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かける言葉に迷うことがよくある

人にかける言葉に迷うことがよくある。

苦しんでいる人にかける言葉がみつからない時がよくある。

「大丈夫だよ」
寄り添うことでその人が救われるならいくらでも言うことができる。
だけど、それと同時に何をもって大丈夫って言ってるのか自分でもわからなくなる。
心から「大丈夫」って本当に思っていたのだとしても。
その人の苦しみを同じ様に経験したわけでもないのに、想像することしかできないのに何を無責任に大丈夫なんて言えるんだろうと思う。

「こうすればいいと思うよ」
違う方向に目を向けてもらうことでその人が救われるなら、無い頭を振り絞って違う方向を示すことができる。
だけど、何を偉そうにそんなこと言えるんだろうとも思う。
自分の考えつく方法なんてとっくにその人も考えてるかもしれないのに、何を上から方向を示すことなんてできるんだろうと思う。

「頑張ろうぜ」
鼓舞することによってその人が頑張れるならいくらでも鼓舞することができる。
だけど、そもそもみんなもう頑張ってるんですよね。
その上、もっともっと頑張れよっていうのは、苦しんでる人には辛い言葉でしかないんだろうと思います。

こんなことを思うのは、たぶん自分が苦しい時にこういうことを言われたくないからだろうなあって薄々思います。
私は傲慢だし、人からの救いを素直に受け取ることができない捻くれ者なんです。
はー、暗い人間だなあ。すみません。今日はちょっとアンニュイなんです。
週一くらいでくるんです、アンニュイ。

この人は真摯に自分と向き合って、本当に自分のためを思って言ってくれてるんだろうなってことが伝わる時はあります。
でも、素直に受け取れない時もあります。
自分が受け取れないからこそ、人にそういった言葉を使うことができないんだろうと思います。

だから、人にかける言葉に迷うことがよくあります。

ただ、それと同時に救われる瞬間もたしかにあるんですよね。
それは何気ないことだったりするんです。

街中で見かけたキャッチコピーだったり、
たまたま手に取った雑誌の一文だったり、
めっちゃくだらない動画だったり、
笑えるnoteの記事であったり、
どこの誰とも知れないエッセイだったり、
朝起きて見る妻の寝顔が「えっ!女神!?」と勘違いしてしまうような瞬間だったり…

何気ない日常の一幕が、誰にどんな救いを与えるか予測なんてできません。
世の中にはたくさんすごい人がいて、問答無用で心に響く物を世に送り出す人がいます。
その人達は誰かを救いたいみたいな崇高な理念がある人もいるでしょうけど、そうじゃない人もいると思います。

苦しんでいる人がいて、どうすればとあの手この手を尽くすことも尊いことです。救われることというのは、人それぞれ千差万別で、正解なんてないし、ましてや予測できることではないんだろうと思います。

自分が発した一言で、自分がした何気ない行いで、救われる人がいるなんてそんなおこがましいことは毛程も考えていません。
私にできることは、人にかける言葉、行いに注意し続けることだなとそんなことを思います。


最近、なんでnoteに毎日投稿してたんだっけ?そもそもなんでnote始めたんだっけ?って思うことがあったんですけど、ぼんやりと今日の話が絡んできそうな絡んでこなさそうな気がするので、それはまた別の機会に…

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