一昨日、1時間半で人生が変わった話。


はじめまして、あさひなと申します。

最近人生が変わった者です。

一見すると胡散臭いですが、そう書くしかないきっかけがありました。

ブログなんて初めてですが、これまで考えてきたこと、これから考えることが、書き留めるに値すると直感的に思ったので始めてみます。

少し長くなりそうですが、とりあえず経験したことを最初から全部書いてみることにします。

特に、高学歴でバリキャリだけど、夢や憧れを捨てきれないあなたに向けて。


“私”

関西の自然豊かな町に生まれ、何不自由ない家庭で育ちました。
一人っ子。家族3人喧嘩もなく仲良し。聞き分けの良い子供だったとか。

3歳からピアノを始め、小学生の頃には高校生に混じって発表会に出ていました。

中高一貫校に入り、成績は常に上位。運動部に入り、マラソン大会でも学年女子トップ。

難関大の理系に入学、修士課程を修了。研究投資やビジネスに興味を持ち、経営コンサル会社に入社。幅広い経験を積み、3年後には大手企業のブランドマーケ職にキャリアアップ。


人並みに挫折や悩みを持ちながらも、頑張ってるね、すごいね、と言われることばかりでした。親戚も自慢げに私のことを話してくれる。

こんなに不自由のない人生、何が変わったというのでしょうか。


関西の自然豊かな町に生まれ、元教師の教育熱心な母(と無関心な父)のもとで育ちました。
一人っ子。家族3人つかず離れず。聞き分けの良い子供だったとか。
3歳からピアノを始め、小学校の頃には高校生に混じって発表会に出ていました。将来の夢はピアニスト。

教育熱心な母の方針で、中学受験のために塾に通うことに。塾での成績は最悪。第一希望には落ちましたが、私を信じ続けてくれた恩師のおかげで有名校に滑り込み。子供ながらに嬉しかった。無事、中高一貫校に入学です。

自身が十分に勉強できなかったことを悔やむ母(本人談)は、私が自然に勉強に向かうよう生活を固めていきました。
勉強はサボれないようリビングで。成績が悪ければひどく怒られました。友達と出かけることも遠回しに反対し、休日の部活には行かなくていいんじゃない?と言う。

重要なのは、私がこの生活に何の疑問も抱いていないことでした。
勉強漬けではなく部活もしていた。運動は得意だし、友達もたくさんいた。「勉強しなさい」と強制されたことは一度もなかった。

成績さえ良ければ、母が怪訝な顔をすることさえしなければ、家に不自由ない居場所がある。
借りた少女漫画を投げつけられても、ウトウトして叩かれても、それが普通だった。試験前の休日は、1日16時間は勉強していました。

そして無事、超難関大の理系に入学。
「親は学歴しか残してあげられないからね」。
母はそう言いました。

勉強にサークル、アルバイト、恋人、一人暮らし。相変わらず真面目でしたが、大学4年間、とても楽しく過ごした気がします。


気づき

しかし、修士過程に入って就職を考え始める頃、ようやく気づきます。
私が母の敷いたレールを歩んできたことに。そしてとっくにレールはなく、母の手から離れていることに。

私、何がしたいんだろう。

その瞬間、走馬灯のように私が諦め、失ってきたものが頭を巡りました。

ピアニストになりたかった。勉強のため、母の勧めるまま中学でピアノを辞めたこと。
ドラマを見て、演者に憧れた。道端で私に来たスカウトを母が勝手に断っているのを見たこと。
友達と普通に遊びたかった。部活全員の休日の集まりに、勉強しなきゃだよね?と私だけ誘われなかったこと。
太陽の塔に衝撃を受け、クリエイターに憧れた。才能がある人がすることでしょ?と母に一蹴されたこと。

諦めたものは莫大でした。本当にやりたいことは何だろう。今から自分に何ができるのだろう。考えても考えても答えは出ません。
12時間ピアノを弾き通す。映画をぶっ通しで7本観る。椅子を丸一日作り続ける。ドラマを全話まとめて観る。
考えるのに疲れたら、いつも憧れの、大好きな何かに没頭していました。

ギャンブルやお酒にのめり込まなかったのは唯一の救いかもしれません。
それでも昼夜逆転、生活は荒みました。大学のカウンセリングも役立たず。
母を恨みたい。でも勉強させた母がいたからこそ今の自分がいる。その間で激しく揺れ、泣き叫ぶ。心も荒みきってました。

それでも時間は過ぎていきます。就活を始めないと間に合いません。

とにかく母の残像から抜け出さなければ。

その一心で、私は母も知らない別の業界を目指しました。
ただし、お金とキャリアは心配。芯から真面目な私は、将来も安心できるよう、成長確約の経営コンサルタントとして社会人生活をスタートさせます。


やりたい仕事

成長確約とはよく言ったもので、私は本当に貴重な経験をしました。
有名企業の上層部から直々に、会社のあらゆるお悩みを受ける。それに対し、戦略策定はもちろん、財務・法律・人事などあらゆる知識を携えて解決までフルコミットする。
超優秀とは言えないまでも、きちんと仕事ができていた。3年働けば経営のプロとしてどんな会社でも働けるくらいには、順調にキャリアを積んでいました。

そんな全方位型の人材にならざるを得ない環境で、次第に世の中が俯瞰的に見えるようになってきました。
そこで気づいたのは、今の自分なら、行動力さえあれば大抵の仕事に就けるだろう、ということ。
軽んじたり奢っているわけではもちろんありません。1日16時間勉強した私には、新しいことをするときの正しい努力の仕方が身についていました。
よほど専門的でない限り、どんな仕事であっても、正しい努力を積み重ねれば働いていける。そんな感覚があったのです。

かつてのクリエイターへの憧れが再燃するのに時間はかかりませんでした。

社会人3年目が終わる頃、転職とともに専門学校の夜間部に入学し、グラフィックデザインを学び始めます。


迷宮入り

転職先は、大手企業のブランドマーケ職。憧れのクリエイティブ職に近い部署に、戦略立案に強い人材としてキャリアアップを果たしました。元コンサルとしてきちんと価値を出せる。定時帰宅で学校にも通える。最高の形でのキャリア転換だと喜びました。

学校では毎日が刺激的。同級生の作品もいつもクオリティが高い。自分も必死に作品を作ります。毎日憧れのクリエイティブに触れながら、一喜一憂しながらも充実した毎日を送っていました。


しかし次第に、自分の中で矛盾が生じます。

会社ではあくまでビジネスと戦略に強い人。デザイナーたちと一緒に仕事をしても、私はデザイナーにはなれない。当然のことですが、大きな溝を目の当たりにして言い知れぬ不安に駆られます。
一方の学校でも、まわりは仕事を辞めて学校に来ている。覚悟をもって、本気でデザイナーを目指す人ばかりです。
お金の安心を捨てきれず、仕事と必死に両立する自分。クオリティの差に落ち込むだけでなく、デザイナーになる覚悟が足りないことに悩みました。

デザイナーといっても、グラフィックか?イラストか?それとも写真?タイポグラフィ?
漠然とした憧れだけでここまできた私は、自分のスタイルは愚か、やりたい領域さえ定まりません。

今の仕事を辞めるべきなのか。でもデザイナーは未経験、薄給の激務が待っている。

夢を捨てて安心の今の仕事を取るか。憧れを取ってデザイナーになるか。

そんなの決断できない。迷宮入りです。


1年生の終わり。
仕事と学校で多忙を極め、人生のモチベーションも見失っていた頃。
半年教えてくださった女性の有名デザイナーの先生が、同級生との飲み会に来てくれました。

同級生も悩みは尽きず、みんなから相談の嵐。楽しい話も積もりながら、時間はあっという間に過ぎました。
すると、帰りがけに先生が一言。

「私カウンセラーの資格持ってるんだ。悩みあったらいつでも連絡ちょうだいね、いつでも話聞くからね〜」

優しいお母さんのような、それでいて芯の強い先生。
いつもみんなの複雑な悩みをすんなり理解し、的確なアドバイスをくれる。
迷宮入りの私を助けてくれるかもしれない。そのまま帰り道に連絡し、カウンセリングのお願いをしました。


そして一昨日。カウンセリング当日。
先生の個展期間中、ギャラリーを閉めたあとに話を聞いてくれるとのことでした。
個展に伺うと、素敵な作品がずらり。ファンの方がたくさん来ていました。

プロの仕事は圧巻。緻密な表現や色づかいに見とれているうちに、あっという間に閉館時間。お客さんもぞろぞろとギャラリーを後にします。

「じゃあそろそろ始めようかね〜。お悩みはなに?」


1時間半で人生が変わった

久々のカウンセリングに緊張しつつ、ぽつぽつと話し始めます。

きちんと稼げる今の仕事に満足しているが、デザイナーへの憧れを捨てきれない。
他にも好きなことがたくさんある。音楽、家具作り、映画鑑賞。そんなことをしながら生きていたいと思いつつ、今の仕事を辞めて道を変える勇気がでない。
とにかく、好きなことに没頭したい。

うん、うん、と聞いていた先生の表情がピタリと止まりました。

「没頭?なるほど...。不躾だけど、家族のことは好き?」


驚きました。これまで何度かカウンセリングを受けてみたけど、皆話をきいて終わり。ガス抜きだけで、的を射たことや図星の何かを言われたことは一度もありませんでした。
戸惑いながらも、話は私の過去に流れていきます。

教育熱心な母のもとで勉強ばかりしてきたこと。
理不尽なことは何もされていない。反発する理由もなく、勉強するままに大学院に進んだこと。
父は常に無関心だったこと。
将来を考えたとき、初めて夢を諦めてきたと気づいたこと。
何がしたいかわからず好きなことに没頭したこと。
就職してからも好きなことを諦めきれず、学校に通っていること。

家族のことは好きでも嫌いでもない。もはや何も感じないということ。

先生は悲しげな表情で、重く口を開きました。

「お母さんのこと、恨めたらよかったね。家族からの愛を受け取れず、心は必死に逃げてきたんだよ。何も感じなくなるところまで。わかる?何かに没頭することで、自分を必死に守ってきたんだよ。」

正論は暴力だよ。言い返す隙を与えないお母さんの前で、無力だったね。
辛かったね。大変だったね。
たった30分話しただけで、先生は私の悩み荒んだ感情を全部理解しているようでした。

荒んだ日々に共感してくれただけじゃない。
自分がいかに辛かったか、どれだけ傷ついたか。そしてその結果、何も感じないという、普通では考えられないところまで来てしまったこと。
初めて自分を理解し、涙が止まりませんでした。


そのあとは新たな気づきの連続でした。

没頭は逃げるためのもので、本当にやりたいことじゃないんじゃない?
安心は誰に取っても絶対に大切だから、仕事を辞めることもないよ。
ただ、学歴も仕事もあって、安心貯金はもう十分。幸せ貯金が足りないね。

「幸せなときって、どんなとき?」

「...キレイなものを、見ている時です。」

答えはすぐに出ました。
美しい自然。均整の取れたグラフィック。見事な配色の作品。美人なアイドルグループも。無駄のない戦略設計だってそう。

キレイなものを見ていると、満たされるような感覚がありました。

「ほら、あるじゃん。それじゃ、キレイなものを見るのに時間使おうね。」

たった1時間半。どんよりしていたこれからの人生が、快晴になりました。


これからの私

あれから2日。
辛いことを忘れるために物事に没頭していたという事実に、人生を棒に振ったような感覚になって少し落ち込みました。

それでも必死に頑張ってきたのは私。強い行動力で、自分の意思を枯らさずに頑張ってきた自分を褒めようと思い直しています。

そして、見ることが幸せなのだと気づいてから、作ることへのプレッシャーがなくなりました。
学校には行くけど、それは美しいものが集まっているから。
没頭するままに弾いていたピアノは、楽しい趣味として。
映画作品も、キレイだという純粋な気持ちで観れるようになりそう。

先生は、幸せ貯金が貯まってくれば、自然とお金がもらえる仕事への執着もなくなってくるよ、とも言ってくれました。

どんな人生が待っているかわからないけど、「自分のための人生」になるという確信。

それだけで笑顔が溢れてしまいます。


おわりに

気づけば5,000字を超える記事を書いてしまいました。

もっともっと辛い境遇の方はたくさんいるのだと思います。
私なんて甘っちょろいのかもしれない。
それでも、私も辛かった。
十人十色の境遇と悩みがある中で、少しでも何かのきっかけになればと思います。


初めての投稿、ここまで読んでくれた方はいるのでしょうか(笑)
きっとその方は、何かしら近しい境遇の方か、よほどの物好きですね。

読んでくださってありがとうございました。


これからは、自分の興味や経験、そしてこれからの幸せについて、発信したくなったことを書いていこうと思います。
(まだ多忙な日々が続くので、頻度は多くなさそうですが...悪しからず)


みなさんにも幸せが見つかりますように。

それではまた。


2020/2/22
あさひなブログ


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