならない。断られたら、本業が行き詰まってしまう。
 袖でひたいを拭った。外はすでにうだるような暑さだ。建物のなかもたいして変わらない。一九五〇年代に建てられたこの庁舎は陰気くさくじめつき、ウィルは汗をかきはじめていた。もともと低い天井はさらにたわんでいる。石膏ボードの壁も湿気でふくらんでいる。視線の先で、鼻先から汗の滴が床に落ちた。数十年間、アーミーブーツが行き来しているリノリウムの廊下は、中央がすり減っている。
 ウィルは座ったままもぞもぞと体を動かした。椎骨が脊柱を締めつける結束バンドに変わってしまっていた。脚の筋肉も凝り固まっている。体のあちこちが疼く原因はふたつあった。ひとつ目は、ゆうべ恋人がしてくれた送別の儀式のせいだ。そして今朝も、パーク・アンド・ライドとはよく言ったものだが、恋人に車で送ってもらったついでにゆうべと同じことをした。ふたつ目は、アトランタからレキシントンまで飛行機のなかで丸一時間、クリップに向かってわめいている幼児と太鼓腹の高齢者に挟まれて、両膝を前の座席に何度もぶつけていたせいだ。
 そのうちのひとつなら、痛みに耐える甲斐もあるのだが。
 ドアのむこうで大声があがった。「あなたの考えなんかどうでもいいわ、デイヴ」
 連邦金塊貯蔵所の所長、ステファニー・ルカサー大佐の声だ。重要な役職なのだろうが、ウィルにはよくわからない。この連邦政府の金庫についてウィルが持っている知識は、ほぼウィキペディアと『007 ゴールドフィンガー』から得たものだけだ。
 金塊貯蔵所は、フォート・ノックス陸軍基地内のブリオン・ブルヴァードにゴールド・ヴォールト・ロードが突き当たる位置にある。正面玄関のドアは厚さ五十センチ、重さ二十トンで、ドリルも炎も通さない。内部に保管されているのは、三千五百億ドル分の貴重な金属だ。アメリカ合衆国造幣局警察が貯蔵所を警備し、さらに陸軍が造幣局警察を警備している。内部は一九七四年九月にたった一度だけ公開された。いや、それより前、一九六四年にプッシー・ガロア率いる空中サーカスがガスを散布し、貯蔵所内でダーディ・ボムが起爆〇〇七秒前に無力化されるという事件があったが。
 ついにドアがあいた。
 デイヴ・バルダーニ少佐が薄笑いを浮かべてウィルを見た。
 その笑い方は、ウィルがよく知っているものだ。正義の味方が悪者をつけあがらせないようにするときの顔つきだ。本業はジョージア州捜査局GBI特別捜査官のウィル自身も使うことがある。だが、ウィルは警官としてフォート・ノックスに来たのではない。アフガニスタンへ二度派遣されたのちに愚かな判断をしてウサギ穴に転落した元陸軍大尉に扮し、潜入捜査をするのだ。
 ウィルに用意された身分は、ペンタゴンのデータベースに侵入しないかぎり偽物とはわからない。ジャック・フィネアス・ウルフ、二〇一六年に不名誉除隊。飲酒運転で二度の逮捕歴。社会奉仕活動を命じられている。保護観察中。離婚歴あり。子どもはいない。銀行に借り越しあり。クレジットカードは限度額まで使い切っている。判明している最後の住所から立ち退かされた。車は銀行に差し押さえられた。そんなわけで、まともな仕事を探している。いや、できるだけまともな仕事を。
「急ぎなさい」ルカサー大佐は五十代はじめのすらりとした女で、長い金髪を軍隊風にきっちりとまとめている。大佐はじれったそうに手招きした。「あなたたちを待っているんだから」
 ウィルは首をすくめて立ちあがらなければならなかった。天井がたわみ、もとの高さより四十五センチは低くなっていた。黒っぽい壁板は、老朽化してゆがんでいる。部屋の片側に、鍵のかかった書類戸棚が並んでいる。反対側の壁際に置いてあるありふれた金属の事務机は大佐のものだ。窓はない。空気がよどんでいる。まるで棺のなかにいるようだった。
 ルカサー大佐はたわんだ天井の一点を指さした。「准将が上の執務室にシャワー室を作らせたの。くそは低いほうに転がる。天窓はいらないけどね、ウルフ。座って」
 ウィルは大佐の向かいに並んだ椅子に腰をおろした。バルダーニは、ウィルのすぐ後ろに立ったままだった――これもまた、正義の味方の定石だ。
 ルカサーが言った。「ウルフ、あなたはいろいろやらかして以来、困っていたようね」
 質問には聞こえなかったので、ウィルは答えなかった。
 ルカサーはウィルのファイルに手を置き、長引く沈黙にウィルがいたたまれなくなるのを待った。
 ウィルは平気だった。
 壁の時計がカチッと鋭く鳴った。
 バルダーニが喫煙者特有の耳障りな音をたて、長々と息を吐いた。
「デイヴ、どうやらここにいるのは本物のキャプテン・ジャックのようよ」ルカサーはファイルを開き、そこに書いてある情報をはじめて読むふりをした。「“僻地BFE”に派遣された。“特殊部隊訓練課程ジヨン・ウエイン・スクール”のクラスでは五番目。“胸章チエスト・キヤンデイ”を“イラクサンドボツクス”に山積みにした。三拍子そろったわけね。たいした暴れん坊じゃないの。いまここでデカチンコンテストをしたら、間違いなくあなたが優勝ね」
 軍隊の隠語を勉強してくる余裕はなかったので、ウィルにはルカサーがなにを言っているのかさっぱりわからなかったが、たしかに刑事(デカ)ではあるので、最後のひとことは正しいと思った。
「そして――」ファイルが一ページめくられた。ルカサーの指がジャック・ウルフの経歴をたどる。「飲酒運転による逮捕歴が二度。不本意な離婚。不本意な借金。そんなあなたをわたしがこれから数日間、うちの基地で働かせてあげて、時給十五ドルを払って、うちのホテルに泊まらせてあげるなんて、本気で思ってる?」
 ウィルは、自分がいつも尋問している犯罪者たちのまねをして、知ったことかと言わんばかりに片方の肩をすくめた。「おれはどっちでもいい」
 バルダーニがむっとした様子で身構えた。
 ルカサーがファイルから顔をあげた。ウィルの率直な態度が気に入ったのか、とっとと出ていけとは言わなかった。「どんな仕事かわかってる?」
「掃除かなんかだろ?」ウィルはふたたび肩をすくめた。バルダーニをいらだたせたかった。「指示書には、クリーニング作業とか書いてあった」
「普通の掃除じゃないのよ。あなた、金についてなにか知ってる?」
 ウィルはまた肩をすくめた。「おれにくれるのか」
「いいかげんにしろ、この野郎」バルダーニは我慢の限界に達したようだ。「態度をあらためろ。大佐に向かってそんな口をきくな」
 ウィルはバルダーニを無視して顎を少しあげたが、完全に無視したわけではなく、用心は怠らなかった。
 バルダーニが拳を握りしめたが、それは愚かなふるまいだ。そのまま両腕をあげようものなら、ウィルに容赦なく反撃されても文句は言えない。
「ふたりともやめなさい」ルカサーがジャック・ウルフのファイルを閉じた。採用することはとうに決まっていたようだが、そのことはまだ隠しておきたいらしい。代わりに、ルカサーはこう言った。「金は原子番号七十九番の天然に存在する化学元素。軟質金属に分類され、すぐに傷がついたり欠けたりする。手の皮脂で表面が汚れたり曇ったりすると、価値が落ちるの。扱うときは、毛羽立たない綿の手袋をはめる。マスクも必要。吐息に含まれる湿り気や唾液が付着して、消せない跡が残るかもしれないから」
 ウィルはその先を待った。
「一九三三年にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が発布した大統領令六一〇二号によって、金貨、金の延べ棒、金証券を私有することは違法になり、一般市民はそういうものを連邦準備銀行に売却しなければならなくなった。一九三六年に財務省がこの金塊貯蔵所の建設に着手し、最終的には連邦準備銀行に保管された金塊の大半を重装甲列車でここへ運びこんだ。現在、ここにはおもに純度九十九・九九パーセントから九十九・九九九九パーセントの金が一億四千七百三十万トロイオンス、十二・四キログラムの金の延べ棒(ゴールドバー)の形で、厳重に閉ざされた保管室に保管されている。残りはウェスト・ポイントとデンヴァーにある」
 ウィルはまた、それがどうしたというように肩をすくめた。「で?」
「議会の命令によって、保管室には年に一度、財務省監察室の監査が入る。すべて人の目でチェックするの。ただ、ゴールドバーのシリアルナンバーをいちいち目録と照らし合わせていたら、何カ月もかかる。そこで、わたしたちにお呼びがかかるのよ、ウルフ大尉。一九七八年の国庫管理区分法によって、十年ごとにすべての品目の金を手作業で点検しなければならない。そして、今年がちょうどその十年目なの。ところが、作業終了まであと数日を残して、作業員がひとり倒れてしまった」
 ウィルは肩をすくめるのをやめた。ホッピングに乗った薬物常用者よろしくそこらを跳びまわりたがっている内なる十代の自分を押さえつけるため、顎をこすった。覆面捜査官として金塊貯蔵所に潜入できればいいと思っていたが、保管室の内部に入りこめるとは。金塊の詰まった保管室に。あのオッドジョブの縄張りではないか。
 思わず念を押さずにはいられなかった。「おれに金の点検をしろと?」


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◇著者紹介
カリン・スローター Karin Slaughter

 エドガー賞にノミネートされた『警官の街』や、発売するや
いなやニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストにラン
クインした『プリティ・ガールズ』"The Good Daughter" 『彼
女のかけら』をはじめ、〈ウィル・トレント〉シリーズや〈グ
ラント郡〉シリーズで知られるベストセラー作家。これまで
19 作の作品を発表し、120 カ国以上で刊行され、累計発行部
数は全世界3500 万部を超える。『彼女のかけら』"The Good
Daughter" 『警官の街』は映像化が進んでいる。
www.KarinSlaughter.com

リー・チャイルド Lee Child
 世界中で人気のスリラー作家。英国コヴェントリーで生まれ、
バーミンガムで育ったのち、米国ニューヨークに暮らす。ジャ
ック・リーチャーを主人公としたシリーズは、世界で9 秒ごと
に1 冊売れている。世界中のベストセラーリストでたびたび第
1 位を獲得し、累計発行部数は全世界1 億部を超える。ジャッ
ク・リーチャーが主役の映画は2 本公開されている。
www.LeeChild.com



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