菅谷圭祐「僕の法政大学史」

☆菅谷圭祐「僕の法政大学史」の転載について

 以下は菅谷圭祐が「自由空間」というブログに綴った「僕の法政大学史」である。2007年4月〜2012年11月までの期間において彼が経験したことの記録となっている。本人も自分のPCに保存したりしていないとのことだったので、順番通りに並べ替えて転載させていただく。写真付きで語られているが、投稿の都合上、今回は文章だけを取り出したものを掲載することにした。自分の知っている範囲ではノンセクトが活動の体を成していたのは2012年〜2013年あたりまでだと思われる。2013年〜2015年までは、外野からノンセクト学生が参戦を試みたが、その後は消えてしまった。現在は中核派のみが活動を続けている。大学もこのような黒歴史的な過去の学生運動については隠したがるし、学生からも忘れ去られていく運命にある。であるから、当時の雰囲気を知ることができる数少ない資料であるため貴重だと思う。これらの文章は一気に書かれたものではなく、2011年1月24日から2014年9月9日までの間に断続的に少しずつ更新されていたものであることは念のため申し添えておく。
 元々、法政大学の文化連盟はサークル連合として機能していたが、途中で非公認となり、サークル活動の自主運営は実質的に廃止された。法政大学に限らず、0年代に入ってから、都内の各大学では意識的な過激派の追い出しと共に、学生自治の解体と自主運営の廃止が行われてきた。それは一部の例外を除けば0年代の後半には完成されてしまった。
 一言でいうのであれば、大学イメージの刷新と経営戦略、グローバル化など、そういう「時代の流れ」ということなのだろうと思う。けれど、いま自分は便宜上、「時代の流れ」という言葉を使ってしまったのであるが、厳密さを求めるのであれば、何かを見落としていることになる。それは「時代の流れ」に対する批判的な視座である。仕方がないという捉え方は、いままで何が問題とされてきたのか、これから何が問題になるのか、何を問題として指摘すべきなのか、を捨て去る傾向にある。1回でも学生運動を経験している人間には、仕方がないという諦念が少なからず存在していると思う。しかし、それは自分自身の無力に対する諦めなのであって、決して、現状の無批判な肯定ではない。ただ、懐古しているだけであれば、趣味者か転向者である。あるいは元来からのただのノンポリだったか。
 そうした「時代の流れ」を作り出すこと自体は大学運営において意図的に行われてきたことであるし、国策の一つでもあるから、どこまでも批判的でなければいけない。ここで多くを語るには自分の知識がなさすぎるけれども、少なくとも、純粋に学問を研究する場ではなく企業的経営へと重点を移したということだけは少なくとも指摘しておきたい。つまり、成果主義的な予算配分や人事システム、大学院重点化政策、就職予備校化などである。大学自治の問題は文化的な側面ではなく、少なくともこういった大学のあり方をめぐる一連の流れの中で捉える必要がある。ただ、それは自分の仕事ではないので、他の人にでも任せておいて、ただ、文化的な側面を記録しておくことに努めたい。
 記憶というのは非常に曖昧で、思い立った時に残さなければ消えてしまう。そして、文章にするということ自体が、物語として後日になって再構築された記録でしかないということには注意していただきたい。これらの文章は一気に書かれたものではなく、少しずつ更新されていたとは先ほど述べた。ただしかし、心情的な原風景を理解するにはもってこいである。以下の文章はそういった意味での貴重な資料となり得ると思う。


/*以下転載*/

☆このサイトについて

本サイトにお越し頂きありがとうございます。

本サイトは、わたくし菅谷の学生時代の出来事を記した「僕の法政大学史」という全54回の記事がメインコンテンツとなっています。

「僕の法政大学史」は、2007年から2012年の間の6年間という通常よりもちょっと長めで、恐らくはあまり一般的ではない学生生活について記してあります。この文章は、約3年間という短くない時間をかけて、まるで何かに取り憑かれたように在学中・卒業後と僕自身の状態も変化していく中でも、少しずつ少しずつ進行させ完成させました。

しかし、時が経ち読み返してみると少しの気恥ずかしさと大きなもどかしさを覚えます。
時間の流れからか、当時絶対に主張したかった部分がその意味を失ったり、もっと上手な伝え方があったなと反省する点が多々あります。客観的に見て、読みやすい理解しやすい文章ではないなと思います。

拙い文章ではありますが、当時僕を闘争へといざなったいくつかの行動や言葉のように、僕の大学時代の稀有で異質な経験も、どこかで誰かに何かを思い立たせるきっかけとなってくれれば、これ以上に望む事はありません。多くの方が好んで読むような文章ではないことは自覚しつつ、特定少数の「あなた」に届いてほしいと僭越ながら願っています。

※僕なりの大学生活の総括は以下に記してあります。
ゆとり全共闘総括文章(菅谷)

僕が現在何をしているのかについては、以下で随時更新されていくかと思います。
菅谷圭祐の生存報告

☆僕の法政大学史1 (2007年2月)

2007年2月末、僕は法政大学と明治大学のパンフレットを眺めてどちらの大学に行こうか考えていた。

僕の育った地区では高校を卒業すると、働くか専門学校に行く人が大半で大学に行くとしても名前を書けば誰でも入れるようなところに進む人しかいない。法政大学や明治大学がどういう場所なのか教えてくれる人はいなかったし、人によっては大学の名前も知らなかった。

大学を見に行こうにも、僕の地元から東京まではあまりに離れすぎているため直接大学を見に行くことはできない。法政大学においては受験先が小金井だったため、これから通うことになるかもしれない市ヶ谷キャンパスがどのようなところなのか全く知らなかった。

そのため、僕はこれから先の進路を決める上で大学がくれたパンフレットはとても重要な情報になっていた。

僕は悩んだ末に最終的に法政大学に進むことに決めた。

パンフレットの中に書いてあった「芥川賞受賞者が多い」というような特集が決め手だった。

僕は志望大学のほとんどを哲学科で受験したし、法政大学においても哲学科に進むことになっていた。哲学科の大半の人がそうであるように、僕も大学に対して「卒業後の就職先」や「就職内定率」というものは求めていなかった。

僕はこれから先の大学生活で「何かおもしろいこと」を求めていた。
そしてパンフレットで誇示するほど小説家を数多く輩出している大学ならおもしろいことが起こる土壌が他の大学よりもあるのかもしれないと思った。

法政大学を選んだ理由はそんなところだ。

正直なところ、今でも「あのとき明治大学を選んでいれば」と思うことがある。

小説家を始め、多様で豊かな文化を生み出していた学生会館は既に解体されていた。
また、この時点で中核派を中心に逮捕者数十名を超える弾圧も進行中だった。
そして学生に対する管理も年々強くなっていた。

僕が法政大学に入学したのはそんな2007年の4月のことである。


☆僕の法政大学史2 2007年4月中旬

僕が始めて中核派を目の前で見たのは、入学してすぐの4月中旬のことだ。

今では信じられないかもしれないが、当時はまだ学内に中核派が入ることが出来て授業前に演説をするなんていうことは度々あった。
確かこのときは「韓国やフランスでも学生が戦っている。日本の学生も戦おう」と言ったことを演説していたような気がする。

僕は「この人たちは何なんだ」と、少しの恐怖と興味を持った。理由は演説している人があまり学生に見えなかったことである。

その後、中核派の人達はビラを配り始めたのだけれど、中には明らかな嫌悪感を示してもらわない人もいた。
僕はこのとき戸惑いながらもビラをもらった。それを隣にいた友人は冷ややかな目で僕を見てビラに触れさえしなかった。

哲学科というのはもっと俗世間から外れた変態みたいな人が多いと期待していたので、そのときの雰囲気は少し残念だった。

僕はこのころ今よりもずっと田舎者で、中核派という組織がどういうものか知らなかったけれど、たかだか授業前に入ってきて演説してビラを配って帰っていっただけの団体にそこまで強い嫌悪感を示さなくてもいいのではないかと思った。まして哲学科に入るような人間なのだ。

それからも何度か学内で中核派を見かけることがあったのだが、僕が直接関わりを持つようになったのは5月以降のことである。

そのころは文化連盟、第二文化連盟、学生団体連合というサークル本部があった。僕が入ったサークルは文化連盟に所属していて、週に一度の常任委員会という会議で定期的に顔を合わせることになった。

そしてこの2007年を最後にサークル旧三本部は解体される。
最初にその話がサークル員に降ろされたのは6月のことである。僕は一年生なりにその話にとても驚いた。


☆僕の法政大学史3 2007年5月

僕は07年の五月くらいから文化連盟サークルが週に一度集まる会議(以下、常任)に出席し始めた。前回、哲学科の雰囲気にショックを受けたと書いたが、常任で出会った人達は世間一般の普通からはみ出ているような変わっている人が多く一年生の僕にはとてもおもしろかった。

それに、なぜかはわからないけれど僕と同じように常任に来る一年生がたくさんいた。
その同期の中には08年以降の文化連盟を引き継ぐことになるS君やM君もいた。なお、現在の文化連盟を「中核派とノンセクトが文化連盟を勝手に名乗っている」という解釈をしている人もいるが、これは正しくない。07年末に公認は取り消されてしまったが、ちゃんと規約に則って選挙を行い選出されている。そのころは、まだ数サークルだが被差別ではないサークルも残っていた。このことについては後で詳しく触れることになると思う。

常任というのは学内問題を何時間も話し合ったり、過激派の方々とお付き合いしなければならずそれなりに敷居が高い。サークルによっては常任を嫌がり、特定の担当者を決めず毎週違う人が参加するサークルもあった。
しかし07年は相当早い時期から多くの一年生が常任に参加していた。その中にはS君やM君のほかにも現在のサークル本部に入っていった人もいるし、全然学内政治とは関係のない自分の所属しているサークルの活動に没頭していった人もいる。どの方面の人も気持ちのいい魅力的な人が多かった。

ちなみに、一つ上の06年はこうではなかったらしい。
06入学の先輩が「オレたちの世代はほとんど人がいないのに07はたくさん人がいて、みんな仲もよくて羨ましい」と漏らしていたことがある。06というのは学館解体から外堀竣工までの空白世代のせいか文連サークル間の横のつながりの中で前面に出てくる人が確かに少なかったように思う。

そんな風に僕が「常任って楽しいところだなあ」と一年生的な平和なことを思い始めた六月にサークル本部を解体するきっかけとなる学友会再編が伝えられる。確かこれにはすぐに文化連盟は反対の姿勢を示したと思う。「これから何かすごい戦いが始まるかもしれない」とこれもまた僕は一年生的な思考でワクワクしていた。

でもそれは、今考えると田舎から出てきたばっかりの世の中のことをよく知らない僕の短絡的な考えだったと思う。当然、物事はそんなに簡単には進まなかった。


☆僕の法政大学史4 2007年

2007年6月の学友会再編の通達は各サークルの間にも大きな動揺が走った。
僕が所属していたサークルは当時、学内政治に対する関心があまり高くないサークルだったが、この時ばかりは代表が「困ったことになった。OBにも相談しないといけないかもしれない」とサークルの今後について案じていた。

文化連盟の対応は迅速で各サークルに情報が降りるとともに反対の姿勢を示した。当時の委員長が「全部のサークルが潰されるかもしれないというときに、一つのサークルを脱退させるかどうかを話している場合ではないですから」とそれまであった議題を停止してまでこの問題に取り組む姿勢を示した。

学友会再編の問題があがるまではドイツ研究会というサークルを文連から脱退させるかどうかというのが中心の議題だったと思う。ドイツ研究会というのは中核派のサークルであった。
これについては僕はまだ入りたてだったので深く関わってないし、記憶もあいまいなのだが、①ドイツ研究会がサークルとして活動が見られない②ドイツ研究会が本部室に来て本部員を恫喝するというような理由で文連から脱退させようという話だった気がする。

このドイツ研究会の問題は当時の文連本部員が提起して議題になった。ほんの数年前までは一人の本部員が加盟サークルを脱退させようとしていたというのは、今になってみると大きな驚きがある。
現在のサークル本部(CSK)は「サークルさんから声がないと動かない」「組織自体は主体性を持たない」というのが基本姿勢としてある。だから、一人の本部員が自分の意見を示したり、行動に移すということはほとんど見られない。過去と現在どちらの方がいいかについてはここでは触れないが、この数年の変化は改めて大きなものなのだと思う。

学友会再編については、結論から先に言うと本部主導による反対運動は全く起こらなかった。これは本部が明確な行動方針を示さなかったというのもあるし、各サークル員の学友会再編に対するモチベーションも原因としてあると思う。
当時一年生で学内政治の辺境にいた僕が感じた空気なのでどこまで一般的に正しいかわからないが、このころ学内の悪はすべて中核派であるという雰囲気があったように思う。

正門が閉まるのも、学館が潰されたのも、管理強化が進むのも、学友会が再編されるのも、すべて中核派が学内にいるからである、中核派がいなくなれば自由で楽しい大学が帰ってくるはずだ、そんな雰囲気があったように思う。もしかしたらドイツ研の脱退問題のあたりからそういう空気があったのかもしれない。

2011年となった今、学内での中核派の影響力は07年より確実に弱まった。中核派のいるサークル、中核派と関係のあるサークル以外は学友会が再編されても以前と変わらずに活動している。懸念とされていたサークルが潰されるという事態は起こらなかった。

しかし、今があのころより自由で素晴らしい大学になったかは僕にはわからない。仮に中核系のサークルも残るような方針をとっていた場合に今よりもいい未来があったかどうかもわからない。だからあの時の選択が正しかったのか間違っていたかということは僕には断言できない。

ただ、この学友会再編という出来事は、学生が規制や管理に対して公的な力を持って反対する組織を法政大学から消滅させてしまったことは間違いない。また07年はサークル本部の解体以外にも学生ホールの改修も行われた。それまでの法政の学生文化を支えていたシステムも建物も完全に姿を消してしまった。

それでも、人だけが残った。システムも建物もなくなったが人を消すことはできなかった。
あるいは、それまでのしがらみが全てなくなったことで個人が自由に動きやすくなった面もあったのかもしれない。
2008年、新たな動きがそれぞれの場所で起こる。


☆僕の法政大学史5 2007年11月

2008年度に向かう過程で2008年2月~3月に行われたことが重要になる。時系列が前後してしまい申し訳ないが、先に2008年2月に至るまでの僕の状況について触れておく。

2007年11月下旬以降、僕は大学からは距離をとることにした。常任にもサークルにも行かず、授業も体育くらいしか真面目に出ていなかった。

このころ大学におもしろさを全く感じられなくなっていた。第一回で大学に「何かおもしろいこと」を求めていたと書いたが、そのころの大学は僕にとってとてもつまらない場所だった。

始めは学友会再編に反対を示した文連執行部だが、このころになると毎週の常任は建設的な話し合いは何も行われない、毎週何も進展しない不毛な場所になっていた。理由の一つとして、多くのサークルが「学友会が再編されようがもうどっちでもいい」という雰囲気になってしまったことがあると思う。

多くのサークルが学友会再編によって危惧していたのは来年度以降のサークル費である。学費の中には学友会費として(確か)3300円が含まれていて、このお金が当時のサークル本部などに与えられ、そこから所属サークルに分配されていた。
そのためサークルの不安は学友会費がなくなったらサークル活動ができなくなるのではないかということが強かったのだが、このころになると来年度以降も補助金という形でお金をもらえることが明らかになっていた。このことが全体の雰囲気に影響を与えたのではないかと思う。

学友会再編以外でもそうだが、学内の何かしらの規制はその規制に関係する全ての団体・人に反対されるようなものは絶対に作られない。もしも全ての人に反対の意を示されたら規制を作ることは容易ではなくなる。だから、過半数が「それならいいかな」と妥協できる内容で発表され実施される。

補助金がある程度もらえることがわかってからも学友会再編に反対の姿勢を前面に示していたのは、08年以降の文連を形成する中核系サークル・ノンセクト系サークル(ノンセクトの定義は非常に難しいのだが、今後「反大学当局的な姿勢を示すか、行動をとる学生」をまとめてノンセクトと呼ぶ)が中心になっていた。しかし前回書いたような雰囲気と過半数の妥協もあり、議論は全く進展せず具体的な行動も行われそうになかった。

そのころ僕は所属していたサークルでも物足りなさを感じていて、サークル活動に短い大学生活の大切な時間を傾けることに疑問を感じていた。常任のつまらなさとサークルの物足りなさが重なったことで僕は大学から一度離れてみることを決めた。

自分本位かもしれないが、このころは「これからの法政の学生文化がどう変わるか」とか「来年度以降、サークル本部がどうなるのか」よりも何かもっとおもしろいことはないのかということの方がずっと重要だった。07年という年は僕は学内政治の端っこにいたし、僕が常任に出ようが出まいが何も変化はないので大学から離れることに大きな迷いはなかった。

その後11月下旬から2008年春までは大学外の活動を軸にしていたので、その間にどのような経過があったのかを僕は詳細には知らない。しかし一つの重要な局面になった2008年2月に僕は少しだけ大学に戻ることになる。2008年2月を僕は大学から少し離れた状態で迎えた。


☆僕の法政大学史6 2008年2月

2008年の2月にGLCが行われた。GLCというのはグループ・リーダーズ・キャンプの略で夏季休暇と春期休暇の年に2回、それぞれのサークルの常任担当者が集まり二泊三日で行われる合宿のことであった。GLCは学友会が再編された2008年以降は行われなくなった。

GLCは、学内問題などについて長時間かけて話し合うので辛い面もあるのだが、安価な値段で温泉旅館に泊まることができ、かなりの量のお酒や食べ物を飲み食いできるという贅沢な面も持っていた。

なぜこのようなことが出来たかというと、GLCは07年にちょうど問題になっていた学友会費から賄われていたからである。GLCの予算の大半もサークル本部に与えられた学友会費によるものだったと記憶している。要は学生が学費として支払ったお金の一部を使用して温泉旅館に泊まっていたことになる。

断りを一つ入れると、僕はGLCを否定するつもりは一切ない。ここではGLCを可能にしていた背景に学友会費の存在があったということを述べておきたいだけである。
現在の法政では学生が大学について話し合う場は皆無と言っていいし、他サークルの人と知り合う場所も少なくなった。法政大学からGLC的なもの、あるいは常任的なものが消滅してしまったことが学生の大学に対する関心を低下させた一因であると考えている。

前回書いたようにこのころ僕は全くサークル活動にも常任にも参加していなかったのだが、当時の先輩が「行っておいで」と声をかけてくれたことでGLCに行くことができた。先輩が僕に声をかけてくれたのは、僕が常任に来ている人たちと親しかったことと、「このままではサークルを辞められるかもしれない」という気持ちが多少あったのかもしれないと今になってみると思う。そのような事情から僕は久しぶりに学内の問題に戻ってきた。

この時には来年度から学友会費ではなく補助金となることは完全に諦めたようで、サークル本部を今後どうするかというのが大きな焦点だった。サークル本部は各サークルに学友会費を分配することが大きな役割の一つだったので、その役割がなくなれその体制を維持する必要性は薄くなる。

この議題については多少の意見の違いはあったのだが、最終的にはこのままの文連の形で来年度もやっていうこうという結論になった。「お金がなくなっても今まで通りにみんなで頑張ってやっていきましょう」という具合だ。

今になってみると、このときの選択は茶番、本当にひどい茶番だった。
2008年の4月の時点でこのときの決定は完全に破綻していて見る影もなくなっていた。GLCでは文連を残すことのリスク、そのことで生じるかもしれない危険性は何一つ話されはしなかった。僕たちは酒を飲み、円を作って校歌を歌い、「文連が残った。よかったよかった」と宴会を楽しんだ。
百万円以上の学友会費を使用して行われたであろう議論は2ヶ月も有効性を持たなかった。

GLCではもう一つ書いておかなければならないことがある。
最終日の夜に以前、ドイツ研究会(中核系サークル)の排除を提起した本部員に対する糾弾が行われた。


☆僕の法政大学史7 2008年2月②

ドイツ研究会の排除を画策した本部員(Tさん)への糾弾で中心となって動いたのはK先輩という古典芸能系サークルの人だった。僕はこれ以降、このK先輩という方にとてもお世話になり、僕の大学生活の中で5本の指に入るほど影響を受けることになる。

糾弾の理由は大ざっぱに言えばTさんの本部員としての姿勢・行動についてであった。以前書いたように僕はしばらく大学から離れていたので、具体的に何に対しての怒りかは知らないのだが、広い意味においてのノンセクトの怒りが表面化した。

このときはTさんを囲み、「今までの本部員として態度をどう思っているのか」と迫った。この糾弾は全体会ではなく、最後の打ち上げの最中に行われたのだが、人数で言うと10人くらいの人で囲んでいた気がする。ちなみにこのときは雪を詰め込んだ風呂おけが用意されていて、「もし反省しているならこの風呂おけの中に顔を入れてください」ということを要求した。この辺りが何というか昔の法政的なものを感じる。

これに対してTさんは反省していることを示し、風呂おけの中に顔を入れて謝った。僕はとても驚いたのだが、Tさんは風呂おけの中に何度も何度も自分の顔を叩きつけ、鼻から血が出るほどその行為を繰り返した。
K先輩及び糾弾で中心になっていた人たちが、それほどの行為を求めていたのかはわからない。糾弾が終わったあとにK先輩は少し落ち込んでいたので、そこまでは求めていなかったのではないかと思う。

糾弾の最後にTさんと中核派のUさんが和解の証として握手を交わした。
この瞬間においては、文連はお金がなくても来年度も組織として継続していき、ドイツ研究会排除問題から始まった中核派騒動も落ち着いたことになる。打ち上げも終盤に迫ってきていたころにある中核派の方が「今までで一番いいGLCだった」と口にしていたのが印象に残っている。

しかし、ここで2007年度は終わりではなかった。まだ3月が残っていた。2月のGLCで決められた決定は3月に全て覆ることになる。


☆僕の法政大学史8 2008年3月

3月に大学で何が行われたのか、僕は見ていない。

このころ僕は足を怪我して入院していたため、大学どころか世間からも離れたところにいた。

「本部員のTさんが大学との交渉で文連の公認権を取り消した」「Tさんが文連を除名された」「来年度の本部員がいない」「文連はもう潰れてしまう」などという断片的な情報は先輩からのメールやお見舞いに来てくれた他サークルの人から聞いていたのだが、僕には問題の重大さを現実感をもって捉えられずにいた。

言い方は悪いかもしれないが、遠い国の災害のニュースを見ているのに近い感覚だった。入院して大学に関わりを持てない場所にいる僕からすると「何か大変なことが起きてるみたいだな」という程度の認識しか持つことができなかった。

しかし、そこで行われていたのは遠くの国の災害などではなく、紛れもなく僕の所属する法政大学でのドロドロの学内政治だった。僕は2008年4月以降に事の重大さを身を持って知ることになる。

2007年11月下旬以降、僕は大学から離れていたが、退院したらまた大学に戻ろうと決めていた。
本筋から外れるので省いてきたが11月下旬以降、大学関連で印象的な出来事がいくつかあった。

まず自主法政祭があった。
この年、大学はキャンパス再整備ですっかりキレイになっていた。しかし「自主法政祭ですぐに汚くなります」と当時の文連委員長が言っていたように、自主法政祭でキャンパスは美しいまでにゲロやゴミや何かわからないもので汚れた。その風景を見てすごい大学だなあと感動した。

クリスマスに先輩に「新宿で鍋やってるから来い」と呼ばれ、「どこかの店でやってるのかな」と新宿に行ってみるとアルタ前で鍋をやっていた。アルタ前に着いてすぐに警察が来て四方を囲まれた。警察に囲まれるのは人生で初めてで震えるほど興奮した。

そして決め手はGLCだった。批判はあるかもしれないが、GLCの夜の宴会は僕の大学生活の中で1、2を争うほど面白く、明らかに異常な宴会だった。

短い期間だけど、大学を離れて他の場所も見て気づいた。

法政大学はとても豊かな場所だった。そしてこのころの法政大学は今よりもずっとずっと豊かだった。

何年大学にいるのかわからない人、外濠で泳ぐ人、大学に来てずっと酒を飲んでいるような人、夜しか大学に来ない人、サークルでの活動に全情熱を傾けている人…その中には過激派さえ普通にいた。

四年で大学を卒業していわゆる普通の社会人になる型抜きで大量生産されたかのような学生が多い中で、文連を中心とした円の中には異質で明らかに普通ではない人がたくさんいた。そしてその普通でない人はとても魅力的で、他の場所のどんな人よりも楽しそうに見えた。

大学には何だかよくわからない人や出来事がたくさんあって、何かが生まれそうな高揚感があった。
この場所にいればもっと楽しいことと出会えるんじゃないか、そう思って大学に戻ることを決めた。

僕の大学1年目は大学から離れた場所でこれからの大学での生活の期待感と共に終えた。


☆僕の法政大学史9 2008年4月①

08年4月に大学に戻り常任に出て、僕は愕然とした。

常任にはGLCのときとは打って変わって、「文連は解散で仕方がない、新しいサークル本部に移行しよう」という雰囲気が漂っていた。文連に来るのは2月以来の僕はなぜ雰囲気がこれほどまでに変わったのか初めは理解できなかった。

理由は07年度文連執行部がGLCの後に文連の公認権を大学との話し合いで取り消したことにあった。予算はなくても今まで通りやっていこうというGLCの雰囲気は公認権を廃止されたことでがらりと変わっていた。公認権を失った影響で教室も借りられなくなり、常任もラウンジというパブリックスペースで行っているような状況だった。そのため大学公認の新しいサークル本部に移行しようという論調がかなり強くなっていた。

何というか僕にはそのときの常任の雰囲気がとても気持ち悪かった。

執行部にしてもサークル員にしても「やれることはやったし仕方ない」とか「新しい本部ができるからいい」とか「文連は潰した方がいい」とか、残念そうな顔をして常任を文連を早く終わらせようとしていることが強く伝わってきた。

新本部を作るなら作るでいいのだが、GLCでの決定はなんだったのか。なんでこの人達は公認権取り消しという出来事で、180度意見を変えることができるのか理解できなかった。

そしてサークルの新本部を立ち上げるとなれば、被差別サークルという新本部の枠から外されるサークルもあった。
社会科学研究会や哲学研究会という中核派のいるサークルは新本部には入れないことは明白だった。社会科学研究会と哲学研究会には僕の同期の齋藤と増井がいる。齋藤や増井も枠から外されることになる。

GLC以来の復帰だったせいか、僕はほかの人の「もう文連はなくそう」という雰囲気に乗ることができなかったし、文連をなくしたいとも思えなかった。気持ち悪さとおかしさを感じる中で、この状況を変えなければと思い、常任が終わってすぐに、ノンセクト・中核派と飲みに行き、文連を残す側に回ることを決めた。

文連はその時点で次期執行部が一人も決まらず、4月下旬までに立候補して、信任される人が出なければ自然消滅するという状態だった。その日のうちに被差別系サークル以外では古芸連(古典芸能系サークルの協議体)の委員長であるOさんと僕、被差別の中から社研のUさん、齋藤が立候補を決めた。

この時は不安や戸惑いよりも、とにかく何かしなければという気持ちの方が強かったし、言い方は悪いかもしれないが、被差別サークルではない僕やOさんが動けば状況を変えることができるのではないかと思っていた。

でも、今になって振り返ると、この時の行動が正しかったのか、ベストだったのか、わからない。
もしも僕がここで文連に立候補していなかったら、あるいは別の行動を取っていたら、今よりもいい未来があったのではないか、そう思ってしまうことが今でもある。僕はこのときのことを今でも思い出してしまう。

僕はここから文連を残すということの困難に直面することになる。戦いは早速翌日から始まった。


☆僕の法政大学史10 2008年4月②

翌日、08文連本部員に立候補する旨を伝えるために本部室に向かった。本部室には07年度の本部員が四月下旬までの暫定本部員という形で常駐していた。

その時に対応した暫定本部員に「立候補したい」という旨を伝えると、表情を変えて激怒した。
「今の学内状況でそんなことをできると思うのか」「自分の所属するサークルを潰したいのか」「中核派に騙されているんじゃないのか」と声を荒げた。その方は普段はとても穏やかで、今まで怒ったところを見たことがなかったのでとても驚いた。

そのころの僕は08年度文連本部員に立候補するということが、何故07年度文連本部員に怒られなければならないのか腑に落ちないところがあったが、今になって思うと激怒した暫定本部員の方には彼なりの激怒する理由があったのだと思う。

学祭実やサークル本部などの運営に関わる人間のタイプは大きく二つに分けられる。大学の言ったことを忠実にこなし、黙々と事務作業に向かう管理型タイプと、サークルや学生の利益・楽しさの獲得や維持を目指すサークル型タイプがいる。

この時の本部界隈の人というのは管理型タイプの人が多くて、異質なものの排除に躍起になっていた。新本部の枠から外される被差別サークルというのは管理型タイプの嫌う秩序を乱す異質な存在だった。
また、サークル型タイプの先輩でも「07年までの平林総長体制が終わったから、これからは昔のような自由な法政が戻ってくるだろう」というニュアンスのことを言っている先輩は多くいた。そして、その後には「学生センターも今までとは違い、学生の話を聞いてくれるので、大学管理のサークル本部でも支障はないはずだ」と続いた。

当時の本部界隈の間には自由な法政を取り戻すためにしろ、大学の指令に従うだけにしろ、中核派や反大学系の勢力を追い出して大学管理の下に新しいサークル本部を作るべきだという強い共通認識があったのではないかと思う。
今の法政大学が平林総長以前、06年以前のような自由が戻ったのかは疑問だが、以上のような理由から目的を妨害するようなことを言う僕やOさんという人間は邪魔だったのかもしれない。しかも僕やOさんは被差別サークルではない一般サークルに所属しているので無下に扱うことはできない。

そのころの僕は執行部の方の激怒の理由はよくわからなかったのだが、その中で言われた「所属サークルを潰される」という言葉にかなり動揺した。自分の所属するサークルには学内政治に興味のない人が多数だったし、僕の行動で迷惑をかけるようなことは出来れば避けたかった。そのため、暫定本部員の激怒の後に心情的に大きく揺れた。それでも最終的に立候補を取り消さずに自分が正しいと思う方を選ぶことにした。

しかし、この数日後にOさんは立候補を取り下げることになる。その結果、被差別サークル以外の立候補者が僕だけという状態になった。Oさんの立候補取り消し以降は精神的に厳しい日々が続くことになる。


☆僕の法政大学史11 2008年4月③

古典芸能連絡会議(以下、古芸連)委員長のOさんの立候補辞退を聞いたときは正直なところ、困ったことになったなと思った。

07年までの文連は約30サークル所属していたが、その30サークルの中でも被差別と古芸連は複数のサークルで意見が固まりやすいので発言権が強い。例えば僕の所属していたサークルは常任などの話し合いに向けて他のサークルと事前に方針を決めることはないが、古芸連や被差別は意見をまとめることができる。5サークル以上のまとまった声を会議で反映させることができた。

特に古芸連は大学から差別されているわけでもなく、本部員も多数輩出しているため強い影響力を持っていた。当時の僕の主観なので間違っているかもしれないが、文連の方向性は古芸連の決定で大方決めることができた。

僕が立候補を決めたときに、古芸連委員長のOさん、被差別の齋藤、無所属の僕なら全体のバランスも取れるし、現実的な問題として文連を残せるのではないかと思っていた。だからOさんの辞退には相当参った。

また、このころから文連を残すことの危険性を感じ始めていた。

例えば齋藤と二人で学内を歩いているところを、08年に導入された通称ジャージ部隊という職員が発見し、ビデオで撮影されるということもあった。これ以降しばらく続くのだが、会ったことのない教職員が僕のことを知っていることも度々会った。

ビデオ撮影や教職員が僕のことを知っていることくらいなら今思うと大したことはない。
しかし当時は自分がなぜ撮影や知らない職員に認識されなければいけないのか全くわからなかったし、今までそのようなことをされた経験がなかったのでかなり動揺した。

自分のことに対するダメージもそうだが、このころ大学の汚い部分が見えてくるようになっていた。

06年から中核派を中心にする大量逮捕は始まっていたが、当時の僕にとってそれはどのような意味を持つことなのか理解できずにいた。「大学が理由もなく逮捕なんてするはずがないし、中核派が何か悪いことをしているのだろう」と思っていた。

しかし、ジャージ部隊は中核派が学内にいるだけでも無線で連絡をとり、学外に追い出すということを行うようになった。何か違法行為を行ったならわかるが、学内にいて会話することも許されないようになっていた。実際に自分の目の前でそのような排除が行われていたのを見たときは、排除する側に対して強い恐怖を感じた。

これらのことを通じて僕の中で大学のイメージが変わり始めていた。表面はきれいで潔白に見えるが、少し踏み込んでみると残酷で強い暴力性を持っている、そう思うようになった。

そして文連を残そうとすることで、その暴力性に自分が立ち向かうことになってしまっているのではないかと思い、とても怖かった。次第に文連を残すことが正しいことなのかどうかがわからなくなり精神的に不安定な日々が続いた。


☆僕の法政大学史12 2008年4月④

08年度本部員の信任投票一週間ほど前に古芸連のサークルは全て文連を脱退する予定だという情報が入った。

僕はこの古芸連の脱退情報を聞き、それなりに大きなショックを受けた。数ヶ月前まで「文連を残そう!」と酒を飲んで景気よく騒いでいたのに、ちょっと情勢が変わると、勝負もついていない内から安全地帯へ逃げ出す。しかも文連を残そうという動きに対して嫌悪感まで示す。ひどいことをするなあと思った。

古芸連のOさんが立候補をやめたことで一つ空いた本部員候補の空席は、後に文連三役の一人となる哲学研究会の増井が埋めた。哲学研究会も被差別サークルだったため、立候補者は僕以外は被差別サークルという状態になった。

古芸連の文連脱退騒動や一般サークルで本部員候補に取り残されたのが僕だけということもあり、僕に対する風当たりも強くなってきた。「あいつは中核派に洗脳されている」「あいつは中核派だ」と説明に困る批判を受けることもあった。

外部から批判を受けていた上に、文連支持派の中においても僕はその流れにも上手く乗れていなかった。
文連支持派は「大学と戦うしかない」という論調が主流になってきていた。08年当時の僕は今よりもさらに穏健だったので、その考えには全く乗れなかった。僕は07年のようにみんなで楽しく交流するような文連を残したいだけで、大学と戦いたくなかった。もちろん今になって考えると僕の考えはものすごく甘いのだが、07年と同様の本部を残せると思っていたし、残すことだけを目的としていた。

外部からは誹謗中傷され、内部の流れにも乗れない、おまけに大学は恐怖をちらつかせる。どうすることがベストなのかわからなくなった。自分の考えに自信が持てなくなり、他人の批判がとても怖かった。立候補を取りやめようと何度も何度も考えた。

それでも僕が残ったのは、結局のところ齋藤と増井がいたからだった。

50年以上続いたサークル本部団体の存続は大学二年生という若い齋藤と増井と僕にかかっていた。状況は誰がどう見ても劣勢。「そういう時代じゃない」「被差別抜きで新本部を作れば良い」と多くの先輩は切り捨てた。

それでも齋藤と増井は一瞬もぶれることはなかったし、自分たちの主張を曲げなかった。この二人は一年生の時からずっとそうで、自分がおかしいと思ったことは相手が大学だろうが過激派だろうが大学五年生だろうが戦いに行った。

僕は、齋藤と増井という二人の同期の美しさに憧れていたし、この二人が弾かれる新本部に魅力を感じなかった。周りからの批判が強かろうが、劣勢だろうが、自分の信念に自信を持てなくなっていようが、齋藤と増井がいたことで文連を残す側の船に残ることを決めた。
もしも一緒に立候補していたのが齋藤と増井じゃなかったら僕はもっと早く駄目になっていたのではないかと思う。

古芸連サークルの脱退、07本部員の文連を存続しようとする動きへの反発、ジャージ部隊導入による被差別サークルへの弾圧の激化…。様々な要素を含み、状況は目まぐるしく動いていた。

そして、08年文化連盟本部員の信任投票の日を迎えた。


☆僕の法政大学史13 2008年4月⑤

4月下旬、08年度文化連盟本部員信任投票が行われた。

信任投票当日、どのタイミングだったのか自信を持てないが、07年度本部員が所属サークル全てに今後も文連に残るか脱退するかを決定させた。そしてその結果として文連に残るサークルは10サークルまで減った。

07年度の文化連盟は34サークル所属なので半分以下の数である。しかし、今になって思い返すとよく10サークルも残ったと思う。
本部員立候補者は07年度、野党的立場で本部批判を繰り返していた被差別サークルの齋藤と増井。そしてどこの誰かもわからないぽっと出の無所属・弱小サークルの僕。全員2年生ということで当然本部員経験もない。本部を運営するには客観的に見て荷が重過ぎる。

10サークルが残ったのは、少なくともこの時点では07年度的文化連盟の継続したいという希望があったからだと思う。被差別以外の全サークルをひとまとめにした完全に大学管理下の新本部でなく、文化連盟的コミュニティと文化連盟的な力を大学の中に残したいという意思がまだ残っていた。

歴史に「もし」はないのだが、もしも古芸連が折れずに残っていたら状況は少し違ったのかもしれない。古芸連を入れれば15サークル。サークルの集合体としては悪くない数である。それに07年度まで本部の中心だった古芸連が残っていれば他の脱退サークルの対応も変わっていたかもしれない。

信任投票を前に僕たちはそれぞれ演説をしたのだけれど、誰がどのようなことを話したのか全く思い出せない。

立候補を決めてから数週間は、僕が大学に入ってから経験したことのない非日常だった。
07年度本部員からの激怒、ジャージ部隊による学内生活の撮影、古芸連Oさんの立候補撤回、友人からの非難、文連支持派の中での意見の違い。

色々な人が僕に意見を言い、会ったこともない人が僕に攻撃をし、考えなければいけないことも山のようにあった。信任投票の日を一つの終着点として考えていたので、ついに訪れたその日に頭の中が真っ白になっていた、

それでも信任投票の一連の流れの中で明確に思い出せることが一つだけある。

演説が終わり開票を待つまでの間、僕たちはその場を少し離れ、「お疲れ様」と互いを労った。この時に何故だか気持ちがすっと楽になった。このころストレスやプレッシャーからか僕たちはそれなりに追い詰められた状態にあった(僕で言うと常任前に嘔吐していた)。多分、僕以外の二人にも辛いことが多くあったと思う。

結果を待っている数分間の間、「結果はわからないけれどやれるところまでやった」という連帯感のようなものを僕は感じた。他の誰が何と言おうと、どんなに追い詰められようとも、僕は齋藤と増井を信じて信任投票の日まで来ることができた。僕にとってこの時の数分間は不思議な幸せがあった。もしもこれがフィクションなら僕はここで物語を終わらせてしまいたい。

投票結果は一瞬で発表された。それまでの苦労と反比例するかのようにあっという間だった。投票の結果、文化連盟は10票中7表を獲得し、継続することとなった。


☆僕の法政大学史14 2008年4月⑥

僕の中で文連が残ったことに対する喜びもあったが、戸惑いも大きなものだった。

僕は信任投票を最後に文連は解散するだろうと思っていた。07年執行部は明らかに文連を潰す方向で動いていたし、多くの先輩方も僕たちに対して冷ややかだった。だから信任投票で否決され、文連はなくなると思っていた。

文連が残ったことによる僕の中での最も大きな問題は所属サークルとの関係だった。
僕の所属サークルは僕が文連の本部員に立候補していることに対してあまりよく思っていなかった。文連を残したいと思う一方で、サークル員に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちも常にあった。

本部員はサークルから出向という形なので、もしも所属サークルに「本部員をやめろ」と言われたら僕はどうすることもできない。基本的に僕はサークルの活動自体が好きでサークルに所属しており、本部活動や学内政治は副次的なものでしかない。そのため、これから先サークル員を説得しながら文連本部員としてどこまでやっていけるのかが悩みの種としてあった。

所属サークルとの関係は僕の中で大きな問題として残ったままだったが、いずれにしても08年度文化連盟は発足した。
確か、発足の翌日だったと思う。文連主催でピロティ下で大きな宴会を開いた。ここには多くの人が参加した。公認サークルも非公認サークルも法大生でない学生も中核派もいた。僕はその宴会を見て、文連が残って本当に良かったと思った。08年度においてそのような場を学内に作り出すことが出来るのは学内に文連しか残っていなかった。

宴会の最後に僕たちはやはり円を組んで校歌を歌った。
何だか法政大学の学内政治は、集まって酒を飲んで校歌を歌うことで動いているような気もする。もちろん感情だけで動くのはあまり良くないのだが、そういう場がなくなってしまうよりは絶対にいいと僕は思う。このころはまだ愛校心や学内の異業種の人との交流がかすかにだが残っていた。

翌日あたりに齋藤と増井の三人で、今後について話し合った。
今後への不安はもちろん大きかったけれど、それでも三人で協力していけば何とかやっていけるのではないか、そう思えた。そのころの僕は悩みもあったけれど、同時に希望を抱くことも出来た。

しかし、ゴールデンウィークを目前として僕は大学に呼びだされる。僕の文連本部員としての日々は長く続かなかった。


☆僕の法政大学史15 2008年4月⑦

ゴールデンウィークの始まる前日にサークルの顧問の先生から僕の携帯に電話が来た。
僕はそれまでサークルの顧問の先生に会ったこともなく、もちろん連絡がくるのも初めてだったのでとても驚いた。

僕は齋藤にも増井にも話すことなく、僕一人の判断で顧問の先生の元へと向かった。翌日からサークル合宿があり、僕はそこでサークル員に文連の本部員をしていることについて説明することになっていた。そのため、顧問の先生が僕に何か話があるならば会っておいた方がいいという判断だった。

この時はサークル顧問の先生と話している途中に当時の法政大学学生センター長も加わり、顧問の先生と学生センター長二人に「文連本部員は辞めたほうがいい」「文連に残ると新しいサークル本部に移ることができないので、サークルに対して補助金が与えられない」という趣旨のことを話された。法政大学学生センター長まで出てきたことは、完全に僕の想像の域を超えていて、僕ごときの行動が何故これほど大ごとになっているのか理解できない部分もあった。

後でこの時のことをノンセクトの法大OBに話すと、OBの方はこんな予想を示した。
大学側は早い段階でノンセクトと和平を結びたかったのではないかと。そのために僕をダシにしてノンセクト側のトップ(その時でいうと恐らく齋藤)を呼んでもらい、話をつけたかった。
しかし、当時の僕は今よりもさらに学内政治に疎い人間なので、誰にも相談もせずに一人で行ってしまった。

今となっては大学側の意図がどこにあったのかはわからないが、結果として僕は大きな抵抗もなく屈服した。

サークルの中では僕が文連の本部員をしている事に対してあまり良く思われていなかったし、補助金が下りなくなったら更に大きな迷惑をかけてしまうことになることはわかっていた。これ以上はサークル員を説得できないだろうと思った。

また、後から聞いた話ではサークルの同期の間で、僕が文連本部員に残るならサークルをやめるという議題をサークル会議にかけようとしていたらしい。そのような議題があがったら僕は、本部員をできなくなる。どちらにしろ僕は本部員を長く続けることはできなかった。

そして、正直に言ってこの話により安堵した部分さえあった。

突然に訪れた終わりのない非日常に僕は不安になっていた。
できることなら、ジャージ部隊に撮影されずに学生生活をおくりたいし、友達に中核派扱いされるのも苦しかったし、サークル員に迷惑もかけたくないし、大学とも戦いたくなかった。

僕は今よりももっと弱くて、齋藤や増井のように自分の意思を貫き通すことも、先輩方のように現状を認めて大学に対して降参することもできなかった。おかしいことにおかしいと言えても、ちょっとでも自分の身に危険が迫ったり、周辺の人間関係が壊れそうになると、簡単に口を閉ざしてしまうような弱い人間だった。

結局、文連本部員としての日々は二週間程度で終わることになり、何も出来ないままに僕の08年の4月は終わった。


☆僕の法政大学史16 2008年5月中旬

僕が文連を脱退した数日後、ある先輩に呼び出された。

呼び出された場所へ向かうと、そこには文連に残らなかったノンセクト的学生のほとんどが集まっていた。その中には五年生や六年生もいて、当時二年の僕からしたら話すだけでも恐れ多いような大御所がずらりと並んでいた。

この時の会議の趣旨としては、「このままではサークル新本部(CSK)は当局寄りの学生で構成されるただの当局の御用組織になってしまう。こちら側からも人を送り込んでサークルを守らなければならない」というものだった。

この辺りの話はややこしいのだが、07年までサークル本部は3つあり(旧三本部)、学団連という団体が旧三本部解体騒動時に最も早く大学に屈し、大学の言いなりの「当局の犬」のようなイメージを一部から持たれていた。そして早い段階で本部解体を決めた分だけCSKには学団連から多くの人が入り、学団連色の強いサークル本部になるのではないかと懸念されていた。

このときの会議では「CSKに人を送り込む」という意見への賛同が大多数を占めたものの、後日CSKに入ったのは三名だけだった。

恐らくこのころは数日後に戦いを開始する文化連盟を除くと、ノンセクトの体力がほとんど残っていなかった。当然のことだが、いちいち大学に噛み付くよりも学生側の権利の喪失があろうとも、大学に従うかもしくは関わらない方が楽である。04年の学生会館解体に続く07年サークル三本部解体で僕の上の代の先輩たちは、当局と戦って何かを守ったり勝ち取るということにリアリティを持てなかったのではないかと思う。

そして、僕もこの時の先輩からの「サークル新本部に入ってくれ」という誘いを断った。
理由としては齋藤や増井を枠から外して作られる組織に対する違和感が大きく、「文連解体のゴタゴタは忘れて新本部で頑張ろう」というところにあまり乗れなかった。先輩の言うとおり、サークル新本部が大学の御用組織になることに危機感はあったけれど、そんな簡単に気持ちを切り替えることができなかった。

仮に08年にCSKが文連の「暴力」を大学との交渉に利用できるくらいの能力を持っていたら、法大は今とは違う状況にあったはずである。

事実として、07年以降学内で大きな規制や学生にとって不利な変化がなされていないのは文化連盟が学内で力を行使していた08年だけで、08年当時いくつかの団体や思惑が絡まりあった微妙な力関係は確実にあった。しかし、当時の学生の中にはその微妙な力関係を操れる人は誰もいなかった。

08年5月中旬、サークル新本部は大学寄りの組織になることが決定的になり、これと同時に文連以外のノンセクト学生のほとんどは大学と戦うことをやめた。そして、数日後から文化連盟は戦いを開始した。


☆僕の法政大学史17 2008年5月下旬

2008年5月下旬、文連が闘争を開始した。

この時は、今まで誰も出来なかった大学への抗議をしてくれたことが嬉しくもあり、同時に悲しくもあった。齋藤と増井がもう戻れないところまでいってしまったような気がした。当時の法大は今よりもずっと張り詰めていて、大学に異議を申し立てること、逆らうことは、重罪であるかのような状況だった。

僕の文連脱退騒動時に、何度か学生センター職員と話すことがあり、一度だけ「このままでは文連は暴れるから、放っておかない方がいい」と伝えたことがある。対応した職員は「そんなことできるはずがない」という感じで、僕の意見を笑って聞き流した。学生からいかに学生センターが嫌われているか、憎まれているかをわかっていなかった。想像力の欠如があり、法大の状況の中でそれぞれの学生がどれほど悩んでいるかを全く理解していなかった。

文連が闘争を開始した数日後の夜に増井がサークルの部室をたずねてきた。
当時の法大は逮捕者が続出していて確かその時点述べ80人以上が逮捕されていたのではないかと思う。僕は齋藤や増井が明日にでも逮捕されるのではないかと心配で、増井に何と声をかければいいのかわからなかった。

しかし、増井の顔には全く悲壮感のようなものはなく「大学のパワーバランスを変える」「法大を2006年3月14日以前の状態に戻さなければならない」と明るく語っていた。増井の表情は今までに見たことがないほど生き生きとしていた。

当時の僕にはなぜ増井がこんなに明るくいられるのかわからなかったけれど、今なら少しだけわかる。
09年以降、僕は法大でいくつかの闘争を行うことになるのだが、闘争のある瞬間に訪れる感情は他の何事にも変えられない高揚感を与えてくれる。多分、この時の増井は09年以降に僕が感じる高揚感と同じようなものを感じていたのではないかと思う。

しかし、08年の僕はその高揚感を理解することが出来ず、僕の心には齋藤や増井に対する心配、あるいは大学に対する恐怖しかなかった。08年、文連は闘争を開始し、僕はそれを不安そうに見ているだけだった。


☆僕の法政大学史18 2009年4月23日

2009年4月23日夕方ごろに、増井君に「鍋を食べよう」と呼び出された。
翌日には、主催者発表で1500人が集まることとなる大規模なデモが予定されていた。

文連として戦いを始めて約一年、このころには斉藤君も、恩田さんも、増井君も、大学から処分されたことにより、学内に入ることすらできなくなっていた。僕はその過程を何かをするということもなく、ただ黙って見ていた。友人や先輩が次々と処分されていくのは、とても苦しかったけれど、当時の僕には何もすることができなかった。

僕は増井君に呼ばれた鍋会に行こうかどうか悩んだ。
このころ僕は増井君たちに会うことに、申し訳なさや葛藤、あるいは大学からマークされるのではないかという恐怖など、さまざまな感情があった。しかし、僕はその鍋会に行くことを決めた。
翌日のデモで、みんなが逮捕されてしまうのではないかと思ったことが理由だった(実際に恩田さんを含め6名のデモ参加者が逮捕されてしまう)。明日もしかしたら友人が逮捕されてしまうかもしれない、その前に会っておかなければいけないような気がした。

心の中で友人の逮捕を予想していたものの、明日何が起ころうとも僕は大学の「中」で、「外」で行われるデモ・抗議行動を今までと同じようにただ見ているのだけなのだろうと思っていた。
僕にとって、大学に抗議する側と抗議しない(できない)側の境界線は大きく、僕は明確に後者の人間だった。それは、友人・先輩が処分・逮捕されようと、どんなに心の中で憤ることがあろうと、超えることがない一線だった。

法政大学というのはそれくらいに恐怖の象徴であった。
入構チェック、学内での尾行、明らかにカタギではない職員、外濠公園にたむろしている公安警察、処分と逮捕。大学に抗うことで予想されるその全てが怖かった。

増井君に呼ばれた鍋会には、明日のデモに参加するという人とデモに参加しない法大生や知り合いなどが集っていた。
僕はデモに参加する全ての人に「危険なことはやめた方がいい」と訴えたかったけれど、みんなの顔はとても明るいものだった。恐怖のかけらすら僕には感じられず、むしろ何か楽しい祭りの前のような雰囲気があった。

文連として闘争を始めてすぐの頃に、増井君が訪ねて来たとき、その明るさにとても驚いたが、それから約一年が経ち、処分され学内に入ることが出来なくなり、さらに明日逮捕されるかもしれないというのに、以前と同じように不安や迷いのようなものは全く感じられなかった。そして僕は以前と同じように、不安でいるだけだった。

2009年4月23日、僕はその祭りを、止めることも参加することも出来ず、中途半端な位置に立ち続けていた。


☆僕の法政大学史19 2009年4月24日

2009年4月24日のデモでは6名の逮捕者が出た。

僕は始め、大学の中から抗議行動の様子を見ていた。
職員さんたちはその様子を見ようとする学生に対して「近づくな」「下がれ」と繰り返し、とにかく文連・全学連の近くに行けないようにしていた。キャンパスの至るところに職員さんやコーンが配置され、学内中を移動してもその抗議行動の様子を見ることすら困難な状況が作られていた。4月24日に限らず、このころはデモの度に学内は過剰な警備が敷かれていた。

僕は自分の目で何が行われているのかを見るためにキャンパスの外に出て、正門前周辺に移動した。そこには既に僕の友人たちが何人か来ていた。この時に先輩の恩田さんも逮捕されたということを聞いた。

正門前には数え切れないほどの警察・公安、そしてデモの参加者がいた。

デモ参加者は逮捕者が出たことでさらに怒りを増し、攻撃的な姿勢を強めていた。警察官も警告を繰り返し、高圧的に参加者を威圧していた。
その時に僕は、「これは自分の感覚とは遠い世界の出来事なんだ」と感じた。

僕は1年生の時からの先輩であった恩田さんの逮捕を聞き、足が震え、涙が出た。怒りよりも悲しさが先立っていた。僕には、警察に抗議することも、大学に抗議することもできなかった。ただ、これ以上誰も逮捕されないでほしいと思った。

僕は集団の中から齋藤君と増井君を探した。
二人は全く怯むことなく、中心で戦っていた。二人が無事なことに安心しつつ、なぜこれほどまでに弾圧されても戦うことができるのかが、理解することができなかった。「もう危険なことはやめてほしい」と心の中で願った。

デモに出発する前に、「菅谷君もデモに行こう」と声をかけられた。
その時の僕は、デモに参加したいという気持ちはなく、むしろみんなにデモに行ってほしくないと思っていた。でもそれを上手く言葉にすることができなかった。僕が気持ちを説明できないままでいると、デモ隊は出発していった。

僕はこの4月24日のデモの後に、自分は逮捕や処分覚悟の戦いに踏み込めないと以前よりも強く思うようになった。
しばらくは、大学で講義を受け、バイトに行き、サークル活動に勤しみ、デートをして、普通の大学生活を過ごしたいと思い、実際にそうするように努めていた。時々増井くんが訪ねてきて話を聞いたり、オルグのメールが来たりということもあったけれど、それは僕の中で以前よりもさらに遠いところにあった。

そんな生活が3週間ほど続いた2009年5月15日、暴処法弾圧が始まり、僕は今まで以上に強く戦いの中へと巻き込まれることになった。


☆僕の法政大学史20 2009年5月15日

2009年5月15日、この日から翌16日にかけて11名が逮捕される暴処法弾圧が起こった。

この日僕は一限から大学に来て講義を受けていた。
僕が異常に気づいたのは一限終了後の休み時間からで、僕の後ろをずっと職員さんがつけてきていることに気づいた。このときはまだ、僕の元には誰かが逮捕されたというような情報は届いていなかったので、文連の周辺人物である僕への尾行については「法政大学ならやりそうなことだな」くらいにしか思わなかった。今になって思うとこの感覚からして既におかしいのだが、当時の学内情勢から僕はあまりおかしさを感じることができなかった。

昼休み辺りからズートロ先輩や齋藤君たちの逮捕、増井君は連絡がつかない(逮捕されたのではないか)という情報が届き始めた。

僕はこの時に先輩・友人の逮捕を人生で始めて経験した。
いつかはこの時が来るだろうと思っていたけれど、実際に経験してみると想像以上に苦しかった。逮捕覚悟で戦っている友人を止めることも一緒に戦うこともできないまま終わってしまった。自分は本当にこれでよかったのだろうかと考えた。

そんなことを考えながら法大の門を出ると、すぐに公安警察が僕の元に来て「話を聞きたいから着いてきてくれ」と言われた。今思えば、ここで断るべきだったのけれど、当時僕は自分がこのようなことに巻き込まれるという意識はなく、事情聴取が任意であるということすら知らなかった。何かがおかしいとは感じつつも抵抗することもなくただ着いていった。

法大前を出て公安警察に連れて行かれたのが17時くらいで、事情聴取が終了したのが夜の1時前後だったと思う。僕は初めは抵抗していたが、検事の簡単な脅し一つで屈服して、自分にわかることを答えてしまった。

事情聴取が終わり解放された後、僕は今まで感じたことがないほど深く恐怖し、動揺し、絶望していた。

先輩や友人が逮捕されてしまうことを悲しんでいたが、それと同時に僕はその先輩や友人が不利になるかもしれない情報を「敵」に話してしまうような人間だった。簡単な脅しで友人を売ってしまうような薄情な自分に嫌悪した。
また、僕はそれまで闘争の当事者であるという意識はなかったけれど、事情聴取を通して意識が変わった。どこかで公安警察が僕を監視しているかもしれないという今までの人生で感じたことがない種類の恐怖も感じた。齋藤君や増井君はこんな強大な恐怖に立ち向かっていたのかと驚いた。獄中の友人たちはどうしているのだろうかと、強い罪悪感とともに、考えた。

友人・先輩の逮捕が悲しく、薄情な自分に嫌悪し、公安警察・権力は怖かった。
たった一日で僕の目に見える世界が大きく変わることになった。2009年5月15日はこのようにして終わった。


☆僕の法政大学史21 2009年5月16日~6月上旬①

暴処法で逮捕された十一名が起訴か不起訴か決定する五月十五日からの二十三日間には多くの動きがあった。この二十三日間というのは、さまざまな人が関わったので、それぞれの視点や行動が存在すると思う。

これまでにも記した通り、当時僕自身は学生運動をしていたわけではなかった。
運動的な知識や経験もないままに、いきなり中心部へ投げ入れられてしまうような格好になってしまった。
そのため、この二十三日間を僕の当時の経験のみで振り返ると、非常に断片的な捉えかたになり、全体像、もしくはディテールを描ききることはできないと思う。補足や他者の意見を入れなければ、臨場感や「何があったのか」を伝えきれないだろう。それでもこれは「僕の法政大学史」なので他者の視点を入れずに、当時の「僕」が見たこと、経験したこと、思ったことを綴っていきたいと思う。

暴処法弾圧の翌日、法政大学に行くと、それまで人が一人入れるくらいしか開いてなかった正門が全開になっていた。サークルの同期は「なんて白々しいんだ」と憤っていたけれど、僕はそれについて何の感慨もわいてこなかった。

僕にとって法政大学の景色はたった一日で激変した。しばらくの間は大学に行くというそれだけのことがとても怖かった。構内では尾行がついているのではないかと思い、何度も後ろを確認した。
また以前からなのか暴処法弾圧以降なのからかはわからないけれど、意識し始めてみたことで、時折入構チェックもされていることにも気づいた。このことに当時僕は精神的にかなりショックを受けた。

暴処法弾圧の翌日、僕はサークルの最も信頼している後輩に大学を出て靖国神社で会い、昨日の出来事について話し、「これから何かあるかもしれないから」と手紙を何通か預けた。後輩は「仮に先輩が逮捕されたら先輩の担当している紙面はどうすればいいですか」とすぐに事務的な話を始めた。僕は後輩の対応に少し感動した。この後輩を信じてよかったと思い、何かあってもサークルは大丈夫だろうと思った。

サークルに対する心配事はかなり弱まったけれど、自分自身はこれからどうなるのだろうという不安は大きかった。僕はこのころ救援ノートも読んだことがなかったので、これから何があるのか全くわからなかった。

その中で暴処法弾圧の数日後に、救援活動が行われていることを知り、僕はその場に加わった。

暴処法弾圧に対する救援活動は、非常に大きな弾圧だったということもあり、支援者の方がたくさんいた。その中で僕に対しても「大変な経験をしたね」と多くの人が励ましてくれた。僕はそのような言葉にとても励まされたけれど、心の中の恐怖や罪悪感が取り払われることはなかった。

それでも、支援者の方が多くいることがわかったとき、はっきり言うと僕はとても安心した。

僕は、これだけ多くの「大人」が動けば、今の法政大学の明らかに異常な状態は是正されるのではないかと思った。くだらない弾圧や、学内規制も「大人」の呼びかけにより、全て解決するのではないかと考えた。このころ僕はまだ「大人」には自分たちは持っていない大きな力をもっているのではないかと思っていた。

しかし、「大人」の人が今回の弾圧や法大の現状に対して出来るのは支援のみで、現状を劇的に変えるようなことはできないということが徐々にわかってきた。

僕はこれより以前、サークルのOBとの交流会で、後輩が新聞社に勤めるOBに対して「今の法政大学は本当にひどいんです。何とかしてください」と懇願していたことを思い出した。そのOBはとても困った顔をしていた。

僕は、OBが何に対して困った顔をしていたのかわからなかったのだが、それがなぜなのかがわかった。後輩が神様を見るような目で見ていた新聞社のOBは、神様でもなく、特別な力があるわけでもなく、大学を何とかするような力を持っているわけではなかった。

僕はこのことを通じて、誰か、強いヒーローのような人が問題を解決してくれるのではないかというそれまでの考え方をやめる事にした。自分自身が行動をして、変えていかなければならないということをこのときから少しずつ考えるようになった。


☆僕の法政大学史22 2009年5月16日~6月上旬②

5月15日に取調べが終わったあとも、公安警察は何度か僕に接触してきた。

朝起きて家の外に出ると「やあ、菅谷君」と公安警察がいるということもあった。僕は当時、何でこんなことに巻き込まれているのだろうという不思議な気持ちと、これからどうなってしまうのだろうという恐怖を強く持っていた。精神的に不安定になり、体調を崩し、病院に行ったところ胃腸炎と診断された。

公安警察は僕への接触の中で、「検事が君に会いたいと言っているからもう一度来てくれ」と持ちかけた。その理由は前回の確認をしたいということだった。

このことを救援の人達に話すと、「行かない方がいい」とアドバイスされた。何度も何度も「行かない方がいい」と僕のことを説得してくれた。
大学の友人は、「君がもう一度検事の元へ行っても許すのが友情なのではないか」「学生運動しているわけではないから、仕方がないよ」と僕に話した。

もう一度検事の元へ行くか行かないかで、僕の気持ちは大きく揺れた。
僕は家では公安警察、大学では入構チェックや尾行を気にしなければならないという生活をやめたかった。それが前回の確認で終わるならば、それでいいのではないかと思った(もう一度会いに行けば終わるという保障はなかったのだけど、当時の僕はそう考えた)。それに、僕の知っていることはもう何もないのだし、前回以上のことは出来ないだろうと考えた。

悩んだ末に、僕はもう一度検事に会いに行くことにした。

しかし、検事に会いにいくと前回の確認はほとんど行われず、「裁判長が待っているから裁判所で話してくれ」ということを言われた。僕の知らない間に公判前証人尋問というものが行われることになっていた。

僕はこのとき本当に悔しかった。騙されたと思った。救援の人達の言葉を聞いておくべきだったと後悔した。
検事の目の前で「何でこんなことをするんですか」と泣いた。でも、僕がどんなにここで泣いても、既に検事側の陣地につれて来られているので、どうしようもないことはわかっていた。覆すことのできない力の差があった。

僕は前回の取調べで行われたビデオを見て「これは○○さんに見えます」ということを、今度は裁判所でやった。自分が以前以上に軽薄な薄汚い人間であるように思えた。それと同時に、一刻も早くこの場所から解放されたいという気持ちも持っていた。そのため、僕はできるだけ淡々と答えた。

公判前証人尋問が終わり解放された後、携帯電話が返ってきた。誰かに連絡しようと思えばできたのだけど、誰に連絡すればいいのかわからなかった。
僕はしばらく一人で歩き、獄中の齋藤君と増井君のことを考えた。


☆僕の法政大学史23 2009年6月~10月

勾留満期の6月5日、増井君をはじめとする5名が起訴された。
僕はその日の起訴・不起訴の決定を自宅のパソコンでインターネットで見ていた。

公判前証人尋問を受けてしまった後は、ほとんど救援活動にも関わらなくなっていった。
忠告を聞かずにもう一度検事に会いに行ってしまったことに対する申し訳なさや、裏切ってしまったという後ろめたさ、みんなに大きな迷惑をかけてしまったとい罪悪感が僕の中にあった。

起訴された人たちが留置所から拘置所へ移送された後は、時間を作って何度か差し入れに行った。この建物の中に増井君や斉藤がいる、それでも絶対に会うことはできないと思うと、何だか不思議な気がした。一体どういう気持ちで過ごしているのだろうとロビーや帰りの駅までの道で考えた。

逮捕・起訴の騒動の後、法政大学では自主法政祭において規制がかけられた。それまで自由だった飲酒に対して時間・度数に制限がかかることになった。2008年は文連が闘争していたことで設けられなかったであろう学内規制が少しずつ敷かれるようになっていった。これ以前から文連の主要メンバーは学内に入れなくなっていたけれど、当局側の動きに変化が出たのは恐らく逮捕・起訴以降だと思う。結局、学祭における飲酒規制は大きな反対行動も起こらないまま、7月の全学説明会を通過した。僕も何となくその様子を眺めているだけだった。

夏休みくらいに、検事から電話が入り、裁判で証言をしてほしいということを頼まれた。
「君ならやってくれるよね」というそんな感じだった。僕は、この人たちの頭の中は一体どうなっているのだろうと、恐怖した。
救援に連絡を取って、対応方法を教わって、次に検事から電話が来たときに断った。この時は「国民としてその態度は正しいのか」「弁護士に騙されているんじゃないか」ということを問い詰められた。正直なところ、国民としての態度や弁護士が誰であるとか、何が正しいのかということは僕には関係なかった。ただ単にもう運動に関わりたくなかった。途中で電話を切ってしまおうかとも思ったけれど「とにかく行かない」ということを言い続けて、一時間くらいで終了した。

夏から秋にかけては運動方面だけに限らず、何をしていても憂鬱な気持ちがどこかにあった。
「飲酒規制打倒のために戦おう」とか「自主法政祭でノンセクトで企画をやろう」という呼びかけに対しても、どうにも力が入らなかった。そもそも何で飲酒規制に対して僕が戦わないといけないのか、そもそも僕はノンセクトなのだろうかという気持ちもあった。

2009年の夏から秋にかけては特に何をするということもなかった。どこから来たのかわからない憂鬱と、弾圧の経験からくる恐怖と、友人を売ってしまったという自己嫌悪を抱えながら過ごした。


☆僕の法政大学史24 2009年12月

2009年12月、情勢が動いた。

大学側が来年度から学内を全面禁酒にするという飲酒規制を設けようとしているという情報が入った。法政大学では、学生にとって都合の悪い規制は決まって後期末に通達されるのだが、それが2009年にもあった。

このときの衝撃というのは人によっては07年のサークル本部解体以上のものがあったのではないかと思う。
当時の法政大学は構内のセブンイレブンでお酒が売られていて、講義が終わった後に一杯、サークルの会議が終わった後に学内でお酒を飲みながら交流というのが一般的だった。普通の文章系サークルや音系サークルなど、ゼミの終わった学生も学内でお酒を飲んで交流というのは当たり前のことで、それは学内の文化・風景の一つであった。
そのため学生との事前交渉も何もなしに来年度から酒を飲むなと言われてもとても納得できるものではなかった

このとき僕はすぐに抗議行動を行うことを決めた。

抗議行動を行う動機・抗議行動を応援する人の理由として一般的には、一方的に決められようとしている飲酒規制および、飲酒規制に象徴される大学側の一貫した学生軽視の姿勢に対する不信感が当然あったと思う。しかし、僕の中ではそれとは別の感情もあった。

暴処法弾圧から半年以上がたち、落ち着いて考えてみる中で、次は自分がやらなければならないという使命感のようなものが芽生えてきていた。学内には、もう文連はいない、中核派もほとんど学内に入れない。自分たちの周辺以外で大学の規制に対して抗議活動を行うような集団も恐らくもういない。そのため自分が主体性を持って抗議活動をしなければならないと思った。
それが斉藤君・増井君とともに文連を残し、逮捕されるまで何をすることもなく静観し続け、最終的には友人たちを検事へと売ってしまった自分の責任であり、また贖罪であるような気がした。

このときの抗議行動に主体的に関わったのは5名であった。
人数は少数、状況は劣勢、法大において大学側の決定が覆った経験は近年にはなし。抗議行動を始める前の見通しは決して明るくなかった。学内には正体不明のヤクザ職員がいまだ闊歩しており、抗議行動が大学によって排除されるのではないかという予測も事前には立てていた。

しかし、振り返ってみると、このときの闘争は法大の中では極めてまれな学生側が勝つ闘争になった。飲酒規制は延期され、2010年度は学内で飲酒できる環境は何一つ規制がかけられることがないまま守られることとなった。


☆僕の法政大学史25 2009年12月②

2009年の飲酒闘争は僕と一つ上の浅井君を中心に行われた。
浅井君は学生ホールが改修されたときのホール協の委員長で(参考)、大学に対する怒り・恨みは強く「キャンパスで焼身してでも規制を食い止める」と意気込んでいた。

僕はこれ以降、さまざまな人と組んでいろいろとやることになるのだけど、浅井君とは恐らく最もフィーリングが近かったと思う。規制の情報が学生に届いたのが12月上旬で、そこからすぐに方針と行動を決めて・スムーズに準備を進め、12月中旬には抗議活動を始めることができた。アイデアも豊富で、度胸もあり、一緒にやっていて多くのことを学べた。
浅井君は今では東京を離れてしまったけれど、また何かを一緒にやれればと今でも時々考える。

2009年の方針はシンプルで、学生との話し合いもなく勝手にキャンパスのルールを作ろうとしている明らかな大学側の傲慢を批判し、そこから来年度学内全面禁酒の見直しを主張した。具体的な行動としては、お酒をふるまいながら署名集めを行うこととなった。書名集めとした理由は、文連とは別の軸のやり方を作らなければならないという思いもあった。

署名集めを始める以前は、不安な気持ちを持っていた。
今でこそ、僕は学内で署名集めをするくらい何でもないと思っているけれど、はっきり言って当時はものすごく怖かった。ヤクザ職員に排除、抗議行動を理由とした処分もあるのではないかと考えた。
冷静に考えれば書名集めくらいで処分はないのはわかるのだが、それまでに見てきた法大の風景からその可能性を完全に捨てきることはできなかった。

署名集めを始める前夜、決起飲みが開かれた。
僕はその夜、ヤクザ職員にボコボコにされ排除されている様子を想像した。
それが、これから数時間後には現実になるかもしれないと思うと、心が震えた。不安ももちろんあったけれど、それ以上に快楽的な興奮があった。過去に感じたことがないほどの、自分が生きているという実感があった。
斉藤君や増井君が激しい弾圧を受けながらも、他の大学に服従してしまった学生よりも生き生きとしていた理由がわかったような気がした。

使い古されたような表現になってしまうけれど、このときに初めて友人・仲間と共に自身の身体を行使して、戦うこと、抗議することの美しさに触れた。それは僕にとっては幸せなことだった。これ以降少しずつ、「他に戦う人がいないから自分がやらないといけない」というどちらかというと後ろ向きな動機だけでなく、前向きな動機も持てるようになっていった。


☆僕の法政大学史26 2010年1月

2010年1月大学が突然に飲酒規制の延期を発表した。

飲酒規制の具体的な規制内容を大学側がすでに記していたこと、学生センターへ抗議文を出しに行った際の「飲酒規制は今年度中に絶対に設ける」という当時の学生センター長の発言などから、あまり分のいい戦いではないと思っていたので、この時の決定にはとても驚いた。あまりの奇跡的な勝利にOBは神楽坂の路地に入った高そうな料亭にまで連れて行ってくれた。規制の延期という法大においてありえないことが起こってしまった。

「なぜ法大が決定していた規制を延期したのか」の分析はいくつかある。
僕もこの時「なぜ勝てたのか」については色々と考えたけれど、時が経ち、他の負けた闘争などと比較できるようになり、09年度飲酒闘争が勝てた理由について自分なりの確信をもった結論を出せるようになった。

要は大学はこの時、文連・全学連と新たに出てきた学内の勢力がもしも手を組んだら面倒な事態が生じてしまうと考えたのだと思う。

2009年12月末、斉藤君・増井君をはじめ5月以降拘置所に拘留されていた文連・全学連の中心メンバーが保釈されていた。大学は2008年~09年にかけて文連・全学連に相当苦しめられていたし、その歴史を繰り返すことを嫌がったのではないかと僕は思う。

僕たちが行った抗議行動は2004年の学館解体以降とほぼ同じレベル・もしくは劣っているくらいであった。そのため文連・全学連中心メンバーの保釈という他の闘争とは異なる条件がなければ学館解体以降の他の歴史と同じように敗北していた可能性は高いのではないかと思う。もちろん僕たちの署名活動や抗議文の提出などがなければ飲酒規制は延期されなかっただろうけれど、それだけでは勝つことはできなかった。08年~09年度までの積み重ねがあったからこそ、規制を延期することができたのだろうと僕は思っている。

初めての闘争に勝利し、斉藤君や増井君も保釈されたわけだけれど、僕は彼らに会いに行くという気持ちになれなかった。また増井君に関しては「僕を含め数名に会ってはならない」という保釈条件がついていたので、仮に僕が会おうと思っても会うことはできないという状態にあった。

僕の中にはまだ後ろめたさや申し訳なさがあった。
それは僕が斉藤君・増井君がいなくなった法大において戦ったとか、その闘争で勝てたとかそういう事は関係のなかった。会ったとしても、謝ればいいのか、それで許されるのか、自分はそれで満足なのか、飲酒闘争の報告をしたからといってどうなるのか、気持ちの整理がつかなかった。

友人の逮捕・起訴、取り調べ、初めての闘争と人生が変わるような経験の連続だった2009年度はこのようにして終えた。


☆僕の法政大学史27 2010年①

2010年は過去とは別種類のつらさに悩まされた。
2008年や2009年にあったような謎のジャージ職員や公安に追いかけられたりというつらさを感じることはなかったけれど、2010年には別の難しさがあった。08年・09年の瞬間的な尖ったつらさではなく、鈍いつらさがずっと残るような憂鬱が続いた。

2010年、僕は飲酒規制延期の延長から飲酒評議会という組織の委員長になった。
この団体は形式としては学生・教職員の意見をまとめて学内の飲酒ルールをつくるということを目的とした大学に存在を認められた公的な組織であった。2009年に飲酒規制を延期した理由が「確かに規制を設けるにあたって学生の声を聞かないのは問題だ」ということだったので、その理由を受けて大学主導の形で作られた。
この年は委員長となったことで大学の教職員と会話することが多くなった。昨年まで大学から散々ひどいことをされていたのに、突然委員長となり一定の力を認められたことに不思議な感覚があった。戦いに勝つというのはこういうことなんだろうと思った。

しかし、このとき委員長となったことは完全に失敗だった。
僕はこのころ、法大において管理強化が進んでいるのはサークル本部や学祭実の交渉が下手なせいだと思っていた。そのため自分が委員長をやって甘い誘惑や下手な脅しに屈することなく交渉を行えば飲酒環境を守ることができるのではないかと考えていた。

自分でやってみてわかったのだが、法大において学生側の交渉が上手いか下手かということは問題の決定に対して影響力はなかった。大学の決定権は強大で、木の棒を持って大砲相手に戦っているようなものだった。木の棒の扱いがどんなに上手くても大砲には勝つことはできないのと同様に、学生側の交渉力というものは大学側からすると全く問題ではなかった。
自分が委員長として行っている交渉が絶望的なものであり、大学側の「学生と話しあった」という規制を施行するためのアリバイ作りに使われるのではないかという不安は早い段階から持っていた。しかし、そこからどうすればいいのかがわからなかった。結局自分に課された業務に取り組むしかなかった。

この年のつらさの一つとして昨年共に飲酒闘争を回した浅井君が卒業してしまったこともあった。
先輩は数人残っていたけれど、どういう方針で臨むかというような戦略的なことを考えるタイプではなく、僕一人で方針を考えることが多くなった。また後輩との関係にも悩んだ。僕は後輩に、立て看を作ったり、ビラを貼ったりということは頼めるのだけど、これまでの学生生活の記憶から弾圧が考えられる局面に後輩を巻き込むことができなかった。結果として、この年に起こりそうになった飲酒規制以外の闘争も上手く盛り上げられることがなく終わってしまった。

2010年、僕は自分の行っていることに関して不安と孤独を感じることも時折あった。
体を張って弾圧する職員・口を使って学生を騙す教員をお金を使うことでいくらでも補充できる大学にうらやましさも感じた。
そのような大学に対して、どうすれば勝てるのか、本当に勝てることができるのかわからなくなった。


僕の法政大学史28 2010年②

僕が飲酒規制問題に取り組んでいる一方で、齋藤君や増井君は2010年に入ってからも逮捕前と同様に文化連盟として中核派と共に闘争を継続していた。

増井君や齋藤君が戦っているのは、法政大学全体のあり方、思想信条の自由を侵すような中核派に対する弾圧という非常に大きなもので、僕が力を注いでいるのは学内で酒が飲めるか飲めないかという学内の局所的な場所での戦いだった。

そのためか、保釈条件が解けて会うことができるようになった後も、考え方でどこかかみ合わない面が出てくるようになった。

中核派や文連に対する大学の弾圧は相変わらずひどいものであったが、それでも僕は以前と変わらずそこで逮捕覚悟で一緒に戦うという気持ちはなかった。それに僕にとっては、中核派に対する弾圧よりも、自分の目に映る後輩たちに学内の飲酒環境を残せるかどうかの方が重要な問題だった。

むしろ僕は飲酒規制におけるルール作りにおいて、中核派や文連を除いて完全な一般学生の問題として扱ったほうが、上手くいく可能性は高いとさえ思っていた。そのため意識的に中核派・文連の戦いと自分がやっていることを完全に別個のものとしているところもあった。部分的には文連・中核派排除の方向に僕の行動は動いていた。

このことは感情的に複雑な面もあった。
そもそも僕が昨年に飲酒闘争を始めた発端は増井君や齋藤君がいなくなったキャンパスで次は自分が戦わなければならないという使命感からだった。それなのに保釈されて出てきた後も一緒に戦うということはなかった。逮捕前とは違い、僕も傍観者から戦う側に移ったはずなのに、以前よりも距離を感じるようなときもあった。

齋藤君や増井君とは別の方向に進み、昨年共に戦った浅井君は卒業してしまい、後輩も巻き込むことができないという状況にときには強い孤独を感じた。一体自分が何のために戦っているのかわからなくなることもあったし、戦えば戦うほど一人になっていくような感覚があった。

それでも、例えほぼ一人でルール案を作り当局と交渉することになろうとも、心の底から信頼できる人がいなくとも、戦いの分が悪いものであろうとも、自分の持ち場を離れるということは考えなかった。自分一人になろうと、今ある状況の中でベストを尽くそうと思った。

2010年は、当局が出した飲酒ルールのたたき台と、学生教職員から集められた飲酒問題のアンケートを読み込んで、どうすればキャンパスで飲酒できる環境を残せるかを考えて、ルール案を作るという日々が続いた。


☆僕の法政大学史29 2010年③

2010年泥沼の中をただ突き進んでいくような日々の中で、来年以降につながる一つの光明となる出来事があった。2010年の11月23日勤労感謝の日に行った「就活どうにかしろデモ」である。

就活デモ系の発端は2010年の前年、2009年勤労感謝の日に北海道で「就活くたばれデモ」という名称で行われた。
「就活くたばれデモ」はネットの流れに乗って、すぐに全国的な話題になった。2009年、暴処法弾圧で絶望のどん底にいた僕は、就活くたばれデモのニュースに「北海道にはすごい学生がいるんだな」と大きな勇気をもらった。

「就活どうにかしろデモ」はその就活デモの2010年東京版である。
就活デモは全国に飛び火し、2010年勤労感謝の日には北海道、関西、愛媛の3箇所で行われることが既に決定していた。しかし、全国的な動きに反して東京では誰も就活デモを呼びかける人が出ていなかった。そのような経緯から東京でも就活デモを行える人を探すという動きがあり、僕が全国の流れに呼応して共に就活デモ@東京を行うメンバーを募るという流れになった。これには北海道の就活デモの主催者で創始者でもある大瀧君と多少の面識ができていたという背景もある。

自分が呼びかけ人になってでも就活デモを東京でやろうと思った大きな理由の一つに就職活動に対する問題意識の他に、法政大学内での閉塞感があった。
もともと僕は法政大学の学生弾圧・学内規制を食い止めなければいけないという志を持って行動を始めたはずなのに、大学の中で飲酒できるかできないかという個別の問題に約一年という歳月を費やしてしまっていて、しかもその戦いも劣勢という状態だった。そのため、このまま同じような行動をとっていては永遠に撤退戦が続くだろうという危機感があった。別の行動の必要性を感じていて、就活デモを行えば、今まではなかった新たな可能性が開けるのではないかと考えた。

呼びかけを始めてすぐに、就活デモを共にやってくれるというメンバーは現れ始めた。
僕はそれまでの大学生活のほとんどを法大内で法大生と一緒に過ごしてきたので、他大学の学生との交流でそれまでは出会うことのなかった価値観や考え方に触れることで良い影響を受けたと思う。

「就活どうにかしろデモ」においては、代表を務めた本間君とこれ以降行動を共にすることが多くなる白石君の二人が特に印象深い。

本間君は、とにかく何でも思いついたことはまずやってみる、できることは全てやるという行動力が魅力的だった。法大でのそれまでの経験では、何かを行うには、どのような弾圧が考えられるか、中核派はどのような反応をするか、どこのサークルか何人くらい協力してくれるかなど、ある程度各方面の反応やリスクの予測を事前に立てるというプロセスがあった。そういった予測を立てた上で行動をするかどうかを決定するものだと思っていたので、本間君の即決即断の行動力は一緒にやっていてとても気持ちよかったし、それまでの考えすぎていた自分を改めることができた。

白石君は、普通の人とは「これはやっても大丈夫」「「これをやったらまずい」というラインが違っていた。そのため白石君の行動はときに危ういこともあるのだけど、法大では大量の逮捕者と処分者を出している影響もあってか「これをやったらまずい」というラインをかなり手前に設定しているので、白石君の行動から自分の中のラインの引き方を見直すことができた。
また法大においては、これもまた逮捕と処分のせいなのだろうが、何かに反対している人に対して無条件に嫌悪感を示すということがよく見られ、僕もその影響を強く受けていた。その中で白石君は誰の意見であろうとまずは聞いて、内容を自分で考えた上で反対か賛成かを示すという姿勢がしっかりしていた。これも法大の中ではなかなか見られない態度なので、強い影響を受けた。

本間君や白石君など、就活デモを一緒に行ってくれるという人は、一定数集まったけれど、スタートが遅かったことで、初めての会議からデモまでの時間は20日を切っていた。
ほぼ全員が初対面という状況で、2010年就活デモの準備はかなりの急ピッチで進められた。


☆僕の法政大学史30 2010年④

2010年の就活どうにかしろデモの準備は、ほぼ全員が初対面、それまでにデモを企画した人がいない、残り期間が短いという状況を考慮すると、かなり理想的に準備を進められたのではないかと思う。
確固とした信頼関係が出来ていない中で、デモコースの下見、デモ申請、プラカード作り、ネット情宣、街宣など、みんな精力的に動き回った。始めて出会った仲間と一つのものを作り上げる、その過程には大きな充実感があった。準備に協力してくれるという学生、当日参加すると言ってくれる学生も増えていった。

また、就活どうにかしろデモまでの2週間強の間に、取材の申し込みや、ブログのアクセスも日に日に増加していった。このことによって、運営メンバーの中でもデモ当日が近づくにつれてどんどんと勢いづいていったと思う。(参考 就活どうにかしろデモ実行委員会ブログ)

ただ、法大の現状を経験した身としては、そのような外部的な要因をモチベーションにしてしまうことに危機感もあった。

2010年の就活どうにかしろデモに限らず、就活デモは行動がすぐに数値や取材として表れるという見返りがある。この見返りによってメンバーの中には自分たちの活動に自信や勇気を持つことができた人もいたのではないかと思う。実際に僕もそういう面があったと思う。

しかし、一般的には大抵の社会運動は大手マスコミからは無視されるものであるし、また社会なんてそんな簡単に変わるものではない。就活デモではそういった困難さを知る前にスポットライトを浴びることになってしまう。スポーツでも文化活動でも大半がそうだと思うのだが、世間から評価されるには下積みの時間を必要とする。2010年の時点では上手く言葉にすることが出来なかったのだが、就活デモにおけるマスコミを中心とした注目は非常に危ういものだと思った。
この点に関しては、もっと注意深く見ておくべきだったと、後悔のような気持ちを持つときもある。

心の中に一抹の不安を抱きながらも、就活どうにかしろデモの準備は進められ、デモ当日を迎えた。就活どうにかしろデモの日は僕の大学生活の中でも本当にすばらしい一日として印象に残っている。僕は今でもアルタ前を通るたびにこの日のことを時々思い出す。

雨という予報もあった中、デモの時間には気持ちよく晴れ上がり、情宣を始めるとすぐに参加するという人が周囲に集まってきた。
僕たちは、新宿の街を歩き、運営・参加者含めて次々に拡声器を使ってアピールした。
デモ終了後も多くの人が解散地の公園に残って何時間も交流した。

その日は新宿から高円寺に移って終電の近くまで話をし、人がまばらになるのを見て僕も帰ることにした。
店を出る際に本間君と「お疲れ様」と握手をして別れた。たった数週間の付き合いなのに、随分と長い付き合いのように感じられた。
電車に乗り、家に帰り、数週間のことを思い返して、達成感と寂しさを感じた。終ってしまったんだなと思った。僕は就活どうにかしろデモの準備の中で久しく感じていなかった楽しさを感じていた。

その頃の僕は法政大学の中では、自分は齋藤君・増井君と違う方向を向いているんだという孤独感があった。孤独感というのは辛いもので、自分が何をしたいのか、何をしようとしているのか見失いそうになることもあった。そういった活動においての孤独感は就活どうにかしろデモの運営においては感じることはなかった。同じ目標を持って一緒に活動できる仲間が多くいるということの素晴らしさは心に響いた。それに就活デモの中では法大独特の「大学と戦っても勝てない」「何をしても無駄だ」といった活動における絶望的な雰囲気もなかった。

就活どうにかしろデモを終えた時点で、法大の外での人間関係も広まり、いくつか「こういう事をしてはどうだろう」というようなお誘いも受けていた。このとき、その気になれば無限地獄のような法政大学の現状から逃れようと思えば逃れることもできていたのだと思う。

それでも僕は自分がもともといた場所に戻ろうと思った。

就活どうにかしろデモのメンバーの大半は、その後院内集会を行うための準備を始めるのだが、そこに留まり続けようとは考えなかった。そのことに関しては、全く悩みはなかった。就活どうにかしろデモ実行委員会は僕がいなくてもまわり続けるけれど、法政大学の中では僕にしかできないこと、僕がやらなければならなことが残っていると思った。

就活どうにかしろデモを終えて、僕は法政大学に戻ることにした。そこでは当然のように悲惨な現状が待ち構えていた


☆僕の法政大学史31 2010年⑤

就活どうにかしろデモが終ったのが11月23日で、その後僕が大学に戻ってすぐに法政大学ではもはやお決まりとなっている後期末ぎりぎりの新たな学内規制が発表された(法政大学では、学生からの抗議を弱めるためか、大きな規制はいつも後期末ぎりぎりに発表される)。

2010年の内容は、昨年度から大学が狙っていた学内全面禁酒だった。

2010年の飲酒を巡るそれまでの情勢としては、僕が代表を務めた飲酒評議会で飲酒ルール案を作り、サークル本部と連携を取り形式上としては公認サークル・非公認サークル全てが了承したという形で学生飲酒ルール案を9月半ばに大学側に提出していた。

ここで大学側に提出したものは、場所や時間、人数制限を設けた形での学内で飲酒できる環境を残そうというものだった。こちら側としては、多少の規制は止む無し、その上で出来るだけ今までと変わらない環境で飲酒できるようにするという方針を立て、集められた批判に一つずつ答えながら時間をかけてルール案を作った(資料)。

しかし、大学側は学生側の努力や願いを問答無用でばっさりと切り捨てて学内全面禁酒を決定した。しかも学生飲酒ルール案を提出後、一度も学生側と協議を設けないままの一方的な決定であった。

もちろん、このことはある程度事前に予想できた結果ではあった。
しかし、僕は心の中ではまだ大学職員たちを信頼していた部分もあり、また個人的に僕たちを応援してくれているような態度を取ってくれる職員さんもいたので、事前協議すら設けられなかったことにはショックを受けた。
さらには大学が配っている冊子には「この間のルール制定に辺り尽力してくれた学生に感謝します」というような内容も書いてあり、大きな屈辱を感じた。この大学の大人たちの頭の中は一体どうなっているのだろうと純粋に疑問に思った。

この大学のやり方に対しては、僕はもちろんのこと、他の学生も憤っていた。
大学側は来年度以降の全面禁酒についての説明会を12月22日(冬期休暇まで残り2日)と設定していた。ここで大学に対する積もり積もった怒りをぶつけることにした。
残された準備期間は短かったが、説明会での抗議に向けて準備を開始した。


☆僕の法政大学史32 2010年⑥

来年度以降の学内全面禁酒施行の説明会は12月22日に設定されていた。

当時の法政大学において、大学側が規制に対する説明会を開催するのは稀なことで、説明会開催の背景にはそれまでの交渉の影響が一定あったのだと思う。だから、ここを叩くことは重要でかつ、全面禁酒打破の可能性をつなぐ唯一の可能性だと思った。

この時は飲酒規制に反対の意思がある先輩・同期・後輩の30人以上に飲酒規制説明会で抗議しようと直接声をかけ、そこから各所属サークルのサークル員への協力もお願いした。この飲酒説明会での反対の呼びかけは、思っていた以上に精神を消耗するものだった。

人が30人いれば当然のことながら30通りの反応があり、その時々で質問や批判、不安に答えることが必要になる。それももちろん大変なことなのだが、何よりも困難さを高めた最大の要因は、少なくない数の人から「戦っても何も変わらない」「抗議したら処分されるでは」というような反応が返ってきたことだった。

就活デモでの高揚により忘れていたけれど、法政大学というのはこういう大学だった。
法大内では依然として抗うことに対して冷ややかであり、また拒絶的な態度があった。戦っても無駄、戦ったら処分されるというような意識が多くの学生に植え付けられていた。
僕は、ここに白石君や本間君がいればと、心の中で少し寂しく思った。「一方的な規制はおかしい」「学生センター長にウイスキーをかけてやろう」というような景気のいい事を言って、励ましたり、笑わしてくれるだろうと考えた。

この辺りの気持ちの揺れをさらに強くさせるものとして、就活どうにかしろデモ実行委員会のデモ後の動きもあった。
僕が飲酒規制説明会反対の呼びかけを進めているころ、就活どうにかしろデモを共に行ったメンバーは院内集会の準備に取り掛かろうとしていた。こういった動きに対して、就活デモ実としての活動にはきっちりとけじめをつけて法大に戻ったはずなのに、心の中には多少気持ちがひかれる面もあった。

全大学生の就職問題を改善しようとする活動と、一つの大学の学内で飲酒できるか否かという行動。
前者は志を共にする仲間たちがいて、後者はそれなりの寂しさとむなしさを伴うものだった。

他に選択肢が現れ、しかもそれが自分のいる場所よりも魅力的に見える中で、僕を最後の最後で支え、法政大学に踏みとどまらせていたのは、意地のようなものだったと思う。

僕の中での法政大学は、齋藤君・増井君という友人が人生をかけてぶつかった場所だった。
そのことは僕の中で大きな意味を持っていた。例え共に戦うことがなく、戦いの方向に違いがあろうとも、僕は僕なりのやり方で、全力で戦いに臨まなければならないと思った。中途半端な形で離れるのは失礼であり、ここで逃げ出すようならば今後の人生で何をやっても大きいことはできないだろうと考えた。

精神的に負荷を強いられながらも、僕は僕にできる限りの準備をした。
そして、12月22日飲酒規制説明会を迎えた。


☆僕の法政大学史33 2010年⑦

12月22日、後の学内全面禁酒を決定付けることとなる飲酒規制説明会が行われた。
結果を見ると、12月22日の飲酒説明会は完全に学生側の敗北であった。そしてこの日、負けてしまったことにより、市ヶ谷キャンパスは現在にも続く学内全面禁酒の状態へとなってしまっている。

12月22日に関しては素晴らしい思い出、悔しい思い出の双方があるのだが、その両方について簡潔に記したいと思う。

飲酒説明会が始まる一時間ほど前から、有志でヘリオスに集まり、景気づけにと酒を飲み始めた(規制前なので当時は学内で日常的に飲酒できた)。
この日は、ついに来た飲酒説明会の日に皆いつもより高揚していたのではないかと思う。僕も、説明会前に酔い過ぎないようにとあまり多くの量は飲めなかったけれど、これから始まるであろう騒動に向けてワクワクが止まらなかった。いつもの事ながら、事を起こす前の時間というのは、本当に幸せだった。

12・22日の飲酒説明会粉砕闘争では、できる限りの飲酒規制反対する学生に呼びかけた上で、以下のような方針を立てていた。


学生センター職員による来年度からの飲酒規制の説明が始まる。

学生センター職員の発言途中に僕が挙手し、「飲酒規制に反対します」と発言する。

事前に声をかけた人たちが後に続き、野次や怒号を飛ばす。

その流れのまま説明会を押し切る。


短い準備時間とは言え何度も話し合い、頭の中でも何度もイメージしてきた方針である。
しかし、実際に飲酒説明会が始まり、宮崎学生センター長(当時)が規制内容について話しを始めた後は気が気でなかった。
どのタイミングで挙手して発言すべきか、自分が発言した後に野次が続くのか、学生センター側はどのような対応を取るのか…さまざまなことが頭をよぎった。緊張で足がガクガクと震えた。
恐らくは数分ほど、学生センター側の説明の様子を伺い、タイミングを見計らって、挙手し、「飲酒規制に反対します」と発言した。
そして、少し間をおいて「そうだ!」「ふざけるな!」「一方的にルールを決めるな」「酒を飲ませろ」と抗議・野次が次から次へと続いた。この瞬間というのは、本当に嬉しかった。

この時は積年の恨み爆発という感じで、今までの大学の一方的な規制に対する怒りをぶつけることができたのではないかと思う。その抗議・野次の勢いにより、30分ほど学生センター側の説明を中断させることに成功した。
「なぜいつも学生にとって都合の悪い規制は後期末に発表するのか」「そもそもこの規制はどこで決まったのか」「学生生活に影響の出るルールを勝手に決めるな」「飲酒規制は認められない」と、この間の不当性を余すところなく指摘した。

しかし、抗議している最中に、僕の中では困ったことになったなという感覚があった。

学生センター職員は思ったよりも動じずに対応しており、全体の怒りを静めようとしていた。そしてそれは着実に効果が現れていた。説明会終了させるまでは2時間以上の時間を残していた。この状態を維持して最後まで押し切るのは難しいなと思った。

とにかくできる限りの批判や抗議の言葉を並べて時間を稼いでいる間も、学生センター職員はほぼ動じることなく「とりあえず説明を聞いてくれ」「抗議・批判は後で聞く」と繰り返していた。

ここからどのように全体の場を運ぶべきか、大きな迷いが生じた。

反省として、この辺りはこちらの計画が完全に稚拙だったと思う。
説明会以前の準備段階では「学生はこんなに怒ってるんだぞ」ということを示せば何とかなるだろうという程度の認識しか持っていなかった。

法大においては、規制の説明会自体が久しぶりのことであり、またその場で抗議行動をするということは僕が入学して以降一度もなく、また直近の先輩でも経験したという人はいなかった。一方、職員側は蓄積があり、過去と比べたときに僕たちが行ったレベルの抗議には慣れていたのではないかと思う。向こうが怒りで応答してくれたり、言葉を詰まらせたりなどしてくれれば良かったのだろうけれど、そういった様子は全くなかった。

敗因の一つとして、蓄積がなかったことを上げることができると思う。
しかし、それは準備しようと思えばできるものだった。問題は、蓄積がないということに気づかなかったことにある。現実的にどうやって説明会を「粉砕」するのか、その認識が僕たちは甘すぎた。

しばらくの膠着状態が続いた後に、学生センターに対して学内全面禁酒の説明の時間を与えてしまった。
この時を持って、学生に対して来年度以降の全面禁酒について説明し、了承を得たというアリバイを向こうに与えてしまった。
今になって当時の状況を振り返っても、どんなに粘ったとしても同じ結果になっていただろうとは思う。結局、事前準備の時点で12月22日の勝敗は決まっていた。

この日の後に、何度か学生との話し合いの場を設けられたが、後は敗戦処理といった感じだった。学生側の体制も整わず、どうすることもできなかった。

2009年度に勝利で終った飲酒闘争は、2010年度にひっくり返されてしまった。
近年の法大で数多く設けられている規制の一つと見れば、そう見ることもできるだろうとは思う。町田移転、学館解体、旧三本部解体などと比べたときに、事象としては飲酒規制というのは小さいもしれない。

しかし、このようにして2011年度以降の学内全面禁酒のキャンパスが作られてしまった。
2010年度は、来年度以降の学内全面禁酒という規制の決定を持って終了した。


☆僕の法政大学史34 2011年①

2011年、法政大学は東日本大震災の影響により大学開講を一ヶ月延期した。
3.11以降、社会が大きく揺れている中で、大学閉鎖期間中に僕たちの目下の課題としてあったのは、昨年敗北に終った学内全面禁酒への反撃、飲酒闘争をどのように行うかであった。

2011年度の前半は、今よりもさらに震災の影響や原発の問題というのは大きなものだった。そのようなときに、大学で酒を飲めるか否かという問題に主点を置く事はどうなのだろうかという指摘も当然あった。また僕自身もそういった気持ちが全くなかったわけではなかった。

このときにもっと効果的な方法として、1ヵ月間大学を閉鎖していた期間の学費までなぜ徴収されているのかとか、あるいは原発問題や震災を絡めた視野からの批判といった、別の問題の立て方はいくらでも立てることができたと思う。
それでもそれまで取り組んできた飲酒規制という問題を蔑ろにして別の問題を前面にだすことはできなかったし、また飲酒規制及びその他の規制、弾圧の背景にある大学の一貫した学生軽視、経営優先の姿勢というのは、原発といった大きな問題が発生したからといって、見過ごしていいものではないという気持ちがあった。

2011年の学内全面禁酒に関する抗議行動では、大きく三度の行動を行うことになる。
これらの行動に関しては5月開講以前に行動の計画を立て終えていた。どの時期に何をやるか、それはどういった効果を目的にしているのかなど大まかなことをあらかじめ決めた上で、計画をなぞるように日々を進めていくことになった。

2011年の飲酒闘争の目標としては大きく二点あった。
一つ目は当然のことながら学内全面禁酒という飲酒規制自体の見直しであり、二点目は今後も規制などが行われる際に反対する勢力が現れる可能性を増加させるという火種の継続・拡大を置いた。

二点目に関しては、2011年僕は大学5年目に入っており、この年が5カ年計画の最後の年だった。僕の学生生活はいつの間にか残りわずかとなっており、後継者がいない、闘争の終焉という視点は、そのときの課題の一つであり、後々の大きな悩みとなった(最も、この後もう一年留年することになるのだけど)。

大学が閉鎖されていた期間の他の動きとしては、お花見がある。

2011年、3・11の関係により、石原都知事のもと花見自粛令が出されていた。
これに対して、「黙って下を向いていれば災難は過ぎ去るのか、世の中は良くなるのか。なぜ都知事の自粛に従わなければならないのか」と例年以上に多くの人に呼びかけて、盛大にお花見をした。

このお花見には、齋藤君・増井君といった文連勢、CSK(サークル支援機構)勢など、法大の中において一定の力を持っている人が一堂に会していた。

なかなかない機会だったので、この時に「一般学生・CSK・飲酒闘争・文連・中核派、全てが仲良くということは無理だろうけれど、せめて隣の団体とは連絡を取り合えるようにしよう。そういう体制を作っていかないと法大で何をやっても勝てない」ということを少し話した。

学内全面禁酒の決定もあり、このころから僕は、大学当局に対して話し合いのみで解決しようという考えは捨て去っていた。どんなに理論立てで話しても、向こうの矛盾を突いても、譲歩をして妥協案を示しても、大学運営陣というのは自分たちの計画の遂行以外の事は頭にないのだろうなということを自分の経験から結論出した。そのことは、最終的な決定権は常に当局側にあり、当局の良心は学生生活よりも大学運営に置かれていることを思うと、当然といえば当然のことだった。

結果として、身体性を行使することの必要性を感じ、文連・全学連に対する考え方に変化が出てきていた。その上で交渉権を持っているサークル本部がどのような態度であるかも重要性も感じていた。
そのような考えのもと2011年時の微妙な生態系の総合力で覆すことはできないだろうかと、漠然と理想を描いた。

キャンパスは閉鎖され、花見自粛通達が出される中、学内全面禁酒が施行された法政大学のすぐ傍で、飲酒しながらお花見。そこに通常はキャンパスの中と外でわけられている面々がそろっている。なかなか幸先の良いスタートなのではないかと思った。

しかし、当然のことながら、飲酒闘争の計画にしろ、お花見のときに話したことにしろ、思い通りに進まないことは多々でてくることになる。
それでも、振り返って見たときに2011年は僕の学生生活で一番幸せなときであった。
飲酒闘争の準備と充電期間と震災と混乱を経て、2011年が始まった。


☆僕の法政大学史35 2011年②

5月27日、満を持して飲酒闘争を開始した。

この日は、ゲリラ的に(といっても学生側では、それまでの期間ずっと呼びかけていた)キャンパス中央で飲酒と拡声器を使った演説を行った。

キャンパスで演説と飲酒を始めると、計算通りに弾圧職員・学生センター職員がぞろぞろと現れてくれた。
この瞬間というのは正直に言って、ものすごい快楽があった。
1年間、長い時間をかけて多くの人から意見を聞き、資料を作り、CSKとの交渉の後に飲酒ルール案を全サークル承認という形で提出したのに、一瞬で無に返されたことへの怒り、その全てが体中から溢れた。

この間の不正義と向き合う局面であった。
僕は覚悟を決めて昨年一年間かけて交渉してきた相手に対して、出来る限りの弾劾をした。

僕は基本的に戦いというのは虚しいものなので出来ることなら、関わりたくないし、行いたくないと、昔から今でもずっと思っている。

当然のことながら、僕と対峙している職員さんには全面禁酒施行の極々一部しか責任がないこと、また、職員の多くは業務内および個々人の道徳の範囲内で学生のことを真剣に考えている善良な人間であることもわかっていた。

それでも、昨年度飲酒ルールの制定に当たり、中立的な発言を散々繰り返し、そのための努力を約束しておきながら最終的には全面禁酒を施行する態度は中立ではなく、上の権力へと大きく傾いていることは明らかだった。

「我々も努力した」「もっと厳しいルールになることも考えられた」と言い訳を並べる姿は汚い大人のそれだった。
残念なことだけれども、教職員の多くは、最終的には弾圧側の陣営に属する人間だった。

現に彼らは、その瞬間においても、弾圧部隊が周りの何もしていない学生まで撮影しているというのに、学生を守ろうとは一瞬たりともしなかった。彼らはたった僕一人の拡声器を使っての演説と飲酒という行為を、まるで大きな危険性を孕んでいるかのように取り囲んで止めさせようとするだけだった。

その行動から、彼らが守ろうとしているものが、学生でないことは明白であった。
そういった態度が全ての弾圧につながっているし、一部分を担っている。従順にしているだけだと次々と大事なものが奪われてしまう。叩くときにはしっかりと叩く必要があった。戦いというのは、そういうものなのだと思うようになった。

もちろん5.27の行動は、学生センター職員への憂さ晴らしのために行ったのではない。その行動には明確な目的があった。

その目的は大きく二つで

①最初にルールを大きく破った行動を大々的にしておくことで、以降何か行動を起こしたときに許容される、弾圧されない範囲を広げておく。
②キャンパス利用申請や立て看板申請などの合法的な抗議ルートを通りやすい状態にしておく。

という効果を狙った。

当然、学内飲酒も拡声器の演説もルール違反なので、5.27での行動に対して呼び出し・処分の可能性もある。しかし、昨年まで大学の土壌に乗って一年間かけて交渉を続けていたという背景を向こうも重々知っているので、処分される可能性は低いだろうと考えた。言い方は悪いかもしれないが、その点は向こう側の「善意」が働くだろうと判断した。

また、可能性は低いまでも処分されても別にいいという心構えもあった。

過去に交渉を務めたOBの中には、「学館があったころは良かった」「昔の法政は…」と弾圧の責任を感じていない、弾圧の責任の所在を置き去りにして昔を美化する人が一定数いる。僕はそういった人たちの態度はあまり好ましくないと思っていて、それに対して感情論として自分は誠実でありたいと思ったし、また法大学内政治の将来への投資として今後そのような人が交渉役となる可能性を少しでも減らしたいと思った。

学内全面禁酒は交渉において代表を務めた僕の責任であり、その責任を明確にし、そのための行動を取る必要があった。自分の時代に作られて、かつ自分に責任のある規制を「大学時代の思い出」として流すことは出来なかった。

予想した通り、処分・呼び出しもなく、以降の立て看・集会申請も問題なく通すことができた。長い準備期間を要しただけあって5.27はほぼ計画通りに終えることが出来た。

この日から、前期終了までの約二ヶ月間の行動を開始した。


☆僕の法政大学史36 2011年③

5月27日の抗議行動は大成功に終ったけれど、今後に対しては懸念もあった。

抗議後に他大から支援に来てくれていたSから「法大生の中で『がんばろう』と言っているのは浅井さん(石川から有給を取って支援に来てくれていた)だけで、後の人は『がんばって』と言っていることが気になった」という違和感を伝えられた。簡単な説明をすることでその場を済ませたけれど、このSの指摘は僕の中では引っかかるところがあった。

このころから当局側に「菅谷君が真剣なのはわかるけれど、他の人はそうでもない」「遊びでふざけてやっている」といったことを言うようになっていた。

学内全面禁酒の戦いでは、昨年から引き続いて長い時間をかけたり、ある程度の覚悟を持って体を張れるのは学籍者で僕だけであった。浅井君卒業後にずっと悩んでいたこの問題に対して、飲酒闘争においてはこの体制でやる他ないという結論を出していた。

元来、法大の闘争では個々のサークルが土台としてあり、共に抗議してくれる人というのはアウトドア系だったり文筆系のサークルに属しており、闘争は本業ではない。むしろ大学に抗議したらサークルに迷惑をかけるのではないかという思いも少なからず持っており、サークル活動と闘争はかけ離れたところにある。現に僕も闘争を行うに当たって所属サークルに迷惑をかけないようにと、籍を抜いてから活動していた。

このような闘争に対する敷居の高さもそれまでの学生生活から知っていたし、また僕自身としても他の誰かが弾圧されることを避けたいという気持ちがあった。だから、これは数を引き出す戦いなのだと思った。一方的な全面禁酒に反対している学生の数を弾圧されないギリギリのレベルで可視化すること、それが僕の役割であると思った。

このような方針に対して当局側の「他の人は真剣に抗議していない」という主張は非常に危険なものであった。その主張は学内全面禁酒に抗議している人数を僕一人と見なすこともできる。
飲酒闘争に限らず、当局側というのは強大な力をもっており、かつ常に、例外なく卑怯である。しかも、その卑怯さ洗練されていて非常に良くできている。

「真剣」な抗議活動をやったら学生側の抗議陣形は広がらず、孤立したところを「授業妨害」だのと理由をつけられて潰されてしまう。潰されないような抗議活動=飲酒闘争を展開して、ギリギリのところまできてくれている法大生は「真剣じゃない」と切り捨てようとしている。さらには「真剣」で戦う意思も強い他大生に対しては「学外者」や「中核派」と有無を言わせぬレッテル貼りをすることで無効化することができる、ひどい時には学外に追い出し、学内への入構を妨げたりもする。

これを当局側はお金(学費)を使っていくらでも弾圧職員を補充できる状態を維持しつつ行う。学生側は9割9分、圧倒的な劣勢の戦いになる。

こういった状況から、大学での何かしらの規制に対する戦いというのは、かなり厳しい状態にあるように思えた。どうすれば打開できるのだろうかと考えたたけれど、解決策はなかなか浮かばなかった。


☆僕の法政大学史37 2011年④

7月中旬、飲酒闘争として連日キャンパスで抗議集会を行った。

ここでは集会自体には大きな効果は期待しておらず、別の目的を立てていた。
連日の抗議集会の最中にサークル本部団体であるCSKが、飲酒ルール(学内全面禁酒)の撤回を要求する文書を大学に提出した。

この瞬間を、僕たちは前期が開講する前から計画していた。
身体を使って不満や怒りを数として可視化させる飲酒闘争と、大学に認められた公的な力を持つ組織による複合的な大学への追及。2011年前期の闘争はここを目標に進めてきていた。

多少、裏話を添えると、この時はCSKだけでなく学祭実にも抗議文を提出するように交渉していたが断られた。学祭実も話に乗ればさらに全学的に学内全面禁酒の不当性を浮かび上がらせることができたので、残念ではあった。
しかし、この点に関しては学祭実の非難ではなく、CSKの尽力を賞賛すべきだと思う。学祭実・CSKともに200以上の団体を統括する立場であり、学内事情を考慮したときに、大学に対して抗議文や要請文1枚を出すこと、要求を突きつけることは非常に敷居の高いことになってしまっていた。そもそもこの事自体がおかしいと思うのだけど、こういった前提を認めた上でしか学内で物事を進めることはできなかった。

いずれにせよ、飲酒闘争は正念場と迎えていた。

昨年度飲酒ルールの交渉団体である飲酒評議会が「ルールの決め方は正統ではない」と訴えて抗議活動を行い、形式としては200以上の登録団体の総意として飲酒ルールの見直しを求める文書が提出された。飲酒ルールの矛盾、学生側の怒りを示す証拠としては、これ以上ないものを用意した。

もちろん法政大学でのことなので、これでルールがひっくり返ったり、あるいは学生側に対して不備を謝るということはまずないだろうという予測は立てていた。それでも、ここでの攻勢によって何かしらの活路が開けることを期待していた。

しかし、大学からの返答は予測を遥かに超えて厳しいものだった
「学生の声を反映させた形での見直しはない」、それが大学の回答だった。今までの活動を無意味だと思わせる強固な大学の姿勢が示された。


☆僕の法政大学史38 2011年⑤

2011年7月中旬、「学生の声を反映させた形での(ルールの)見直しはない」という大学の根底にある姿勢が示された。

僕は09年の12月の厳しい寒さの中での署名集めから始まり、2010年丸一年かけての飲酒ルール制定の交渉、そして2011年全面禁酒になった後の抗議行動と、大学生活の約1年半を学内の飲酒規制問題に費やしてきた。方針や苦境に悩みながらも、自分なりに誠心誠意この問題と向き合ってきた。しかしそれは圧倒的な優位な立場にある大学の前では、「学生の声を反映させた形での(ルールの)見直しはない」という言葉で片付けられるようなものでしかなかった。

ある意味では1年半かけて行ってきた事が無意味だったと判明したのだけれど、その瞬間は怒りも悲しみもわかなかった。失敗してしまったという反省と、他の学生に対する申し訳なさ、そして「どうすれば大学に勝てるのだろう」という疑問を持った。

抗議集会を終えたのが7月16日。
そこから再度何か行動を起こす気力・体力は残っておらず、そのまま2011年の前期を終えた。

そして夏休みを挟んで、僕は少しずつ法政大学から離れていくことになる。
今になって結果を見たときに、僕は2011年前期を終えて母校から距離を取ったということになるのだが、当時はそういった意識はなく、少しずつそうなってしまった。その契機は夏休みに行った「ゆとり首脳会談」というユーストリーム放送にあった。

飲酒闘争をきっかけにして、早稲田大学の勝手に集会グループ、後に東洋大学で東洋鍋などを行う東洋鍋子さんたちと知り合った。特にこのころ早稲田大学の勝手に集会グループは勢いがあり、それなりの規模で行動を起こしていた。また、明治学院大学では昨年度の内に知り合った白石君らが学内規制に反対する抗議行動を行っており、法大多摩キャンパスでは学内デモが行われたという情報も入ってきていた。
それまでは首都圏では法政大学だけ異次元にいるかのような認識があったが、流れが少し変わってきているように感じられた。

このような状況をおもしろくなってきていると思う反面で、各大学で数人の学生が行動を起こしたところで、最初に注目を浴びたりということはあっても、最終的には何も変えられない可能性が高いと思っていた。そう思った背景には自身の飲酒闘争が思わしくなったこともあったと思う。

現状を変えるために何が必要かを考えたときに、1行動する人数を増やすための活動、2後継が現れる可能性を向上させる活動を行うべきだという結論に至った。そのための方法として、自分たちの活動をできるだけ大規模に外部発信し、それを残すことが必要であると考えた。その方法として浮上したのがユーストリーム放送であった。

夏休みで時間的な余裕もあったこともあり、早大・明学・法政(多摩)・そして路上鍋を定期的に行っていた国境なきナベ団東京の学生に提起し、ユーストリーム放送を行う準備を進めた。
そして、ここから少しずつ残りの学生生活が変動していくことになった。


☆僕の法政大学史39 2011年⑥

9月上旬にユーストリーム放送「ゆとり首脳会談」を行った。
イベントには、早稲田大学勝手に集会、法政飲酒闘争、法政世界大学、明治学院大学の白石君、国境なきナベ団から宮内君、就活デモ創始者の北大O瀧君と、何か起こしそうな面々が勢ぞろいした。

このときの放送は、視聴者数も多く、また内容も好評であった。
個人的にも、これ以降自分で企画を打たせてもらったり、お手伝いをしたりという機会を何度か頂いてきたけれど、この時に行ったものが最も満足度の高いものとなっている。インテリ系、鉄砲玉系などそれぞれみんなが良いところを出すことが出来たのではないかと思っている。
(画質があまりよくないこと、前半部分が保存できていないことが残念ではあるが、放送内容も残っている「第1回 ゆとり首脳会談」)

そして、この放送をきっかけとして、いくつかの縁と支援もあり、ネイキッドロフトで同種のイベントをやらないかという話にも進んだ。これに対して僕は、「ゆとり首脳会談」をやろうと思ったのと同様の理由で乗った。とにかく今ある流れを前に進めなければと思った。

ここから僕の生活は変わっていくことになった。
ロフトでのイベントの関係や、その他の相談などにより、新しく人に会うことが増えていった。誰か人に会って何かの打ち合わせをしているか、一人でパソコンで企画書や告知文などの文章を作っているか、どこかの大学に支援にいっているという時間が大半を占めるようになった。いつも何かやらなければならないことを抱えているという状態になった。

忙しくなる日々の中で、それまでの大学生活の多くの時間を過ごしてきていた法政大学は講義を受けて帰るだけの場所になってしまっていた。

突然訪れた変化に、自分が何か大切なものを少しずつ落としてしまっているんじゃないかと思うこともあった。それでも、自分にとって重要なことを考えたときに、現状を変えたいということが最優先事項だった。「大学の決定だから仕方がない」「抗議しても時間の無駄」……そういったループから抜け出したかった。そしてそのための方法として、法政大学に事実上一人で抗議して抗議文を出すよりも、現れてきた芽を拡大させていき、大学全般の問題を問題化させていく方が、効果的だと判断した。

それに僕は多分楽しかったのだと思う。
一緒に闘争方針や大学の問題を話し合い、リスクを冒して共に行動できる人たちがいるということは楽しいことだった。そして、その楽しさはどんどん大きくなっていき、人間関係も日に日に拡大していった。2011年後期は、根拠のない勢いがあり、このままどこまでも拡大していけるのではないかという予感があった。

何かを失うかもしれないことを自覚しながらも、僕はそれを受け入れた。残された時間の中で少しでも芽を大きくするために、自分に求められている役割に従事することを選んでいた。


☆僕の法政大学史40 2011年⑦

2011年後期は闘争やイベントの準備などに追われ、駆け抜けるように日々が過ぎていった。この時期はとにかく毎日が忙しかった。目の前には、常にやらなければいけない何かがあり、僕はそれを一つずつこなしていった。そのことにより情勢が少しでも前に進むだろうと考えていたし、実際に前進しているという実感があった。本当に前進していたのかどうかは今となってはわからないけれど、そのころはそういった感触が確かにあった。

この期間、各大学での闘争やデモ、イベントなどが次々に行われていった。

明治学院大学の学内規制撤廃闘争は白石君を中心に断続的に行われ、大きな盛り上がりを見せた。

東洋大学の鍋闘争、後期に複数回に渡り行われた。

イベントスペース・ネイキッドロフトにて「東日本学生運動復興構想会議」を行った。

就活デモは東京において最高規模のものとなった。

僕の母校である法政大学には、抗議行動の後に学内環境改善要求書を提出した。

上記に主要なものをあげたが、この他にも多くの行動が行われた(詳しくはこちら)。

このそれぞれ、あるいはここにあげなかったものも含めて全てに対して個々の総括や当時の感情を書くことは出来るのだが、まずは全体の動きについて記そうと思う。

2011年後期、大学を超えた横のつながりが強化される中で、ゆとり全共闘という枠組みがつくられた。ゆとり全共闘については早大のsgmt君が「誰かの所有物でも固定組織」でもなく「行為の積み重ねによるモンタージュ」と説明しており(参考)、僕もこの説明が適切だと思う。SNS上あるいは個別の連絡網などで闘争やイベントの情報を共有し、個々人で行きたい人がそれぞれの現場に向かう、大まかに説明するとこのような仕組みが構築された。

ゆとり全共闘は組織の体をなしていないし、誰かが代表であったりということもないのだけど、存在する以上はそこに意思を込めて大まかな方向性や雰囲気を定めることはできる。僕は意識的にゆとり全共闘に対して大きく二つの意思を込めようとした。多少長くなるけれど、説明を記したいと思う。

一点目としては、逮捕・処分覚悟あるいは人生をかける覚悟での決起か嫌々ながら就活したり学内規制に従うという100か0しかない学生の状態に1~99の幅を作ることを考えた。当時の行動の中には「学生運動ごっこ」と批判されるものもあったけれど、個人的にはゆとり全共闘はむしろそういうものとしても存在させたかった。学生運動というものは、覚悟前提であったり、思想的バックボーンがないと、認められないもしくは必要以上に批判されるという伝統芸能的な厳しい面も併せ持っている。これは過去は良かったのかもしれないが、現代の状況を考えるとあまり適していないのではないかと思う。この点を多少なりとも変化させたかった。

二点目としては、今現在ある問題をきちんと問題として浮かびあがらせるということを考えていた。多くの学生が問題意識を抱いてから何かしらの行動に至らないのは、0か100かしかないという選択肢の少なさだけでなく、環境的な問題もあると考えていた。その環境的な問題を大まかに分類すると、学費・就活・学内規制の3点になる。
このなかで就活の問題は就活デモによって社会的に認知されていたが、学費や学内規制という問題は広く認知されているとは言えず、この3点の問題を連結したものとして総合的に表出されることを意識した。

ゆとり全共闘全体という組織(のようなもの)に対しては大きく以上の二つを意識し、個人的な目標としては後輩の育成も考えていた。その後、僕は留年し大学6年目に突入することになるのだけど2011年後期時点ではまさか留年するとは思っておらず、残された学生生活の時間は半年程度だと考えていた。そのため当時の僕にとっては後輩の育成は急務であった。

2011年後期、僕は上記の事柄に対して全身全霊を賭けて取り組んでいた。
客観的に見たときに、ゆとり全共闘のような動きはいくつかの社会状況を背景に持って発生した一過性のものであり、バブルが過ぎれば何もなかったように引いていってしまう可能性も高いだろうと考えている面もあった。しかし、その上でそれまでの学生生活の悔しさや反省が、今生まれてきているもの、生まれそうなものをふ化させなければならないという使命感にも似た強い気持ちを持たせた。

結果を見たときに、大抵の物事がそうであるように上記の三つの目標は上手くいった面もあるし、いかなかった面もある。率直に言ってしまうと、上手くいかなかった面の方が多いだろうと思う。そのことについて、いくつか「あのときこうしていれば」と強く反省する選択もあるけれど、僕がどのような選択を取っていたしても今と大きな変化はないだろうと思う。地区予選2回戦敗退の高校野球チームが3回戦敗退になる程度の違いであり、甲子園優勝するであるとかそういった劇的な違いはないはずである。仮に今思える最善の選択をしていたとしても、成功よりも失敗の方が多いということは変わらない。

僕や僕の同志たちが2011年後期からの期間、存在を賭けて行おうとしたことの影響力は本物の全共闘と比べたときに取るに足らないほど小さいものかもしれない。あるいは人によっては「何をふざけているんだ」と怒るようなことかもしれないし、実際に怒られたことも何度かある。
それでもこの時期は僕の人生の中では、真剣に誠実に全力で物事と向き合った大切な時期である。

当時の選択やその反省について今後何回かに分けていくつかの出来事を記しておきたいと思う。


☆僕の法政大学史41 2011年⑧

2012年11月20日「東日本学生運動復興構想会議」をネイキッドロフトで行なわせて頂いた。

東日本大震災とそれに伴う原発事故という「未曾有の国難」にも沈黙を守る現代の学生たち。学生運動が今、メディアで取り上げられることはない。
一部の大学には「学生運動家」と呼ばれる者たちがいるが、彼らもまた「反原発」よりも学内規制撤廃、公共空間獲得に熱意を傾けている。
学生たちはなぜ戦わない/戦わないように見えるのか。
東日本で学生運動の再生・復興を担っている(はずの)現役学生運動家が、10年代学生運動の現状と課題を語り合う。

【司会】外山恒一(革命家)
【スペシャルゲスト】鈴木邦男(一水会顧問)
【学生司会】森田悠介(早大 勝手に集会)

【第1部】学生運動の過去から現在
ゲスト 中川文人(有限会社ヨセフアンドレオン代表取締役、作家、詩人)
学生 小沼克之(早稲田勝手に集会、就活ぶっこわせデモ実行委員長)、菅谷圭祐(法政 飲酒闘争)、白石比呂志(明学黒ヘル)、東洋鍋子(東洋鍋)

【第2部】現状から未来へ、社会問題とのコミット
ゲスト 加藤孝(市民運動家)
学生 宮内春樹(国境なき鍋団東京)、人見憂(勝手に集会)、白石比呂志(明学黒ヘル)、東洋鍋子(東洋鍋)

【第3部】会場全体討論会 学生総登壇
【出演】
上世代 反原発デモ主催者、知識人、学生運動経験者
学生 論理系(東大、早稲田、慶応、首都大)、情念系(明学、東洋)、お祭り系(明治、千葉工科大)、鉄砲玉(法政)
【主催】11/20関東学生運動家連合(インカレ・国境なきナベ団東京、早大勝手に集会、法大飲酒闘争、明学ジグザグデモ闘争、東洋ナベなど)
【代表】菅谷圭祐(法政大学文学部哲学科5年)

今だから記せるが、この時のイベントは予定していた構成の半分ほども達成できなかった。そのため、登壇してくださった方、支援してくださった方、お金を払って見に来てくださった方には申し訳ない気持ちが今でもある。もしかしたら内容的には厳しいものになるかもしれないと事前に覚悟していたけれど、思っていた以上に厳しいものになってしまった。本当に心から申し訳ないと思っている。

しかし、その上で内容とは別にあった目的についてはある程度達成できたのではないかと考えていた。このイベントでの目的は来年度以降も学生のメンバーに場数を踏ませること、人脈を広げてあげることだった。そうすることによって、今後活動しやすい環境を整えてあげようと考えていた。

2011年11月、このころは残りの学生生活の目的の一つであった後輩を残すことに関しては非常に順調に進んでいると思っていた。
自分よりも頭の切れる後輩、自分よりも行動力がある後輩がいて、その周辺にはたくさんの人がいた。これで来年度以降はさらに運動が拡大していくだろうと明るい予測を立てていた。ネイキッドロフトでのイベントや各種闘争、大学1~3年生のうちに一定数の人数がこれだけの経験をすることによって素晴らしい未来が来るだろうと考えていた。

しかし、物事はなかなか思ったとおりには進まなかった。

結局のところ、僕は一人ひとりの人間について全く理解していなかったのだと思う。
そんな僕が、人を育てようとしたり、将来のことを考えたところで、それは全くの見当はずれなものであった。このことに気づくのが非常に遅かった。

2011年の11月に僕が立てていた予測は大きく外れることとなった。


☆僕の法政大学史42 2011年⑨

2011年12月上旬、就活デモもロフトイベントも終わり、自由に動ける時間が増えたこともあり、法政大学に戻って学生センターに対してゲリラ抗議を行った。みこしを作り、それを担いでキャンパス中央から学生センターに向けて突入、学内環境の改善を訴えた。

このときは、学内環境改善要求書と学生センター宛の文書と総長宛の文書の2通を抗議文として提出した。僕はそれまでも基本的には無視される運命にある法政大学宛の文書を何度も何度も提出してきたが、このときに出した文書が最も時間をかけて作った。法大ノンセクトのOBに何度か文章を見てもらい、修正に修正を重ねた文書だった(該当文書1、該当文書2)。

しかし、その上で僕たちの要求が通るとは思っていなかった。
このときの最大の目的は、毎年のように当局が年度末に画策する学内規制を食い止めることであった。このタイミングに先手を打って抗議をしかけておけば規制に手が回らなくなるだろうと考えた。結果から言うと、この読みが的中したのか、あるいは最初から規制を画策していなかったのかは定かではないが、この年に新たな規制を設けようとする動きはなかった(本抗議に関しては、「不法侵入」と「威力業務妨害」とし威嚇する警告文が出された)。

このときの抗議活動は、結果としてはそれなりに効果があったと見ることもできるかもしれない。しかし、その行動に至るまでの間に、今まではなかった変化があり、やりにくさがあった。僕が法大内で抗議をすることに、限界が来ていると感じた。

それまでは、飲酒規制反対の署名集めをするにしても、説明会で抗議するにしても、規制施行後に反対活動するにしても、学内の知り合いの学生から反対の声があがることはほぼなかった。方針や行動に対する批判はあっても基本的には建設的な意見のもの、あるいは法大の現状を鑑みて心配してくれる声が大半だった。

しかし、このときは違った。

例えば僕が法大の外で関係性を構築し、その中でイベントを開催したり、就活デモを開催したりといったことをよく思わない人が一定数いた。簡潔に記すと、法大を捨てて外で楽しんでいた奴が今更抗議活動なんて、という指摘もあった。

僕は法政大学のことを、そこで起きている問題を忘れたつもりは全くなかった。
大学の外に出たことには、学内だけでの関係性での行動に限界を感じ、もっと広く関係性を作っていかなければならないという判断があったからだった。法大の外に出ている間も、ほぼ休む時間がなく動き回っていたし、逮捕されるかもしれないと覚悟した闘争も経験した。僕にとってその全ては、法大での問題に結びついているものだった。

法政大学は僕にとって一番の場所だった。

法政大学が内包している刺激、そこで形成される文化、そして人間関係が好きだった。それを守るため、これ以上規制や弾圧を生まないために行動してきたはずだった。
そのためか、一体自分がこれまで何のために、誰のために、戦ってきたのがわからなくなった。また、「じゃあ僕がいない半年間の間で誰か法大のキャンパスで具体的な行動を起こしたのか」という感情も抱いてしまった。

それまでは確かにあったはずの一体感を感じられず、何でこんなことになってしまったのだろうと悲しい気持ちになった。何をしても、どんなに頑張っても、状況が改善することはなく、悪くなっていく一方なのではないかと、苦しさを感じた。

2011年という1年間の間に、関係性は確かに広がったし、仲間も増えた。
それでも僕の心の中にある根本の曇った部分は過去と変わらず、ある部分ではもっと濃密になっていった。


☆僕の法政大学史43 2012年①

2012年1月、来年度以降中心となって運動を進めてくれると思っていた後輩二人の内一人が運動から離れることになった。

そのことによる来年以降への不安や動揺が全くないわけではなかったが、僕は他に大事なことが出来たのなら運動しなくてもいいと考えていた。後輩に直接会って話をして、後輩の信じるべき道を進むべきだと思った。


しかし、この時も2011年末に法大に抗議したときと同様に、様々な言葉を浴びた。

これまで離れた場所にいたのに「もっと○○していればよかったのではないか」と過去の行動を批判・分析をする人、関係性は薄いのに野次馬的に「なぜ運動をやめたのか」「現在どうなっているのか」としきりに聞いてくる人、「自分ならこうする」と聞いてもいないのに崇高そうな持論を一方的に展開する人……。

この全てが悪意を持った発言ではないことはわかっていた。
でも、この間休みもなく動き回っていたこともあり、僕は僕なりに消耗していたのかもしれない。

「過去の行動に批判があるなら、なぜその時に主体的に責任を持って行動しなかったのか」
「その情報をあなたが知って一体どうなるのか、現状を改善できる力があるのか」
「そんな崇高な持論があるなら、自分で行動すればいいじゃないか」

と、人と話すたびに心の中に怒りの言葉がわくこともあった。


多くの人は、リスクを冒さない、責任を取る場所に立たない。その上で、批判や批評を並べる。ときには、全く実益がないと思われるネガキャンも展開する。
運動の周辺に潜んでいる無責任な暴力性、仕方がないことと理解できるようになっていたはずのことに、必要以上の苦しさ辛さを感じた。そして、これまで自分なりに全力で取り組んできた運動に対する虚しさがじわじわと心の中に溢れ出した。

僕は、居場所が欲しかったり、友達が欲しかったり、あるいは勉強して得た結論の帰結として、運動を始めたわけではない。
生きにくさがとか、マルクスがとか、資本主義がとか、そんなものは前提になかった。ただ許せないこと、看過できないことがあったから、抵抗を始めた。そのはずなのに、僕の周囲は今まで聞いたことのない言葉や態度であふれかえっていた。

こんなに感情的で表面的な善意や悪意に満ちている場所で、なぜ自分が闘い続けてきたのかわからなくなっていた。
過去に強い懐かしさを感じてしまい、関係性の変わってしまった友人たちのことを思った。

疲弊していく中で、僕は、僕のみなら、思慮分別や常識が正常に機能している場所でも問題なく生きていけるだろうし、そうした方が良いのではないかという思いが頭をよぎった。

過去の生活と現在の苦しさ、そして未来の生き方のことを考えた。ここが引きどきなのではないか、もう十分に頑張ったのではないかと思った。

2012年3月、僕は運動をやめることにした。


☆僕の法政大学史44 2012年②

2012年の3月、僕たち(ゆとり全共闘というノンセクトの集団)で「大学取り戻せデモ」を実施した。

このデモでは、大学の問題は「高すぎる学費、借金でしかない奨学金」「大学生活を大きく制限する就職活動」「キャンパス内での自由を抑圧する学内規制」の3点の大学の問題を訴えた。参加者は50人ほどで、デモとしては大成功とまではいかなくとも、それなりに成功を収めたのではないかと思う。

僕は、このデモが終ったら学生運動から離れることを周囲に告げていた。
紆余曲折あったけれどノンセクトの後輩も残せた、法大内でも後をついでくれる人も現れていた。大学の問題は「学費(奨学金)」「就職活動」「学内規制」だと明示できた。あとは個人で、あるいは集って、やりたいことをやってくれればいい、そう考えていた。

十分とまではいかないかもしれないけれど、僕は僕なりに自分の役目は果たしたのではないかと思っていた。また、運動を離れるということは、年齢の問題も後押しした。
その時点で、法政大学の学内規制に抗議を始めてから3年が経っていた。3ヵ月後には25歳。気がついたら長い月日が流れてしまっていた。

始めは法政大学内での規制に対して抵抗するために署名集めからスタートし、大学との交渉、抗議文の提出、キャンパス集会、他大の学生との連携の構築、デモの主催……。
ずいぶんと遠いところまで来てしまった気がした。

運動が深化していく中で、僕は以前のように純粋には人を信じることができなくなっていた。基本的には勝ち目の薄い日々で、普段の生活ではなかなか見ることのない人の醜さや横暴や暴力を数多く目にした。いつからか人に批判されようが、裏切られようが、誹謗中傷されようが、僕の心はあまり反応を示さなくなっていた。
日に日に自分が心のない活動家ロボットのようになっていくような感覚があった。

これ以上この場所に留るべきではない、留まり続けたら僕は戻ることができなくなる。
ここで元の世界に戻らなければ、僕は僕自身を大きく損なってしまうのではないかと思った。

問題が何一つ解決されていないことを十分に理解していた。
それでも、僕は戦うことをやめた。

学生運動をやめ、たまり場となっていた僕のアパートを引き払った。
東京に一人で何の知識もなく上京してきた5年前のように、新しい生活を構築していこうと思った。

もう抗議文を書かなくても、会議に明け暮れなくても、デモや闘争の準備をしなくてもいい。運動を始めてから日に日に減少していた自由な時間が増加した。友達と会える時間も増え、新しい仕事もはじめた。

何かしらの目的や使命よりも、自分を優先できる生活。
過去は当たり前だと思っていた個人的な日常を大事に思えるような生活をいずれは戻れるのではないかと思った。不安はありながらも、少しずつ前に進めているような気がしていた。

しかし、その生活は長くは続かなかった。

新しい生活を始めて約1ヶ月がたった4月19日、法大デモでノンセクトの後輩が逮捕されたという連絡が届いた。
僕はその情報をすぐには理解することが出来なかった。
大学生活の最後の1年、僕はまた法政大学という悪夢のような場所に引き戻されてしまった。


☆僕の法政大学史45 2012年③

後輩の逮捕の報を聞いて、僕はすぐに救援限定で現場に戻ることを決めた。
その上で、まず考えたことは、これは相当まずいことになったという事だった。

ノンセクトの学生運動というものは、口で大きなことを言ったり、あるいは実際に体を使って行動を起こしていたとしても、内実が強固であることは少ない。担当直入に言ってしまえば、逮捕によってほぼ壊滅される場合が多い。さらに、今回の場合は逮捕された後輩(以下、A)は、運動の中心人物の二人のうち一人だった。一人は二月に既に運動を離れており、もう一人のAは逮捕。これから運動を継続することは非常に困難になるであろうと考えた。

また、そもそも救援自体が非常に難しいものになるだろうと思った。
僕たちはそれまで文連・全学連とは一線を画して行動してきていたが、逮捕された現場は法政大学における文連・全学連主催のデモである。共同の救援、あるいは部分的に連携、どのような関わり方であれ、今まであった境界線のようなものの位置を変更しなければならない。そのことによって、内部における混乱が生まれる可能性があることは容易に想像できた。

この2点のことから、この時頭に浮かんだ最悪のシナリオは、これまで築かれてきた関係性の深刻な瓦解、そして運動自体の終了というものだった。また、そうなるであろう可能性は決して低くはないように思えた。中・長期的な今後については効果的な打開策は浮かばず、頭の中にはただ、まずいことになった、という言葉だけがあった。

僕は、仕事の研修を終えてすぐに救援の話し合いが行われている場所に直行した。
話し合いにおいてまず僕たちがしたことは、文連・全学連とノンセクトとの共同救援の確約だった。このことは、ノンセクト内の数名に話をしたのみで決定した。

これは今までの僕たちの決定方法とは明らかに異なっていた。
これまで僕たちは、数人のみで話し合って即断即決というような進め方はしてきておらず、基本的に話し合いを前提としていた。しかし、救援においてそのような時間の余裕はなく、またそうすることで良い行動を出来る可能性も高くないと判断した。後から大きな混乱を生むことは予想できたが、これが現状におけるベストな判断と選択だと確信を持ち、それがぶれないように強く信じた。

そういった判断をする上で、僕個人が最も重要だと思ったことは、獄中のAのことだった。
運動の継続や、これまでの関係の瓦解など、考えなければいけないことは多々ある。しかし、最も重要なことは今現在、逮捕され留置されているAだった。何となくアリバイ作り的な連携のとり方、あるいは全く別の方法の画策など、方法はいろいろあったのかもしれない。しかし、それは運動的にも、そしてAのためにも、僕は良い方法だとは思えなかった。

僕がこのように考えた理由としては、あるいは2009年暴処法弾圧の僕自身の経験の影響が強くあったのかもしれない。
密室の取調べ室で脅され、罵倒され、屈服し、友人を売る。僕と同じような経験を、同じような挫折を、絶対にAにはしてほしくなかった。もし、そんなことになってしまったらAが外に戻ってきた後に本質的に回復することは難しくなるのではないかと考えた。彼は留置所内においても、信念を持って戦い、自信を持って戻ってきてほしかった。

また、僕の個人史においても、文連・全学連と共に主体的に行動をするというのは始めてのことだった。
運動を始めた2009年の法大の飲酒規制から僕が持っていた問題意識は逮捕処分を覚悟で戦うか、大学に屈服するかの100か0の状態ではなく、1~99の幅をつくりたいということだった。この考えは今でも僕の中にあるし、当時はさらに強いものだった。しかし、だからと言って後輩が逮捕されているのを黙って見過ごすことは僕はできなかった。

それに、心の中では文連・全学連に対するシンパシーという以前までは思うことのなかった感情が生まれていたのかもしれない。
僕は、少しずつ、少しずつ、ノンセクトで学生運動をすることに対する、苦しさ、つらさが溜まっていき、運動を離れた。その過程において、文連・全学連の僕たちよりも体を張り、しかも運動を継続させているということは決して簡単なことではないことを十分に理解した。実際に自分で運動をしてみたことで、僕の心の中に変化が生まれていた。

僕はこの時に始めて、自分が100の側の場所へと立った。この時を持って、僕はそれまで僕の中にあったであろう曖昧性をある部分では捨てさった。

2012年4月19日、文連・全学連とノンセクト共同のAを取り戻すため23日間の救援が始まった。
しかし、その日々には、事前の予測どおり多くの困難が待ち受けていた。


☆僕の法政大学史46 2012年④

救援活動において、中心となったのが毎日のビラ配りだった。僕たちは連日裁判所前で文連・全学連と共同でA逮捕の不当性を訴えるビラ配りをした。

ビラ配りの様子は公安警察に監視され、終了後は尾行された。こういった嫌がらせの類いは、法政大学では日常的な光景であったが、外での僕たちゆとり全共闘としての運動では、ほぼ経験したことがない事態だった。明らかにこれまでとは様相の違う行動となっていた。

ビラ配り・カンパのお願い・法政大学への抗議文の提出などを平行させるなかで、事前に予想していた通り、文連・全学連との共同の救援体制や方針に対する批判もあった。「なぜノンセクトだけで救援しないのか」「毎日のビラ配りに意味はあるのか」「Aは活動家ではないのだから、黙秘しないで出てくればいいのではないか」などの声があがった。

僕は、もっと効果的な方針を打ち出し、人を集めて、実際に行動に移せるような人がいれば、それに反対しなかったと思う。これ以上批判されたくも、責められたくも、嫌われたくもなかった。むしろ、誰か他に適任者がいるのなら代わって欲しいくらいだった。しかし、「救援費用・弁護士はどうするのか」「獄中のAはどういう態度をとるべきなの」といった問いに具体的に答えられる批判はなかったのではないかと思う。これまでとは全く異なる行動に対して懐疑的になるのは無理もないと思う反面、反対意見や方針外の行動を聞くたびに、僕は、苦しく不安になり、また苛立ちを感じた。

また、このときは話し合う場所がないことも響いたのではないかと思う。
3月にたまり場となっていた僕の部屋を解約していたことで、時間を気にせず不特定多数で話せる機会が激減していた。2者間、3者間での話し合いはできても、開かれた場所で、意見の共有をする時間を以前のように持てなかった。日々のビラ配りと錯綜する感情と情報、救援という難しい状況において、場所がないということはあまりよくない影響を与えたかもしれない。

救援において、もう一点印象的な出来事がある。
A逮捕の当日、齋藤君と二人でご飯を食べに行く機会があった。全ての話し合いを終えた後だったのではないかと思う。同期の中では、増井君と二人で会うことはよくあったが、齋藤君と二人でというのは久しぶりで、約2年ぶりのことだった。

会わない間に僕も僕で変化もしたが、この時には齋藤君も斉藤君で、ノンセクトではなく全学連委員長になっていた。

このことで、僕の周りには「昔の齋藤とは違うんだ」とか「大人に操作されているんだ」など、聞いていてあまり気持ちのよくない話を耳にすることが時折あった。多分、以前の僕ならば、先輩の声を重く受け止めていたと思う。でも、いつからかそういった所属による判断やネガキャンに振り回されることをやめようと思うようになっていた。

僕に見える齋藤君は以前と変わらない正義心と誠実性のある優しい人間のように思えた。齋藤君はノンセクトであろうが中核派であろうが、僕にとっては信頼できる友達だった。

ただ月日は流れ、Aの救援という任務をお互いに責任を背負って全うしなければならない立場に置かれていた。やりたいことではなく、やらなければならないことが目の前にあった。2007年から6年が経ち、その月日は思った以上に重いものだった。僕は、僕たちは、何も知らず自由な大学1年生ではなく、客観的に見たときにはほぼ活動家のようになっていた。

5月10日、文連・全学連と共同の救援活動をやり抜き、Aが釈放された。Aは厳しい取調べに屈せず、完黙・非転向を貫いた。そして僕はもう一度、運動から離れた新しい生活の構築を試みる日々に戻った。


☆僕の法政大学史47 2012年⑤

Aが釈放され、僕はまた運動から距離を置いた生活に戻った。

Aを奪還できたのはよかったものの、僕の中ではこれで大学の問題(学費・就活・学内規制)を争点とした、これまでの僕たちの活動 ゆとり全共闘は収束してしまうだろうと考えていた。中心となる後輩のうち、1人は運動をやめ、もう1人は逮捕。飛車角落ちのような状態で、継続性を勝ち取ることは、非常に困難なことのように思えた。またこの頃は実際に全体として今後に対するモチベーションもあまり高くはなかったのではないかと思う。

このとき、僕の心の中で「自分は十分にやることをやった」という運動から離れてしまいたい気持ちと、このまま僕たちの、僕たちがはじめた運動が潰れてしまってもよいのだろうかという二つの気持ちがあった。行動としては、手探りで下手糞だったかもしれない。それでも、これは紛れもなく僕たちの運動だった。自分たちで問題を見つけて、気持ちを共有できる仲間を見つけて、方針を考えて、形成されてきた全てものを、「自分はやることはやった」「将来があるから」と冷静に少し離れたところから分析するだけで、終らせてしまってよいのだろうかと考えた。
救援を終えたあとでも、何とか行動を起こそうと奮闘する後輩たちの姿が目に映った。

結論から言うと、僕は運動に戻る道を選んだ。
悩みに悩んだり、思い切って決断したというわけではなかった。ただ、何となく漠然と「そうすべきなのだろう」という思いに至った。
「連帯求めて孤立を恐れず」、ノンセクトは世界中を敵に回したとしても、たった一人になったとしても、戦う覚悟を持つべし、そしてそういった覚悟を持った上で、信頼関係を構築していくべし、という以前聞いて目標としていた姿勢がある。あるいは、そういう理想とする姿勢に少しでも近づこうとする気持ちもあったのかもしれない。

また、もう1点個人的な事柄として、この時に始めて完全に覚悟を決めることができた。
それまでは心のどこかに自分は逮捕・処分されていないから普通の生活に戻れる、活動もいわゆる過激派と言われる層に比べると大したこともしておらず、全うな人生に戻れるという気持ちが心の中にあった。自分の行動や決定の際には、将来への不安や、運動への恐怖が少なからずあった。

そういった気持ちを多分この時にはじめて振り切ることができた。
今後どうなるのか全くわからない、心の中に全く迷いや不安がないわけでない。それでも僕は、一線を越えて「こっち側」で生きていこうと決めた。これまでも何度か瞬間的に覚悟ができたことはあったが、それまでとは違うレベルで、僕は自分の気持ちを固めることができた。

この時点で6月、状況は決して芳しくない。
それでも僕は、僕に賭けられる全てを残りの学生生活に投じることにした。


☆僕の法政大学史48 2012年⑥

残された時間は少ない。
6月に運動に戻った時点で僕はまず「場所の確保」と「具体的行動」という2点をスタートさせた。

場所については、3月までは僕の部屋がその機能を有していたが、家を解約してからというもの、代わりの場所は見つかっていないようにみえた。場所がなければ信頼関係の構築も難しく、関係性も拡大できない、その結果何か行動を起こそうにも多くの人を巻き込むことは困難になる。何よりも場所を獲得しなければならなかった。

もう1点が具体的行動。
いくら場所ができたとしても、僕たちがこれまで扱ってきた大学の問題(就活・学費・学内規制)について行動を起こさなければ、関係性だけが残り、少しずつ何となく運動としては終っていくのでないかと思った。そのため1ヵ月後、7月にはデモをしようと準備を始めた。

結論から言うと、この2点はほぼ予定通りに進めることが出来た。
場所はありがたい支援といくつかの幸運も重なり、7月中旬には手に入れることができ、デモも規模はあまり大きくないものの貫徹することができた。

目標を立て、それをすぐに実行に移すことができたものの、内部に目を向けるとどちらも厳しい状態であるという認識は強くあった。
場所において金銭的な面で大きなリスクを背負うのは3名、デモの運営人数も6名のみで、内いずれも1名はこれまで僕たちとは別文脈で運動をしてきた増井君であり、運動的な面におけるこれまでの関係性はガタガタのように思えた。主体的に動ける人数は最盛期のほぼ4分1。場所も運動も、どこかで爆弾が爆発しかねない危険性がいくつも潜んでいるような気がした。

また、僕個人としてもこのころはあまり心の余裕を持てずにいたのかもしれないと思う。
中心となっていた後輩二人が運動をほぼ離れ、僕自身は二人よりも関係性を構築することも、運動の組み立てることも上手くないことはわかっていた。さらに理論的にも非常に弱い。自分の能力の限界がもうすぐ来るのではないかという思いがあった。そのためか、ただただ現状と現像を踏まえて予測できる未来への危機感だけが先走り、頭の中にある今後の悪いイメージを拭いきれなかった。

今になって思うと、もっと上手くやることもできたのではないかという思いもある。
しかし、当時の僕にはそういったことができなかった。いびつに積み重ねてきたものの崩壊が少しずつ近づいていた。


☆僕の法政大学史49 2012年⑦

7月以降、少しずつ確実に関係性の変化が進んでいった。そして、それは間違いなく良い方向の変化でないことは明らかだった。

7月のデモを終えてしばらくして、中心となった6名のうちの2名がほぼ運動を離れた。またもう1名も精神的に不安定になっており、前線に立つのは難しい状態になっていた。その間、新しい人を運動に加えることもできておらず、身体性を伴う行動に、継続して主体的に動けるであろう人数は3人。集会・デモ・抗議行動などを打つのは難しい状態になっていた。

また、新たに居場所(以下、りべるたん)の運営をめぐって内部的な不和も目立ち始めていた。不和の根源となる問題自体は以前から僕たちの中にあるものであったが、上手くいっていないときというのは、それまで我慢していたことや抱えていた矛盾が表に出やすくなる。話し合いの内容は次第に、「これから何をするか」といった運動や居場所を前進させる内容から、「○○の行為・態度について」など、どちらかというと総括的な側面の強いものへとなっていた。

恐らく僕たち(ゆとり全共闘)の中の多くの人が初めて出会い、集団として活動を開始した2011年ころから、多くの問題を孕んでいたし、関係性の危うさは内在していたと思う。その中で、キャンパスで行動すれば一定人が集まる、デモをやればそれなりに成功する、仲間がどんどん増えていくという好循環が問題を見えなく、また総括をおろそかなままにさせていた。しかし、このころになると根拠のない勢いや自信は完全に削がれていた。

運動における甘い果実のような時間は終わり、モチベーションは低下し、また弾圧も経験した。そして現実的諸問題や関係性内での不和をいかにするかということが主眼の期間に入っていた。その中で、議論というよりは、ケンカや誹謗中傷寄りのものも増えたし、恐らくは僕もそういったことをしたと思う。
こういったことは運動に戻ると決めた時点で、あるいは後輩が逮捕された時点で、ある程度考えられた事態ではあったけれど、実際に直面すると、寂しさや虚しさは少なからずあった。

問題が浮上し、関係性が少しずつ緊迫していきながらも、9月下旬にゆとり全共闘として総会を開くことができた。
そこでの話し合いとして、後期は各大学で原点に帰った行動をしようという方針に至った(参考)。今やれるところから少しずつ頑張ろうと、方針としては堅実なところに落ち着いた。ここから問題と向き合いながら、また通常のモチベーションで、現実的に実行可能なことから少しずつやっていくのがよいだろうと思ったし、またそれ以外に取れる選択肢はなかったのではないかと思う。

しかし、結果としてこの方針はほぼ実行されることはなかった。前期総会から数日経ち、ゆとり全共闘とりべるたんを二分する事件が発生した。
そして、10月が始まった。


☆僕の法政大学史50 2012年8

10月上旬、ゆとり全共闘とりべるたんの瓦解が始まった。

引き金となったのは、りべるたんを作る際に中心となった3人のうちの1人の脱退だった。
彼は、りべるたんを脱退すること、ゆとり全共闘の運動から距離を取ること、そして別に新たなスペースを作ることを表明した。

個人的には新たに別の場所をつくることは場合によってはいいことだし、それで関係性や運動が拡大するならば積極的にその方針を取った方がいいと思う。しかし、この時は抜ける際の発言や行動でどうしても見過ごせない点があり、論争をすることとなった。大きくは、これまで共の活動を批判というよりは誹謗に近い発言をし、また個人と関係を切ったことが無視できなかった。

もしかしたら、ここを揉めることなく問題を曖昧にしてそれなりの関係を維持すれば、そこまで大きく瓦解することは避けられたかもしれない。でも僕には人生をかけて運動をしたり、あるいは逮捕されたりという後輩がいる中で、そういった分派の仕方はどうしても看過できなかった。この点については恐らく今同じ状況に置かれても同様の対応を取ると思う。いずれにせよ論争を展開したことにより、内部的緊張及びその後の亀裂は拡大してしまったのではないかと思う。

内部的な不和および亀裂の始まりと時同じくして、りべるたんでは隣人との関係も緊張状態に置かれていた。
結論から言うと、この隣人との関係及び対応が瓦解の決定打となった。

隣人とのトラブルの内容はトイレットペーパーを勝手に使ったとか、靴の場所が動いているなどの、どちらかというと些細なものだった。しかし、その注意の際に隣人から包丁を振るわれるというトラブルが一度発生していた。僕たちは隣人とのトラブルを話し合いで解決しようと有志で集ったのだが、その際に再度隣人に包丁で襲い掛かられてしまった。

人生において、人に包丁で襲い掛かられるということはあまり経験しない。
直後に僕たちはどういった対応をすべきかを話し合い、隣人の行動をそれまで情報拡散に使っていたSNS等で公然にするという方針を取った。そしてこの対応が、包丁襲撃時に不在だった一定数から批判を受けた。この事が要因となり二分は決定的となった。

恐らく揉めることになるであろうとわかっていた方針を決定した背景には、このころの内部的な不和も大きな影響を与えていると思う。
すでに抜けた1名はどちらかというと穏健な人で、新たなスペースとしてもりべるたんよりも穏健な場所を志向しており、その志向に近い人を集めていた。一方隣人に立ち向かった僕たちは、どちらかというと武闘派。逮捕・弾圧・隣人トラブル、各種アクシデント、全部受け止めて乗り越えていくというような雰囲気があった。

穏健派か武闘派か、勉強会か直接行動か、弾圧や逮捕を極力避けるか弾圧・逮捕も想定にいれて行動するか…。その境界線で僕たちはピリピリしていた。互いがいて、良いバランスで回っていたはずなのに少しずつバランスが崩れ、いつからか共に回ることがなくなった。そして分派が現実的な選択肢と現れた中で、二分の方向に舵を進めた。

最終的な決定打自体は隣人トラブルという運動とは遠いところにあるものだった。
しかし、このころはそれ以外にも爆発しそうな爆弾がたくさんあったように思う。その中の一つである「隣人トラブル」という爆弾がたまたま最初に爆発した、そういった見方ができるのではないかと思う。当時の緊張や不和の高まりは決して低いものではなく、弾圧との関係、運動の限界、思想の違い、性格の不一致などの積もり積もったものがあった。

ゆとり全共闘結成から約1年、各キャンパスで連携して運動を展開し、100名を超える規模の就活デモも事実上主催した。ドキュメンタリー映画(参考)にもされ、各種イベントにも出演させていただきと、非常に濃く、また可能性のある時間を過ごした。しかし、その可能性は少しずつ現実の中で小さくなっていき、二分によってほぼ途絶えた。

そして僕たちは、完全な窮地に陥った。


☆僕の法政大学史51 2012年⑨

10月上旬、僕らは完全な窮地に陥った。

4月の法大デモでの逮捕以降、あるいはそれ以前から張り詰めていた関係性の糸がついに切れた。もはやデモはおろか、キャンパスで集会や鍋を実施する体力もほぼ残っていなかった。キャンパスを横断した連帯で大学に共通する問題と向き合い、アクションをかけるという僕たちの行動を継続・拡大できる可能性はほぼ潰えた。

ある程度は覚悟していたこととはいえ、このときはさすがにショックがあった。
2009年に法政大学で飲酒規制に対する抗議を始めてからというもの、2010年に就活どうにかしろデモ、2011年にゆとり全共闘結成、過去最大規模となる就活ぶっこわせデモ、イベントやメディアへの登場と、内部的な困難や葛藤はいつもありながらも概ねは拡大に成功し続けていた。迷いながらも、戸惑いながらも、前に進み、何かを残していけているのではないかという感覚は常にあった。そして、それが少なからず方針への自信につながっていた。
しかし、それらの全てがこのときに手元からほとんどなくなってしまった。

これまでの経験から、絶望したりとかもう終わりだということは、思わなくなっていた。ただ、これからどうすればいいのか、その方針に迷った。
卒業までの時間は5ヶ月、ここから何かを残せるのか、何をすればいいのか、そもそも自分のしてきた行動は正しかったのか……。残された時間と可能性から、焦りが募った。

「菅谷君、法大デモに決起しようよ」
窮地の中にいる僕に声をかけたのは増井君だった。法大では、文連・全学連主催による大規模なデモが4月と10月にあり、そのデモへの決起を僕に呼びかけた。

2007年に法政大学に入学し、増井君と出会ってから6年が経っていた。
2008年に共に文化連盟を残し僕だけが脱退したこと、2009年に暴処法弾圧の際に公安警察の取調べに応じてしまったこと、あるいは僕が運動を始め周囲からよく思われなくなったことなど、僕は増井君に会うのが感情的に難しい時期は確かにあった。そして、それは増井君にもあったのではないかと思う。
しかし増井君は、「君の行動はここが良くない」と批判し、「この点はよいと思う」と肯定し、「もっと決起しろ」と煽り続けるという態度を周囲の環境の変化に関係なく一貫して取り続けた。僕にとっては、文化連盟委員長としてキャンパスに立ち続け、そして全学連委員長になった斉藤君と同様に、学生生活をあるいは人生を「オルグ」し続ける重要な人物だった。

大学生活において、この二人に出会っていなければ、もしくは二人の存在を切り離せていれば、全く違う学生生活と人生があっただろうと確信を持って思う。デモとか、集会とか、弾圧とか、逮捕とか、救援とか、内ゲバとか、黒ヘルとか、白ヘルとか、分断とか、マルクス主義とか、面倒くさいあらゆることに関係のない場所で、楽しいキャンパスライフを送って、それなりの会社に勤めて、そこそこの幸せを掴めていた可能性だってある。

しかし、斉藤君の、増井君の、人生をかけた闘い以上に、美しいものも、惹きつけられるものも、正しさを感じるものも、大学の中にはなかった。そして恐らくはそれが全てだった。何も知らずに地方から東京に出てきて、「中核派が、過激派が大学にいる!」と好意的に興味を持ってしまったこと、そして同期にこの二人がいたことで僕の学生生活はある程度決定してしまった。

「菅谷君、法大デモに決起しようよ」
僕は法政大学という19歳から25歳までの多くの時間を過ごした場所のことを思った。ありとあらゆる感情をその場所で経験した。これまで感じたことがなかった大きな喜びも、大きな憎しみも、大きな後悔も、全てその場所の中にあった。
そして自分が今置かれている状況と、残された時間で何をすべきなのかを考えた。

その結果として、感情的にも、また今後の可能性としても、決起するのが最も良い選択肢であるように思えた。僕は学生生活で最初で最後の法大デモへの決起を決めた。


☆僕の法政大学史52 2012年⑩

残された時間は、2週間。
法大デモへの決起をゆとり全共闘のメンバーに提起した。また、ゆとり全共闘の同志だけでなく、以前法大で共に学内規制に対して声をあげてくれる人たちにも、とにかくこの日だけは、法政大学に来てくれ、法政大学を見てくれと呼びかけた。

ゆとり全共闘では分派の影響、法政大学の友人ではこれまでとの動きの違いもあり(前述の通り僕はこれまでに文連・全学連の法大デモに参加したこともない)、支援や賛同に難色を示す人も確かにいた。でも中には、説明を尽くすことで積極的に支援してくれる人、共に決起してくれると約束してくれる人もいた。難しい情勢と難しい方針の中で一緒に立つのは、簡単なことではない。同志たちに心の底から感謝をした。
僕は、僕たちは、残された時間の中で出来る限りの準備を進めた。

このときに僕たちは「ノンセクトとしてノンセクトらしく戦おう」「各人でできる範囲でがんばろう」という方針を立てた。

細かな動き等はここでは避けるが、大きくはキャンパスを学生で圧倒すること、パワーバランスを変えることを目標とした。イメージとしては2006年6月15日、恐らくは今よりも法政大学が大学として機能していたころの風景を一瞬でも取り戻すことを目指した。しかし、弾圧の熟練度を高めている法政大学は、デモの際に人と障害物により、防波堤を築くようになっていた。
目的を達成するのは決して簡単なことではないことはわかっていた。

「各人でできる範囲でがんばろう」という方針であったが、僕個人としては逮捕までを想定に入れていた。というか、僕が逮捕されるのが運動的にはベストなのではないかと考えていた。文連でも全学連でもなく、しかも法政大学の学籍を有した法大生である僕が、怒り行動し、逮捕される。法政大学当局の「学外者による迷惑行為」という主張にヒビを入れられるし、またゆとり全共闘も多くの人の目にも触れる。僕が関わってきた、そして今後も継続して欲しい事柄、全てにおいてそれが一番良いように思えた。

しかし、この方針には批判と心配も集まった。
当然と言えば当然で、僕は今まで逮捕を想定にいれた行動や方針を取ることはなかった。10月19日は法政大学に行かないでくれ、と泣きながら訴えられることもあった。でも、誰に何と言われようが、この方針を貫徹するしかないと思っていた。心配の声に心が痛むことはあったが、迷いはなかった。もはやそれしか運動の継続性を勝ち取るための選択肢は見えなかった。

6年間に及ぶ学生生活で、僕は変化していた。
以前だったら、法大デモに参加しようと思わないし、自分が逮捕されてもいいとは絶対に思わなかった。僕は決起しない側の人間で、決起する人間との間には明確な太い線があった。でもいつからか、僕の僕個人の行動に対する判断基準において、自分の重要度は大きく下がっていた。もっと別の重要度の高い判断基準が生まれていた。その判断基準は、見えないし、不安定だし、自分はどんどん難しい状況に追い込まれていくかもしれなかった。その中でも、僕はその何かわからないものを信じようと思った。

残り少ない時間の中で、自分にできる限り、動き続けた。このままでは、これまでの全てが終ってしまうという強い危機感があった。なんとかして未来を切り開きたかった。

そして10月19日、法大デモの日を迎えた。


☆僕の法政大学史53 2012年⑪

10月19日、法大デモの日が訪れた。

正門はいつも通り封鎖され、外堀公園には公安警察が待機し、キャンパス内では教職員が監視業務にあたっていた。

6年間、何度も何度も見てきた法政大学の光景だった。
僕はこの光景を、恐怖や不安や偽善から何度も何度も通り過ぎてきた。その間に、先輩が、同期の齋藤君が増井君が処分・逮捕され、他大学のノンセクトの後輩までも、23日間を留置所の中で過ごすこととなった。そしてこの光景に象徴される恐怖支配が、多くの僕の法政大学の友人を「大学の決定には逆らえない」「逆らったら自分の身があぶない」と絶望に陥れた。

6年間、6年間も僕はこの光景を見続けていた。

昼休みまでの時間を僕は55年館のトイレの個室に篭っていた。

緊張からか震えが止まらなかった。
この後、僕は逮捕されるかもしれない、処分されるかもしれない。怒りと恐怖が心の中で混じった。そして、この大学でのたくさんの出来事が頭を過ぎった。携帯は置いて来たため、外の情報が全くわからない。時間がわからないことで、昼休みまでの時間が異様に長く感じた。

また緊張とともに、疲労も大きかった。
この数週間で、隣人に包丁を振るわれ、分派があり、そして法大への結集の呼びかけに動き回った。心配されたり、批判されたり、罵倒されたり、裏切られたりということが短期間に起こりすぎていた。これからの自分の行動をイメージしようとしたが、上手く頭が働かなかった。冷静な状態ではいられなかった。これまでの抗議活動や集会やデモとは、全く違う精神状態に置かれていた。

ただ、その中で今ここで外に出ては行けないということだけは頭の中にあった。職員に見つかったら全てが無に帰ってしまう可能性もある。僕はトイレの中で昼休みを告げるチャイムが鳴るのをグッと待った。これ以上ないほどに長い時間だった。同志たちのことを思い、みんなは無事なのかと心配が頭をよぎった。

しばらくして昼休みを告げるチャイムが鳴った。12時40分。
迷いは、もうなかった。僕は覚悟を決めて、決起を開始した。


☆僕の法政大学史54 2012年⑫

昼休みが始まり、僕はまず屋上へと向かった。

ここでの僕の目的は、「法大当局に告ぐ 学生をなめるな」という垂れ幕を垂らすことだった。垂れ幕では、法大に対して、怒りを感じている学生が文連・全学連だけではないことを視覚的に示すことと、当局が敷いている弾圧の秩序を少しでも乱すことをねらった。「ノンセクトらしく戦おう」という方針から作成された特大の垂れ幕だった。

予定では垂れ幕は始まりに過ぎず、すぐに終らせる予定だった。しかし屋上に着き、問題が生じた。
ある程度予想はしていたことではあったが、屋上にも監視業務を行う教職員が数名待機していた。法政大学は、学生が少しでも集会・デモを見ないように各階に教職員を配置する。教職員の監視を掻い潜って、横断幕を垂らすことは非常に困難なことに思えた。

ここで何もせずにじっと過ごしているわけにはいかない。垂れ幕は諦めるべきか、迷いが生じた。時間は少しずつ確実に過ぎていた。

しかし、しばらくして教職員の一人が持ち場を離れ、監視の陣形が崩れた。
僕にとっては奇跡のような瞬間だったが、金で支配している人間の意志なんてこの程度のものなのかもしれない。
僕は震える手を落ち着けて、屋上から垂れ幕を垂らした。

僕は階段を猛ダッシュで下り、キャンパス中央へと向かった。
周囲の学生の数はいつも以上に多いように見えるが、まだ防波堤が決壊しそうな雰囲気はない。僕は法政大学が敷いているコーンと教職員の壁を突破した。突破時に教職員が何か言ったような気がしたが、もはやそんなことには構っていられなかった。
そして、僕は封鎖され、誰もいない正門前広場に立った。

「菅谷君、キャンパスで花火を上げようよ」
デモよりも前、10.19で何をするか相談しているときに、増井君が言った。
「いいけれど、何で」
僕は増井君に聞いた。
「ノンセクトらしいじゃないか」
増井君は笑いながら言った。

確かにそれが僕たちっぽいような気がした。

僕はリュックに潜めていた花火を取り出した。
特大の打ち上げ花火だ。僕はチャッカマンで火をつけようとした。しかし手の震えが、花火をつけるまでの時間を長引かせた。
職員が僕に迫ってきているのがわかった。火をつけるまで時間はわずかだ。僕は心を出来る限り落ち着かせて着火を急いだ。
しかし間に合わなかった。職員に囲まれて、花火を奪われてしまった。
僕は、花火をキャンパスに打ち上げることは出来なかった。

「菅谷、何やっているんだ」
職員が僕を睨んだ。
「あなたたちこそ何をやっているんですか」
僕は震える声で言った。

僕は恐らく初めて職員に対して敵対心をむき出しにして、にらみ合った。
以前僕は「職員さんも人間だから本当はおかしいと思っているはずだ」と言っていたが、この場においてはそんなことを言っていられない。今僕が対面している人間は、憎むべきシステムそのものだった。

教職員とにらみ合っている際に遠くで処分を狙われている文化連盟の武田君が職員に囲まれているのが見えた。
助けなければと武田君の近くへと走り、職員に詰め寄った。もはや躊躇は全くなかった。

すぐそばに防波堤となっているコーンが見えた。
コーンの向こうには僕たちを見る多くの人垣。僕たちを見る視線は、様々だった。嘲笑したり、興奮したり、心配したり、嫌悪だったり、多くの視線があった。ただ、このコーンと教職員の壁が僕たちと視線を分断しているのは明らかだった。

僕は防波堤のコーンを取って、職員に投げつけた。

壁を破壊したかった。
キャンパスを支配する教職員、防波堤、監視カメラ、この全てを取り除きたかった。ずっとずっと、大学にこんなものはいらなかった。僕たちが作ったのではない、何者かが勝手に恣意的に作った憎むべき壁だった。

何かが起きることを、何かが変化することを願って、僕はコーンを投げ続けた。

「菅谷、もうやめろ!」
知り合いの教員の声。彼は僕を押さえ込んだ。僕よりも強い力だった。
必死に撥ね退けようとするものの、がっしりと僕を押さえ込んだ力を抜けることはできなかった。僕は身動きを取れなくなった。

「離して下さい、今しかないんです。今僕がやらないと! お願いだから離してください」
僕は叫んだ。
「わかったからもうやめろ!」

僕は必死の力を込めて掻い潜ろうとした。
しかし、僕よりも強い力がそれを許さなかった。

「離してください」
「お願いです」
「頼むから」
「離せ!」
「離せ!!!」

悔しかった、悔しくて涙が出てきた。
どんなに抵抗しても、どんなに叫んでも、振り切ることのできない力が僕を離さなかった。

力が足りない。
これまでも何度か感じたことのある絶望だった。

何をしても、どんなに頑張っても、何一つ変えることができない。人を出来るだけ集めて抗議文を出しても、集会をしても、デモをしても、逮捕されるかもしれない行動に出ても、何も変えられない。
圧倒的な力に対する大きな絶望。僕は身動きすらとることができずに「離せ」「離せ」と声を荒げるだけで自分よりも強い力の決定に全てを支配されるしかなかった。

「菅谷、がんばれ!」
齋藤君の声だった。斉藤君の門前での演説の声が届いた。
斉藤君は学生の決起を拡声器で呼び続けていた。斉藤君は、この大学で変わることなくずっと最前線で一番過激なところで、戦い続けていた。

「菅谷!」
ゆとり全共闘や法政大学の仲間たちだった。防波堤を掻い潜り、教職員に殴られながらも、必死に戦っていた。デモや逮捕や分派を共に経験した大事な仲間たちだった。

封鎖されたキャンパスで、巨大な暴力を前にして、僕は一人ではなかった。

僕はこの日のことを一生忘れないと思う。
抑えられて動けなくなっている僕の目と耳に、仲間たちの声と姿だけが届いた。

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